投資の余白に。。。

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読書日記

June 9, 2016
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カテゴリ:読書日記
「査問」で興味を持ったので、この著者の本をできるだけ読んでみることにした。

日本共産党とその下部組織である民青は、大学や労働組合では物取りと賃上げしかやらず、1955年の六全協後は選挙運動と機関紙拡大、歌って踊っての演芸会ばかりやっている連中と思っていた。暴力的になるのは彼らがトロツキストと呼ぶ勢力の運動を妨害するときだけだと誤解していた。

本書は著者がミサイル基地建設を実力阻止するために新島に行き、機動隊に逮捕される場面(1961年)から始まる。短期間の留置場暮らしの記述もある。予想もしていなかった逮捕=検挙とその後のいきさつは著者を筋金入りの活動家に鍛え上げていったのだろうが、このころはまだ非暴力とはいえ実力闘争を行っていたのだ。

しかし本書はそれが主題ではない。1933年の「教員赤化事件」での被弾圧者たちとその軌跡を3年かけて取材したもの。公安警察が共産党系教員労働組合のメンバーを「治安維持法違反」容疑で検挙し追放した事件であり、彼の父もこのとき警察に検挙され職を失っている。

「あと10年早く始めていればと何度悔やまれたことだろう」とあとがきに記しているように、すでに故人となっていた人も多いが、いくつかの偶然や幸運に助けられたようだ。すでに中国侵略を開始していた軍国主義下の日本で、それも長野県の郡部に天皇主義イデオロギーから解き放たれた一群の人々がいて活動を行っていたというその事実に、まず救われる思いがする。

そういうことは歴史的には知ってはいても、当事者の実子が書いたものを読むとリアリティがちがうのだ。そしてわたしが生まれた年より四半世紀も前ではない「ごく最近の」事件として感じられてくる。もちろんそれは筆者の優れた取材力と思考力、文章力もあってのことだが、やはり神は細部に宿るのだ。

最近は「アカ」という言葉を聞かなくなった。1980年代までは、それが何を意味するかも知らずに一種の差別語として使っている人間は珍しくなかった。若い女性がある共産党員のことを「アカ」だから、と言ったことがあった。ヘルメットの色から、いや共産党はアカではなく黄色だと混ぜっかえしたことがあるが、「アカ」が死語となった程度には世の中は進歩したということか。アカには「垢」に通じる汚らしいもの、という語感があった。

こうした本が書かれるのはきわめて稀なことだ。なぜなら、一般に活動家は過去よりも未来に目を向けているものだからだ。

印象的なのは被検挙者たちの誠実さである。自分自身の「転向」をゆるすことのできかった人々は、戦後、決して教壇に戻ることはなかったという。

戦前は天皇主義者、戦後はマルクス主義者と服を着替えるように思想を取り替えていった人間しか日本にはいなかったとばかり思っていたが、決してそうではなかった。

著者自身の体験や思考と参照しながら書き進められているので、読み物としても一級のおもしろさがある。

ただ、イタリアなどとちがって、日本では反ファシズム勢力は一掃されてしまい、侵略戦争を防ぐことはできなかった。芽のうちに摘まれたという見方もできようが、帝国主義戦争に対しては内乱をもって対峙すべきとするレーニンの思想はまだ伝わってなかったのだろうか。いや、決してそんなことはないはずで、日本共産党の路線そのものに誤りがあったのではないかと思わずにいられない。

1933年といえば小林多喜二が虐殺された年である。こうした優れて人間的に誠実な人たちが殺されたり失業したり不利な戦地に送られたりしたというのに、虐殺し弾圧した側は戦後も生きのびた。

「戦後政治の総決算」はナチソネこと中曽根康弘のスローガンだが、民衆の側からは「戦前の総決算」、つまりこうした人々の名誉回復と賠償、加害者の処断が行われなければならない。というか、それを怠ったからこそアベや石破が表通りを歩ける世の中になってしまったのだ。

1933年はつい最近のことであり、階級犯罪に時効も恩赦もない。






最終更新日  June 9, 2016 06:35:46 PM
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June 3, 2016
カテゴリ:読書日記
「サパティスタと叛乱する先住民族の伝承」の副題がある。

著者のマルコス副司令はサパティスタ民族解放軍(EZLN)のスポークスマン。メキシコ・チアパス州先住民族主体のEZLNにあって数少ない非先住民のメンバーで、哲学の元大学教授だという説がある。副司令と名乗っているのは真の司令官は人民だという信念に基づくという。

「文章を書いていないと発砲してしまうから」というマルコス副司令。その彼が1984年に密林で出会ったのが老アントニオで、老アントニオが亡くなる1994年まで両者は交流したらしい。

その老アントニオからきいた先住民族の伝承、神話のような寓話のような話を彼は子どもたちや恋人に、そして市民集会などで語った。コミュニケとして発表されたものもある。それらを集めたのが本書ということになる。

都市のマルクス=毛沢東主義者が密林で先住民の老人と出会う。ふつうなら組織化の対象としかみなさないだろう。

しかしマルコス副司令はちがった。先住民の持っている神話的世界観、伝承からくみとることのできる文明世界とはまったく異質な知恵に何かを見いだしたのだろう。老アントニオから話をきき、質問し、その中で近代主義的な思想と発想、論理の言葉が切り捨ててしまう大事なものの存在に気づいたにちがいない。

この本を読んですとんと理解できる人間はほとんどいないだろう。先年亡くなったポルトガルの映画監督、オリヴィエラが映画で紡ぐ言葉のように、われわれがふだん使う同じ言葉がまったくちがう意味、ちがうイメージを喚起していく。

ごくわずか、われわれにも理解できそうな部分がある。

「すべての言葉、すべての言語に先行する最初の三つの言葉は、民主主義、自由、正義である」(88ページ)から始まる一節である。

そこでは民主主義についてはこう語られている。

・・・「民主主義」は複数の考えからうまく合意を作りだすことである。全員が同じ意見をもつことではない。すべての考え、あるいは大多数の考えから、少数の考えを排除するのではない。大多数の人にとってよいと思われる合意をいっしょに探し、そこへ到達することである・・・・

多数決民主主義がいかに非人間的なものであるかをこれほど平易な言葉で表した文章には出会ったことがない。これが、何の教育も受けたことのない狩猟名人の先住民の老人の伝承であり知恵なのだ。

1994年、まさに老アントニオの死の年に反政府・反グローバリズムを掲げて武装蜂起したEZLNが強大な政府と政府軍に対して勝利といってもいい成果を勝ち取ったのは、本書の扉にあるように、都市世界のマルクス主義者と先住民世界が老アントニオを媒介として融合をとげたからにちがいない。

詩と政治に架橋する精神とはどのようなものか、ほんの少しだけわかった気がするが、詩的でない政治的言語と政治的なものをはらまない詩的言語の両方に対する警戒心、あるいはそういったものの不毛さを見抜く何かはもらえたような気がする。








最終更新日  June 4, 2016 08:03:12 PM
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June 2, 2016
カテゴリ:読書日記
マスコミばかりでなく左派メディアでさえ報じないことのひとつに、アナーキスト勢力の増大がある。

経済危機下のギリシャやイタリア、スペインではすでに公然とした政治勢力として登場している。とりわけギリシャでは政権を掌握した急進左翼が帝国主義とシオニストの手先化する中で急速に拡大している。フランスでは反資本主義新党の中心メンバーにアナーキストが散見されるし、アナーキズム週刊誌の刊行が維持されている。

また、いわゆる先進国における反グローバリズム運動、ニューヨークの占拠運動などの中心にいるのも、名乗ってはいないがアナーキストたちである。環境保護運動や女性解放運動の活動家は自覚せざるアナーキストであるケースが多い。

サパティスタ民族解放軍の理念や行動様式もアナーキズムに近似している。

日本の大学でも主要大学にはすでにアナーキズム研究会が生まれている。今のところサロン的サークルの域を出ないが、セクトが退場したあとの主役になる可能性がある。

すで40年以上、旬刊発行されている大阪の「人民新聞」にはリバータリアン(無政府資本主義者)の主張が掲載されることもあり、左右のアナーキズムに対して親和的だ。

日本共産党の武装襲撃と対決した東大全共闘が「ここは1930年代のスペインではない」と檄を発したことはよく知られている。アナーキストが権力を掌握したスペインで、ファシスト軍と戦うアナーキストをスターリン主義共産党が背後から襲撃しファシズムに道を開いた史実を参照したエピソードだが、いわゆる社会主義革命に成功した国でも、実際の革命の主力はアナーキストであり何よりも大衆自身であったことが明らかになりつつある。

あのフランス革命でさえ、主力はプルードン主義者だったのだ。

アナーキスト(やサンディカリスト)が準備し成功の基礎を築いた革命を、あとからやってきた共産主義者が簒奪し、あたかも自分たちのやったことであるかのように叙述したのが、すべてではないが多くの国における「革命」の実態だったのではないだろうか。

こういう問題意識を持ってもう何十年にもなる。だから、いつか最低でもロシアと中国、そしてスペインの革命におけるアナーキストの活動とその敗北の原因を探求しなくてはと考えていた。

20世紀においてアナーキストが主役に躍り出たのは、ロシア革命後のクロンシュタット水兵の反乱(これを鎮圧したのがトロツキーだった)、ウクライナにおけるマフノ運動、そして人民政府を樹立したスペイン人民戦線の三つである。このうちクロンシュタットとスペイン人民戦線については優れた報告や研究がある。しかし、マフノ運動についてはほとんどなかった。ヴォーリンの「知られざる革命―クロンシュタット反乱とマフノ運動」(現代思潮社1966年)くらいで、しかもずっと絶版になっている。

ネストル・マフノ。1888年にウクライナで生まれ1934年にパリで世を去ったこの農民運動の指導者、無政府主義革命家は、マゼランを殺したラプラプ、台湾で抗日蜂起を行ったモーナ・ルダオ、ヤマト支配に頑強な抵抗を続けたアテルイ、松前藩に対して武装蜂起したシャクシャイン、カスター大隊を全滅させたクレイジー・ホースといった人類史的英雄のひとりである。

しかしマフノが特異なのは、侵略者に対して戦っただけでなく、ロシアを解放したと称するボルシェビキ(ロシア共産党)の赤軍とも戦ったことにある。

著者のアルシノフは1887年生まれの工場労働者で、元々はボリシェビキだったが、1905年革命の敗北の原因を政治党派のミニマリズムにあると総括し無政府主義者となったという。警察署を爆破したり、労働者を弾圧する工場長を射殺して死刑判決を受けたこともある。

マフノと知り合ったのは監獄の中で、1917年のロシア二月革命で解放され、アルシノフはモスクワで、マフノはウクライナで活動を行った。その後アルシノフもウクライナに向かい、1921年に運動が壊滅させられるまで赤軍と戦った。マフノ運動を記録し叙述するのに最もふさわしい人物といえる。

二大首都で権力を掌握したボリシェビキはウクライナでは少数派だった。ウクライナにおける農民と労働者の社会主義をめざす活動は彼ら自身、そしてマフノのまわりに結集した無政府主義者たちの果敢な闘争によって成し遂げられていった。その細部にわたる軍事的・政治的エピソードのひとつひとつには感嘆を禁じ得ない。神出鬼没の軍事指導者、みずから銃と爆弾で戦う軍人であると同時にきわめて成熟した政治運動家であったことがわかる。

特に印象的なのは政治的に変質を重ねる元帝政軍士官グリゴーリエフを反乱兵士大会で、その反革命としての本質を暴いた上で処刑したことである。革命と反革命が入り乱れるとき、革命的な大衆が指導者の反革命的本質を見抜けないことがある。それをマフノは大会の議場で、大衆の面前で暴露し処刑したのだからすごい。

大会はこの行動を承認しグリゴーリエフ指揮下にあったパルチザン部隊はマフノ反乱軍に編入されたという。

革命のダイナミズムとはこういうものなのだ。

著者はボリシェビキ独裁に対するマフノ反乱の敗北を軍事的な戦略の失敗と見ている。それは正しいかもしれないし、そうではないかもしれない。仮に正しいとするなら、その軍事的な戦略の失敗が何に起因するのかが究明されなければならない。

巻末の資料のひとつに、1918年6月にクレムリンを訪れレーニンらと会見したマフノの回想記が収められている。レーニンの人となりがわかって興味深い。マフノも悪い印象は持たなかったようだが、最終的には興味を失ったようだ。

職業革命家による中央集権的党組織とその手足としての赤衛軍、赤軍による上からの支配を「社会主義」としその社会主義を電化したものを「共産主義」と考えるレーニンとは、めざす社会のあり方は同じでもその道すじや主体についての考えが、言葉で議論できるほど近くはなかったということだろう。

1918年から21年にかけてのウクライナにおけるボリシェビキの犯罪を見るとき、レーニンとトロツキーとスターリンの間に砂粒ほどの差異さえ見つけることはできない。

公平なことに、マフノ軍とマフノの欠点や欠陥についての記録も収集され収められていることが本書の価値をいっそう高めている。マフノは酒癖が悪く、個人的な気分で赤軍捕虜を処刑したりしたこともあったが、村人ではドイツやオーストリア兵と通じる者しか殺さなかったという同じ個人による矛盾するような証言があったりする。

マフノはボリシェビキの残虐さ狡猾さを過小評価していたきらいがある。その点がのちの軍事的敗北の根本原因だったのだと思う。

ウクライナはボリシェビキにとっては食料庫だった。肥沃なウクライナの大地ゆえ、ボリシェビキの集中した関心を呼び「ウクライナの悲劇」を招いたのだとすれば皮肉だ。

ロシア革命からたかだか100年しかたっていない。マフノやアルシノフは、1950年代生まれの人の祖父母の世代にあたる。もしかしたらマフノやアルシノフはわたしの祖父だったかもしれないのだ。

わたしの最大の関心はいまの時代にマフノがいたら、どう考えどう行動するかである。無人機と遠隔操作、レーザー兵器と部分的核兵器を主体としたハイテク戦争の時代、農業国から工業国、さらにいえば第三次産業が多くを占めるようになった現代で、解放の主体をどう確立し微分化した権力とどう戦うのか。

平凡な農夫になりたかっただけの男マフノ。しかし平凡な農夫になるだけのことでさえ、あらゆる武器を手にとって支配権力と戦わなければ勝ち取ることができない。そういう時代は、かつてのようにはっきりとは見えなくなっているとはいえ、本質的にはいまも1921年のウクライナと同じように続いている。






最終更新日  June 5, 2016 01:40:38 PM
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May 15, 2016
カテゴリ:読書日記
著者は2015年はじめに亡くなっている。1940年生まれだから74歳だった。全学連(日本共産党系)委員長(62年~64年)のあと72年までは民青(日共の青年組織)中央の常任委員だった人物で、91年に離党するまで共産党に留まっている。

本人もその一味もしくは首謀者として査問された1972年のいわゆる「新日和見主義」事件について、離党後に執筆したのが本書。

日本共産党(いわゆる代々木派)は、天皇制擁護、原子力の平和利用推進(原発賛成)、日本の再軍備大賛成の極右政党である。原発事故以降は原発廃止を唱えているが、福島現地その他でやっているのは原発反対運動の妨害であり推進派以上に推進派の役割を果たしている。

しかし日共はある日突然こうした極右政党になったわけではない。

1952年のいわゆる「血のメーデー事件」までは日本におけるほとんど唯一の革命勢力であったことに異論のある人はいないだろう。本書を読むと少なくとも学生部分は主観的には1970年前後までは革命的であろうとしていたし、そのつもりだったというのがわかる。

党組織と官僚機構の維持を最優先して大衆運動を軽視もしくは敵視するのはほとんどの左翼・新左翼党派に共通する現象だが、日共の場合は図抜けている。著者のような優れた活動家を「危険人物」視し、ありもしないグループを組織したという「冤罪」で査問したというのだから。70年代の見かけの党勢拡大にも関わらず見る影もなく凋落したのは、こうした体質、上意下達の作風がその根本原因であり、民主集中制なる組織原理こそが問題にされなければならない。

60年安保を前に全学連の主要人物は共産主義者同盟に以降した。70年安保ではそういうことは起きなかったが、ベトナム反戦・沖縄・全国学園闘争(全共闘運動)の高揚に影響を受け、党中央の統制を一定離れて大衆運動を志向したグループがあったのかもしれない。リンチ殺人の宮本顕治らがそれを芽のうちに摘んだのが「新日和見主義」事件だった可能性が高い。

明白な分派ではなくても、大衆運動のリーダー的素質のある人物やそうした人物に近い人間を排除していったのだと思われる。

70年代なかば、わたしの大学には数百人の民青とそのシンパがいたが、見どころのある人間は数人で、あとは自治会三役を筆頭にバカの巣窟、見本市だった。一瞬でもこうした政党に幻想と期待を持った自分自身に失望したほどだが、川上氏のような優れた人物を除名しないまでも登用しない組織であればバカしか集まらなくてあたりまえだ。

しかしやはり疑問なのは、氏が「事件」後も党内に留まったことである。内省的な文章から感じられる人間的誠実さと高い知性は疑うべくもないが、たとえば早稲田解放戦争における日共の裏切りをどう総括するのか。きちんと総括したなら日共に留まるといった選択枝はありえないと思う。むしろ「査問」をきっかけに日本共産党(川上派)を結成すべきだったのではないだろうか。

その後、中野徹三ら哲学者に影響を受けた学生らが集団脱党する事件、県委員会丸ごとの脱党(福井県など)もあった。こうした事件の背後には著者らが「新日和見主義」と見なされたのと同じような動きがあったのかもしれない。

同じようなことはこれからも繰り返し起きていくにちがいないし、現に起きている。






最終更新日  May 20, 2016 04:09:34 PM
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May 14, 2016
カテゴリ:読書日記
何十年も前に、それもほんの短時間しか会っていないのに、印象と記憶に残る人というのはいる。なぜかあるとき、ふとその人の名前を思い出したりする。

この本の著者もそんなひとりだ。

同じ大学の150キロほど離れた分校の無党派活動家だったM君と一緒に彼女は現れた。どんな用件だったかは思い出せない。卒業間近だったような気がするから、何かを一緒にやろうという話ではなかった。共通の関心はといえば、卒業後(というか中退後)の身の処し方や運動の展望のようなものだったから、そんなことでも話しただろうか。

M君はその後自治体労働者になった。彼女が新日本文学賞の賞をとった(1983年)とき、小説家をめざしているのだろう、文学少女だったのかと誤解したし、この本を読むまで誤解したままだった。

1991年から93年までの二年間、コロンビアとボリビアで海外青年協力隊隊員として活動したときのことを書いたこの本は、限りなく小説に近い自伝の趣きがある。「南米最大の麻薬都市メデジンでの日々を深い祈りとともに描くハイ・スピード・ノンフィクション」とあるが、まあ何と軽薄な要約であることか。

二年間もの滞在では無数の出来事があったと思うが、その中で重要なことを的確に選び出し、簡潔かつ詩的な、ときに哲学的といえるほど内省的な文章で綴っている。凡百の旅行記や見聞記とは決定的に異なっている。個人的な体験を軸に書かれているが、これほど優れた「ドキュメンタリー文学」に出会うことはそうない。

現代という時代に対する深い問題意識と社会矛盾に対する先鋭な視点がなければ書くことのできない本だ。

本書から彼女のその後を推測するなら、卒業後彼女は高校教師になり、教師生活と平行して旭川で劇団を主宰、シナリオも手がけていた。

巻末の略歴によれば彼女が25歳から31歳にかけてのこと。

そしてその間にはヨガとスペイン語を学んだ。とすると、彼女の大学での専攻、高校で教えた学科は何だったのかと興味がわく。

秀でた文章力からすると国語科だろうか。あるいは外国に関心があったとすれば英語科だろうか。本書ではインドでの話も出てくるが、それはヨガの本場への興味からだったのか、インド旅行がきっかけでヨガに興味を持ったのか。あるいは体育科の出身で身体への関心からヨガを学んだのか。

ボリビアで出会った人権活動家と結婚したらしいが、本書の叙述は帰国したところで終わる。たぶん、海外青年協力隊の任期を終え、その活動からも離脱したのだろう。そのための帰国だとすると、すぐにまた夫の待つボリビアに戻ったのだろうか。

そのときから数えても20年以上の歳月が過ぎている。消息を調べたがわからなかった。ただし2005年には碧天社から「チャクラを開いて」という本を出しているのでそれを読めば少しはわかるかもしれない。

それにしてもほぼ同世代の彼女が一日平均24件の殺人事件が起こるコロンビア(メデジン)、援助が政治の腐敗を助長するボリビアで苦闘しているその同じ時期に、こちらはヨーロッパでコンサートだグルメだとお気楽な人生を送っていたのだから自己嫌悪にかられる。

そもそも人間のできがちがうのだと開きなおってしまえばそれまでだが、使命感ではなく、自己発見のためでもなく、本書の随所に記述される日本社会への違和感から遡行していく魂の震動のようなものには強く共感せずにいられない。

そんなことを語りあってみたいと痛切に思いながら「チャクラを開いて」を発注したところだ。






最終更新日  May 14, 2016 03:30:21 PM
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May 9, 2016
カテゴリ:読書日記
著者の小西誠は1969年に治安出動訓練を拒否して逮捕・起訴された元自衛官。当時、自衛隊内部から反戦兵士が登場したというので大きなニュースになったのをおぼえている。著書では「自衛隊の兵士運動」や「マルクス主義軍事論入門」などを読んだことがある。この本は2000年の刊。

極貧の少年時代についてはこれまでの本でも読んでいたが、この本でもあらためて触れられている。ランドセルもなく給食費も払えなかった小西少年にとって、自衛官になることは貧困と差別からの脱出の道であり、自衛隊は貧しさの中での労働に耐えてきた彼にとって「天国だった」という。

そんな彼が自衛隊を退職して自衛隊の外部で反戦運動をやるのではなく、自衛隊の内部で闘うことを選んだのは、全共闘運動の自己否定思想の影響だったという。

その彼は「統一戦線」を志向する立場から中核派と共闘し関係を深めていく。わたしはこうした彼の動きを「中核派にオルグされたもの」と考えていたが、本書によればちがっていたようだ。中核派との共闘は彼らの「官僚主義的体質」を変えていくことをひとつの課題としていたという。

しかしそうした彼の努力は実を結ばず、「袂を分かつ」こととなっていく。個別の問題での細かないきさつが豊富に述べられている。野島三郎や松尾眞(おそらく)といった人たちに対しても率直な批判が語られている。その当否はともかく、党内民主主義の復活とそのもとでの大衆運動の発展を志向する彼の熱意は非常によくわかる。権威や権力などにとらわれない自由で自立した精神があるし、こうした人物を最大限に生かすことのできない官僚主義的組織には他人ごとながらもどかしさを感じる。

ただ、こうした官僚主義の原因はレーニンの組織論にあるのはまちがいない。レーニン主義に基づく党組織の官僚主義を、レーニン組織論のドグマ化の結果だという批判は妥当だが、そもそもレーニン組織論そのものにそうした要素があるとしたら中途半端だ。というか自己矛盾に陥る。

氏が引用するレーニンの言葉は含蓄と卓見に満ちていて、あたかも中核派がレーニンから逸脱もしくはレーニン主義をドグマ化しているかのように読めるが、それはちがうだろう。オーウェルが「動物農場」で描いたように、権力はそれを持つものを常に独裁者に変えてしまうものであり、そうならないための装置が理論的にも現実的にも必要でありレーニン主義はそれを欠いているのが致命的なのだ。

最後の章で彼は「改憲阻止の左翼大統一戦線」を提起している。その統一戦線にはあの日本共産党や社民勢力も含まれなければならないし、その形成に失敗すればわれわれは滅びるしかない、とまで言い切っている。

大左翼統一戦線で思い出すのは故陶山健一氏である。彼もまた、単なる権謀術数ではなく、革命の現実性を展望する観点とファシズムを阻止する立場から、恩讐を超えイデオロギーを超えた団結を提起していた。

フランスでは解党した第4インターナショナルなどを軸に「反資本主義新党」が結成され他の左翼勢力とも共闘して5%近い得票率を得るまでになっている。テロ事件後の戒厳令下にもかかわらず今年3月には120万人が参加したゼネスト、数百の高校・大学におけるバリケードストライキなどが治安警察と対決する中で打ち抜かれているが、こうした勢力が大きな役割を果たしているものと思われる。

レーニン式「民主集中制」を排した組織原理などには刮目させられるものがある。カルトではない全国政治組織は日本では中核派だけになってしまったのだから、中核派にはフランスの第4インターナショナルが反資本主義新党形成に果たしたような役割を期待したいものだ。

1980年代以降の日本の新左翼運動の流れを知りたいと思って読んだが、対革マル戦争を勝利的に終結させた中核派は(本書によれば)混迷を深めているようだ。






最終更新日  May 10, 2016 03:25:25 PM
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May 8, 2016
カテゴリ:読書日記
法政大学には浅からぬ縁というか因縁がある。

クラスメートや友人の何人かが進学しただけでなく、社会のあちこちで興味深い人物に出会ったところ法大出身者だったというケースが多いし最近もあった。

学生が自主管理している24時間開放の学館もあった。法大学館は、西の京大西部講堂と並ぶアンダーグラウンド文化→サブカルチャー文化の東の拠点だった。オールナイトコンサートなどに何度か足を運んだ記憶がある。

わたしが知るのは1985年ごろまでだが、その頃は学生運動が健在で、自治会やサークルを中心に千人規模の集会やデモ、ストライキが打ち抜かれていた。部外者に政治地図まではわからなかったが、中核派と黒ヘルノンセクトが競いつつ共存しているように見えた。政治的なサークルではなくても意識は高く、合唱団のようなサークルでもほかの大学とは全くちがっていた。

その後の学生運動の現場は知らない。法大はその頃でも特殊で「ガラパゴス」と呼ばれていたが自治会、学生寮、サークル会館を拠点とする運動は当局の拠点つぶしによってそのころすでに衰退していたとはいえ、主な大学には社会科学系だけでなく映画、演劇、軽音楽系のサークルのメンバーが中心となった学生運動は小なりといえ健在だった。

たしかその頃の警察白書には、新左翼運動の高原状態は続いていて積極的な参加人員は5万人とあったような記憶がある。三里塚闘争でも、1000人程度だった中核派の部隊が徐々に増えて4000人くらいの動員に成功していたし反核運動は50万人を集めていた。

先細りしてはいくだろうが、社会の矛盾に敏感な若者はいつの時代にも一定いる。1980年代の学生運動で最も印象的なのは、全共闘運動の敗北に乗じて権勢を誇った日本共産党系学生自治会の無惨な凋落であり、党派全学連自治会の形骸化だが、むしろそうした党派運動の衰退は無党派学生運動にとってプラスではないかと楽観する部分もあった。

現在でもいくつかの大学では自治会や学生寮を拠点とした学生運動は存在するが、85年から今までの学生運動はどうだったかの知識を得たいと思って読んだのがこの本。著者のメールマガジンは以前から購読していたし、ツイッターで近況も知っていたが、あらためてこの本を読んで「そんなことがあったのか」と驚かされた。

中川文人は、現在では陰謀論者に変質してしまってはいるが、1987年の法大第一文学部自治会委員長だった人物。現在は著作業で何冊かベストセラーを出している。実兄は本書で知ったがクラシック音楽の出版社を経営している。

中核派と黒ヘルノンセクトは競争的に共存していると思っていたが、本書によればそうではなく、黒ヘルは中核派の下請け機関と化していたという。その状況を変えようと事態が大きく動いたのが1988年で黒ヘルは中核から自立し時には対決していく。

破防法被告でこの時期法大に常駐していた松尾眞(元京都精華大准教授)のエピソードなどは党派幹部の思考法や行動形態がわかって興味深い。

中川氏のソ連留学、復帰と学館をめぐるかけひきなどを通して、とうとう氏は中核派の殺害対象とされる。これが1994年。バブルとその崩壊という大きな社会現象の中で学生運動がほとんど壊滅していた時期である。

対革マル戦争の勝利的終結を経て中核派が全国大学での支配を強めようとしていた時期に、それに果敢に抵抗した「武装し戦う黒ヘル」があったという事実は重く受け止めなければならないし、党派の組織指導のいい加減さ、詳細は明らかにされていないが「戦争」の内幕、固有名詞は控えられているが優秀なノンセクト活動家群像には感嘆と感銘を禁じ得ない。

本書はファシストとして知られる外山恒一のインタビューで構成されている。このインタビューがなかなか優れていて、活動家でなければ聞き出せないポイントを突いていくし答えが当意即妙というかアタマの冴えを感じさせる。直接会ったことはないが、80年代以降のノンセクト活動家の中でも群をぬいて優れた存在だっただろうと思わせるだけの人物だ。

中核派は他党派とちがって無党派の存在には寛容だったという印象があるが、権謀術数の一種でしかなかったのかもしれない。

中川の最後の一言が泣かせる。

「本気で学生運動をやるとボロボロになり」「精神病院に入ったり社会の最底辺で厳しい生活を余儀なくされている奴もいる」し「自分もいつそうなるかわからない」。だが「学生運動をやったことを後悔したことは一度もなく、仲間もみんなボロボロになったけど、誰ひとり後悔していない」

それが学生運動だ、と言うのだ。

100%同意する。学生運動のない時代に生まれた人間、学生運動があったのに参加しなかった人間たちは、100回、この言葉を音読するがいい。

きみに残された人生の貧しさにがく然とすることだろう。

中川が引退し中退したのと同じ年にかの松本哉(法政大学の貧乏くささを守る会)が法大に入学してくる。

次に読むべきは松本哉「貧乏人の逆襲」なのだろう。

なお、外山恒一による「前書き」は、1985年から2010年ごろにかけての学生運動の簡潔ながら闊達な要約となっていて、あちこちで知った名前が結びつく。だめ連、カラカラ派、フリーター全般労組といった「新しい左派」の出自を知ることができ非常に有意義だった。








最終更新日  May 10, 2016 01:01:30 PM
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May 6, 2016
カテゴリ:読書日記
タイトルに極私的とあるので、ノスタルジックな60年代記かと思って軽い気持ちで読み始めた。

ところが、二日間、寝食を忘れて読むことになった。250ページほどの本なのでふつうなら半日あれば読めただろう。しかし、言及されている人物や書物を調べたり、特に後者はまだ入手できるかどうかを調べながらだったので時間がかかった。この本は優れた読書ガイドの趣きがある。

社会運動に関して全く同じ問題意識を持っている人がいたのかという驚きで興奮させられた。興奮が収まるまで前に進めないというのは久しぶりの体験。

著者の名前を知ったのは1980年代のはじめ、「第一の敵」をはじめとするウカマウ集団の映画上映会のとき。雑誌や書評紙で評論を読んだ記憶もある。そのころ読んだ中では、菅孝行と天野恵一、そしてこの人が情況に対する最も洞察に満ちた発言をしていると感じたが、著作を追いかけることはしなかった。

数年前、反天皇制連絡会の集会とデモのあとの打ち上げで、両隣に物静かで品のある紳士が座った。右側にいたのが太田昌国氏で左隣だったのが天野恵一氏。東京ではこんな偶然が珍しくないのかと驚いたが、著作の知識がないので表面的な話しかできなかったのをずっと後悔していた。

そこで最近の著書から読んでみようと思い選んだのが2014年刊のこの本。

若干、自伝の要素がある。まとまった叙述はないが、テーマや人物に沿って自分との、自分の問題意識との関わりを解きほぐしていくというスタイルのため、この人がいつどこでどのように育ち、どんな人と交わってどんな人生を送ってきたかが概略わかる。その中には太田龍こと栗原登一のような人物もいておやと思わせる。

著者の思考の最大の長所は善悪や敵味方といった二元論を回避して出発する点にある。社会運動上のどのような英雄も絶対視せず批判と吟味の俎上にのせる。そうすることで逆にその敵対者や反対者の矮小さが際立ってくるし、またそうした人たちの視点の中にも見るべきものがあるときはくみ取っていくので、実にフェアだという印象も受けるし思考が豊富化していく。

さらに、自分にとって答えの出ていないことはそのままそう書く。わからないことをわからないと言えない知識人が多い中、この態度は誠実そのものと感じられる。

多くの新しい知見も教えられる。ナチス被害者への損害賠償をドイツ政府に命じるイタリア最高裁の判決や、1952年から60年にかけて弾圧したケニアの独立運動マウマウに対する謝罪と賠償をイギリス政府が決定したことなどである。

13章すべて著者の誠実な思考に精神が沐浴したような気にさせられるが、最も重要なのは第6章「権力を求めない社会革命」であろう。

ボルシェビズムとアナーキズムの簡略だか濃密な検討から、確信的なアナキストにならなかった理由をこう述べる。

「小集団の中でなら可能な平和で水平的な関係性が世界の随所で形成され」「それらが相互に連なりあって民主主義的な世界空間の形成にいたる」と考えるとするなら、アナキズムは「小集団という地域性が人類全体を包括する世界性に到達する媒介項は何か」という理論装置を欠いている。

氏はこの「欠如」を克服できる道筋を見いだすことできなかったので、確信をもったアナキストとして生きる道を選ばなかった、という。

これこそ核心的だ。優れたノンセクトラディカルの多くがこの問題に直面し、やはり組織が必要だとボルシェビズム組織に吸収されていった。あるいは、日常領域の「変革」の総和が社会変革の実体だと脱あるいは没政治化していった。

アナキズムの致命的な弱点をどう克服するかに、大げさに言えば原住民の復権を嚆矢とする人類の未来がかかっている。こう考える人間にとって、では太田氏はどう考えるのか、固唾をのんで次のページをめくらずにいられなかった。

もちろん結論はないが、氏はメキシコのサパティスタ運動にその可能性を見ている。思わず快哉を叫んだ。というのは、イタリアのアウトノミア運動敗北後の日本と世界の運動を見ていて、可能性を感じたのは日本では松本哉らの「素人の乱」とメキシコのサパティスタ運動だったからだ。

「若い男を特権化する」革命の小集団から武装した地域共同体へ。サパティスタ民族解放軍が歩みめざすこの方向こそ、マルクス・レーニン主義的な共産主義とアナキズムの欠点と矛盾を同時止揚するものだという直観に確信を与えてくれた一章である。

この本の基調にあるのは「60年代」を60年代たらしめた重要な発言や行動、あるいは現代思潮社のような出版社の仕事というかその仕事をもたらした「精神」についての報告であり観察であり単線的ではない称揚であり、複眼的な批判である。

経験の継承や人脈的連続性を超えて重要なのが、本書の副題でもある「精神のリレー」であり、これが「60年代」の意義を未来につなぎ生かすことなのだ。こうした思想的営為をほかの誰がやっているだろうか?

ただ、60年安保世代とそれに続く世代の人たちと話していて、その楽天性というか、あえていえばお人好しなところに疑問を感じたことは少なくない。性善説を強く信じる人が多いと感じる。

しかしイスラエルの子どもやクメールルージュの少年兵は、その年代ですでにシオニストになり虐殺共産主義の主体的な担い手になっている。つまり人間は生まれたときは白紙の状態であり生まれながらに善なのではない。

スターリン主義者やカルト左翼には、そうした後天的な刷り込みばかりでなく、生まれつきの、遺伝子的な欠陥があるとしか思えない人間がいる。生まれつき悪魔のような人間というのはいるし、それが社会運動に紛れ込むことも決して稀ではない。オウムのようにそうした人物を教祖に戴く組織もある。

こうした観察からはもう少しちがった見方もありうるし、いわゆる「内ゲバ」に対する考察にはほぼ100%同意するにしてもいささかの観念性というか「お人好し」ぶりに懸念を感じる。

「内ゲバ」が最も隆盛をきわめた1970年代後半、党派間ゲバルトが運動空間の自由を保障する面があった。ざっくり言えば、中核派と解放派が革マルを殺していたがゆえに無党派学生運動が存在できた大学も少なくない。その意味で、党派間ゲバルトのマイナス面だけを指摘してプラス面にまったく触れないのは公正ではない。もちろん、そうした思考法こそ氏が最も嫌うだろうということを承知で、あえて言いたくなる。

アナキズムが常に敗北してきたのはアナキスト諸氏とその理論が「お人好し」だったからではないだろうか。

ロシア革命や中国革命ばかりでなく、スペイン革命におけるアナキストの栄光と悲惨を思うとき、ファシストとスターリン主義者を同一物とみなし、権力奪取のその瞬間に権力機構を粉砕する「悪辣さ」「ずるがしこさ」「徹底した執念」が必要だったという痛切な想いを禁じ得ない。

繰り返し読むことになるだろうし、言及されている多くの書物にも目を通したい。そしてさらに思考を深め広げたい。そう思える書物に、ほんとうに久しぶりに出会った。






最終更新日  May 10, 2016 10:06:01 AM
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May 1, 2016
カテゴリ:読書日記
1980年代のはじめ、労働運動関係の本を読み漁った時期がある。

当時はまだ労働組合の組織率も高く、それなりに力を持っていた。反基地や反軍事演習の現地闘争でも官公労をはじめとした組織労働者の参加は多かったし、中小企業の労働組合も70年代に大学を卒業した人々が内部で組合権力を握り始めていて活気があった。

労働組合の書記になった知人もいたりして、学生運動、住民運動と並ぶ柱のひとつである労働運動をきちんと勉強しておきたいと思ったのである。

そんな中、当時はほとんど理解できなかったが最も印象に残り、いつかはきちんと読みこなせるようにならなくてはと思っていた本が本書。絶版になっているが、上下巻にわかれた新版が再版されているようだ。

名著だ。1969年5月に刊行されているが、日本における労働運動の基本原則と戦術・戦略が完全に叙述されているという印象を持った。

著者の陶山健一は共産主義者同盟から「革共同をのっとる」という志をもって分裂前の革命的共産主義者同盟に参加した人で、分裂後は中核派の最高幹部のひとりとなった。1997年に61歳で逝去しているが、およそ新左翼の活動家・指導者でこの人ほど党派と潮流を超えて敬愛されている人をほかに知らない。

共産主義者同盟の島成郎や生田浩二よりは5歳ほど若く、北小路敏や唐牛健太郎とほぼ同じ世代だが、本書発表時は33歳に過ぎない。その年齢で、日本の労働運動全体を見わたし長所と弱点をえぐり出し、進むべき道を示しているのだからすごいというほかない。

当の中核派は革命軍戦略による対革マル戦争と迫撃砲などによるゲリラ・パルチザン戦争に傾斜していくことになるが、もしこの人が本多書記長暗殺のあと中核派の書記長になっていたら、その後はかなり変わっていたのではないかと思わせる。

この人の実弟は革マル派の最高幹部のひとりであり、革マル派に対しても影響力を行使できた可能性があるからだ。

印象的なのは、街頭政治闘争の意義についての部分。ふつう、職場闘争と街頭闘争は対立的なものとしてとらえられることが多いが、街頭政治闘争を労働者の経験的教育の場としてとらえ、その重みを評価している点。

これは、街頭闘争に一度でも参加したことのある人間ならたちどころに理解できる。街頭で機動隊と直接に向き合い、その暴虐を目の当たりにしたとき、100回の学習会よりも階級的意識を高めるものだからだ。

わたし自身、野次馬的に参加した闘争で機動隊の暴力を受け「一瞬にして」国家の本質を知った。あれこれの国家の政策に対するおしゃべりや賛否の見解の披露ではなく、いわんや「投票」などではなく、国家そのものといえる警察権力の解体・打倒がいっさいの核心であることはこうした闘争を通じてのみ理解される。

革命は、職場の労働者をどれだけ街頭闘争に連れ出すことができ、警察権力と軍隊を圧倒できるかで決まるし、それ以外のものを革命とはいえない。

保守的・右翼的な労働組合であった動労千葉が、三里塚闘争への参加を経て最も強力な労働組合に生まれ変わっていったのは偶然ではない。

観念的空語がひとつもなく、実践のための問題意識に貫かれて書かれている。具体的かつ徹底的だ。

こうした著者の態度こそ誠実さの見本であり、見習うべきはそうした思想的態度である。






最終更新日  May 4, 2016 02:58:20 PM
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April 27, 2016
カテゴリ:読書日記
長年、書店や図書館に通って思うのは、本というもののほとんどがいわゆる「トンデモ本」であるということだ。

料理本やアウトドアガイドのようなマニュアル本でさえトンデモ本であることが珍しくないが、特に社会科学系の「トンデモ本率」は高い。ただややこしいのは、そうしたトンデモ本も、全部がトンデモ本というわけではないケースが多いことだ。トンデモな部分を読み飛ばすというか瞬時に見分ける能力が要求される。

こうした能力を持つ人はめったにいない。わたしが知る限りでは、わたしのほかにはいないほど少ない。

そういうわたしが「トンデモ本中のトンデモ本」と即断するのがこの本である。

編著者の玉川信明は自称アナーキストのジャーナリスト(故人)だが革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル)創設者の黒田寛一(故人)とは若いころ「心友」だったらしくその縁か革マル派機関紙「解放」のダイジェストと言っていい本書を編纂することになったのだろう。

上下巻合わせて1000ページ(価格は税込み1万円)を超える大著だが、読む価値があるのは巻末の玉川信明による黒田寛一インタビュー部分数十ページだけというしろもの。

それ以外の部分は、1974年6月以降の革共同(中核派)と社会党(社青同解放派)による革マル派への襲撃を警備公安警察による「謀略」であるとする革マル派の機関紙誌の記事をほぼ時間順に並べただけ。

革マル派は他党派による自派への襲撃だけでなく、国家権力に対する武装闘争をも謀略もしくは「官許の武闘」などと罵倒し中傷することで自分たちが国家権力と闘わない言い訳にしてきた。武装闘争は跳ね上がりであり組織温存が第一、実際に革命を行おうとするのは時期尚早であり「革命主義反対」をかかげ、権力と闘うすべての個人・団体・運動に敵対し妨害を加えてきた。

その中には、破防法弁護団のような救援組織も含まれる。

要するに、武装闘争・実力闘争で他党派が大衆の人気と注目を集め勢力を拡大していくことに嫉妬し、その嫉妬を理論で粉飾してきただけだ。闘わないことを路線化した彼らが国鉄・分割民営化においては当局の尖兵として「現代のレッドパージ」に加担するという大罪を犯したのは記憶にあたらしい。

100人以上の死者を出した3党派による「内ゲバ戦争」だけでなく、完全勝利した芝浦工大全共闘による革マル撃退、日共民青を含めてほぼ全学が革マル追放に立ち上がった1973年の早稲田解放戦争、北大五派連合による革マル解体戦、80年代中央大黒ヘルノンセクトによる偽装革マルノンセクト撃滅の闘いなどを挙げるまでもなく、蛇蝎のように嫌われ放逐されていったのが革マルだった。

その敗勢を覆い隠し、同盟員の動揺を抑えるために(たぶん)黒田寛一ら最高幹部によって決定されたのが「謀略論」による「敗戦隠し」路線だったのだろう。

他党派には「世界に冠たる革マル派」を襲撃する能力はない。国家権力が直接にわが派つぶしに乗り出してきている。だからやられてもしかたがない。

こういう論理だが、こうした論理はメンバーでさえ信じる者は少なく、脱落者の増加に拍車をかけることになった。実際にそうした人物を知っている。

国家権力が直接に活動家を殺したり印刷所を襲撃したり、わざと警備に穴をあけて管制塔占拠を可能にさせる、などということはありえない。軍国主義の日本でも、関東大震災時にアナーキスト大杉栄らを虐殺した甘粕大尉は軍法会議にかけられているし、三里塚空港の開港延期で日本政府は大きなダメージを受けた。警察の大失点だったのだ。

警備公安警察の基本戦略は1928年と29年の二度の大弾圧=一斉検挙で共産党を壊滅させた手法であろう。組織の情報収集を積み重ね、内部に潜入させたスパイの手引きによる一斉検挙というのが、たとえば共産主義者同盟赤軍派を壊滅させたのと同じ公安の伝統的手法である。

しかし巻末の対談を読むと、黒田寛一じしんがこの「謀略論」を信じこんでいるように思える。盲目の一サロン哲学者にすぎない黒田に「謀略論」を吹き込んだ人物がいるのかもしれない。

しかしそれにしても不思議なのは、もし革マル派の言い分をほんの少しでも認めるなら、2000年以降、こうした襲撃が行われなくなったことである。権力にとって活動家個人を暗殺しなければならないほど革マル派が革命的で危険な組織なら「謀略」は続いているはずではないか。

現在のアルカイダやIS、ネオコンやシオニストはモハメッドやキリストの末裔であり、モハメッドやキリストの思想にその原因と責任の一端がある。

それと同じように、マルクスやレーニンの思想のどこかに、革マルや連合赤軍、フィリピン新人民軍、ペルーのセンデロ・ルミノソやカンボジアのクメール・ルージュ、スターリン主義共産党を生み出すことになる陥穽と欠陥があるにちがいない。 






最終更新日  May 4, 2016 01:29:37 PM
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