知的漫遊紀行

2010/07/26(月)23:27

「日本政治思想史・[十七~十九世紀]」渡部浩著・東京大学出版会10年2月刊・3の1

                           日本政治思想史 私:図書館から2ヵ月近い順番待ちで借りたよ。A氏:題名も硬いし、東大出版会の出版だということなら専門書ではないの?   君は歴史の専門でないのに、なんで興味をもったのかね。私:政治思想とは、平たく言えば「この国をどのようにしたらよいか、今のままでいいのか」という考えから始まり、今も日本政治は問われている。    この本の朝日新聞の書評では、非常にわかりやすく江戸時代から明治半ば頃までの、政治思想を扱っているとあったので借りた。   著者はあとがきで、一般の読者のために書いたとあり、専門的な知識を前提としないでも読め、理解できるように書いたつもりであると書いている。   そのために、最初に、儒学、朱子学の体系を明快に分かりやすく解説している。A氏:江戸の政治思想には、朱子学の理解が欠かせないからね。私:確かに読みやすく、タイムトラベルのようにミステリアスで歴史が面白くなるような本だね。   それに、誤解しやすい江戸時代の儒学の正確な姿が明快に解説されているね。   しかし、わかりやすいとは言え、470頁の厚さにビッシリ詰まった「物語」は、読者にとってはかなりの負担だね。A氏:タイムトラベルができるのは、江戸時代の内外の文書が残っているからだね。私:著者は、それを豊富に引用している。   しかし、残念ながら、それが読みやすさの唯一の障害になっているね。   というのは日本の古い文書は、文語体で読みにくいからだ。   そういう引用文は飛ばして読んだよ。      しかし、江戸から明治にかけての時代は、政治思想で百家争鳴なのには驚いたね。   江戸時代は儒者が中心だが、朱子学、反朱子学と様々だね。A氏:武士の支配する徳川日本は、一方でキリスト教の西洋と対峙し、他方で、朱子学という高度な哲学体系で理論武装した中国と向き合っていたわけだね。私:明国、清国では、科挙への解答は朱子学で行うようになり、王朝の正統哲学になり、官僚となり人民を導きたいという男たちは朱子学を学ばないといけないようになっていた。   これは朝鮮国も同様だね。A氏:徳川政権にはそういう政治官僚がいないね。私:官僚制がなく、職業軍人である武士の組織がそのまま、統治組織だという珍しい組織構造だ。  徳川政権の安定が長期化して、戦いがなくなると武士の存在意味がなくなってくる。A氏:武士の身分的なアイデンティティの危機だね。私:最初、読書すら軽蔑していた武士が、次第に儒学を学びだすというのは、統治組織な意味を意識しだしからであろうか。   儒学の師匠が儒者であるが、官僚制度がなく、中国のような科挙が無い日本では、最初、儒者は少なく、個人的な趣味のような形で始まっている。   儒者になるには、趣味の世界のように身分を問わない。   多くは塾を開き、その授業料で生活する。    将軍や大名に仕えても、主流の武士ではない。    儒者風情が統治に口を出せば、本流の武士からは反発が出る。   また、儒者には伊藤仁斎のように、朱子学を厳しく批判し、独自の新しい体系を構築した人も現れる。A氏:伊藤仁斎の後、儒者新井白石が将軍の相談相手になるね。私:儒者が統治に影響を与えるというのは徳川政権では異常なことだね。   これは6代将軍家宣が、将軍になる前に儒学が好きで、その師が信頼する儒者の新井白石だったことによる。   彼は朱子学者だ。   家宣が将軍になると、旗本になる。   徳川政権で官位を得た儒者は、林家当主とその跡継ぎ以外に白石だけだという。   しかし、将軍家宣が在任4年で病死し、後を継いだ家継も3年で病死。   そこへ紀伊徳川家から吉宗が将軍としてきた。   年号を享保と変え、新井白石がした改革を次々に反転させる。   朱子学者による改革の挫折は明らかだったという。  明日は、朱子学から、国学への流れをみていこう。 

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