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カテゴリ:高知新聞
中学を卒業するとき、4人全員が畑山を離れた。ミホちゃんは安芸市の街中に一人暮らしして高校に通い、ヒデアキは左官の住み込みの弟子になった。ヨシユキとせいちゃんは内原野の職業訓練の寮に入った。 せいちゃんが畑山に戻るのは2年後。大工に弟子入りした17歳のときだった。手取りの給料は月額4~5万円。まもなく通い始めた安芸高校の夜間部には好意を寄せてくれる女性がいて、思い切ってデートに誘った。太平館で「何か山が出てくる映画」を見たが、何もしゃべっていいか分からない。会話は弾まず、しばらして「ほかに好きな男性ができた」と告げられ、短い恋は終わった。 父がふいに「安芸に出るぞ。土地も買った」と言い出したのは20歳のときだった。 「おらぁ 嫌や!。せいちゃんはもがり、言った。「畑山から出とうない。この女と一緒になれたら死んでもいいと思う人に『畑山は嫌』って言われたら出るが、そうじゃないと絶対出ん!」 その時の本当の気持ちはひょっとすると、どうしても畑山に残りたかったというより、畑山を出てもいいと思える女性に出会いたかった、ということではないだろうか。そう尋ねると、せいちゃんは笑って「畑山が好きだったんよ」という。結局、一家は畑山にとどまることになる。
圭子さんが海辺の町に生まれたのは83年はファミコンが発売され、街中に聖子ちゃんカットがはやっていた。 せいちゃんは25歳。おしゃれサロンで修業を積んだあっちゃんの店でちりちりのパンチパーマを掛け、もみあげは直線のアイビーカットでキメていた。「流行に敏感」と自負していたが、下着はステテコで草履履き。女性との会話は相変わらず駄目で、「フェンスの向こうのアメリカ」を歌う柳ジョージが好きだった。椎間板ヘルニアで2カ月間入院し、大工を辞めて農業をやろうと思うようになったのもこのころだ。 圭子さんの家は、ハマチの養殖などを手掛けていて、幼い頃から毎日、祖父らと釣りや貝採りで遊んだ。真っ黒に日焼けし、小学校に上がるとアイドル「光GENJI]にあこがれ、ローラースケートに夢中になった。 せいちゃんは同じころ、シシトウ栽培で生計を立てようと汗水を流していた。水をやりすぎて不作になるなど、生活は苦しかった。 見かねた知り合いの勧めで土佐ジローの飼育を始めたのは91年ごろ。トレンディードラマが流行し、ジュリアナ東京がオープンしたこの年、バブルは崩壊し、せいちゃんの100g500円の高級肉は不定期の小口注文しかなく、やっぱり生活は苦しかった。 ランドセルを背負った圭子さんが、海辺の約40分の道のりを、歴史物語や文学全集をむさぼり読みながら歩いていたころ、せいちゃんは、畑山で生きようともがいていた。 せいちゃんの生活も苦しかったんですね。 このあと、せいちゃんに思わぬ方向で・・・ 次回が完結です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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