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2012.12.31
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フォークソング17(1)・ディラン(Bob Dylan)

 歌手兼作曲家、ギタリスト、ハーモニカ奏者、現代詩人、思想家、などとボブ・ディランの出現により、アメリカの民謡界やコンテンポラリー・ミュージックの世界は、新しい音楽傾向に歩み続けるようになったといえます!!

 ボブ・ディラン00.jpg

 1941年ミネソタ州生まれのボブ・ディラン(Bob Dylan)は10歳の頃からギターを独習していて、そのころ尊敬していたウディ・ガスリーの「ダスト・ボール・バラード」を聴いて歌手になる決心したという(ミネソタからガスリーの入院している病院に何度も足を運んだそうです)・・・アメリカ土着のブルース、ヒルビリーへの傾倒を深めていたこのころ、ウディ・ガスリーのレコードを聴き大きな衝撃を受けたのです!!

 幼少時より家にあったピアノを独習、ハイスクール時代はロカビリーの全盛期で、ディランもまたエルヴィス・プレスリーらに憧れ、バンドを組んで演奏活動を始めました(ハイスクールの卒業アルバムには「リトル・リチャードと共演すること」が夢だと記したりもしています)・・・1959年夏にノースダコタ州ファーゴでエルストン・ガンという名でボビー・ヴィーのバンドにピアノ弾きとして入り、彼のバックでステージを数回経験しました~~~1959年9月に奨学金を得てミネソタ大学に入学すますが半年後には授業に出席しなくなりました~~~持っていたエレキ・ギターをアコースティック・ギターに交換し、ミネアポリスでフォーク・シンガーとしての活動を始め、この時にボブ・ディランと名乗っていました(ボブはロバートの愛称ボビーから、「ディラン」は詩人のディラン・トーマスから取ったとも、また叔父の名前であるディリオンから取ったともいわれます)!!

 1961年冬には大学を中退してニューヨークに出てきた彼、グリニッジ・ヴィレッジ周辺のフォーク・ソングを聴かせるクラブやコーヒーハウスなどで弾き語りをしていました・・・やがて、ハリー・ベラフォンテのバックで初めてプロのレコーディングを経験、キャロリン・ヘスターのレコーディングに参加したことやタイムズ紙で好意的に論評されたことをきっかけにコロムビア・レコードのジョン・ハモンドにその才能を見出され、1962年3月にアルバム「ボブ・ディラン」でレコードデビューしましたが、その年の売上は5000枚程にとどまり、コロムビアの期待していた3分の1というセールスだったようです~~~当初は、トラッド・フォークやブルースを中心に歌っていて自作曲は少なかったのですが、象徴主義的な作風の詩人の表現技巧など、様々なものに創作上の影響(ニューヨークで出会った人達、絵画、ミュージカル、レコード、ランボー、ヴェルレーヌ、ブレイクといった)を受け、多くの新しい歌を書くようになります!!

 ボブ・ディラン2.jpg

 初めてイギリス(1962年12月から1963年1月)を訪れ、BBCのテレビドラマ「マッドハウス・オンキャッスル・ストリート (Madhouse on Castle Street)」に出演、ロンドンのクラブで演奏、タウンホールでソロ・コンサート、モンタレー・フォーク・フェスティバルに出演しました・・・タイム誌は「新たなるヒーロー」と紹介、共演したジョーン・バエズは、以後積極的にディランの楽曲を歌い行動を共にすることが多くなりました~~~1963年7月には、ピーター・ポール&マリーがカバーした「風に吹かれて」がビルボード2位のヒットを記録、ニューポート・フォーク・フェスティバルに出演、ワシントン大行進で演奏!!

 公民権運動が高まりを見せていたアメリカにおいてディランは次第に「フォークの貴公子」として大きな支持を受け、時代の代弁者とみなされるようになっていきました(カーネギー・ホールでソロ・コンサート、1964年1月にはアルバム「時代は変る」をリリース)が、過激化する運動や世間が抱いている大げさな自分のイメージに違和感を持ち、次第にスタイルを変化させ、次のアルバム「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン(1964年)」ではプロテストソングと呼べる曲はなくなっています・・・この頃からディランの楽曲をカバーするアーティストが目立つようになってききました~~~中でも、ザ・バーズによる「ミスター・タンブリンマン」はビルボードで1位を獲得、「悲しきベイブ ("It Ain't Me Babe") 」、「はげしい雨が降る」、「くよくよするなよ ("Don't Think Twice") 」、「イフ・ノット・フォー・ユー ("If Not For You") 」、「いつまでも若く ("Forever Young") 」などもよくカバーされています!!

 1965年イギリス公演中に、突然生ギターを電気ギターに持ち替えて従来のフォーク・サウンドにロック・ビートを加え、「フォーゥ・ロック・サウンド」を創造・・・ビートルズやローリング・ストーンズをはじめ、イギリスのミュージシャンとの交流が芽生えたのもこの時期で、ディラン自身もこれらブリティッシュ・インヴェイジョンに刺激を受けました~~~1965年から1966年にかけて「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」、「追憶のハイウェイ61」、「ブロンド・オン・ブロンド」とエレクトリック楽器を取り入れた作品を矢継ぎ早に発表しました!!

 従来のフォーク・ソング愛好者(特に反体制志向のプロテストソングを好むファン)などはこの変化を「フォークに対する裏切り」ととらえ、賛否両論を巻き起こし、1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルで、ディランはバック・バンドをしたがえて数曲演奏しましたが、トーキングブルースなどの弾き語りを要求するファンから手痛いブーイングの洗礼を受けました(但し、ブーイングはひどい音響とあまりに短い演奏だったことに対するもので、実際には歓声もあがっていたといわれます)・・・そこでやむなくステージを降りた後、アコースティック・ギター一本で再登場し、過去の音楽との決別を示唆するかのごとく「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ、ベイビー・ブルー ("It's All Over Now, Baby Blue") 」を涙ながらに歌いあげたという逸話が有名!!

 このようなトラブルにもかかわらず、これら3枚のアルバムでディランは従来以上に新しいファン層を獲得しました・・・内省的で作家性の強い原曲を、アメリカ社会の様々なルーツミュージックやリズム&ブルースなどのバンドアレンジに乗せたこの時期の作品がロック史の大きなターニングポイントとして位置づけられています~~~また、この頃の歌詞はアレン・ギンズバーグらの文学者からも絶賛されるようになっていて、ロックの歌詞が初めて文学的評価を獲得したものとして重要!!
ボブ・ディラン1.jpg
 アル・クーパー、マイク・ブルームフィールドらの参加でバンド演奏を全面的に取り入れた「追憶のハイウェイ61」からのカット「ライク・ア・ローリング・ストーン」が、キャッシュボックス誌ではじめて(そして唯一の)シングルチャート第1位となりました(ビルボードでは2位。1位はビートルズの「ヘルプ!」)、その他「寂しき4番街」が7位、「雨の日の女 (Single Edit.) 」がビルボード、キャッシュボックス誌で共に最高2位、「アイ・ウォント・ユー」が20位、「女の如く」が33位を獲得するなど次々チャートアクションを記録・・・しかしその記録だけでなく、今日のミュージックシーンにおいて「ディランズ・チルドレン」を自認してきた大御所ミュージシャンに更に多くのフォロワーが枝分かれしている事実からも「シンガー・ソングライター」という系統を確立した役割は大きいといえます!!

 1973年、ビリー・ザ・キッドを題材にした映画「ビリー・ザ・キッド/21才の生涯」への出演しました・・・挿入歌「天国への扉」はディランの曲の中でもカバーするアーティストが多い一曲です!!

 1990年に「アンダー・ザ・レッド・スカイ」を発表後、ディランはその後7年間自作曲のスタジオ・アルバムを作らなくなりました・・・その後、1997年までに発表されたものは、2枚のトラディショナル・ソングのカバー・アルバム「グッド・アズ・アイ・ビーン・トゥ・ユー」と「奇妙な世界に」、未発表曲のコンピレーション、ベスト数枚、MTVライブでした~~~又、ウィリー・ネルソンのアルバムへのゲスト参加、映画「ナチュラル・ボーン・キラーズ」への楽曲提供(ポール・アンカのカバー「ユー・ビロング・トゥ・ミー」)、マイケル・ボルトンとの共作「Time, Love And Tenderness」などもありました!!

 1991年2月にはグラミー賞生涯功労賞(Lifetime Achievement)を受賞・・・授賞式では湾岸戦争開始直後の好戦気分溢れる時期でありながら、「戦争の親玉」をハードロックアレンジで歌い、聴衆の度肝を抜きました~~~同年には、それまでの過去の音源からの未発表曲を網羅した「ブートレッグ・シリーズ第1〜3集」を発表、「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「ブラインド・ウィーリー・マクテル ("Blind Willie McTell") 」、「夢のつづき ("Series Of Dreams") 」などの曲でディラン再評価の兆しになりました!!

 「ウッドストック1994 ("Woodstock '94") 」にも出演・・・公式アルバムには、ディランの曲からは「追憶のハイウェイ61 ("Highway 61 Revisited") 」だけが収録、年末にはMTVの公開番組『MTVアンプラグド』に出演し、1960年代の曲を中心とした選曲で評判となりました!!

 アルバム「タイム・アウト・オブ・マインド」は18年振りの全米トップ10(グラミー賞年間最優秀アルバム賞を受賞)・・・息子(ジェイコブ・ディラン)のロック・バンド「ザ・ウォールフラワーズ(The Wallflowers) 」のフロントマンでもあるジェイコブ・ディランもグラミー賞を受賞しました~~~親子揃っての受賞でした!!

 ・・・・・・・2013年に続きます





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Last updated  2012.12.31 19:36:00



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