投資の余白に。。。

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音楽のある部屋~三ツ星クラシック

March 8, 2010
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19世紀ロシアの作曲家チャイコフスキーの最後の作品、「悲愴」の名で知られる交響曲第6番は、クラシック音楽だけが表現できるものを表しているという点でクラシック音楽の極北ともいえる曲である。ザ・クラシック。この曲以外のクラシック音楽が地球から消滅しても人類の文化はさほど影響を受けないが、もしこの曲が消滅したら、それは人類の文化そのものが消滅したに等しいと思う。

あらゆる文学、映画、美術、舞踊、そうしたものすべてを束にしても、チャイコフスキーのこの1曲ほど重要ではない。

この曲を初めて聴いたのは叔父からもらったレコードで、中学生くらいだったと思う。それから30年以上、この曲は苦手だった。

何せ暗い。暗いだけでなく、展開が唐突すぎる。特に第一楽章はひどい。最弱音のゆっくりした音楽から最強音のアグレッシブな音楽が始まる部分(第161小節)の唐突さといったらどうだ。甘美な音楽から絶望への飛躍は作為的すぎるように感じた。表現もあまりに大げさで、なぜ音楽でこんなに感情を振り乱さなければならないのだろうと思い、聴くたびうんざりさせられたものだった。第3楽章のマーチだけは例外で、勇壮な音楽にはスカッとしたが、続くフィナーレがなぜまた暗く悲痛なのかも理解できなかった。

各楽章が、マーラーの交響曲以上にバラバラなのだ。悲痛で絶望的な両端楽章の間に楽しげなワルツと勇壮なマーチが挟まった構成。何のこっちゃ。わけわからん。4つの楽章の有機的なつながりが見いだせない。

しかしこの曲を知って40年になろうかというある日、FMから流れてきた大野和士指揮ザグレブ・フィルハーモニーによるこの曲の演奏を聴いた瞬間、この曲のテーマがわかった。ぼんやりと無心に聴いていたのがよかったのかもしれない。チャイコフスキーがこの曲で言いたかったことがわかったのである。チャイコフスキーは日本語でこう言った。この曲は人生そのものを描いた。人生は死で終わる。死への長いようで短い道のり。それが人生なのだ。

人生には幸福な、甘美な時間もあれば悲痛な時間もある。そして不幸はいつも唐突だ。第一楽章161小節の唐突な爆発はこのことを表している。第一楽章だけでももうチャイコフスキーは言うべきことをすべて言っている。第277小節からの金管楽器とそれ以外のかけ合いを聴いてみよう。これは子を亡くした母、親を亡くした子、世界の中心で最愛の人を喪った人間の悲痛な叫びだ。林光「原爆小景」のカタストロフよりおそろしい。

しかし自分が死んだわけではないからこの楽章はほのかに明るい音楽で終わる。悲嘆には暮れるが、それでも明日はある。親が死んでも食休み。最後の15小節はそういう意味だ。

それではなぜ第2楽章は「ワルツ」なのか。それも3拍子ではなく5拍子のワルツ。「くるみ割り人形」の中の「花のワルツ」であんなに優雅でゴージャスな音楽を書いたチャイコフスキーが、ここではどこか不安定な「5拍子のワルツ」を書いた意味は何か。

これは、言ってみれば「浦島太郎のワルツ」なのだ。楽しい時間はあっという間に過ぎる。気がついたときは老人になっている。玉手箱をあけると若者は老人になる。

どんな楽しい時間も「死」と「老い」を止めることはできない。死はひたひたとしのびよってくる。

音程が上に上がっていく音楽は、基本的に楽しさや希望を、下がっていく音型は悲しさや絶望を表す。この楽章は典型で、ワルツの基本的なメロディは上行音型で作られている。

しかし、終結部の152小節以降は、弦楽器の上行音型のメロディに対して管楽器が下降音型を奏でる。これは、第一楽章の第277小節からの下降音型と同じであり、チャイコフスキーは意識的にここにこの音型を持ってきている。これを音楽学者は「嘆息の動機」と呼んだりしているが、わたしに言わせればこれは「死神の動機」だ。どんな楽しい舞踏会も、人生の浪費でしかない。死神はいつもそこにいて人間をつかまえようとしている。

それでは勇壮な第3楽章のマーチが意味するものは何か。この楽章を、長い人生の中にある「勝利と歓喜の瞬間」と解釈する人は多い。というか、ほとんどすべての指揮者はこの楽章を快適なテンポで演奏する。

わたしはこの解釈には反対だ。この楽章は人生の輝かしい勝利の瞬間など描いていない。

この「マーチ」は死神の行進なのだ。どんな強力な軍隊も死神にはかなわない。向かうところ敵なしだ。すべての生けるものを滅ぼす最高神、それが死神であり、それはこのように最初は諧謔的なスケルツォで姿をあらわすが、その邪悪でどうしようもなく強大で巨大な力ですべてを圧倒する。それが第3楽章の意味である。

あるいは、人生にときおり訪れる成功と歓喜を描いたとしよう。しかしそうだとすると、この楽章はそうした成功と歓喜さえあざけるように笑う、死神の哄笑にほかならない。どんな成功も歓喜も死神の前では無力でしかない。言いかえれば、人生とはエピソードでしかないのだ。

第283小節からのクライマックスをたいていの指揮者はテンポを上げて煽る。しかしスコアには何も書いていない。音楽の生理としては、たしかにここでテンポを上げた方がいいと感じる。にも関わらずチャイコフスキーはそういう指示をしていない。そうすると、むしろテンポが遅くなったように感じるのである。

つまりテンポを変えずに演奏すると、テンポが遅くなったように、つまり音楽が重たくなったように感じるのがこの部分である。

そして、そういうふうに演奏している指揮者はほとんどいない。そのほとんど唯一の例外的な演奏がレナード・バーンスタインの晩年の録音である(写真)。

運命の下降動機で始まる第4楽章フィナーレは涙の音楽である。言いかえれば死そのものだ。親しい人が死んだとき、人間の心は軋むような音を立てる。悲しみなどという軽い言葉では言い表せない深い感情にとらわれる。それをそのまま音楽に写すと、このフィナーレになるだろう。

死は悲しみである以前に、恐怖であり呪いであり絶望である。そのすべてがこの楽章では描かれる。救いはなく、死の前になすすべはない。第137小節で鳴らされる鐘の音は、まさにこの冷厳な事実を象徴する。すべての人に対する死の宣告がこの小さな音の意味なのだ。

そして音楽は深い闇の底に沈んでいく。最後の音が静かに消えるとき、この曲を聴いた人は、ほとんど死を経験したとさえいえる。

セックスのエクスタシーは小さな自己死といえるものだが、この曲のカタストロフとエクスタシーは死そのものであり慰めはなく安らぎもない。残るのはただの無である。

こういう解釈はわたし個人のものにすぎない。たいていの指揮者はわたしの解釈に同意しないだろう。同意しないから、わたしが理想とするテンポよりかなり速いテンポで演奏し、第3楽章などは猛烈にアクセルを踏む。

しかし、こうしたわたしの解釈、つまりこの曲を貫くのが死そのものであるという解釈によって演奏されている唯一の演奏が、1986年、晩年のバーンスタインがニューヨーク・フィルを指揮したライブ録音である。

通常の指揮者なら45分、速い指揮者だと40分ほどで演奏するこの曲を、バーンスタインは58分をかけている。常識からは考えられない遅いテンポであり、表現はおそろしく濃密で入念だ。特にフィナーレの、ひとつひとつの音の意味を確認し刻印していくような演奏は異様であり圧巻だ。極限のメロドラマとでもいうべき哀切な演奏が続いていく。

許光俊は「世界最高のクラシック」で、この演奏についてこう書いている。「・・・この最初の数分間を聴いただけで、人間はとんでもない音楽を考えつき、実際にとんでもない音としてこの世に鳴らしてしまったのだなという感慨を抱かずにはおれない」

動物は人間とちがって死を知らない。バーンスタイン=ニューヨーク・フィルによる1986年のチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を知らない人間は、死のほんとうの意味を知らない人間である。動物ではないが、人間未満ということだ。

この曲のこの演奏を知らないクラシック・ファンは、クラシック音楽についてほとんど何も知らないに等しいということでもあるが、わたしもつい数年前まではそうだった。

バーンスタイン以外の演奏では、リッカルド・ムーティとフィラデルフィア管弦楽団によるものが比較的チャイコフスキーの真意を伝えている。ただし第3楽章終結部では少しテンポが速くなってしまっている。






最終更新日  March 9, 2010 04:07:56 PM
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March 4, 2010
昔書いた文章をリライトするのは飽きた。飽きたのでどうしようかと思っていたところで許光俊「世界最高のクラシック」を読んだ。

26人の大指揮者の経歴や特徴を簡単に紹介し、その代表的な録音について述べているこの本がユニークなのは、書名にある通り「最高」ということにこだわっている点にある。

許光俊に限らず、ひとりの人間を深く揺り動かし、大げさに言えば命がけで「最高」と言わしめるもの。最高と叫びたくなるもの。もっと言えば、クラシック音楽という括りの中で「最高」というだけでなく、人類が作り上げたあらゆるものの中で最高のもの、そう言い切れるものこそ価値がある。大衆的な人気は関係がない。たったひとりでいい。ひとりでもいいから、ある人間を根本から深く揺り動かすものこそが普遍的な、永遠の価値を持つものなのだ。

そういうものについて語るに足る年齢になっただろうかという疑いは残る。かつて素晴らしいと思ったものが実は大したことはなかったという例がないわけではないからだ。

しかし、人生で体験するであろうほとんどのことは体験した。はじめてヨーロッパで音楽を聴き歩いたときは、それまでの20年以上、主に録音とFM放送で作られた自分なりの音楽に対する価値尺度が根本から崩れたのを感じた。それを立て直すのに10年はかかったと思う。

元恋人との永訣、両親の死も経験した。そうすると、それ以前には聞こえなかったものが聞こえてきた。虚飾にすぎないものがわかるようになった。ひとりの人生の重みに耐えることのできない、「軽い」音楽には心を動かされなくなった。

許光俊の本は演奏家をトピックにして書かれている。だからここでは曲をトピックにして書くことにしよう。

前書き終わり

クラシック音楽は嫌いだし聴かないが、この曲のこの演奏だけは聴く。そう言ってからんできた男が二人いた。

ちなみにクラシック音楽はNHKがよく取り上げることもあって、また学校の授業で教えられるので反感を持っている人は多い。しかしそれはNHKや文部科学省の方針であってクラシック音楽に罪はないし関係がないのだが、坊主憎ければ袈裟まで憎いらしい。

男二人のうち、一人は古本屋の店主で、店ではこのCDしか流さない。一年中、これをかけている。一日に10回として年に3000回、開店20年になるから60000回は再生されているはずだ。

ひとりの人間をこれほどまでに虜にする。そんな例はほかに知らない。

もうひとりの男はイラストレーターだった。わたしの文章にイラストを描くことになり、打ち合わせのために会ったのだが、わたしをNHKや文部科学省の手先とみなしてからんできたのだった。売られたケンカは買うことにしているので、場所を居酒屋に移してバトルを続けることにした。

居酒屋代を自腹で払ってケンカを売る、こういう豪気な男は少なくなった(笑)が、バトルはあっけなく終わった。クラシック音楽愛好家と評論家がいかに下らない存在か、その証明にあげようとしたこのCDについて、その音楽と演奏の素晴らしさを「自明のこと」として語ったところ、この男はあっさりわたしの軍門に下ったのだった。

女にはわからないだろうと思う。自分に本気でケンカを売ってくる、そういう熱と豪気のある人間こそ友人に値するのだ。しかしそれにしても、あのときはもっと高いものを注文するんだった(笑)

この二人の男のような男は、世界中にたくさんいるにちがいない。それほど、この曲のこの演奏は新鮮で、時間がたつにつれますます鮮度を増すような気さえしてくる。

バッハが1740年ごろに作曲した「ゴルトベルク変奏曲」は、鍵盤楽器のために書かれた最高の音楽である。たった8つの音からなる低音のカノンの上を優しくシンプルなメロディが舞い、全体はこのアリアに基づく30の変奏かならなる。最後に最初のアリアが繰り返されて終わる。

長大な曲だが30の変奏は1~15変奏と16~30変奏に分けられる。後半にいくほど雄大さと華麗さを増し、しかもそれと同時に音楽が真実味を増していく。ふつうはこれは相反しがちなのだが、この曲では鍵盤の上を指がとびはねるほどに、音それ自身が、まるで子猫の踊りのように悦ばしく乱舞していく。

バッハの曲は後半にいくほどふくらむ、そういう印象のことが多い。この曲ではその秘密の一端をかいま見ることができる。というのは、第3変奏から第27変奏まで、3曲おきに「カノン」が置かれているのだが、第3変奏では同音のカノン、第6変奏では2度のカノン、第9変奏では3度のカノンというふうに、あとでおいかけるカノンの音程が広がっていくのだ。この音程の広がりが、音楽がふくらんでいくような印象になるのであり、知的に計算しつくされた音楽なのである。

カナダのピアニスト、グレン・グールドが遺した二種のこの曲の録音、1955年と1981年に行われたそれは、生演奏では絶対に不可能な集中を実現している。実はグールドにはこの曲のライブ録音もあるが、50分にも及ぶ長大な曲では集中を維持できず、何カ所もの破たんがある。

その意味でこの二種のスタジオ録音は、単にグールドの演奏の記録ではなく、新しい芸術の誕生を告げるものだ。人間が電子技術との共同作業によって作り上げた最良の「芸術」がここにある。

この演奏を聴いていると、楽譜が存在していないような気がしてくる。グールドが即興でピアノを弾いたらそれがバッハのゴルトベルク変奏曲になった、そんな気がするのである。すごい説得力だということだが、この2種の録音がジャズ愛好家に好まれているのも、そんな即興性が感じられるからだろう。

この曲には、しかしグールドと比肩すべき名演奏がある。高橋悠治の1976年と2006年の2種の録音である。楽譜を見ながら聞くとわかるのだが、グールドが見落としている細部を、作曲家でもあるこのピアニストは正確に演奏している。この演奏を聴くと、グールドの特に81年の演奏はやや情緒過多で、旋律の表出にかたよっているように思えるかもしれない。

グールドや高橋悠治の録音があるのにこの曲を録音しようという無謀なピアニストはあとをたたない。が、それらはすべて無視してよい。ピアニスティックな名人芸を感じさせずにこの曲を演奏するのは、グールドや高橋悠治のように作曲もよくする演奏家でなければ無理な部分があるからだ。名人芸とは無縁と思える、キース・ジャレットやピーター・ゼルキンのような演奏家の録音も、リラックスしすぎていて聴くにたえないものになっている(写真はグールドと高橋悠治の最初の録音)。001.JPG002.JPG






最終更新日  March 5, 2010 02:05:01 PM
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December 24, 2009
平和のために音楽を役立てようとする人はたくさんいたし、今もいる。しかし、音楽をやめることで平和に貢献したのはパウ・カザルスただひとりだ。

世界的な指揮者・チェリストとして活躍していたカタロニア出身のカザルスは、ナチスの支援でスペインに生まれた独裁政権に抗議し、その政府を容認する国々での演奏を「良心がゆるさない」と言って拒否してしまう。

この「引退」によって独裁政権の正体は暴露され、アナーキスト勢力が強大だったため無惨なまでに圧殺されたカタロニアの自由は国際的な関心を呼んだ。そして、音楽祭や国連、ホワイトハウスなど限られた機会と場所でだけ行われるようになったカザルスの演奏は、「絶対平和主義」の信念と不可分のものとして音楽を超えた感銘を人々に与え、良心を呼び覚ましていったのである。

中でも国連総会でのカタロニア民謡「鳥の歌」の演奏、「わたしの故郷カタロニアでは、鳥はピース、ピースと鳴く」というスピーチと共に行われたそれは、全世界を衝撃させる大きな事件となったし、これ以来、この曲をあらゆるチェリストが取り上げるようになった。

もっぱらチェリストとして知られるカザルスだが、指揮者や作曲家としても偉大な足跡をしるしている。なかでも指揮活動は自作オラトリオ「かいば桶」の上演と共に、情熱を注ぎ続けた。

指揮者カザルスの作る音楽は、素朴そのものだ。念を押すようなごつごつしたアクセントは妥協という言葉を知らない彼の信念が刻まれているように聞こえるし、飾りなく歌われる歌には、彼の熱いヒューマニズムが脈打っている。

印象的なのはオーケストラの集中で、何かに取り憑かれたかのようなその演奏にはただならぬ気配さえ漂う。カザルスがなぜ「音楽の神さま」と呼ばれるのか、わかる気がする。

1960年からカザルスが講師をつとめたマールボロ音楽祭オーケストラを指揮した録音は最近になってかなり復刻されている。前述したような指揮者カザルスの特長が最もよく出ているのはベートーヴェンの交響曲第7番、第8番などで、背筋を正さずには聴けない鋼鉄のような精神の強さに打たれる。

※マールボロ音楽ライブはソニークラシカルから散発的に発売されている。リハーサルもおもしろいので、どうせならリハーサル場面のボーナスCDがついたものを入手するといい。ただの「音の連なり」が「音楽」に生まれ変わる瞬間が、たとえばバッハの管弦楽組曲第一番のリハーサルに見つけることができる。






最終更新日  December 24, 2009 03:02:53 PM
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December 23, 2009
地球は豊かな資源に恵まれている。ある試算によれば、1960年代後半の日本の生活水準で、全人類が安楽に暮らせるはずという。

それなのに、いまこの瞬間にも、飢えや貧困に起因する病気によって、たくさんの人々、特に子どもたちが死んでいく。

幼い兄妹が知恵と勇気で魔女に打ち勝つグリム童話「ヘンゼルとグレーテル」。この物語の背景となっているのも飢餓だ。

口減らしのため森へ捨てられる兄妹。道しるべにパンくずを落としていったのに、鳥に食べられてしまい、道を失う。

ドイツの作曲家フンパーディンクのオペラ「ヘンゼルとグレーテル」では、兄妹は森へ捨てられるのではなく、ただ迷い込んだことになっているが、第一幕ではそうした背景がさりげなく描かれる。

狭くてみすぼらしい家、足りない食べ物、穴のあいた靴下。

しかし子どもたちは貧しさに負けない。空腹を紛らわすために踊ったり、明るく元気だ。

このシーンを見ると、いつも被災地などでの子どもたちの笑顔を思い出す。

無心に眠るこどもほど愛らしいものはない。第二幕「森の中」で、くたびれた兄妹は眠りに落ちる。14人の天使が現れ、木の根を枕に眠る幼い二人を守る。清らかな音楽が寄り添うように流れていくこの部分は、音楽といい舞台といい、このオペラで最も美しく幻想的なシーンで、単独のオーケストラ曲として演奏されることも多い。

第三幕「お菓子の家」は「ホークス、ポークス」と呪文をとなえる魔女との痛快なドタバタ劇。原作とはちがい、焼き殺された魔女がクッキーになってしまうのがユーモラス。

ドイツではクリスマスの時期に上演される習慣のあるオペラで、民謡のような素朴さに満ちた音楽が魅力的な、メルヘン・オペラの傑作として親しまれている作品。

※映画として作られているショルティ盤が映像つきでも、映像なしでも楽しめる。アンナ・モッフォ、ヘレン・ドナート、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、シャルロッテ・ベルトルド、クリスタ・ルートヴィヒ、ルチア・ポップといった「夢のような」キャスティングのアイヒホルン盤(1971年)は2枚組1000円という「夢のような」値段。






最終更新日  December 24, 2009 02:35:09 PM
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December 22, 2009
CDに限らないが、デジタル音楽プレーヤーにはLPなどアナログにはなかったいろいろな利点がある。

一つは収録時間の長さ。よほど長大な曲でない限りディスクなどを入れ替える煩わしさがない。ハードディスクならなおさらだ。

もう一つはプレーヤーのさまざまな機能を活用して個性的な音楽の楽しみ方のできる点。曲順を変えたり、好きな曲だけを並べたり。さびの部分だけ繰り返す、なんてこともできる。

19世紀オーストリアの作曲家、アントン・ブルックナーは10曲ある。どの曲もスケールの大きい、重厚長大を地でいったような音楽だ。優に1時間を超える間、人間の生活など小さく思える音楽が鳴り響く。

しかしそれだけ長い時間、音楽に意識を集中させるのは難しい。だからアメリカではブルックナーの人気がないのだろう。

推敲をかさね、劇のように論理的な筋を追って音楽が展開するベートーヴェンなどとはちがい、ひらめいた楽想をひたすら書き連ねたという趣のブルックナーの音楽は、逆にどんな細部にも閃きが宿っているので、ツマミ食いしても差し支えのない、デジタル音楽プレーヤーを活用しがいのある音楽かもしれない。

「ロマンティック」のタイトルを持つ「交響曲第4番」はブルックナーの「田園交響曲」ともいえる作品。生命のめざめる春の雰囲気に満ちた第一楽章、やや陰りを帯びた第二楽章、明るく快活な第三楽章に、ラスト3分の高揚が素晴らしいフィナーレが続く。

40歳近くなってから本格的に作曲を始め、田舎なまりをウィーン人に笑われ、「なかば神、なかばとんま」などとさげすまされて一生を送ったブルックナーは、小心でお人よしな一方、名誉欲や金銭欲旺盛な「素朴そのものの俗物」だったようだ。統合失調症を思わせる言動も多い。60代だか70代だかで17歳の少女にプロポーズしたというロリコンぶりについては、世間の批判は多いが、わたしはあえて共感を表明しておく。

ロリコンの俗物なブ男から、しかしかくもこれほどまでに崇高な音楽が生まれるのだから面白い。

ブルックナーの音楽にはどんな細部にも「神」が宿っている。

※「ロマンティック」には名演も多い。クルト・マズアがライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団を指揮したデノン盤が虚飾を排した作為のない名演。ラストの崇高な高揚ではこれを超える演奏に出会ったことはない。ギュンター・ヴァント、オイゲン・ヨッフムなど旧世代の指揮者の最晩年の録音もいい。逆に、カラヤンのブルックナーはカラヤンの俗物性、ニセモノ性がよくわかって面白いので絶対に「買い」。カラヤンの逆をやればすばらしいブルックナーになるので、若い指揮者はカラヤンのブルックナーを真剣に研究するべきだ。






最終更新日  December 24, 2009 01:58:02 PM
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December 21, 2009
「すきとおったほんとうのたべもの」

宮澤賢治の童話集「注文の多い料理店」序文にあるこの言葉は、優れた芸術の本質を最も適切に言い当てたものの一つとして知られている。あるCDを聴いて、この言葉を思い出す演奏に遭遇することがまれにある。最近では、長谷川陽子が演奏するドヴォルザークのチェロ協奏曲を聴いて、この言葉を思い出した。

ジャケットの表紙にはチェロをさりげなく抱えた彼女の写真がつかわれている。どこにでもいそうな、いかにも平凡な感じの女の子だ。服装も地味なくらいだ。

しかし大きめの帽子、チェロと同じ色合いのシックな服装は彼女によく似合っていて彼女らしさがよく出ているように思う。演出や流行とは無縁の人のようだ。

そうした「自然体」は、彼女の奏でる音楽にも共通している。厚化粧や装飾品で飾り立てたうつろな美しさではなく、内面の美しさがにじみ出た結果として生まれる力強い美しさ。健康な感性から生まれる生き生きとした表情。郷愁の色濃いドヴォルザークの「チェロ協奏曲」が、こんなにみずみずしく、悦ばしく、はつらつと演奏された例をほかに知らない。

ブルッフの名作「コル・ニドライ」では深い祈りの感情の表出が見事で、この集中力はただごとではない。

若いときにはだれもが持っているのに、だれもがいつまでも保てるわけではない大切な何か。それが、20歳(当時)の長谷川陽子の奏でるチェロから聞こえてくる。

※ビクター盤。長谷川陽子はカサドの無伴奏ソナタ、バッハの無伴奏ソナタなどでその後も名演を連発している。






最終更新日  December 24, 2009 03:05:03 PM
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December 20, 2009
このCD(アルファエンタープライズHCD279)の第3トラックからは、音楽らしきものは何も聞こえてこない。再生装置の故障かと錯覚してしまいそうだ。たぶん、ラジカセだとボリュームを最高レベルにしても何も聞こえないだろう。

しかし、良質の再生装置で再生しよく耳を澄ませると、鳥や虫の声、鐘の音、交通音などが聞こえてくる。都会にほど近い郊外で、周囲の音を録音したもののようだ。

これはジョン・ケージの作品「4分33秒」である。

この曲をコンサートで上演する場合、演奏者はまったく音を出さない。4分33秒間、黙って楽譜を読み、時間が来ると退場する。

その間、聴衆が聴くのは「環境の音」である。後年、ケージはこの曲の別バージョンを作ったが、この曲では会場のあちこちにおかれたマイクの拾う音が増幅されてスピーカーから流れるようになっている。つまり、ケージはこれらの作品で、環境の音もまた音楽であるということを主張しようとしたのだった。

街の風景が醜悪なら、どんなに素晴らしい美術館があっても芸術的に豊かな街とは言えないように、環境の音が醜悪なら、どんなに素晴らしい音楽が行われていても、音楽的に貧しい街でしかない。

環境の音もまた音楽であるという主張、東洋人にはなじみ深いケージの考えを具体化したこの作品は、地球規模で音を考え、音の風景を美しく豊かなものにしていこうという野心を隠した壮大なスケールの「音楽」であるといえる。

この曲では居合わせた人のすべてが聴衆であると同時に演奏者になる。

芸術をつくる主体が、才能に恵まれた少数から一般の人々へ移る可能性、作り手と受け手の境界が取り払われる可能性など、未来の芸術とそのあり方を示唆した作品でもある。






最終更新日  December 24, 2009 01:09:24 PM
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December 19, 2009
ニューヨークのダコタ・アパートでジョン・レノンの隣人だったジョン・ケージ。その音楽を一言で要約すれば、25世紀の音楽ということができる。24世紀以前の人間に受け入れられにくいのは当然かもしれない。

代表作の一つ「プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード」は、インドの哲学者ラマクリシュナの思想と美学に基づく。ヒロイズム、エロティシズム、驚き、喜び、悲しみといった人間の9つの感情を表したものだという。

プリペアド・ピアノ(準備されたピアノ)とは、ピアノの弦の間にボルトやゴム、紙などをはさんで音色や音程を変えたものだが、その響きはバリ島のガムラン、インド、中近東、アフリカの民族楽器を思わせるところがある。いわゆるグランド・ピアノの響きとはちがって、自然界の音との親和性の高い音である。

自然界のさまざまな音と溶け合うような神秘的な優しさに満ちた音楽が、植物のように生成していくようなこの曲は、しかし非西洋音楽の単なる模写ではなく、最小限の音で豊かな世界を表現しようとした結果生まれたものと言える。ちょうど武者小路実篤の絵のように、タブローの背景を塗りつぶさない、余白の多い、そして余白の生きた音楽である。

短いモチーフを無作為にちりばめたような音楽、同じパターンを繰り返しつつ微妙な変化を織り込んだ繊細な音の絨毯が、果てしない空間に静かに広がっていく。

中でも魅力的なのは「ソナタ第12番」で、同時に鳴る音は最大でも5つという音の使われ方ながら、何かに専心するような瞑想の音楽にひきこまれる。

通俗的な東洋趣味に陥ることなく東洋の美意識をくみつくすことのできた最初の西洋音楽家がジョン・ケージだったことを物語る作品。

※高橋悠治のデノン盤が現役でしかも廉価。演奏も柔軟でシャープ。スウェーデンで録音された1960年代のモノラル盤は最近復刻されているようだが、これは伝説的な名盤として知られたものだった。






最終更新日  December 26, 2009 09:06:14 AM
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December 18, 2009
音楽の世界に革命をもたらしたザ・ビートルズ。その音楽は現実の革命でも大きな役割をはたした。

「平和をわれらに」は、中心メンバーのひとりだったジョン・レノンの作。1989年秋に始まる東欧民主化運動で、シンボル・ソングとして歌われた。

スターリン主義の独裁~恐怖政治に抑圧されてきた東欧の人々は、底抜けに陽気で力強いこの歌でお互いを鼓舞し立ち上がり政治主体として歴史に登場し、隷従の鎖を断ち切って<共産主義>を崩壊させたのだった。

音楽が単なる消費物であることをやめ、生きるための糧、人と人との絆となって輝いた一瞬だった。

日本のピアニスト、高橋アキは、世界中の作曲家にビートルズ作品によるアレンジをよびかけた。

アメリカの反体制作曲家・ピアニストのフレデリック・ジェフスキーは、高橋アキのよびかけにこたえ、ベルリンの壁崩壊のニュースを聞きながら、「平和をわれらに」のテーマによる小幻想曲を作った。

この歌の「ぼくたちが言いたいのは、平和をわれらに、ただそれだけ」の部分によって作られたピアノ曲で、わずか9つの音からなるメロディーがさまざまな声で歌われ、やがて優しい声で語りかけるような静かなラストへと導かれていく。

この「ハイパー・ビートルズ・シリーズ」に登場する多彩な作曲家群を見ていると、ビートルズの音楽を愛好する、あるいは彼らの音楽にインスパイアされている現代作曲家の多さに驚く。

ザ・ビートルズの音楽の持つ「永遠の新しさ」「精神の若々しさ」が、これら前衛と呼ばれる現代の作曲家たちを鼓舞し続けているのだろう。

そんな音楽が、そんなロック・バンドが、これまでも、いまも、これからも、あるだろうか?






最終更新日  December 24, 2009 12:34:07 PM
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December 17, 2009
ロック・バンドの主役といえばエレキ・ギターである。

単純なコードを刺激的なサウンドでかき鳴らすことの多いこの暴れ馬のような楽器が、しかしこれほどまでに若者のナイーブな心を表したことがあっただろうか。

ジョージ・ハリソンの名曲「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」である。

ボーカルをコードで支えるだけの、いわば伴奏楽器として扱われることの多いエレキ・ギター。しかしこの曲の間奏部分では、ボーカルよりも雄弁かつデリケートにセンチメンタルな感情を語りかけてくる。

エリック・クラプトンが演奏しているこの部分は、エレキ・ギターが内省的な表現も可能な、いわば芸術楽器になりうることを示した、音楽史上初めての瞬間ではなかっただろうか。

ジャケットの色から「ホワイト・アルバム」の通称で親しまれている2枚組は、ビートルズの4人が、グループから自立し始めていた時期に、それぞれの作品を無造作に並べたような内容。バラバラに4人の個展をやっているような印象で、博覧会のような多彩さがある。

旧ソ連を皮肉った「バック・イン・ザ・USSR」で陽気に始まったアルバムは、ハリウッド映画のハッピー・エンディングのような優しいオーケストラ・サウンドの「グッド・ナイト」で閉じられる。

洗いたてのシャツのような清潔さに満ちた音楽の数々が、風にたなびくように続いていくこのアルバムは、やはり「ホワイト・アルバム」の通称がふさわしい。







最終更新日  December 24, 2009 12:16:26 PM
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