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カテゴリ:クラシック音楽
オーケストラは「指揮者の楽器」であると共に「民族楽器」でもある。たしか小澤征爾だったと思うが、空港の雰囲気とその国のオーケストラには違いがない、というようなことを書いていたはずだ。
だから、「北方領土」返還運動をはじめとして反ソ連の極右活動が盛んだった時期にも旧ソ連のオーケストラの音をきいてかの国の国民に流れる温かい人間的感情の存在を確信できたし、アメリカのオーケストラの音をきいてかの国が侵略戦争万歳の軍国主義者とアメリカンドリームに端的な拝金主義者の巣窟ではないと確信することができた。 そういった経験の中でも、フィンランドのオーケストラからはいつも人間にとって最も大切なのが何であるかを教えられる。 1982年のヘルシンキ・フィルの初来日公演、何年か前のラハティ交響楽団の来日公演はいずれもそういうものであった。アルト・ノラスやエルッキ・ラウティオのようなフィンランドのチェリストの演奏からも同じ何かがきこえてくる。 シベリウス生誕150年と銘打った今回のコンサートも注目点はそこだ。純粋だが排他的ではなく、真摯だが抑圧的ではない響きをきくことができるかどうか、不安と期待は半ばする。 「フィンランディア」と「バイオリン協奏曲」はLA席(指揮者から見て左手)だったので明確ではなかったが、素朴な響きは変わらない。低弦や木管楽器の響きは木質だし、金管やバイオリンも華美にならず落ち着いた響き。素朴で自然な響きから連想するのは有機農法野菜や果物が持つ作物本来の味のようなもの。 神尾真由子のソロはもちろん達者。最近この曲はオーケストラに寄りそうような独奏のものが多い。この日もそうした最近はやりのスタイル。デビューしたてのころよりも力がぬけて自然体なのはいいし、これが時代の美意識なのだろうが、クレーメルのような演奏でこの曲の真価を知った人間には微温的にきこえる。 全席完売のはずが百席近く空席があり、後半はCB席へ。やはりオーケストラ全体の響きをきくには指揮者のうしろ15メートルくらいのところがよい。 カムは椅子に座って指揮。青年指揮者時代の彼(1982年にヘルシンキ・フィルと来たときはまだその面影があった)を知る者としては隔世の感があるが、音楽的には衰えていない。晩年のマゼールのような悪い意味での老練化もしていない。 ベートーヴェンやブラームスをやるときはまたちがうのだろうが、指揮者とオーケストラがお互いの信頼の下に共同作業として作り上げている音楽という感じで、細かいバランスにとらわれたりしない大らかさがいい方向に出ている。クライマックスの高揚も作為的なところがまったくなく、やや呆気なく感じられるほどだが、一時の興奮で「圧倒的な体験を消費する」といった世界とは逆。総勢60人と小ぶりなオーケストラだが、特に低弦が深い響きを出しているせいか、全体として緻密で強靱な音がする。 心が洗われ、素直に感動できる40分だった。 アンコールは3曲、「悲しきワルツ」「ミュゼット」「鶴のいる風景」。神尾真由子のアンコールはエルンストの「魔王」。 このオーケストラの持ち味は3番以降の作品の方が生きると思うので、「放射線管理」区域だからといって東京で行われたツィクルスに行かなかったのは取り返しのつかない「惨事」だったかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
December 24, 2015 01:43:43 PM
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