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投資の余白に。。。

投資の余白に。。。

July 21, 2014
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カテゴリ:映画
岩波ホールを連日満員にしたという映画をやっと観ることができた。

ドイツ系ユダヤ人の政治哲学者であるハンナ・アーレントを知ったのは偶然だ。

1980年代後半、泊原発稼働反対運動の中心団体に「ほっけの会」というグループがあった。そのメンバーだった北大生の古賀徹がその後九大教授になり、アーレントについての論考を書いていたことから興味を持った。

監督は「ローザ・ルクセンブルク」のマルガレーテ・フォン・トロッタ、アーレント役は「ローザ・ルクセンブルク」のローザと同じバルバラ・スコヴァだということを、映画を見終わったあとで知った。「ローザ~」から20年、バルバラ・スコヴァの容貌はすっかり変わっていて、気づかなかった。

トロッタ監督が脚本に関わった「カタリーナ・ブルームの失われた名誉」は、これまでに観た数千本の映画のうち、ベスト10をあげろと言われたらそのうちの1本に入れる。ジャーナリズムそのものが本質的にはらむ「イエロー・ジャーナリズム性」を告発した空前絶後の映画であり、新聞記者をたんたんと射殺した「カタリーナ」(アンゲラ・ヴィンクラー)は、その容姿容貌も含めて、わたしにとって理想の女性像となった。

トロッタ監督の作品すべてを観たわけではないが、常に「女性」を描いている。ローザ・ルクセンブルクはいわずもがな、ポーランド出身のドイツの女性革命家だ。「ローゼン・シュトラッセ」ではナチスとたたかうユダヤ人女性たちを、「もうひとりの女」では女性の2面性を描いた。

そしてついに(長年、構想を温めていたと思われる)「ハンナ・アーレント」というわけだ。

このところ、「考える」とはどういうことか、それこそ考えていた。「バカの壁」でしきりに強調されていたのは「知っている」ということの危うさである。実は、知っていると思っていることのほとんどのことは実は知らないのに、知っていると思いこんでいる。それが「バカの壁」だということだ。

では考えるとはどういうことか。たとえば殺人事件が起きたとき、殺人犯は悪いヤツだ、つかまえて厳罰にしろ、という人は何も考えていない。何かを考えていれば、そんなあたりまえのことしかいえないはずがない。

事件や事故が起きたとき、犯人・原因探しをする。そのことと「考える」ことの間には何も関係がない。推理や推測は思考ではないからだ。法的にどうかを参照するのも思考とは関係がない。参照は思考ではないからだ。多数派がどう判断するかも関係がない。多数派の判断は思考の結果ではないからだ。

端的にいえば、考える=思考するとは、哲学することである。何かの価値基準に照らして判断することではない。価値基準、つまり善悪そのものを問題にし主題にして「考える」ことである。

このあまりに単純なケースでいえば、殺人事件の被害者になるのは悪いことなのだ。家族は絶望のどん底に突き落とされるし、生きていればできたかもしれない人類社会への寄与も永遠に閉ざされる。

こうした出発点の獲得なしに「思考」はない。この出発点を獲得できるからこそ、犯人の厳罰とか防犯カメラの増設といったパブロフの犬的条件反射ではなく、こうした犯罪を生む社会、制度、文化の批判へと視野が広がり、永山則夫の「無知の涙」に明らかなように、社会福祉や相互扶助を基礎とせず、機会の不平等を温存した上での競争原理を基軸とした社会こそが犯罪の根本原因であり、その社会の構成員すべてに責任があるという視点が獲得できる。

もっと言えば、ドゥルーズ=ガタリの言うように、ああいった犯罪の原因は分裂病にあり、分裂病は資本主義から生まれたものだ。資本主義の解体と止揚がない限り、「理由なき殺人」や「理由なき自殺」は続いていく。

たとえば、佐世保で「親友」を殺して解剖した徳勝もなみの行動を、マスコミは母の死や父の再婚などといった家庭環境の変化に原因と動機を見いだそうとしているが、これこそパブロフの犬的条件反射、ふつうの日本語でいえば「下衆の勘ぐり」でしかない。  

そう「考えて」いくと、思考することのできる人間というのはほとんどいない。外部から植え付けられた価値観にパブロフの犬化している人間が過半を占める。民主主義、とりわけ多数決民主主義が最悪の政治体制のひとつである根拠がここにある。

思考停止の民主主義こそが全体主義の母であると喝破したのがアーレントだが、この映画では、やはりというべきか、むしろアイヒマン裁判の傍聴記に対するユダヤ人たちの「思考停止」の「感情的な」反応に対する彼女の苦悩というか闘いを中心に描いている。長年の友情が失われてもそのことは彼女の思考には微塵の影響も与えない。

思考とはこうでなければならない。

映画は全体として地味で退屈だが、見落としてはいけない細部があるような独特の緊張感のうちにすすんでいく。

ラスト近くに8分ほど、アーレントがこの問題に対する「回答・返答」として大学で講義をする場面がある。トロッタ監督はこの8分のために全体を用意したというか、この8分こそトロッタ監督が最も観客に訴えたかったというか、「思考」の最も優れた一例を提示したかったのではないかと思う。

アーレントには一見、明快で勇ましい結論、政治的な思想はない。しかし、傍観者的な「評論」ではない「思考」の、人類が到達しうる「見本」がここに提示されている。

この作品はDVDで所有し、8分間のシーンは朝の祈りのように毎日見たいと思った。





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最終更新日  August 13, 2014 01:09:23 PM
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