るんぺんパリ【RunPenParis】
自己紹介 2024年11月4日追記 6116文字】三重県伊賀市(旧名:上野市)出身伊賀市(旧名:上野市)に1976年(3歳)から1996年(23歳)6月まで住んでいた1976年以前の記憶と出生は不明津市にある施設にいたと聞いた覚えがある三重県亀山市に二つか三つ年上のお兄さんいるらしいがあった事は一度もない30代の頃に一度だけ電話で話をした父方に引き取られたお兄さんに母親の事を聞いた母親は別の人と再婚し離婚して娘さんと一緒に暮らしているらしい父親は再婚して自分と同じぐらい娘さんがいるらしいお兄さんはおじいさんの事を尊敬していて中国語を勉強してるらしいあとは色々と聞いたけど覚えているのはそれぐらいの内容でもう二度と話す事はないだろうとその時に思ったけどお兄さんの顔がどんな顔なのかは見てみたい気持ちは少しある伊賀市でそこそこ有名なのが伊賀流忍者で忍者屋敷は今も昔も変わらない内容で営業しているそれは去年に末っ子を連れていったから確認済外観はただの古い家だけど中に入ると意外と見応えはある観光施設って感じ伊賀牛は金谷のすき焼きが有名で森辻が新しい様相なってから焼肉を食べた個人的には伊藤の牛丼が好きだ油が多い感じのお肉だから100gも食べれば満足感がある上野天神祭の鬼行列も有名かなひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった銀座通りが歩行者天国になり的屋がならぶ高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで何個も買って食べた今年は10月18・19・20(金土日)19(土)は久しぶりに一人で一日中お祭りを楽しむ予定だったけど昼前から雨が降ってきて鬼行列は中止午前中は親戚を3件回って、おみやげを渡した午後に実家によって車を駐車して歩いて上野天神祭へと向かったいつも泊まる「伊賀上野シティホテル」は1泊10000円以上も高い16800円だった。この日は駐車場も使えなかった夜の19時から同級生のお店「クワトロNo.4」に初めていった30年ぶりにちゃんと会ったガキさんはすぐに気がついてくれた居心地がよかったので閉店の1時までカクテルを8杯ぐらい呑んだかな意外と安くて8200円だった次の20(日)は上野天神祭に参加している同級生のオデに会って鬼行列の準備風景を写真に撮って上野天神さんの近く紅梅屋でおみやげを結構買って桔梗屋で上生菓子とお茶を飲んで静岡へ帰った松尾芭蕉は俳句で有名で伊賀出身で小学生の頃はがっつりと俳句を作らされる俳句はいやいや作らされたので俳句番組は見ない俳聖殿の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな普段はこれといって何もないけど俳聖殿のたたずまいは何か「The Haiku」という感じ上野城のお堀の高さ日本2位?一時期は日本1位説もあった中学生の頃は上野城で体育の授業があったりクロスカントリーレースで走らされたり高校生のデートも上野城が定番だったのかそれらしき男女がイチャついていた夜のライトアップは不気味なお城に見えた一応、桜の名所なのかな高校生の頃に一つ年下の子とつきあっていた頃はよく上野城をさんぽした帰りはその子の家の近くまで送っていったこの子はとても純粋な子で自分にはもったいない子だった半年もつきあっていないが今でも純粋で幸せになっているかなと思い出す事もあるもう向こうは忘れているだろうけど伊賀の街には銀座通りとか丸の内とか東京で聞くような名称が多く使われている地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして街を作ったとの話がよく出てくるから誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もするいまだに東京が伊賀のマネをした説を親戚がまじめな顔でいいだす時があるから本当に真実が知りたいけど自分が調べるほどは興味がない2004年(平成16年)11月1日に伊賀市に変わってから上野市駅が忍者市駅になり近鉄の電車だったのが伊賀鉄道になり電車がコスプレになった駅前には銀河鉄道999のメーテルと哲郎の銅像があり産業会館がハイトピア伊賀になった産業会館だった時にマルキンのパン屋が近くにあったそこのシナモンパンが子供の頃から大好きで今はもう手に入らないもう一度、あのシナモンパンが食べてみたいあと小さなパチンコ店「マルト」があった「フルーツパンチ」という機種で勝った覚えがあるあと「麻雀物語」もあったかな「海物語」という機種が記憶の最終機かな上野で住んでいた時期に一日で20万近く負けてそれからパチンコは完全に辞めたじつはその後もたまにしたが本当に気晴らし程度でその内にきっぱりとやめたスロットが主流になったらなおさら興味すらなくなった新天地もなんかおしゃれなサビれかたで「新天地Otonari」となった街は高校生の頃の面影は薄くなったけど何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ新天地には映画館もあった気がする当時は賑やかな商店街だった当時からあった「喫茶店フランセ」は今もある大きな化粧品店は更地になっていた高校の時の知り合いが「クワトロNo.4」というバーを経営しているが、まだ入った事はないいつか行ってみたい気持ちはあるただダーツバーらしく常連っぽい人たちのたまり場っぽいイメージで気楽入れなさそうな雰囲気はある一度だけ朝方にお店の扉までいったけどバーの扉って感じで雰囲気はあった最近は実家で一人暮らしのおかんの様子を見によく帰省するようになったけど若い頃は年一回も帰省しなかった最近の伊賀でよく立ち寄るのが「菓匠 桔梗屋織居」と「HANAMORI COFFEE STAND」と「岡森書店白鳳店」で岡森書店は、Kマーホの名で出版した「トイレの閃き」が背表紙の色が抜けた状態で25年以上も本棚に置いてくれているこれを見ると初心に戻れてまだまた創作していこうとがんばれるこの岡森書店の店長さんは従姉の同級生で小学校の先輩の同級生でもありこの店長の妹さんは自分と同年代でそれにしても伊賀は狭いなと感じる市部という地区だったと思う近くに市部駅という無人駅がありその近くの依那古第一保育所に5歳から6歳の2年間通ったおかんは自分の送り向かいのために自転車を乗る練習してそのおかんが運転する自転車の後ろに乗って途中の田んぼに二人で落ちて泥だらけになったおかんは去年の年末まで81歳でまだ自転車に乗って小田町の坂を下っていたらしいいまは親戚から危ないからと召し上げられた小学校6年卒業までは上野市依那具にある市営の城ケ丘住宅で過ごしたこの市営住宅はもう40年以上もその雰囲気を変えずに今でも残っているここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの時間が止まった場所だいまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいるこのカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させるあの生活で暮らしたから今があるのは確かだ小学校の通学路にある垂園森でよく遊んだ現在も存在しているがオバケが出そうな森この森は当時通っていた依那古小学校の校歌の歌詞にも出て来るイメージ的には幽霊が出そうな森だけど何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えたきつねも出そうだしおばけも幽霊も心霊ももしかするとタイムスリップして小学生の頃に戻れそうな気もする森だと変な懐かしさを感じる近くには無人駅の市部駅とにらめっこしている森中学校から市街の上野城の城下町で過ごした当時はカオスな市営城ケ丘住宅から出れる事が本当にうれしかった小学校までの友達とも飽きてしまっていたので寂しくはなかった当時から色々な物にすぐに飽きては新しい物が好きだったのでそっちのワクワク感で本当にうれしかったそして築20年以上の中古の一軒家で2階建て自分の部屋がありトイレは汲み取り式だけど洋式であこがれの上野の街で住める事もあって本当にうれしかったそして近くの崇廣中学校に通う事に中学校の3年間は転校生という立場と中一で足の骨折バスケ部の試合で名張の体育館で遊んでいて二階から飛び降りたら右足のかかとがにヒビが入ったその夏にはバスケ部をクビになり陶芸部に入った中二で腕の骨折どちらも遊んでいての骨折2回中三の高校受験でいい想い出は無い高校2年生で小学校の時にサッカーで出会った旧友とバンドを組んだRCサクセションのコピーで「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」「サントワマミー」「いけないルージュマジック」「いいことばかりはありゃしない」「どかどかうるさいR&Rバンド」旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」一番のモテ期だった気がするただバンドをやっている自分を見て好意を寄せられても違うなと思ったバンドをしていない時はただのバイトに明け暮れた高校生だったからバンドマン目線のそういう女子には興味がなかったから冷たい感じだったかも本当にこの時期がこれまでで一番楽しかった。高校生の頃はたくさん恋をしたが自分が不器用だったので自分が好きだった人からはつきあえてもすぐにフラれた人を好きになることに迷走し始めて最終的に好きになる事はやめてなんとなくという感情で奥手に過ごしていったそのせいか、他校の女子からゲイだとウワサされる事もあったなぜそうなるか不思議だったけど当時は楽しければなんでもよかった1993年一人暮らしを始めるやっと自由になった気がした2年間ぐらいは金が無くて通帳の残高は毎月マイナス50万カツカツ生活家賃と車のローンがきつかった1996年7月から2003年7月の7年間は茨城県と千葉県の県境利根川の近くに住んでいたこの界隈を走るタクシー運転手の態度は本当にムカつくからこっちも態度悪く乗ると気分の悪さはお互いさまになる関東平野は景色が無くここでの生活は落ち着かなかった食文化も人も気候も水も肌に合わなかった特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味はげんなりさせてもらったただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通ったとくにカレーめちゃくちゃ美味かったこの「ふる川」は今もやっている当時はお店の小学生の女の子が手伝っていた夫婦だけでやっていて週3回ぐらい夕飯でお世話になった「さば定食」もよく食べた気がする1997年からパソコンをミドリ電化で38万で購入して作詞やネットに興味を持つまどみちお詩集を読みだす作詞に近い詩を書き始める「Kマーホ」という名で詩を書き始める目標を300篇と決めて詩を思いついたらメモをつけるようになる週末は家に引きこもり一日中、音楽を聴きながらパソコンがあるのにまだワープロで詩を清書していた1998年から2002年まで「Kマーホ」の名で詩に団体に参加したり詩の賞に応募したり詩集を自費出版したりこの当時参加していた詩の団体にはもうドロドロとした詩を書く人やあまりにも読み解けない詩や暴力的な人やいい人もいたけど自分とは全然目指している方向が違うので2年目ぐらいで辞めたそれからは詩の団体に興味は無くなったそれから自費出版した詩集を全国の小中学校や全国の図書館へ寄贈して活動を休止理由は2000年に結婚してから集中して詩を書く時間が無くなってきたから2002年に2つの詩集を出版して詩の事は全部段ボール箱へ入れた2003年から2019年まで育児に重点を置いて生活をするこの時期は友達とも連絡を切っていたのでのちに死亡説や宗教説が出ていたらしい2003年7月から現在は静岡県在住もう20年以上住んでいる2019年るんぺんパリ【RunPenParis】の名で詩を書き始めるSNSでの詩の発信を始めるるんぺんパリ【RunPenParis】とはフランスはパリの街をぺんを持って走るという意味から【RunPenParis】ができた1973年8月1日生まれ(もう51歳)しし座O型右利き詩・詩集・ことばをデザインアート・写真・小説・ペン画松尾芭蕉の生家がある伊賀市で十代までを過ごし俳句が幼少期から身近に存在していた二十代から詩を書き始めて「Kマーホ」名で活動(1999-2002)詩集6冊を出版して活動休止その後松尾芭蕉の俳句のようなシンプルな言葉遊びを詩で出来ないかと考えていた中で令和元年(2019)に「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で活動を再開SNSに140文字に言葉をデザインした詩「140文字詩」を毎日投稿する活動を始める2023年9月に140文字詩が1200作品に到達した事で「140文字詩」を全国へさらに世界へと俳句のように広く知られる存在になって欲しい◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧【2023年】Amazonで販売2023/12/27第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」2023/12/2 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」2023/11/23 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」2023/9/16 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」2023/9/9 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」2023/9/2 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」2023/8/26 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」【2022年】Amazonで販売2022/12/6 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」2022/11/3 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」2022/10/7 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」2022/9/3 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」2022/8/7 アート作品集「やさいに つめる にくえらび」2022/2/14 アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」2022/1/1 第7詩集「みかんの むくちな きもち」【2021年】Amazonで販売2021/9/8 第6詩集「そんな ことばは さよなら」2021/8/3 第5詩集「あさに おくれた なんて」2021/6/5 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」2021/5/31 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」【2020年】Amazonで販売2020/7/27 第2詩集「こよい こよりの そらから」2020/3/2 詩小説「すきから あいへ おやすみ」【2019年】Amazonで販売2019/7/21 第1 詩集「ところで あした あいてる」◆Kマーホ 作品一覧(1999-2002)【2002年】2002/4/30 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」2002/4/4 第5詩集「コールサック」【2000年】2000/7/31 第4詩集「マガサス星人」2000/1/31 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」【1999年】1999/8/1 第2詩集「テレビジョン」1999/5/1 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」【受賞】2001年 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞2000年 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞1999年 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞1998年 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート