投資の余白に。。。

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May 6, 2006
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雲ひとつなくよく晴れた朝、母が死んだ。

やっと新緑が萌え始め、梅や桜も開き始めたというのに母は死んだ。

母が植えたレンギョウやスミレも咲いたというのに、母は死んでしまった。

朝食にはおかゆとアイスクリームを少し食べたというのに、母は死んだ。

朝7時、おはようと言ったら「おはよう」と言ったのに、10時には死んでしまった。

もうすぐ母の日だというのに、その日を待たずに母は死んでしまった。

まだ79歳、人生これからというときに母は死んだ。

闘病生活とそのサポートに悔いはない。わたし以上にサポートできる人間などいなかったろう。

しかし、悔やんでも悔やみきれないことは山ほどある。

いちばん恐れていたことが起きたのに、不思議と平静だ。

自分でも気がつかないうちに、ある程度、覚悟ができていたのだろう。

大急ぎでハガキを作った。

・・・・・・・

わたしたちの母が5月6日午前9時56分、入院先の東札幌病院で亡くなりました。故人の遺志により告別式等は行わず、9日の出棺まで自宅にて母と暮らすことにしました。

不便な場所ですが、平服にて母の思い出などを語りに来ていただければ幸いです。

なお献花以外の志、香典等は辞退させていただきます。

生前のご厚情やご友誼に感謝し、ここに慎んでお知らせいたします。

・・・・・・・







最終更新日  May 6, 2006 04:40:18 PM
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May 2, 2006
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「この2週間の悪化のペースは速く、きびしい状況です。このペースが続くと余命は2週間、長くても数ヶ月でしょう」

 最近替わった、緩和ケアが専門の医師がこう言った。

 痛み止めの投薬のせいで、この数日は母に認知障害が現れていた。食事も全くとらなくなったため、頼みの綱の抗がん剤ゼローダも使えなくなった。

やはり、緩和ケアと治療とは両立しないものなのかもしれない。

母は、飼い猫のサクラを可愛がっていた。夜中に、痛みを訴えながらも「猫、猫、早く、早く」と言った。名前を聞くと、ちゃんと覚えていた。

いずれにしても母に残された時間は少ない。

告別式も含めて形式的なことはいっさいするつもりがない。

そうすると、事前に準備しておくべきことはむしろ多い。

 再発・転移がわかってから1年が過ぎた。せめて母の80歳の誕生日である8月8日まで生きてくれたらと思う。







最終更新日  May 3, 2006 11:39:33 AM
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March 25, 2006
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母は自宅で3泊し、病院に戻った。2週間に1度の「強制退院」は、移動が負担であることを除けば、気分転換にはなったかもしれない。

当初は2泊の予定だったが、新しいベッドで熟睡できたのがよほど嬉しかったとみえ1泊「延長」した。

一日目は2週間ぶりの自宅に感情が高ぶったのか、一昨年他界した父への恨みつらみを聞かされることになった。

弟を出産するとき、父は病院まかせで不在だったらしい。

そのときの心細さは、半世紀近くたちその本人がいなくなっても許せないということのようだ。

そんなトラウマがあったとは知らなかった。

初めての一時帰宅に備えて、車椅子やベッドを買ったり、段差をなくすちょっとした工作をした。

家を作るときは、玄関にせよ室内にせよ、フラットにするかスロープにしてできるだけ段差がないようにすべきということが痛いほどわかった。

痛む股関節をかばいながら歯を磨いたりうがいをしたりしている母を姿を見ると、まるで生後まもなくの子猫の邪心のない仕草のように、かわいいなあと感じることがある。

母を背負って3歩歩けなかった石川啄木の気持ちがよくわかる。

3泊というのは、ちょうどいい期間だと思う。

旅行のときも、3泊すると、中二日あるせいか、その街の記憶が自分の体にしみこむように定着することが多い。

2泊しかしなかった街の記憶はぼんやりと薄い。

わずか30分しかいなかった山の頂上の記憶よりはるかに薄いのだから人間の記憶というのは不思議だ。






最終更新日  March 30, 2006 11:19:39 AM
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March 7, 2006
テーマ:癌(3473)
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母は一日だけ家に戻り、翌日には別の病院に移った。

いままでの病院ではもう見きれないということか、ベッドが満床なのを理由に別の病院を紹介された。

ターミナルケアでは日本でも草分けの病院。しかし、長期入院はできない。2週間に一度、3日間退院してくれと言われた。

厚生労働省の長期入院=社会的入院を根絶させる意志はかなり強固のようだ。

制度が大きく変わるときは、日本人の悪い面が強く出る。官僚制のいい面が悪く作用する。つまり、杓子定規な法律の適用が行われる。そして問題が起きてやっと少しずつ改善されるという道筋をたどる。

バブル崩壊後の間違った金融・財政政策で失われたおカネをあらためて思う。

ムダな公共事業につぎ込むくらいなら、病院に補助金をばらまき、最新鋭の設備を投入した、高級ホテルより立派な病院を作りまくるべきだった。

世界一高度な社会福祉国家を作り、そのせいで財政破たんするのなら、世界の尊敬を集めることもできたにちがいない。

ターミナルケアでは先駆者であるこの病院も、古くて狭い。6人部屋の天井の一部ははげ落ちているし、看護師の数も少ない。

こんな病院で死なせるわけにはいかない。これなら、築38年の我が家の方がましだ。






最終更新日  March 12, 2006 08:54:09 AM
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February 1, 2006
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母は放射線治療のため市立病院に移った。

16回だから3週間弱。空いていたので特別室をとった。差額ベッド代は一日一万円。

個室にはバス・トイレだけでなくキッチンまである。

広い窓からは藻岩山まで見渡せる。

ここに住めたらいい、と思うほど便利な場所だ。

JR桑園駅からすぐで、駅と隣接してジャスコがある。買い物はほとんどここで済む。

ガード下には飲食店が並んでいる。

JRに乗ると2分で札幌駅。一大ショッピングゾーンでシネコンもある。

東側に北大キャンパス内の農場を見下ろす位置にあるので都心の割に自然が豊富な印象を受ける。

10年ほど前にできた建物らしく、全体に広くて清潔で雰囲気も明るい。珍しく男性の看護師がいる。女性の看護師とまた違ったよさがあるように感じる。

個室だと家族水いらずで過ごせるからいい。

聖路加病院などはすべて個室だというが、それがあたりまえになるべきではないだろうか。

もう、がんを根絶するなどという大それた考えは持たなくなった。がんは消えなくてもいいから、これ以上ほかに転移したり大きくならなければそれでいい。






最終更新日  February 4, 2006 09:13:08 PM
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January 4, 2006
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母は「年末休養」を終えて病院へ戻った。

三度の食事を一緒に食べ、夕方にはお風呂を沸かし、テレビやDVDを見ながらおしゃべりする。

そんなごく日常的なことの繰り返しが何とかけがえのないことかと思う。

母がいないと火が消えて冷たくなった石炭ストーブのように家の中がさびしい。

しかし不思議なことに、弟は何も感じていない気がする。母がいる間も、遅く起き出してきてはひとりで食事をとる。ひとりの食事の味気なさを感じない人間というのは、本質的に大切な何か、共感力のようなものを欠落させているような気がする。

いろいろ聞きだそうと思っていたことも、家にいると気が散ることが多く何も聞けなかった。

戦前生まれの多くの日本人の男がそうであるように、父も家庭を顧みることはほとんどなかった。

だから、子どもの頃の楽しかった思い出に父はいない。

例外は、家族そろって出かけたハイキングの記憶。

年に一度くらいは家族旅行をしていたと思うのだが、バスや列車に長時間乗るのは子どもにとってあまり楽しいことではないし、旅としては受け身だ。

むしろ、自分の足で歩いたり、自転車で出かけたりしたことの方が楽しい記憶になって残っている。

それにしても家から歩いてハイキングに行けたのだから、昭和30年代は何と豊かな自然に囲まれていたことか。

どこまでも広がるジャガイモ畑の中をトノサマバッタを追いかけて走り回り、昼食は草むらの上にお弁当を広げた。たったそれだけのことなのに、あんなに楽しいことはなかった。

たしか写真があったはずと探したが見あたらない。

夕陽を背に帰ってきた、あの楽しかったハイキングのお礼を母に言っていないことが、心の負担になっている。






最終更新日  January 5, 2006 08:36:21 AM
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December 29, 2005
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きのう母は岡崎大五の「添乗員騒動記」を読んだ。

その中に、春だというのに大雪のアトラス山脈を越え、メルズーガ砂丘まで強行軍で訪れる話があり、行ったことがあったので印象に残ったらしい。

いきおい、モロッコを旅したときの話になる。

母とモロッコを旅したのは97年。母が70歳のときだ。

ゴールデンウィークを含む1ヶ月、その中の一週間ほどをモロッコに費やしたのだったと思う。

数えてみると、母と旅した外国は15ヶ国。そのほかに何度か母はひとりで外国に行っている。

その中で、いちばん面白かった国を聞くと、やはりモロッコだという。

タイやネパールもよかったが、日本人にとっては文化が似ていてあまり外国という感じがしない。

中米はけっこう欧米化されていたし、欧米のことは日本にかなり情報が入っているので、カルチャーショックは少ない。

その点、モロッコは何から何まで日本と異なっていて、旅の好奇心を刺激するところだった。

このときの旅の第一の目的は長年、憧れていたスペインに行き、セヴィーリャの祭りを見ることだった。

スペインももちろんおもしろかったが、憧れていた分、期待はずれのことも多かった。

春だというのに寒かったのもある。

そこで予定を変更して暖かい国に行こうということになり、ジブラルタル海峡をフェリーで渡ってモロッコに行くことにしたのだった。

だからモロッコにはほとんど予備知識がなく、それもまた旅の印象をいっそう深めることになったのだと思う。

モロッコは、ガイドと称する客引きがうるさいことを除けば旅のしやすいところだった。

岡崎大五のそのときの旅と同じように、マラケシュからアトラス山脈を越えた。ワルザザードを経由してザゴラという小さな町に滞在した。

ザゴラから何キロか行くと小さいが砂漠がある。

そこらの安宿に荷物を下ろして外へ出るとじゅうたん屋が「サバク、サバク」と日本語を使って砂漠ツアーに勧誘する。ラクダに乗って砂漠まで行き、そこで一泊するのだという。

これはおもしろそうだと思って話に乗ることにした。

町から砂漠の近くまではクルマで行く。景色はどんどん変化していく。

だんだん植物がなくなっていき、岩がゴロゴロしているような場所から、その岩が石になり、さらに小石になり、土だけの場所へと変わっていく。

その風景の変化の妙は、日本では絶対に見られないものなので感銘を受けた。一口に砂漠と言ってもいろいろあり、それぞれの美しさがあるということをはじめて知った。

砂漠の近くで、ひとりの少年が2頭のラクダを連れて待っていた。

ラクダに乗り、目指す幕営地まで2時間。

ラクダはけっこう背が高い。背に乗るとかなり高度感があって緊張させられる。慣れるまで足が痛くなった。

やがていわゆる砂漠の中に突入した。

それまでの景色とも全く違う、どこか神秘的で荘厳な風景だった。

全身の細胞が沸騰するような気がした。

夕方になり、砂漠のあちこちにテントが張られて夕食の宴が始まっていた。

われわれのガイドの少年は、しかしさっぱりテントを張る気配がない。

ラクダに結わえ付けている荷物にもそれらしきものはない。

1997年4月23日の母の旅日記にはこうある。

~~4時ごろラクダにのって出発。ラクダの背中はよくゆれる。ももがすれて痛い。2時間ほどで、とある砂丘のかげで泊まることになるが、砂の上にジュータンを敷いただけとは驚いた。砂漠は、まことにおだやかで暖かく、やさしい。こんな表情をもつ砂漠は想像していなかった。ラクダひきの19歳だという青年がたんねんにタジンを作ってくれて、星空の下で夕食。毛布をかけて寝る。星と月が輝いて静かで、ほのかに暖かくて、あまりよくは眠れなかったが、夜を満きつ出来てさいわいという所。ラクダはおとなしくて、のんびりした愛きょうのある顔~~

じゅうたんに毛布で砂漠に「野宿」したあの夜のことほど、強烈な印象に残っている旅の想い出はない。

もし神があと一度だけ旅のチャンスをくれるなら、知識がなかったためにあのとき行きそこねた、メルズーガ大砂丘を選ぶ。ランドローパーでも借りてオアシス街道を走るのだ。

見渡す限りの広大なアマポーラ群落、砂漠に沈む夕陽、羊を追う遊牧民・・・

旅のささやかなエピソードのひとつにすぎないと思っていたあの体験は、いまから振り返ると幸福の絶頂だったのだ。






最終更新日  December 30, 2005 10:49:16 AM
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December 28, 2005
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今日は母が朝鮮にいたときの話を聞いた。

母が朝鮮にいたことがあるのを知ったのは中3のことだった。

何かの拍子に母の学歴を書いたものを見た。

そこには「京城女子師範卒」とあった。京城とはソウルのことである。

そのころは無知だったから、実は母は朝鮮人なのかもしれないと思った。

父は台湾生まれだったから、中国系なのかもしれないとも思った。

友人に両親の出身を話したら、何人かは去っていったという経験もある。

自分は日本人ではないのかもしれないと短い期間だが思ったのは自立心を養う上でよかった気がする。とはいえ、歴史を勉強して、1945年まで台湾も朝鮮も「日本」だったことを知って変な話だが安堵したものである。

母が朝鮮に渡ったのは19歳のころらしい。昭和19年というと、かなり敗戦色が濃くなってきたころだ。

軍国主義一色の日本に窮屈さを感じ、植民地にいけば少しはのびのびできると思ったらしいが、植民地の学校に行くと優遇措置があったのだろう。しかし、日本軍国主義がフランス式の同化政策を押し進めていた朝鮮は、本国以上に窮屈だったという。

敗戦後、植民地にいた日本人は、アメリカ軍の指導の下にかなり整然と帰国した。

大邱医学校の宮下医師とソウル大医学部の某医師が、GHQと交渉して朝鮮からの帰国民の防疫や健康管理に尽力。母はソウルでそれを手伝ったのち、プサンに移動したのだそうだ。無給で、衣食住が保証されるだけの4ヶ月だったという。


毎日、何百人もの引き揚げ者にDDTを振りかけたりしていたのだ。

朝鮮からの引き揚げ者、特にプサンから引き揚げた人の多くは母にDDTを噴霧されたはずだ。

悲惨だったのは旧満州からの引き揚げ者だったらしい。

女性は男装し、食うや食わずでソウルもしくはプサンまでたどり着いた人たちがほとんどで、みな顔は土気色だったという。

満州だか朝鮮で収容所生活を送り、命からがら帰国した郷里の同級生がいて、その同級生からは今年も年賀状が来て「同級生で生きているのは、ぼくとあなたの二人だけになりました」とあったという。

マコトという名のその小学校しか出ていない同級生は、戦後、岩手県警のトップになった。

帰郷したとき、ちょうど彼の母は畑に出ていた。顔をくしゃくしゃにし「マコトか、マコトか」と泣きながら走り寄ってきたという。

60年前のちょうど今ごろ、引き揚げ者が少なくなり、20歳の母は釜山発福岡行きの巡洋艦で日本に引き揚げてきた。

日本兵の中には、現地の女性と親しくなり、日本を捨てた人も少なくなかったようだ。

そういう人たちは数年後に始まった朝鮮戦争で悲惨な目にあったにちがいないが、そういう人たちにスポットライトをあてた歴史家を寡聞にして知らない。






最終更新日  February 6, 2010 01:41:34 AM
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December 27, 2005
テーマ:癌(3473)
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26日、股関節を痛がる母を連れて整形外科に行った。

レントゲン写真を一瞥した医師は、「がんの骨転移にまちがいないと思います」と言う。

目の前が真っ暗になった。

その足ですぐ乳腺クリニックに行き、入院。骨を固める点滴薬の投与を行った。

抗癌剤の投与は順調にこなし、癌細胞は抑えられていると思いこんでいたので、青天の霹靂だった。

心の中に鉛の雨が降る。あるいは、タールの雨が降る。26、27の両日はそんな気分で鬱々と過ごした。

食べ物ものどを通らず、カロリーメートのゼリーで何とかしのいだ。

母に取りついた癌細胞はよほど性質の悪いものらしい。奇跡でも起こらない限り、母に残された時間はそう長くはないようだ。

この2年、特に父が亡くなってからの1年は、すべてを母優先にしてきた。食事も、母が好きなもの、しばらく食べていないもの、食べたことのないものと考えて作ってきた。

だから、入院されてしまうと、何をどうしたらいいかさえわからなくなってしまう。ぽっかりと心に穴があいてしまったようだ。たとえようのない虚無感、虚脱感に襲われた。

子どもの成長だけを楽しみに生きてきた人が子を失ったときにはこんな風に感じるのだろうか。

母を連れイタリアには3度行ったが、あんなに憧れていたシチリアに連れて行くことはできなかった。

動物好きの母をアフリカのサファリに連れてゆく夢も果たせなかった。

プラハ、エディンバラ、マチュピチュ、ヴィクトリアの滝、メルズーガ砂漠、カラコルム、タイの小さな島・・・いずれも夢に終わった。

もう一度ナポリのオペラハウスでテナーの美声に酔うことも、ヒマラヤで満天の星空を見ることもかなわなかった。

せめてもう一度沖縄にという夢も、どうやら意地悪な神さまは許してくれないようだ。

呪ってやる。神仏など糞くらえだ。

常に後手後手にまわり、危機管理能力のない日本の医療にも失望した。

やはりMDアンダーソンに連れて行くべきだったのか。

恨み言を言ってもしかたがない。

むかし読んだ沢木耕太郎の「人の砂漠」には衝撃を受けた。新聞のわずか数行の記事の背後に、実は底知れぬドラマが隠されていることを暗示するルポルタージュ。謎は謎のまま提出され、知ったふりの解釈がいかに底が浅いものか、ひとりの人間の生の重みを痛感させられた。

いままでもそうしてきたが、これからは一分一秒でも母といる時間を長くするようにしよう。

家族ができることというのは少ない。いちばん大事なのは、ひとりにしないこと、何もしなくていいから、ただ一緒にいることだと本で読んだ。

母がどんな人生を歩んできたのか、実はよく知らない。

ほとんどの人がそうではないだろうか。

母と話したこと、聞き出したこと、思い出したこと、誰の役にも立たないかもしれないが、こんな人生を送ったひとりの女がいるのだということを、こうして書かずにはいられない。






最終更新日  December 28, 2005 09:53:26 PM
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September 25, 2005
テーマ:癌(3473)
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知人が2年前に癌で亡くなっていたのを、きょう知った。

48歳の死は早すぎる。

知人の名は西村英樹という。札幌の編集者・プランナー。20年ほど前のある時期、半年ほど毎日のように顔を合わせた。

離島の出身だが大学は東京。そんな経歴のせいか、純粋さと都会人の雰囲気を併せもった珍しいキャラクターの人だった。

知り合ったのは、公共施設から合成洗剤を追放する条例の制定を求める運動の中だった。

純粋な市民運動のようで、実は旧社会党系の労働団体がスポンサーという危うさのある運動。限定された期間の運動だからいいかと思って引き受けたのだが、運動が終わってからも彼はその火を絶やさないように少人数で運動を続けていた。

彼の誠実さに気がついたのはその時だった。

その気なら、社会党→民主党の線で、国会議員はムリでも市会議員くらいにはなれたと思う。

党派や信条に関わらず、目的が同じであれば排除せず行動すべきという彼のスタンスは、党派(セクト)の弊害を重視し「表向きは誰でも歓迎、しかし党派関係者とは距離を置き情報を流さないし付き合わない」流儀のぼくらのグループとはソリが合わず、結局、彼とも距離を置くことになった。

彼はなかなかハンサムで、とびきり美人の奥さんがいた。しかもすでに独立して事務所を構えていた。

彼が書く、流れのよすぎる文章には違和感があったが、そんな彼へのやっかみもあったと思う。

それでも、ちがう道をゆく同志、といった感情はずっと持っていた。

彼はヘビースモーカーで、酒もよく飲んだ。出前でとった昼食をよく一緒に食べたが、大の野菜嫌いで、トンカツのキャベツにはまったく箸をつけなかった。

反核やエコロジーを信条とし、しかも「農」についてもよく考えている人なのにと不思議に思ったのをおぼえている。

悪口ばかりになったが、これでも追悼文のつもりだ。

なぜか歳の近い人の生死は身にしみて切実に感じる。






最終更新日  September 25, 2005 06:08:55 PM
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