与兵衛鮨(よへえずし)発祥の地~其の三。
与兵衛鮨は、これまでの押鮨と異なり、握ったシャリ(酢飯)の上にネタ(魚)を乗せて出すことで魚の脂分が抜けないようにし、すぐに食すよう工夫したことで江戸で人気が高まり岡持ち売りから屋台売り、そして店を構えるまでになったと伝えられています。その握りの旨さから「鮨」という文字があてられたともいわれていますが、信憑性のほどは正直なところわかりません。ところで、墨田区の史跡説明板では、与兵衛は、「にぎり鮨を発明した小泉与兵衛」として登場しますが、一般には、「花屋与兵衛」とか「華屋與兵衛」として紹介されています。僕なりに調べたところによれば、与兵衛(1799~1858年)は、福井藩出入りの八百屋に生まれ、九歳のときに蔵前の札差に下男奉公に入り、十数年間勤め上げた後、古道具屋や干菓子屋など何度か商売がえの末、文政年間には本所横綱町住み、寿司を売り歩いて小金を貯め、両国回向院前に小さな店をもって、「与兵衛ずし」の看板を上げたということです。では、与兵衛鮨はどのようなものだったのでしょうか?僕の調査の過程で、海外のホームページに川端玉章(かわばたぎょくしょう)画伯が描いた与兵衛鮨を発見しましたので紹介します。オリジナルはそれぞれの鮨がばらばらに描かれているものを編集したと注釈が書いてあります。このサイトには、華屋与兵衛(花屋與兵衛)の肖像画や料亭さながらの外観を持つ与兵衛鮨が掲載されています。 An oldest illustration of Hanaya Yohei's sushiKAWABATA Gyokusho's drawing around 1877 ([Meiji 10]) *川端玉章(かわばたぎょくしょう)は、天保13年(一八四二)~大正2年(一九一三)京都高倉に生れ、東京で没しました。本名は滝之助と云い、その後、敬亭、晩年には璋翁と号しました。明治42年(1909)に私立美術学校「川端画学校」を東京都小石川に設立し後進の育成に尽力しました。なお、鮨に欠かせないお酢から観た鮓(すし)についての読み物が、ミツカンさんの公式HPに掲載されていますので紹介しておきます。【Mizkan Official Web Site】握りずしのルーツを探る~ 「江戸前鮓」考与兵衛の人生に興味のある方には、江戸前握り寿司の考案者の半生描くエンターテインメントにして料理のうんちくもたっぷり入った冒険小説をみつけましたので紹介しておきます。【華屋与兵衛 謎の生涯】著●馬場啓一夏目書房1,800円(本体)