知的漫遊紀行

2006/06/25(日)06:16

今泉訳・シートン動物記2「ラギーラグ」(ワタオウサギの子どもの物語)

読書感想(181)

「シートン動物記」集中逆読み8冊目 ラギーラグ(raggylug)は「ちぎれてぼろぼろになった耳」という意味。ラグlugは「耳」の意味。この物語の主人公となるワタオウサギの雄の子の名前。ワタオとは綿のような尾があることからつけられたもの。 ラギーラグは、母親のモリーと湿地に住んでいた。そして、敵の多い生活からいかに身を守るかの方法の訓練を母親から受けた。 ヘビの襲来:あるとき、聞きなれない音を聞く。隠れていた草むらから思わず身を乗り出したら、目の前にクロヘビがいた。     逃げようとしたが、クロヘビは体を巻きつけた。悲鳴を聞いた母親モリーがヘビにおそいかかった。そのたたかいでクロヘビは巻きをゆるめたので、ラギーラグはなんとか逃げた。モリーはそれ以上、ヘビにおそいかからず、森へ走った。     ラギーラグも母親の雪のような白い綿毛の尾(シートンが描いたこの白く丸く大きい母親の尾の絵は、この数十年覚えていた絵であった)を追って森に走った。     ラギーラグの「ちぎれてぼろぼろになった耳」はこのときヘビにかまれた傷跡である。 母親の教え:一番目は「低く伏せて、なにもいわない」である。 二番目は「フリーズ」である。彫像のようになることである。 三番目は「バラの茂みは、ウサギの友だち」である。それはバラのトゲは、ウサギにだけ痛みを与えないからである。     ラギーラグ通信手段も覚える。ウサギは声よりも遠くに伝達できる足音を使う。敵をまくためのいろいろな方法も覚える。水泳も覚える。この水についての勉強はラギーラグが最後に学んだ教えであった。彼は「大学院」まで学んだ。 侵入者におびえる暮らし:あるとき、大きなワタオウサギの雄がこの湿地にやってきた。「なわばり」あらしである。     ラギーラグはこのワタオウサギと闘うがかなわない。母親もかなわない。こうして、親子は思わぬ敵のいじめにあう。     植民地化である。 ラギーラグの勝利:親子はなれた湿地を出ようときめた。その直前、農家の猟犬が湿地にやってきた。ラギーラグはうまく猟犬をそのワタオウサギの巣に誘導した。猟犬はそのワタオウサギを発見し、殺してしまう。     親子に再び平和な日がきた。 母の死: 冬が来た。親子はこの湿地に来たミンクに悩まされ、住処の自由をうばわれる。ある吹雪の夜、親子は茂みにかくれて夜を過ごすことになる。     キツネがその吹雪の夜、あえて狩に出て、茂みの親子を発見する。ラギーラグはとっさに逃げる。モリーも逃げる。     そして池まで逃げ、とびこむ。キツネもとびこんだが、冷たくてムリであった。モリーは向こう岸につこうと泳ぐが、その向こう岸にキツネがきているかもしれない。モリーは長い間、泳ぎ、岸に着いたとき、力つきた。モリーは死んだ。 今も生きるラギーラグ:ラギーラグは、キツネが去ってから母親をさがしたが分からなかった。しかし、ラギーラグは母親の教えを生かし、家庭を作り、子どもを育て今もこの湿地で元気に生きている。    シートンは、母親モリーの死を次のように言っている。 「モリーは、世にいう英雄の受けのいい言動などは見向きもせず、自分が感じる小さな世界で、全力をつくして、はたらいて、そして死んでいったほんとうの英雄である。    同じように生きた数えきれないほどいる、ほんとうの英雄のなかのひとりである。モリーは今をよく生きるというほんとうのたたかいで、すばらしくたたかいぬいた英雄である。    モリーの筋肉は、ラギーラグの筋肉として、モリーの脳はラギーラグの脳として、いまも生きている。モリーはラギーラグとしていきつづけ、ラギーラグをとおしてモリーの細部が、ワタオウサギの種に伝えられていく。」    シートンの頃は、DNAという知識はなかったが、彼の言葉はそれをしめしている。と同時に、親による子の訓練が伝統的な知恵を伝える重要な部分をなしていることを示している。    日本人の親が、その種(日本人)として伝統的に大切に伝えられていくべきものはなんだろうか。しつけとして子に身につけさせる大切な誇りある日本人としての訓練とはなんであろうか(2006.06.03の日記参照)。        日本人の種は、それを怠り絶滅するか、独立した「国家の品格」を失うのであろうか。精神的に植民地化するのであろうか。    孫と会うとそれを意識しながら、とりとめのない会話をしている。    明日はこの「シートン動物記」の知的街道の終点「ジョニーベア」に挑戦する。

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