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2007/08/07(火)19:11

国家の品格をどう見るか?

書籍(20)

Critical Horizonさんのコメント: <つまり、これが正しいと主張しているわけでなく、藤原氏の立場からは世界はこう見えますよといっているモナド論。そして、世界の問題で語りうるのは論理の世界までなので<あって、それ以上のことは沈黙しなければならないという論理哲学論考でのおなじみの主張。(佐藤『国家と神とマルクス』p.201) に対する私の意見: 佐藤優はインテリジェンス 武器なき戦いなどではInfomation(情報)とIntelligence(知的資産,知識)とは違ってこの情報を如何に集めるかが重要など、インテリジェントオフィサー(要するにスパイ)としてまた、ロシア帝国に関する見解と洞察はなかなか鋭い能力を持った人ですが、しかしながら、彼は「国体」を重視し皇統の維持を強く訴える尊皇家であり、それが意味する国家とは国体すなわち天皇が統治する日本国の国家体制なのです。藤原氏の主張は、佐藤氏ほどの思い入れもなく、単に日本人の感傷に訴えているだけである、ベストセラーに成りうるエッセーを書くひとは政治・経済の歴史と方向性を見誤って、読者を在らぬ方向に導いてはならないという点と駄作ほどどういう訳か良く売れる。という印象が率直な読後感でした。 >佐藤優氏が言ったとされる「『国家の品格』は、つまるところライプニッツとウィトゲンシュタインなんだそうだ。」というのも一見的を得ているようだが、よく考えるとライプニッツとウィトゲンシュタインを同一視していることはおかしいことに気が付いた。  それ自体が属性の束であるモナド(個体概念)を基底とするライプニッツの「可能世界」に対して、ウィトゲンシュタインの「可能世界は、対象を基底とする。 世界は事実の総体であって、対象(事物、物)の総体ではない(『論理哲学論考』)が、事実とは「現に成立している諸事態(状況)」(『論考』)であって、また事態とは「諸対象の結合」(『論考』)である。ライプニッツとウィトゲンシュタインの「可能世界」の差異がある。すなわち個体はそれぞれの世界に縛り付けられたものか、あるいは多数の世界を貫いて同定可能なのかという貫世界同定の問題において、「属性の束であるモナド」と「事態に依存しない対象」との対立があるのである。何か哲学的な内容を翻訳した日本語で記述すると難解でかつ抽象的になる事は否まないが文脈を理解して欲しい。

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