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2008.4.14
明治維新 戊辰之役戦士顕彰碑 企画 内宮正平 撰文 岩元紀彦 揮毫 馬渡鳳翠 戊辰之役とは慶応四年(一八六八年)一月、京都鳥羽伏見で薩摩長州両藩が徳川幕府討伐の戦端を開き、翌年五月函館五稜郭の幕府軍を降した戦いです。これによって明治新政府誕生の基が定まり、わが国は近代的な統一国家となり、植民地化を防ぎ、独立が守られました。当時の日本は、黒船来航以来西欧列強の脅威にさらされ国内では封建制度が行きづまって内外ともに混乱していました。第十五代将軍徳川慶喜が大政を奉還し、新しい政治体制が求められる中で、公武合体派が漸進的改革を主張したのに対し、中途半端な妥協では封建制度は打破できないと薩長両藩は断固として討幕を進めました。その結果大局が動き、諸藩連合の新政府軍の中で、薩摩藩は常に先頭に立って奮戦し、この歴史的な大転換劇に最も重要な役割を演じました。薩摩から八千余名の人々が参戦し、六百名をこえる戦没者と多くの戦傷者を出しました。このたび我々有志が維新ゆかりのこの地に戊辰之役戦士顕彰碑の建立を発起しました。戦没者の御霊を弔うとともに、参戦された方々が名君島津斉彬公の遺志をついて西郷隆盛、大久保利通ら優れたリーダーに率いられ、藩を挙げて勇躍親政維新の旗をかざして進まれた雄姿を思い出すよすがとし、併せて戊辰之役に戦没された敵味方慰霊の念をこめてこの碑を建てた次第です。 平成九年九月八日 明治維新 戊辰之役戦士顕彰碑建立期成会 2008.10.12 幼年学校(賞典学校)跡 照国町照国神社境内 幼年學校趾 昭和十三年三月 鹿兒島市教育會 南洲翁強ク意ヲ青少年教育ニ用ヒ私學校ノ附属トシテ幼年 學校ヲ設立シ而モ翁ハ賞典禄二千石大山綱良ハ八百石桐野 利秋等モ夫々禄ヲ出シテ之ガ經營ノ費ニ充テタノデ賞典學 校トモ稱シタ 漢學ノ○英人コップス蘭人スケップルヲシ テ外國語ヲモ教授セシメタノデアル 當時遠ク奥州庄内藩カラモ榊伴ノ二少年ガ遊學シテヰタ 此ノ附近一帯ガ即チ學校趾デアル 明治7(1874)年6月、西郷隆盛はこのあたり一帯に士官養成のための幼年学校をつくりました。この学校は、西郷隆盛・桐野利秋・大山綱良らの明治維新の功績に対する賞典禄10万石をもとにつくられたもので、賞典学校ともよばれました。篠原国幹監督のもとに漢学を教えた久木田泰蔵、洋学を教えた元大学南校(現東京大学の前身)教師の深見有常、外人教師のシケーベル(オランダ人) コップス(イギリス人) らの講師が教育にあたりました。この学校では、外国留学の制度をもうけて、明治8(1875)年に木尾満次・救仁郷(くにごう)哲志・日高正雄の3名を、翌9(1876)年には、野津伝之丞・柏原正一郎の2名を留学させました。また、庄内(山形県鶴岡地方)からの2少年(伴兼之・榊原政治)もこの学校で学びました。 2008.10.12 電信使用ノ地 安政四年島津齊彬公本丸ヨリ此処○ 探勝園ニ至ルマデ電線ヲ架設ス長サ 三百余間蓋シ電信通信○矢ナリ 昭和十六年三月 鹿兒島市 電信使用の地 島津第28代藩主斉彬は、安政四年(1857年)本丸からここ探勝園までの間に日本で初めて電信通信を始めました。線の長さは、約三百余間(500~600メートル)ありました。 電信が駆けた庭園 -今も、斉彬、久光、忠義三公が見守る- 「トン、トン、トン、ツー、ツー・・・・・・」1857年(安政4)のことです。京都や江戸では尊皇攘夷運動が激化し、やがて大老井伊直弼の手によって安政の大獄が始まろうとしていました。積極的に西洋文化を吸収しようとしていた島津家第28代藩主島津斉彬は、日本で初めてモールス信号による交信に成功、この探勝園と鶴丸城の間(600m)で、交信を実演してみせたのです。探勝園という庭園は、現在公園になっていますが、当時は鶴丸城二の丸の名園で、山すそを利用し、滝石組を設け、その下に池泉を設け、今もその面影をとどめる見事な石橋がかけられていました。1917年(大正6)園内とこれに隣接した照国神社境内に島津斉彬とその弟久光、第29代藩主忠義の三公の銅像が建立されました。 鹿児島市観光課 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年08月26日 07時09分44秒
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