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カテゴリ:史跡
与兵衛鮨と昨日紹介した黒いなり、まったく関係ないお話というわけではありません。というのも、与兵衛鮨を贅沢として断罪した天保の改革以降、値段が安くて手軽に食すことができる「いなりずし」が脚光を浴びたと言われているからです。
稲荷ずしは初め尾張名古屋で生まれたものだということで、お弁当などの話題では、豊橋あたりが有名ですね。 その稲荷ずしが江戸の町民に食されるようになったのは、天保の初期、天保の改革前に、日本橋十軒店の次郎右衛門がはじめたといわれています。なにやら行燈に鳥居の絵を描き、夜な夜な売り声を発しながらの稲荷ずし売りは、吉原あたりの遊郭でも有名となり、江戸の名物になったといわれています。特に遊郭では経済的な夜食として人気があったとか。。。 稲荷ずしといえば、たれを染み込ませた油揚げに酢飯やご飯、炊き込みご飯などを詰めたものというのが定番ですが、ある資料によれば、天保年間の稲荷ずしは、豆腐の油揚に雪花菜(きらず)を包んだものという話が出てきます。そして、この稲荷ずしの売価は一個四文であったといわれています。これは、大体40~50円ぐらいの価値でしょうか。それを考えるとコンビニで2個パックのいなり寿司1個分と同じぐらいの感覚ですね。 ただ、江戸時代の庶民の金銭感覚は現代と異なるので、想像がつきにくいですね。 ところで、雪花菜(きらず)とは東北で“おから”のことをさします。 “切らず”とも言って縁をつなぐ食べ物として重宝されたといいます。 そんな“縁”を大切にすることと、雪花菜(きらず)が、お揚げに包まれたというのは何か縁があるのだろうか?今日現在、そこまでは調査できていません。 稲荷ずしの形にも特徴がありますね。よく言われるのは、関西は、お稲荷さんのおキツネ様の好物だからキツネの耳を模った三角だとか、関東は、お稲荷さんにお供えするものだから米俵を模した俵型だとか。。。 どちらも共通しているのは、お稲荷さんへの敬愛の気持ちか。。。 ここで、あの「黒いなり」の口上。 ------------------------------------------------ 口上 黒いなりの事 もうあまりやらなくなりましたが、江戸の人寄せ事で二月の初午の祝いと言うものがありました。 稲荷明神のお開帳の日で、屋敷内に稲荷明神がある家が親戚知人を集め、お祝いをするのです。 この時は「あぶらあげ」を使った料理を一品入れる慣わしになっていて、その当時、琉球王国から船で運ばれてきた貴重な砂糖を使ったいなり寿司はその中でも人気の一つでした。 八百善でも元来おせち料理と同じように、ご贔屓様や内々のものにおすそわけをするものでした。 それは他では決して見ることの出来ないもので、黒砂糖をふんだんに使い、とろ火でゆっくりと煮込み、独特の香りと色に仕上げました。 これを八百善では「黒いなり」とよび、他のいなり寿司とは区別をしておりました。 手間隙惜しまず、物惜しみせず、「旨味」を追う江戸料理。 どうぞ八百善三百年の歴史をご賞味下さい。 割烹家八百善十代目 栗山善四郎 ------------------------------------------------ あの、安かった稲荷ずしも老舗の割烹家にかかったら庶民の口から離れてしまうのが江戸時代であったが、いまでは、東京駅のお弁当売り場で手軽に買い求め、味わうことができるのであります。 こんな幸せはないですね。 ここからは、追補: この八百善という老舗の割烹家は創業が江戸時代の享保年間(1716~1736)です。歴代の将軍に料理をお出ししただけではなく、あのペリー提督への饗応料理を提供したと言われています。 この八百善については、機会があったら話題にとりあげたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
February 20, 2006 02:57:28 AM
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