なかったことにする、ということ
この病院にお世話になって今日で丸二ヶ月が経過しました。検査、前処置、輸注、生着…。結構大変な時期もありましたが、概ね良好な状態を保ち続けているようで、これはもう感謝の言葉しかありません。あとどれくらいお世話になるのかな、とも考えてしまいがちですが、これはこちらで判断できることではないと割り切っています。昨日はなにやら要領を得ないことを記してしまいました。街並みの不変性と、ミュージカルなどの文法とを結びつけようとしたのはやはり強引でした。あるいは、もう少し考察を深める必要がありそうです。昨日より強く言いたかったのは、街並みの不変性の方でした。変わらずにあるからこそ、かつてそこで起きたこと、しでかしたことと向き合わざるを得ないのではないか。翻って日本はどうか。保護下にある「古都」や一部の街並みを除いて、変わらずにあるところを探す方が困難でしょう。ほとんど無理といってもいいかもしれない。建て替えはいうなれば「リセット」です。そしてリセットは、それをせざるを得なくなった状況・状態をそれこそ「なかったこと」にすることでしょう。そういう観点で考えると、日本の文化というのは、意外とこの「なかったことにする」傾きがあるのではないだろうか。「三尺流れて水清し」汚れはどこかに消えています。汚れということで言えば、汚れ=穢れに対する「禊ぎ」という発想があります。これは何も責任を取ることを意味しない。何らかの試練をくぐり抜けることで、汚れそれ自体をなかったことにしている。伊勢神宮を始め、日本の神社のいくつかには「遷宮」という制度があります。60年に一回の出雲大社はさすがに耐用年数の問題からでしょうが、伊勢神宮などのそれは、20年の間に蓄積した汚れをなかったことにするという発想にも基づいているのではないか。その蓄積した汚れは、古い建物と共に消えてしまうわけです。規模は小さくなりますが、天神様で行われる「鷽替え」などもそう。あったことなのに、それを「鷽」=嘘、つまりなかったことにしようという祈りです。そこに人々の切実な願望があることはわかります。でも、願望がいつしか妄想になり、本当に「なかったこと」にできているような気になっていたら、これはこれで問題なのではないだろうか。さらに言えば、こうした、日本人の多くにとってごく自然なものかもしれない発想、そしてそれに基づく文化が、しかし異なった文化の人々に受け入れられるとは到底思えません。前に記した「当病」という考え方は、「なかったことにしない」ことを前提としています。潜在的に「なかったこと」にしたい願望があり、それを育む土壌の中に我々がいるのならば、これはなかなか受け入れづらい考え方かもしれません。でも、とやはり思います。ことこの病気に関する限り、「なかったこと」には絶対にできない、というより、それときちんと向き合うことこそが、その後の生活の質を(見た目などとは関係なく)高める手立てなのではないかと、自分自身の経験を振り返って強く思っています。なぜなら、我々が生きるべきは願望ではなく現実なのですから(偉そうな言い方ですみません)。あったこと なかったことにできるなら 世に苦労の 種はあるまじ【メモ】観た映画:「ラブ・アゲイン」原題は"STUPID, CRAZY, LOVE". 内容はまさにそのもの。ラブロマンスに分類されるのでしょうが、笑うに笑えない、でもなぜか見終わった後はハッピーな感じに包まれる、ちょっと不思議な作品でした。最後の最後の方で「え~っ」という事実が明らかになるのですが、これは黙っておくべきでしょう。いくつかのカップルが出てきますが、中でもライアン・ゴズリングとエマ・ストーンのカップルがいい。そう、後に「ラ・ラ・ランド」で再び共演を果たすことになる二人です。ライアン・ゴズリングが、男の目から見てもなんかかわいいんですよね(その気はないつもりですが)。悪趣味な部分も少なからずあったけれど、意外な拾いものでした。