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カテゴリ:自叙伝
たいていの野菜は昔の方がおいしかったが、昔よりもおいしくなったと感じることが多いのがトマトである。
トマト嫌いの女性は珍しいが、トマト好きな男性はもっと珍しい。あれば食べ、出されれば食べるだろうが、品種や食べ頃にこだわるほど大好物だという人はまず皆無だろう。 家庭菜園で作るメリットが最も大きい作物の一つがトマトである。熟してから収穫するのとそうでないのとでは月とスッポンくらいの差があるからだ。もっとも、最近ではフルーツトマトという、わざと悪条件で育てたトマトがあるので、その差もあまりなくなった。 昭和30年代には、栄養とはカロリーを意味した。だから野菜の地位は低かった。それでも、漬け物になるような野菜は地位を保っていたが、トマトのような、そのままでは保存もきかずご飯のおかずにもならない<野菜>は軽んじられていた気がする。 野菜を生で食べる、つまりサラダで食べる習慣がなかったのもトマトを遠ざける一因になっていたと思う。あのころは市場で買った野菜にも、ミミズや虫がついていることが稀ではなかった。野菜を生で食べることがほとんどなかったのは、回虫を避けるためだったろうと思う。 野菜を生で食べる数少ない例外がトマトだったように思うが、何でもおいしく感じる子どものころ、トマトをおいしいと思って食べた記憶はない。女の子がトマトを喜んで食べるのを見て、不思議な生き物に思えたのをおぼえている。 そのトマトを、はじめておいしいと思って食べたのは高校1年のころだっただろうか。モスバーガーができてハンバーガーなるものを食べたときである。 ハンバーグとピクルスとトマトとレタス、それにパンが一緒に口の中に入ったときのトマトの甘味と酸味をすばらしくおいしく感じた。肉の脂っぽさをピクルスが中和し、トマトがそれにだめおしをする。レタスの味気なさをサポートしパンのドライさに潤いを与える。他の食べ物の短所を補い長所を引き出し、それでいてそれ自体も控え目なおいしさがある。 こうしたトマトの真の「底力」には感銘を受けた。トマトおそるべしと感じたものだった。 しかし単品で食べるトマトは相変わらず好きではなかった。こんな低カロリーのものでお腹を満たしてしまってはカロリー不足で倒れてしまう。20代くらいまでの男はよほど草食系でもない限りそう感じるものだと思う。 トマトを単品で食べておいしいと思ったのは1987年にニセコアンヌプリに登ったときである。 この山は、登山道はつまらない。沢や岩場があるわけでもなく、景色にもさほど変化がない。 しかし、尾根部分に出ると絶景が広がる。何しろ、蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山が正面に、パノラマ状に見えるのである。登山道のつまらなさと頂上からの絶景の落差があんなに大きい山というのはそうないと思う。 雄大な景色でもコンパクトなのが日本の景色の長所の一つだと思うが、アンヌプリ頂上からの景色に匹敵する「コンパクトに雄大な」絶景というのは世界的にも珍しいだろうと思う。たいてい、雄大な景色は雄大すぎて大味なものだ。同じ日本でも八ヶ岳からの富士山の眺めなど大味でアンヌプリの比ではない。 羊蹄山には春遅くまで雪が残っている。山頂部分に雪をまとった富士山型の山というのは神々しく美しい。しかもそのときは雲一つない晴天だった。その景色を眺めながらの食事ほどぜいたくなものを思いつくのはむつかしい。 食事と言っても持参したものを食べるだけだが、そのときは偶然トマトを持っていた。あんな嵩が張って重たいものをなぜ持っていったのか不思議だが、とにかく山頂でトマトを食べた。 あんなにおいしいものを食べたのは、あとにも先にも記憶がない。今まで食べたいちばんおいしいものをと聞かれたら、あのときのトマトと答えるような気がする。 何の変哲もない、ふつうのトマトである。まだフルーツトマトなどというものはなかった。青いうちに収穫して流通している間に少し赤くなった、そんなトマトである。 体を動かして気持ちのよい汗をかいたあと、少しの苦労をガマンして着いた頂上で絶景に迎えられ、水分補給を兼ねて食べたから、ふだんはさほどおいしいとも思わないトマトに、数十の複雑なうま味を感じたのだろうと思う。 このときはポカリスエットを持っていったが、これも下界で飲むのとは別物だった。こんなにおいしい飲み物だったのかと絶句した。そして、しまった、それまでの人生は失敗だったと悟ったものだった。 食べ物そのものより、いつどこでだれとどんな状況で食べるのかが味覚に与える影響が大きいということを、野外ジンギスカンや風呂上がりのビールなどで知っていたにもかかわらず、あまり考えなかったがゆえの失敗といえる。 一度そういう経験をすると、どんなトマトでもそのおいしさに焦点をあてて味わえるようになる。オーディオのイコライザーのような働きを脳ができるようになり、舌がそのもののまずさではなくおいしさを追うように機能するようになるのだ。 ほかの景色で代替するわけにはいかない。柳の下の二匹目のどじょうをねらって、いろいろな場所で試したが、アンヌプリ山頂にはどこも遠く及ばなかった。 人生の豊かさとはこういうことなのだと悟るのに時間はかからなかった。 6月、残雪の羊蹄山とニセコ連山、マッカリ盆地を眺めながらアンヌプリ山頂でトマトを食べたことのない人は、トマトのほんとうのおいしさを知らないとさえいえる。 海に潜って採ったウニを食べたことのない人も同様だ。 辰巳芳子のスープは末期がんになってからもらうことにして、元気な間はなるべくこういう体験を積み重ねることだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
January 8, 2010 10:26:45 AM
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