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カテゴリ:映画
結論から書くと、この映画は稀有な傑作だ。
ただし、一度見ただけでこの映画のすごさのわかる人は限りなくゼロに近いのではないだろうか。わたしも、二度見てやっと腑に落ちた。二度見たからといってすべてを理解できたわけではないかもしれないが、一度目には5%だった理解が95%にはなったと思う。 2011年カンヌグランプリのこの作品は、今年日本で公開された映画ではベスト1ではないだろうか。 トルコのジェイラン監督は世界的に高い評価を得ているカンヌ映画祭の常連らしく2014年にはパルムドールを受賞している。にもかかわらずこの監督の作品が日本で上映されるのは初めて。 感銘を受けると同時に、日本ではいい映画は映画館にかからなくなっている現実に暗澹とした気持ちになった。 冒頭部分では3人の男が酒を飲みながら談笑している。二度見てわかったのだが、うち二人は殺人事件の容疑者とされる兄弟で、もうひとり、犬の餌やりに外へ出る男が被害者だ。 夕暮れの草原を3台の車が走ってくる。車から連れ出された容疑者は、死体を遺棄した場所を警部に尋ねられるのだが要領を得ない。意図的かどうかはわからないが、捜索は難航する。警部、調書作成のための検察官、検視のための医者、記録係、軍警察や発掘人といった人々が容疑者のあいまいな記憶によってアンカラ郊外の広大で荒涼とした草原(アナトリア地方)を引き回されていく。 ネタバレを承知で書くと、どうも殺人を犯したのは兄弟のうちの発達・知的障害のある弟の方で、兄は庇っているようだ。殺された男の子どもは実は自分の子だと兄は供述し、正義感は強いが単純すぎるところのある警部は困惑し態度を変えていく。 夕暮れに始まった捜索は夜になり、近くの村で食事をする。このシーンは印象的かつ幻想的で、停電の中、お茶の給仕に現れた村長の娘は天使のように美しく、容疑者の兄は自分が殺した(とされる)相手が生きている幻想を見る。 翌朝、死体を発見し、街に戻ってからは医者と検事を中心にしてストーリーは進む。この集団の中のダントツのエリートと言っていいこの二人には、それぞれ離婚と妻の自殺という過去があり、検視の準備が整うまでの二人の対話というか会話は意味の含有率が高い。一度目に見たときもこの部分は理解できた。 検視でこの医者は謎めいた行動をとる。それは弟の罪をかぶろうとしているかもしれない兄の罪を軽くするための行動に思えるが、映画ではそういう暗示すらない。 ラストシーンも印象的で、哀切、などという言葉が軽薄かつ陳腐に思える。被害者の妻と子が遺品を持って帰っていく姿をこの医者が室内から眺める。このシーンはかつて映画で表現されたことのない何かを表している。 その意味ではこの映画は映画史を画する作品といえるかもしれない。 この監督は人も人生も様々であり、正義もまた一様ではない。人生とは謎であり、その謎を解くことはもしかすると誰にもできない、といったような世界観の提出を試みているように思えた。そしてその理解はさほど間違ってはいないはずだ。 若いカップルのデートにこれほど向かない映画も珍しい。 しかし、この映画を見て、長所の一つも発見できないような相手であれば付き合う価値はない。 その長所とは、トルコの田舎の風景とその暮らしの一端やアジアのそれとさほど変わらない都市の街並を見られること、芸術的な構図ばかりで安易なカットが一つもないこと、157分の長尺ながら密度が高いこと、キャスティングが異常といえるほど見事なこと、俳優の演技が自然でまるで俳優に見えないこと、音楽がないことなどだ。 これらのうち一つも気づかなければ、その人間は美と真実と思索に無縁だということだ。 あぶないところだった。一度目はうっかりウトウトしたのでその欠落を知りたくて二度見たが、二度見なければこの監督についてとんでもない誤解をしたままで終わるところだった。 もう一度見るかどうかは最終日までに決めることにする。 こういう映画はヨーロッパはともかく、日本やアメリカからは絶対に生まれてこない気がする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
December 6, 2014 01:33:19 AM
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