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カテゴリ:クラシック音楽
この大学の札幌校と岩見沢校の芸術課程が岩見沢校に統合されて3回目の定期演奏会。何でも今年はじめて、大学院生まで含めて入学時から全員が岩見沢校の入学者とのこと。
両校の「統合」は、デメリットもあったのかもしれないが、外部から見た限りではメリットが大きいと感じる。大人数の曲を演奏する場合は人数が多い方がいいからだし、分散していたいい教師が集まるメリットは計り知れない。札幌校に集中していた優秀な学生が岩見沢に入ることで全体の底上げがされるはずだ。 こう考えて期待して行ったのだが、期待をはるかに上回る出来だった。 最も印象に残ったのは前半の最後に演奏されたバッハのミサ曲ロ短調からの4曲。 正確には知らないが、100人近いコーラスのうち、声楽専攻者は一握りだろう。大学に入ってはじめて合唱を経験した人がほとんどだと思う。 しかし、その「シロウト以上にシロウト」の合唱がすばらしいのである。テノールなどはパートとしてのまとまりが弱く音程も怪しかったりするのだが、フレーズ感がしっかりしていて、アマチュアの演奏でしばしば遭遇する句読点の場所を読み間違ったりするような居心地の悪さがまったくなく、立派なバッハになっている。 音楽評論家の許光俊がこんなことを言っている。 「私が日本のオーケストラや演奏家に対してほとんど常に決定的に物足りない思いを抑えられないのは、前後関係がまったく意識されておらず、今出ている音にしか奏者の注意が向いていない点だ。その音ひとつだけを聴けば、確かにきれいな音かもしれない。だが、どの音からその音がやって来て、これからどうなって行くのかという流れがまったく感じ取れないことがほとんどなのだ。さらにはもっと大きな時間的な単位ではどうなるかなど、皆目わからない」 これは極論だが、たしかにそう感じることがある。一般にフレーズ感が短いのは確かだ。もっと言えば、音楽が高揚していくときのフレーズ感はあるが、たゆたうようなフレーズ、音楽が減衰していくときあいまいなフレーズ感のまま消えていくことが多い。特にテンポの速い曲ほどその傾向がある。 しかしこのコーラスはただ声を出して歌っているだけの凡百の合唱団とは決定的にちがう。それは、コーラスメンバーとしてはシロウトであっても、ただ音楽や歌うことが好きなだけのアマチュアとはちがい、小さいころからしっかりとした音楽教育を受け、楽譜を物語として読む訓練を受けてきた人たちの集団だからだろう。指揮者のトレーニングもよかったのだろうが、もし指揮者が何の合図や指導をしなくても、「大きな時間的な単位」のしっかりとした音楽が生まれていたのではないかとさえ思うほどだ。 それはメーンプログラムのチャイコフスキー「交響曲第5番」でも感じたことで、演奏技術の割には内実のある音楽が生まれていた。オーケストラは専攻生が要所を固めているようだったが、オーボエやファゴット、フルート、ティンパニといったオーケストラで最も重要なパートに優れた人材を得ていたことも成功の理由だろう。ただ、阿部博光の指揮は堅実だがきまじめで、この曲ではもう少し白熱した高揚や官能性、ケレンを聴きたかった。 最初に吹奏楽でバード「オックスフォード伯爵の行進曲」とショスタコーヴィチの「カテリーナ・イズマイロヴァ」からの3曲。弦楽合奏でシャゾットの「アルビノーニのアダージョ」。後半にモーツァルトの「クラリネット協奏曲第1楽章」。アルビノーニでオルガンを弾いた二橋潤一という人の鋭敏さ、全体をリードしたチェロの鈴木友美という人のセンスのよさが光っていた。 吹奏楽、弦楽合奏、合唱、協奏曲、そして交響曲と変化に富む内容はこうした演奏会でならではで、2時間を優に超える長いコンサートながら一瞬も退屈しなかった。14日、札幌コンサートホール(キタラ)。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
December 17, 2011 03:43:32 PM
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