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カテゴリ:自叙伝
カロリーゼロの三ツ矢サイダーが発売されたというので、さっそく飲んだ。
三ツ矢サイダーがどれほどグレートな存在か。それはATOK8で「みつやさいだー」と入力すると一発で変換されることからもわかる。現れては消えるライバル商品の数々の中にあって、どんなスーパーでも最もいい場所に多大なスペースをとって陳列されている。最強のライバルだったキリンレモンはどうか。すでに昔日の面影はない。 サイダー界のガリバーといっていいが、健康志向が高まり、カロリーオフの飲料や野菜飲料が幅をきかせる中にあっても、三ツ矢サイダーの地位はゆるがなかった。 三ツ矢サイダーを最後に飲んだのは1966年、小学校3年の春。学校の「社会見学」で訪れた札幌のアサヒビールの工場見学のあと、全員にコップ一杯の三ツ矢サイダーが振る舞われた。だからかれこれ43年ぶりだ。 昭和30年代の子どもの日常飲料は水道水だった。次いで少しずつ粉末ジュースが浸透してきた。駄菓子屋で売っていた、細長いビニール入りの飲料も大都市では親しまれていた。しかし人工甘味料に発癌性があるということがわかり、昭和40年代前半には粉末ジュースは廃れた。 コカコーラは昭和30年代にはすでに登場していた。この時期、一度か二度試してみたことのある人は多いはずだ。しかし、あの薬のような味には違和感を覚えるだけだった。 コーラがブレークしたのは日本人の所得水準が向上した昭和40年代後半以降であり、特にドルショック、オイルショック以降(1970年代前半)だったように記憶している。 外で体を動かして遊ぶのが日常だったこの時代、粉末ジュースが廃れた1969年以降の自販機などまだなかった時代、コーラなどの清涼飲料が普及するまでの数年間、いったい何を飲んでいたかは思い出せない。 その数年はちょうどわたしは中学生だった。いわゆる清涼飲料水は三ツ矢サイダーを含めて飲んだことはなかったから、カルピスでも飲んでいたのだろうか。 昭和30年代まで、三ツ矢サイダーはハレの日の飲み物だった。親戚が集まったとき、誕生日、温泉に行ったときの夕食。そういうときにだけ、うやうやしく、子どもの人数よりも少ない本数並べられるのが、三ツ矢サイダーであり、炭酸が苦手な人のためのバヤリースだった。北海道ではリボンナポリンという、リボンシトロンの姉妹商品もあった(今もある)。 1968年、小学6年の修学旅行のことは忘れられない。定山渓から中山峠を超え洞爺湖に向かうバスの中で、ガイドさんが「このあたりには炭酸を含んだ鉱泉の湧き出るところがあり、砂糖をとかすとサイダーになる」と教えてくれたのだ。 年に数回のハレの日にしか飲めないサイダーが、ここでは砂糖さえ持参すればタダで飲み放題だというのである。その情景を想像して陶然とした思いに浸ったのはわたしだけではないと思うが、わたしだけだったかもしれない(笑) たとえは悪いが、ハリウッド女優クラスの美女多数が半裸でサービスしてくれる無料キャバクラのようなパラダイス、桃源郷を想像すれば遠くない。 だからやはり、昭和40年代前半まではサイダーの類は非日常の飲み物だったのだ。 しかしその後はコーラやファンタやミリンダの台頭によって、また缶コーヒーブームの襲来によって廃れていったのが国産のこうした清涼飲料だった。 しかし三ツ矢サイダーは別格だった。夏目漱石や宮澤賢治にも愛されたこの味、とりわけ強い炭酸とかすかな酸味の愛好者は絶えることがなかった。 そう、三ツ矢サイダーの第一の特徴はこの「強炭酸」にある。「イタキモチイイ」という言葉があるが、喉の奥で炭酸が炸裂したあと甘みと酸味が広がるのは「イタオイシイ」とでもいうべき体験であり、この「痛さ」がいいのだ。 株を成り行きで買うときは、恐怖と期待が入りまじる。この不思議な気持ちは過去に類似の体験がある、と思って思い出の引き出しを探ると、三ツ矢サイダーの栓をぬくことを決断した瞬間がよみがえる。いまがほんとうに栓をぬくべきベストの瞬間なのか、一瞬の逡巡と決断の中に人生はある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
June 6, 2009 12:15:29 PM
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