投資の余白に。。。

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身辺雑記

January 10, 2017
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カテゴリ:身辺雑記
coming soon






最終更新日  February 28, 2017 11:49:27 PM
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December 25, 2016
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弟が死んだ。午前4時5分。57年10ヶ月と24日の生涯だった。

大腸がんが見つかったのが2015年4月。手術したが同じ場所に再発したのが2015年12月。残された時間はおよそ一年だろうと覚悟したが、ほぼその通りになった。

夏からは入退院の繰り返しだった。弟のがんは珍しいタイプで、転移はしないが抗がん剤が全く効かないというもの。抗がん剤は有害なだけだった。

人間が死というものを意識するのは何歳くらいだろうか。自分を振り返ってみると、5歳くらいだったような気がする。父と母、そして弟が同時に溺れて、だれかひとりしか助けられないとしたらどうするか。そんなことを考えて泣きそうになったのを覚えている。

病気が進行すると、病人はわがままになる。弟も例外ではなかった。しかし一週間ほど前、「今日は本当にありがとう。ネムっていたら軽く起こしてください」という書き置きがあった。

それを見たとき、死が近いと直観した。

その紙は宝物になった。






最終更新日  December 26, 2016 08:03:05 PM
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July 8, 2016
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廃校になった小学校が「あけぼのアート&コミュニティセンター」になり、いくつかの団体が入居し拠点として利用している。演劇公社ライトマンはここを稽古場にするだけでなく半年に一回の公演もここで行っている。

そのセンターが「あけぼの学校祭」というイベントを開き、その催しの一環として開かれたのがこの公演。17.5回とあるのは、5月に行った第17回公演「鳥を眺めて暮らす」から派生した内容のため。

その第17回公演で主演の山ガールを演じた千葉美香の演技がすばらしかったので、また見られるかと思って行った。だが彼女は今回は出演せず残念。ただ会場案内などをやっていて、ライトマンに加入したということなので、次回公演からが非常に楽しみだ。

世捨て人のように山小屋で暮らす寛文が主人公。短編が3つで、最初は狩猟好きの青年春充が仕留めたクマのレバ刺しを蕎麦屋の主人しんすけが調理する。

二番目は東京から転勤で帯広に来た狩猟好きの青年春充が寛文のところに挨拶に来る。ふたりの会話はかみ合わずちぐはぐに終始する。

最後は蕎麦屋の主人しんすけと同じ俳優が寛文の祖父文二を演じ、帯広に移り住んだ経緯、森の女神との出会いなどを物語る。ただこの祖父は妻の没後、悪い女に騙されたらしく、地元の青年健人らは山狩りで逃げた男女を追う。

基本は会話劇で、その会話のやりとりが虚実の皮膜の上を行ったり来たりしているようで面白い。三つの話に関連性はないが、「鳥を眺めて暮らす」を見たことのある客には、いくつかクスリと笑わせるしかけもある。

初日と最終日を見たが、やはり最終日が間のとり方、セリフの明瞭度などが段違いだった。

「あけぼの学校祭」の出し物は全部見たが、弦巻楽団新人リーディング公演「子どものように話したい」も楽しめた。ほぼ演技なしの朗読だけで行われたが、キャスティングが的確で、死んだ男を演じた役者など、女性なのに男に見えてきたほどだ。






最終更新日  July 12, 2016 12:11:28 PM
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May 22, 2016
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このプラスチックシーラー(アスクワークスFR200A)は買って4年ほど。ちゃちな機械なので耐久性があるとは思えなかったがトラブルなく使えている。キッチン家電として使っているので使用頻度が少ないせいかもしれない。

電池式のシーラーは100均にも売っている。しかし、たとえばかつお節の袋のように幅が広いものにはかえって使いづらいと思ったし、卓上式だと両手が使える。それほど高いものでもないし(送料込2000円程度)手に入れてみたところ優れものだった。

もともと想定していた用途は焙煎した珈琲豆のパッキングのため。しかし、ビニールやナイロンやプラスチックの袋なら何でもシーリングできるので、大袋で買った食品の保存にも大活躍している。

開けた袋菓子などはつい全部食べてしまう人も多いだろう。残しても湿気のせいでまずくなる、と理由をつけて完食しがちだ。しかしシーラーがあればその心配はないし、保存も楽。

この手のものはヒーター線が断線しがち。しかし墨田区にあるこの会社からは、こうした消耗品も手に入れられるし交換も自分でできるようなので長く使っていけそうだ。

20センチと30センチの製品があるようだが、20センチでほとんど不便を感じない。ペットフードの大袋なども工夫すればシーリングできるし、小さめの袋(ジップロックなど)に入れ直せばいいだけだからだ。

キッチン家電は買って失敗したと思うものが多い。ただでさえ狭いキッチンがさらに狭くなったり、洗うのが手間だったり。パスタマシンもホームベーカリーも結局一度も使わず処分してしまった。電動スライサーはすぐ切れなくなったし洗うのが手間なブレンダーはやめた。

しかしこの卓上シーラーは、早く手に入れなかったことを後悔するくらいで、使いかけの食品が美しく保存できるのには生活の質が上がったような錯覚さえ感じる。






最終更新日  June 4, 2016 03:10:55 PM
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January 10, 2016
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沖浦和光(1927~2015)

日本人はどこから来たのか。異民族の間ばかりでなく同じ民族の間にさえなぜ差別が生まれるのか。芸能と芸術のちがいは何か・・・こうしたことを一度でも考えたことのある人なら、この人の名前を「かずみつ」ではなく「かずてる」と正しく読むことができるはずだ。

この人の名を知ったのは1979年、小田実らが大手出版社から発行していた「使者」という雑誌。対談か何かだったと思うが、日本共産党員だった過去を振り返り「初心忘るべからずだな」と結んでいたのが記憶に残った。

こういう人が大学の学長をやっている関西の知的風土にも羨望をおぼえたが、比較文化論に興味を持つと同時に、「六全協」以前の共産党員でその後共産党を離れた人たちに興味を持った。沖浦氏はそのひとりであり、当時はたくさんの「オキウラ」がいて、思いがけないところでそういう人に出会ったものだった。

「この人はモノがわかっている」と思った大学教授などと親しくなると「実は朝鮮戦争時に所感派だった」という告白をきくことが稀ではなかったのだ。当時は知識がなかったので、そのことの意味や教訓について訊ねることもなかったが、いま思えば惜しいことをしたものだ。

1948年に結成された全日本学生自治会総連合の中央執行委員のひとりが沖浦和光である。委員長は武井昭夫で他の中執には安東仁兵衛、力石定一らがいた、というより彼らによって作られたのが当時22万人を擁した全学連である。

武井の「層としての学生運動論」によって全学連は共産党の独善的指導から自立。共産党の迷走や分裂や敵対を乗り越えて発展し、反イールズ闘争、ポポロ事件、砂川基地反対闘争などで勝利していった。そうした薫風かおる戦後革命期の反戦運動の中心人物が逝去したというのに悼辞を掲載する「全学連」はなく政党もない。

沖浦氏がなぜいつどのように共産党を袂をわかったのか、日共にかわる革命政党の創設はかんがえなかったのか、膨大な著作をすべて読めばどこかに書いてあるのかもしれないが、彼の近くにいた誰かが訊ねたことはなかっただろうか。

青木昌彦(1938~2015)

共産主義者同盟(通称第一次ブント)の指導者・理論家であり、60年安保闘争時の全学連の中央執行委員のひとりだった。のち近代経済学に転じ、ノーベル経済学賞候補になったこともあるが、唐牛健太郎、島成郎、生田浩二といった同時代の煌星のような人々との交流などは「わたしの履歴書~人生越境ゲーム」に詳しい。

姫岡玲治名で書いた「国家独占資本主義段階における改良主義批判」を読んだのは1980年ごろ。「同時代音楽」という雑誌になぜか安保ブントの基本文献が復刻され、山口一理「十月革命とわれわれの道」と共に印象に残ったのがこの論文だった。

作曲家・ピアニストとの高橋悠治とは10代のころからの親友だったらしく、彼のコンサートで「姫岡玲治こと青木昌彦かも」と思う人を何度も見かけることがあった。2015年4月の京都のコンサートでも見かけたが、話しかける勇気がなかった。

第一次ブントの人たちが持っている(その後のイデオロギー的転向を問わず)楽天性というか懐が広くて深い人間性の由来に興味があったし、ブントが依拠したマルクス=レーニン主義のどこに「収容所国家」を結果する隘路があったのか個人的な意見をきいてみたいと思っていたが、見ず知らずの人間がいきなりそんなことを訊ねるわけにもいかなかった。

助川敏弥(1930~2015)

札幌出身の作曲家。作品を知ったのは「終わりのない朝」という被爆ピアノとオーケストラのための曲を放送できいたのが初めてで、あれは初演時のものだと思うから1983年のこと。どういういきさつだったか忘れたが彼が「バイオシック環境音楽研究所」を始めた1987年ごろに知己になり数回会った。

その研究所の案内には「招待状をもらった批評家とごく一部のマニア」しか来ない現代音楽の世界にはうんざりした、もっと広い音楽の場を得たいと思って始めたという手紙が添えられてあった。現代作曲家が環境音楽(当時はまだそういう言葉はなかったが)を提供したからといってそういう問題の本質的な解決にはならないと思ったが、気持ちはわかるという感じだった。

芸術音楽が少数のきき手にしか届かないのは当然で、創作の論理は「聴衆に受け入れられるかどうか」ということとは関係がない、というか関係があってはならない。もちろん、職人として社会から求められる音楽を提供することがあっていいし、それは創作自体にも決してマイナスではない。

こんなあたりまえのことがわからない「自分より年長者」には興味を失った。

時間がたちホームページができた。いまでも一部は閲覧できるが、戦後まもなくの日本社会を活写した部分など非常に興味深い一方、現代音楽の否定や反共主義丸出しの政治思想には落胆した。芸術における保守主義者がすべて政治における保守主義者ではないだろうが、芸術について深く考えない人間は政治においても深く考えないということを「教わった」。

ホームページはすべて削除されてしまったようだ。「札幌の思い出」などは貴重な歴史資料だったのに残念だ。関係者は故人の名誉にならないと思ったのだろうか。








最終更新日  January 11, 2016 07:57:16 PM
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December 2, 2015
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2012年だったか、イトウワカナの「ことほぐ」という芝居を見て感心したことがあった。それで少し芝居を見てみようかという気になった。

演劇が政治に従属していた時代からアンダーグランド演劇や小劇場運動の時代を経て、お座敷芸でなければ小市民的エンターテイメントに変質してしまったという基本的な認識に変わりはない。変わりはないが、諸芸術の中でも最も反体制・価値逆転的傾向をもつのが演劇という表現形式なのだから、何か面白いものが不断に生まれてくる可能性はある。

2014年の「札幌劇場祭」で大賞を受賞したプロジェクト・アイランドという韓国の演劇ユニットによる「アイランド-監獄島」は、その期待を満たすにじゅうぶんであり、現実からの逃避ではなく演劇ならではのやり方で現実へ肉薄するひとつの見本を示したという点で新しい時代の新しい演劇の誕生を告げ知らせるものだ。

物語は南アフリカの政治犯収容所が舞台。二人の囚人はよくわからないがとにかく反体制の罪で収監されている。この二人が刑務所の中でアンティゴネーを上演するまでの二人のいざこざややりとりが中心となっている。

アンティゴネーはいわずとしれたギリシャ悲劇のヒロインである。反逆者である兄を埋葬したカドで反逆者とされ死刑を宣告される。

女性であるアンティゴネーを男性が演じようとするこっけいさを散りばめながらも、体制に毅然として抵抗するアンティゴネーとこのアンティゴネーを演ずるジョンが二重写しになるように作られている。

とにかく俳優二人のパワーがすごい。韓国人と日本人はもともと同じ民族といってよく、ジョン役のチェ・ムインもウィストン役のナム・ドンジンも、黙っていれば日本人(や極東アジア人の多く)と見分けがつかない。しかしながら、彼らの迫力ある演技を見ていると、流れている血はまったくちがうように感じられてくる。

韓国では民主労総によるゼネストが何度も戦取され、日本でも国会前や辺野古で階級対階級の激突が始まっている。

このような時代に芸術家は単なる美の世界に自閉していていいのだろうかと常々感じていたが、このプロジェクトはその疑問にひとつの解答を与えてくれた。

韓国語による上演だが日本語字幕が映写され言葉の問題はまったくなかった。

 






最終更新日  December 24, 2015 06:37:35 PM
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November 24, 2015
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ポーランドのフリジェシュの短編を斎藤歩が脚色したもの。原作は知らないがかなり拡大されているらしい。それでも上演時間は1時間未満。

登場人物はみな男。亀だと思いこんでいる患者、医師、看護士、学生の4人。

ネタを明かしてしまえば、みな精神病院の入院患者でこの4人のひまつぶしの芝居にわれわれ観客がだまされる、というもの。

原作者がやりたかったこと、というかこの作品の意図は明らかだ。要するに反演劇としての演劇の創造であり、虚構の虚構化を通じて観客の知性を覚醒させることだ。しかもそれにユーモアがからむのだから演劇としての理想的な条件をほとんど備えている。

優れた戯曲であり、優れた脚色である。そして演技も見事で特にキャスティングがはまっていた。

上演場所は彼らが根拠地としているあけぼのアート&コミュニティセンター。学校だった建物の元教室を簡素な小屋にしている。非日常性を感じさせるこういう場所での上演はこの作品にはひときわふさわしい。

しかもこうした芝居がたった800円で見られるのだからすばらしい。

この劇団の次回公演は春らしい。上映期間も1週間程度なのでぜひ行きたいと思う。






最終更新日  December 24, 2015 02:57:25 PM
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February 4, 2015
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2014年の「節電闘争」の結果が出た。

1年間に消費した電力は3765KW。2013年の4163KWに対して9.5%の節電に成功した。

2011年は4842KWだったから、22%の節電に成功したことになる。

ただ、値上げのせいで去年より電力料金はわずかだが増えた。

これ以上の節電は不可能ではと思って取り組んだが、1割近い節電に成功したのは、テレビを省エネタイプにかえたこと、冷蔵庫をなるべく空にするように心がけたことが大きいと思う。ただ、今年の1~2月は去年よりかなり電力を消費している。健康その他も考えると、厳冬期は避寒するのがベストという結論を得たシーズンでもあった。

2016年には電力自由化が始まる。家庭用燃料電池の価格も下がってきた。一部でも、電力の自前調達に取り組んではどうかと思う。






最終更新日  March 18, 2015 01:00:23 PM
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January 1, 2015
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副島輝人(1931~2014)

ジャズに興味のある人でこの人の名を知らない人がいたら、その人の感性のアンテナには苔が生えている。

会ったのはもう30年もまえ、ジャズコンサートを主宰している知人の家で。こちらは集団即興演奏としてのジャズにしか興味がなかったしミュージシャンそのものにはあまり関心がなかったので、「ジャズ評論家」なる存在にも興味を持てなかった。

しかしそのときの印象は鮮烈で、「すばやく決断すること、自分の判断の正しさを信じることもしくはそれに賭けること」の大切さを学んだ。

というのは、知人がライブ録音したテープをかけると、ものの数十秒で「この演奏は乗っている」とか「これは○○にしては乗っていない、なぜだろう」と判断をくだしていく。別に何かの審査を頼まれているわけではない。ほんの座興の一コマなのだ。

先達もいず、予備知識もない世界で、手探りですべてをつかんでいかなくてはならなかった「昭和ヒトケタ世代」の真骨頂を見た気がしたものだ。

ジャズだけでなく、映画や温泉にも造詣の深い人だった。私生活がどんなふうだったかは知らない。世を去った今になって、どんな晩年だったか知りたくなる。好きなこと、興味のあることだけに打ち込むことができた幸福な人生だったと想像するが、いくらかでも副島さんのような人生が送れたらと思う。

プロデューサー、コーディネーター、資料蒐集家としても卓抜だった。秋山邦晴を連想するが、副島さんの仕事を引き継いだり発展させたりできる人も決して現れないにちがいない。

時代と風と音楽がたまたま紡ぎだした、そんな人だった。

斎藤晴彦(1940~2014)

黒テントの看板俳優として何度か舞台に接した。日本語で歌うシューベルト「冬の旅」公演をきいたのが最後。アンコールに歌った高橋悠治「民衆に訴える」も感動的だった。

彼が有名になったのはバブル期だっただろうか。CMやバラエティ番組でも見るようになって驚いたが、何となくほほえましかった。彼のばあい、小劇場運動を捨てて転向しメジャーな世界に「移行」するような人とは思えなかったからだ。

その予感通りの生涯だった。私生活はまったく知らないが、きれいに生きて、きれいに死んだ。副島さんと同じで、そんなイメージがある。

そのイメージは間違っていないはずだ。

ジョン・マックルーア(1930~2014)

LPでクラシック音楽を聴き始めたころ、「演奏と音質がいい」と感じるLPに彼の名前を見ることが多かった。

デッカのジョン・カルショー、EMIのウォルター・レッグも当時からすでに有名だったが、何と言ってもCBSコロンビアのジョン・マックルーアの名は特別にインプットされた。

音楽は、作曲家と演奏家だけでは成り立たない。両者を媒介しすべてをセッティングするプロデューサーがいなくてはならないし、とくに録音のばあいはその役割が大きい。もしカルショーがいなかったらカーゾンやブリテンを、レッグがいなかったらマリア・カラスや初期カラヤンを人類は得ることができなかった。

同様に、マックルーアがいなかったら、ワルター晩年の録音の数々やバーンスタインの名盤のいくつかも日の目を見ることはなかった。

それなのに、彼らに対する評価や関心は低く(というかないに等しい)、その志を継ごうという人もいない。音楽ファンやジャーナリズムは最悪であり醜悪だ。どれほど彼らの恩恵にあずかっているかはかりしれないのに、無知もはなはだしいからだ。

バーンスタインのオペラ版「ウェストサイドストーリー」の録音風景のビデオの中に、マックルーアは少しだけ出てくる。それを見たときの驚きも忘れられない。イメージとちがって、軽薄さを感じるほど軽妙な人物だった。

ホセ・カレーラスに英語の発音を注意してバーンスタインに怒鳴られる、そんなシーンがあった。

ジョン・カルショーには著書がある。ウォルター・レッグには妻の歌手、シュワルツコプフとの回想記がある。

ジョン・マックルーアには今のところなにもない。







最終更新日  February 28, 2015 07:51:08 PM
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August 1, 2014
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出身高の養護教諭だったキクエ先生に会ってきた。40年ぶり。長年の懸案だったことができ、肩の荷をひとつ下ろすことができた。

同窓会の掲示板に書き込んだところ、消息を知る人からの連絡が来た。昨年秋のこと。

しかしそのときのメモを紛失してしまい、どうしたものかと思っていたが、古い電話帳があるのを思い出した。先生が学校のそばに住んでいることだけはわかっている。そこで探すと、それらしき番号がのっていて見つけることができた。

先生に会うのがなぜ懸案だったかというと、どうしても直接にお礼を言っておきたかったからだ。

高校3年の1学期の最終日、あすから夏休みというその日にケガをした。ソフトボール中、フライを取りにバックしたところライトの男が突進してきて後ろから激突、というのはあとから目撃者にきいた話で、記憶は青空にうかぶ白球で終わっている。次に気がついたときは脳外科病院のベッド上。医者が親に最悪のばあい助からず、助かっても植物人間になる可能性が高い、などと話している。

植物人間になるはずが2週間で退院でき、始業式の日に報告に行った。

しかしである。ここが先生のユニークなところであり、どうしてもお礼を言っておきたかった理由でもあるのだが、開口一番、怒ったのだ。

ポカンとしてしまった。なぜならケガの原因を作ったのはライトの男であり、交通事故でいうなら100ゼロでこちらが正当だからだ。

先生はそうした説明をきく耳を持っていなかった。要するに、理由はどうあれ、親に心配をかけたのだからおまえが悪いと、烈火のごとくとは言わないまでも、感情もあらわに本気で怒ったのである。

コペルニクス的転回というのだろうか、物事の軽重や善悪を常識で判断してはいけないのだということを、このとき学んだ。

先生は正しい。その通りだ。わたしにケガの責任はない。だからわたしは悪くない。しかし、ケガをして親を心配させたのだから、すべての事情と判断を超越して、絶対的にわたしが悪い。誰がケガをさせたかどうかよりも、わたしがケガをした、そのことが何よりも重要で、その事実の前には責任論などは無意味なのだ。

知性というか、思考ということを学んだのはこのときだ。言いかえれば、普遍的な善とはなにかを考えるのが思考であり、常識によりかかって善悪を判断するのは思考とは何の関係もないということを学んだ。

さらに言いかえれば、普遍的な善について考えるのが思考だとすれば、それは哲学することそのものだ。

つまりわたしは、キクエ先生から「哲学すること」を学んだことになる。

大学の教養科目で「哲学」を選択したことがあるが、それは「哲学史」を学ぶもので、「哲学すること」はまったく学ばなかった。

玄関に現れたキクエ先生は、小柄でやせた温厚な80歳という感じで、道ですれちがっても気がつかなかっただろう。

しかし小一時間もいろいろと話すうちに、しゃきっと厳しい顔になり口調まで現役時代に戻ってきたのに驚いた。まさに40年前のあの日の、親しみやすいがはっきりとした口調、女性には珍しい頭ごなしに怒りをたたきつけるような口調を思い出した。

40年以上の教師生活で、二つ、忘れられない事件があるという。二つとも、生徒の死であり、ひとつはわたしのひとつ上の学年の人だったので記憶があった。生まれつき心臓に欠陥があり、高校まで生きられないだろうというのが医者の見立てで、スポーツは禁じられていた。

しかし、その禁をおかして学校でサッカーをやり急死したのだった。

こうした細部の記憶は合っている。ただひとつちがうのは、季節のことだ。

先生の記憶では、それは冬で、スキー学習のあった日だったという。体育や養護の教諭は全員不在で、本来なら運動を止めるべき人間が誰もいなかった、誰かいれば止められた。なぜなら、いつも運動の許可をもらうために自分のところに来ていたからだ、という。

わたしの記憶では、それはよく晴れた初夏のことだった。親がかけつけ、生徒はみな校門の外に出て遺体を運ぶクルマを見送った。

人が死んだというのに、にやにや笑っている男がいた。女子の多くはショックで泣いていた。

親は覚悟していたというが、一瞬見た両親の憔悴しきった顔は42年たったいまも忘れられない。両親の服装は軽装ではなかったので、先生の記憶の方が正しく、あれは冬だったのかもしれない。

同窓会や同期会などでこのときの話をしても、おぼえている人はほとんどいない。わたしにとっては、高校に入ってすぐ、死とはこんなにも身近なものなのかということを知って大きなショックを受けた事件だったが、人によって物事の軽重や価値観はまったく異なるし、感受性にも驚くほどのちがいがあることを知った。

40年前、キクエ先生はちょうど40歳だった。人相の悪い50歳の綾戸智恵、といえば当たらずとも遠からずといった容姿容貌だったように記憶していたが、わたしの知る80歳前後の女性とは、人間の出来がまったくちがうのがわかった。記憶の質がちがうというか、事実を記憶するだけでなく、そうした事実に対して自分がその時々に行ってきた判断と一緒に記憶しているのだ。だから記憶に奥行きがあり、話題が中心を見失うことなく広がっていく。

急死した生徒の話で興味深かったのは、運動の許可をもらいに来たとき、ただダメだと言うのではなく、必ず全身が映る鏡の前に立たせて、自分の姿を見せたという。そして、いま君が見ているその人間が、この世からいなくなる、それでいいのか、親はどれだけ悲しむかわかるか、と「指導」したらしい。

そのときの口調は、わたしを怒ったときと同じだったにちがいない。怒ったあと、悲しむような表情したにちがいないのだ。

話しているうちに、「老婆」が消え、「元教師」の豊かな表情が現れてきた。

あのときケガをせず、キクエ先生に怒られなかったらと思うとぞっとする。

これほどの幸運を他に想像するのはちょっと難しい。






最終更新日  August 21, 2014 02:48:39 PM
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