知的漫遊紀行

2018/10/15(月)17:42

「戊辰戦争、無念の150年 『賊軍』とされた会津/列藩同盟、当初は『非戦』」15日朝日新聞・「文化の扉」欄

私:「戊辰戦争」は150年前、東北地方などで起きた大規模な内戦。    江戸城の開城後も奥羽・北越などの諸藩は新政府を相手に団結し、戦ったが、敗戦で厳しい処分を受けた地域は、「賊軍」とされた無念を引きずってきた。    奥羽と北越の諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結び、新政府軍を相手に現在の東北地方や新潟県の各地で戦い、敗れた。   福島県立博物館の阿部綾子・主任学芸員は、「そもそも戦争をしたくて列藩同盟に加盟した藩は一つもないと思います。むしろ、巻き込まれたという認識でしょう」という。    本来は「非戦」の同盟であったという。   A氏:戦争のきっかけは1868年1月の鳥羽・伏見の戦い。   旧幕府軍などは薩摩、長州藩中心の「新政府軍」に大敗し、新政府は会津藩を「朝敵」とし、仙台藩に「征討」を命じた。   仙台藩主の伊達慶邦は戦争回避に向けて動き、「征討」は、まだ幼かった明治天皇が判断したのかなどの疑問点を建白書にまとめたが、京に届けられた時、すでに「征討軍」は出発していた。   新政府の「奥羽鎮撫総督府」が東北に入ると、会津藩謝罪の条件として要求したのは、藩主だった松平容保の首で、会津藩にとって受け入れがたい内容。   仙台藩と米沢藩は奥羽諸藩に会津救済を呼びかけ、賛同した藩の代表者が署名したが、この時は、東北で戦火を交えないことをめざした盟約だった。   私:提出された嘆願書を、新政府の奥羽鎮撫総督が却下したことで転機を迎える。    仙台市博物館の水野沙織・学芸員は「嘆願書の署名の前に仙台、米沢、会津の3藩の会合で、もし謝罪が認められず、鎮撫軍が暴挙に出たときは一緒に戦うことを約束していた」という。    仙台藩士らが総督府下参謀を殺害したことも加わり、対決は不可避になり、水野氏は「情勢の変化によって目的が変わり、同盟を結成し、新政府軍と敵対することになった」という。    5月、同盟は奥羽・北越の31藩に達したが、軍事同盟に変わり、各地の戦いで劣勢となる中、離脱する藩が相次ぎ、8月には会津・鶴ケ城下に新政府軍の侵攻を許す。   9月に入ると、米沢、仙台両藩、そして会津藩などが降伏し、戦場は箱館へと移っていく。   A氏:ところで、新潟、福島両県と仙台市は今年、「戊辰戦争150年」展を企画。   会場には、一人の会津藩士が戦争から約40年後に書き記した書物「雪冤一弁」が展示されているが、「雪冤」は「無実の罪をそそぐ」という意味で、序文で、明治政府に媚びて真実を伝えない書物が流布していると執筆の動機を説明。   阿部氏は「会津藩が『朝敵』とされたことに対し、割り切れない思いが随所に表れている」 という。   この藩士が憤るのは「会津藩こそ天皇に誠を尽くした」という思いがあるからで、会津藩主松平容保は京都守護職として、幕末の混乱した京で治安の維持に努め、孝明天皇からは、忠誠を喜ぶ手紙が届けられたほど。   だが、孝明天皇の死後、薩摩藩などは鳥羽・伏見の戦いで錦の御旗を掲げ、「官軍」と名乗ることに成功し、逆に会津藩が「賊軍」の汚名を着せられることになった。   敗れた藩は戦後、処分を受けるが、新政府側に回った秋田藩も領地が戦場となり、家に火を付けられるなどの被害に遭った。   私:水野氏は「150年前に起きた戊辰戦争の歴史はそれぞれの地域で大きく違っていることを知って欲しい」という。     明治維新は、ある意味、薩長の皇室を巻き込んだクーデターで、新政府は統一「国家」創設を急ぐ意識があったのだろう。

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