知的漫遊紀行

2016/08/30(火)15:30

「『縄文時代』はつくられた幻想に過ぎない」先史学者・山田康弘氏インタビュー・30日朝日新聞・「異議あり」欄

私:俺もこの記事を読むまでは「縄文時代は、狩猟採集で生活し、自然と共生していた、貧富や身分の差がなかった、日本文化の原点」などというイメージを持っていたんだが、それは「つくられた幻想」だと、先史学が専門の山田康弘氏が指摘していることが理解できたね。  高校の教科書もこの30年位で大きく変わっているんだね。   A氏:「石器時代」に「縄文式文化」「弥生式文化」という言い方は戦前からあったが、戦後になって、アメリカの教育使節団の勧告などのよって、これまでの神話にもとづく歴史教科書ではダメだ、新しい歴史観で教科書をつくれということになった。  最も科学的な歴史観と考えられていた「発展段階説」に合わせて、狩猟採集段階の「縄文式文化」から農耕段階の「弥生式文化」へ発展したとなった。 ある意味では政治的な理由で導入され、決められたという。   私:変化が起きたのは1950年代後半。  1947年に代表的な弥生遺跡である静岡県の登呂遺跡の発掘調査が始まり、広い水田や集落の跡が発見され、「弥生式文化」の範囲も、西日本だけでなく関東や東北まで広がっていたことがわかり、その段階で「弥生時代」という言葉が出てきた。   A氏:「文化」から「時代」になったわけだ。   私;50年代は、戦後の日本が講和条約を結び、国連に入るなど、国際社会の中で地歩を占めていった時期で、それと並行して、日本とは何か、日本人とは何かが強く意識されるようになり、その中で、「石器時代」、「青銅器時代」、「鉄器時代」といった世界史共通の区分とは別に、「石器時代」を、「縄文時代」「弥生時代」と分け、日本独自の時代区分が求められたのだと思うと山田氏はいう。  そして、「弥生時代」は、稲が実り、広々としたのどかな農村という、非常にポジティブなイメージとともに広まり、戦後まもない頃の日本人は、「弥生時代」に日本の原風景、ユートピアを見たが、その一方で、裏表の関係にある「縄文時代」は、貧しい、遅れた時代ということにされてしまった。   A氏:ところが、70年代になると、国土の開発が盛んになり、大規模な発掘調査が数多く行われた結果、「縄文」のイメージは大きく変わり、「縄文」は貧しいどころか、豊かな時代だったという見方が出てきて、「縄文は遅れていた」「弥生は平和」というイメージが崩れてきた。   私:背景に高度成長も終わって、一息つく時期になるという世相があり、社会がアメリカ化されてきた反動で、日本の原点とは何かを探すようになった。  芸術家の岡本太郎は、50年代に縄文土器を美として「発見」し、日本文化の基底にあるものとして「縄文」を新しく提示してみせ、縄文ブームが起きる。 呪術を行う一方で、工芸など高い文化を持ち、みんなが平等で、自然と共生していたユートピアとして、「縄文」が描かれるようになった。   A氏:ところが、また、90年代になると変化して、「縄文階層社会論」が盛んになる。  青森県の三内丸山遺跡などが発掘され、これほど大型の遺跡がある以上、「縄文時代」は単なる平等社会ではなかったはずだという見方が出てきて、平等社会というイメージに疑問符が投げかけられた。 この背景にある世相は、バブル崩壊後、格差や社会の階層化が問題になった時期で、「縄文時代」ですら階層があったという話に安易に乗る人も出てきてしまったという。   私:「縄文幻想」から脱するには、どんな時代も、過度に美化しないことで、ある時代の一側面だけを切り取って、優劣をつけるのは、様々な意味で危険で、「縄文は遅れていた」「縄文はすばらしかった」と簡単に言ってしまうのではなく、多様な面をもっと知ってほしいと山田氏はいう。    気をつけないと、まさに「歴史は後世によって作られる」面が大きいね。

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