投資の余白に。。。

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折々のバカ

April 12, 2016
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カテゴリ:折々のバカ
かつてこの連載でこう書いた。

「たいていの日本人は20代のどこかで人間的成長を放棄する。成長を放棄して20年から30年たつと、治らないバカ、つまり完成したバカになる。早ければ40歳、遅くても60歳にはめでたくバカになる」

最近、老人ホームを集中して訪問する機会があった。積雪期だけ駐車場を貸してもらっている老婆が老人ホームに入りたいというので後学のためと考え案内を引き受けたからだ。

老人と知り合うと、その周辺の老人とも知り合うことになる。ほとんどは夫をなくした80歳以上の女性で、90代の人もいる。

それぞれ抱えている持病は一つではないようだが、自立して生活できているのだから大したものだ。

親しくなってくると同時に共通の現象に気がついた。

行くとたいていテレビがつけっ放し。韓国人や中国人とも共通する日本的習慣だ。話題はというと病気か死んだ夫の自慢もしくは悪口、子どもや孫の自慢もしくは悪口の順だ。

その次にくるのが時事的な話題。

ちょうど北朝鮮のミサイルが騒がれている時期だったので、「北朝鮮は悪い国」という意見のオンパレード。

そこでちょっといたずら心が出て、「北朝鮮はすばらしい国」と反論してみることにした。

すばらしい国というのはもちろん比較の問題で、挑発的なジョークである。中国大陸で民間人を2000万人殺した日本や、ヴェトナムをはじめ全世界で2000万人殺したアメリカに比べれば「外国を侵略したことがない、すばらしい国」というだけの話。

人類全体を10回殺してまだ余る核兵器を持っている国が「核開発疑惑」などと騒ぐのも笑止千万だ。

さすが老人である。短期記憶力の劣化はすさまじい。わたしがこう持論を述べると100%同意する。おまけに、例外なく他の人にそのままわたしの持論を展開するではないか。年寄りは頑固だとうイメージは吹き飛ばされた。なんと柔軟な人々か。

数日して家へ行く。そうするとまったく同じことが繰り返される。要するに自分の意見というものがないので、マスコミや他人の意見がすぐ自分の意見にすりかわるのである。

老人たちは短期記憶力の劣化のせいで洗脳されることがない。支配階級がマスコミを使って流す悪宣伝も彼ら彼女らのアタマには定着しないのだ。

ひるがえって短期記憶力の劣化のない日本人はどうか。

善良な人間ほど正義漢になりたがる。だったら全財産を寄付するとか、北朝鮮に潜入して反政府ゲリラでも敢行すればいいものを、ブルジョワ・ジャーナリズムの喧伝に同調するだけで自分が正義の側に身を置いていると錯覚し満足する姿は醜悪そのものだ。

もちろん商業ジャーナリズムがすべて虚偽の報道を行っていると言いたいのではない。だが巨万人民が参加したデモがまったくニュースにならないように、取捨選択の時点ですでにフィルターとバイアスがかかっているのがジャーナリズムの常だし、近くはイラク戦争、少し前だと国鉄問題のように、あとで振り返ってみるとまったくウソだったケースも少なくない。

アメリカやフランスやイギリスが中東で行っている、行ってきたことを不問にしてISを批判する人間。ISとクルド労働者党のテロを同一視する人間。ISがイスラエルやアメリカの対シリア政策=パレスチナ人民皆殺し政策から直接・間接に生まれたものであることを理解できない人間。

何よりも、北朝鮮が歴史的に一度も外国を侵略したことがない「すばらしい国」であることに異論をとなえる人間。

こいつらはみな立派なバカである。自分のアタマで考えることを放棄した人形であって人間とはいえない。

こうした、短期記憶障害が始まっている認知症初期の老人とは比較にならないほどのとてつもないバカが、きょうも紙と電波とインターネットで量産されていく。






最終更新日  April 12, 2016 09:06:04 PM
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November 24, 2012
カテゴリ:折々のバカ
急性期3週間、リハビリに励めば3ヶ月で軽快という医者の言葉通り、頚椎椎間板ヘルニアはほぼ収まった。指先のしびれはのこるが、iPADだとタイピングは最小限ですむ。リハビリをかねてブログを再開することにした。

10月22日午前。初キスの相手との36年ぶりのデートは横浜港を見おろすレストランだった。彼女は多忙なので4時間しかない。お互いの36年を話せば4時間などあっという間だ。だから自分のことはメールで送っておき、聞く側に徹することにした。

それでもなにせ36年ぶり。思い出話だけで終わってしまう可能性が高い。つぎに会うのは何年後になるかわからないのだから失敗できない。衆議院議長になった人物からレコード大賞の演歌歌手までいろいろインタビューしてきたが、これほど緊張したことはない。実のある会話は難しいかもと心配で眠れなかったほどだ。

しかしその心配は杞憂に終わった。

エリートサラリーマンの夫と5年前に離婚し27年間の結婚生活に終止符。別れた夫は結婚前はストーカー、結婚後はモラハラ男で彼女のあらゆる対外活動を抑圧した。それでも、単身赴任で海外駐在に出た15年前から音楽活動を再開。夫の帰国後、独力で離婚調停を申し立てた。自分の人生で最も嬉しかったのは離婚できたこと。娘二人は今年独立。去年12歳歳上の郷里のカメラマンと再婚したが一緒に暮らしたことはない・・・

ふつう女性がこれだけのことを話そうとしたら1時間や2時間ではすまないだろう。しかし彼女は1分30秒で話した。細部を問い返したのでモラハラ夫とのバトルだけで30分を要したが、食事が終わるころには核心点をあらかた聞き終わることができた。

隣のカフェに場所を移しての会話は、ひさしぶりに「会話のダイナミズム」を満喫できるものだった。

自分の知っていることを話すのは説明であって会話の入口にすぎない。自分のことを即自的あるいは逐次的に話すのはグチか自慢にすぎないケースがほとんどだ。

世間の「会話」の99%はこうしたグチか自慢、放言の交差でなければ情報交換にすぎないことをわたしはよく知っている。ここで「オヤジギャグ」を少しだけ擁護しておくなら、こうした会話ならぬ会話の不毛さを解毒する清涼剤としての作用を指摘しておく。

相手の言葉がヒントになって考えてもいなかったことを考える。その結果述べた言葉が相手の知性に核融合的な反応を起こしてさらに新しい考えを産んでいく。おたがいの知性を使って新しい考えや発見にいたる、これが会話のダイナミズムであり、そこにユーモアが加味されればこれほど楽しいことはほかにないといえるほどだ。

しかし、そうした会話が成立するのはごくまれだ。いくつかのきびしい条件が整わなくてはならない。

最も大事なのは相手の知性に対する信頼と尊敬、言いかえれば相手の言葉を虚心に受けとめひとまず耳を傾ける謙虚さである。カルト信者や特定のイデオロギーを崇拝する人間だけでなく、狭い価値観にとらわれ社会通念を疑ったことのない人間にはこうした謙虚さがないので一方通行の話しかできない。もとより会話は成り立ちようがない。

論点の提出も必須だ。というか、的確に抉出された論点の提出ができればその会話というか対話は成功を約束されたも同然だろう。

今回、その論点は彼女が提出してくれた。

その論点とは、最も純粋だったころ出会ったぼくたちが、長い年月の中でその純粋さをどう失い、ひきかえになにを得たかというものだった。

おたがいに小さくない挫折を経験したが、それでも最後まで残った自分を自分たらしめているもの。つまり自分にとって必然なもの、それにいつどのようにして気がついたか。それは今後の人生にどういう意味と作用をもたらすか。

そんなことを話しているうちに、共感や一致といった表面的なことではなく、大げさにいえば魂が融合したような感覚を味わった。親しくなった、その理由も思い出すことができた。それは音楽を感覚でなくできるだけ理論的にとらえようという性向で、それが他の同級生とは決定的に異なっていて惹かれあったのだった。そして、自分にとって必然であるようななにかのない人生を生きている人たちと付き合っていくのに必要なスタンスはなにかという話に発展していった。ひさしぶりに、ほんとうにひさしぶりに会話の醍醐味を堪能できた。

長くなったが、ここまではこれからの話の前置きだ。

充実した4時間のあと、ひとりで珈琲のおかわりをしながら思い出したのは、なぜか過去の不毛な「会話」の数々だった。

まず思い出したのはレナード・バーンスタインが1990年の夏に滞在した札幌郊外のログハウス・キャビンの経営者。リハーサルや本番はつぶさに見たが、日常のバーンスタインがどんなふうだったか知りたいと思って会ったことがあった。あのような大芸術は才能だけで生まれるわけがない。日常の行動のどこかにそのヒントがあるかもしれないとかんがえたのだ。

しかしこの時のインタビューは、デビューまもない国生さゆりのとき以上に不毛だった。二代目のこの経営者は、「すごい人だった」を繰り返すだけで、バーンスタインのどこがどうすごかったのか、語る言葉を全く持っていなかったのである。

1時間の間に聞き出せたのは、バーンスタインは朝起きると必ずテラスの椅子に座って瞑想していたという「情報」だけ。1時間に20回ほど力を込めて「すごい人」と語ったこの男の高そうなシャツとネクタイだけはおぼえている。

ここで「情報」という言葉を吟味してみよう。

人間は一日に億以上の情報に接している。そのほとんどを忘れてしまうが、大事なことは無意識のうちに取捨選択して記憶に残す。取捨選択するのは知性である。つまり情報とは知性によって選ばれるのであり、何を残したかは知性そのものを表す。情報とは知性であり、どうでもいいことを記憶に残すほど非知性的に、つまりバカになっていく。

米CIAの要員は全世界に数万人いて、本国に毎日レポートを送っている。その中から重要なものがA4一枚にまとめられて毎朝大統領の机の上に置かれる。それを読んだアメリカ大統領は、ときにわれわれの生死をさえ左右する決断をする。CIAは中央情報局と訳されるが、CIAのIはinfomationではなくintelligenceであることはよく知られている。直訳すると中央知性局なのであり、世界を動かしているのは情報ではなく知性、情報を数万分の一に圧縮したり選り分ける知性なのである。

このことは情報が知性であることを端的に表している。もっとも、米CIAのばあいはcentral atrocious(極悪非道な) intelligence agencyが適切な団体名であり、CAIAと略されるべきだが。

世紀の大音楽家と一ヶ月も接して「すごい人」という感想しか口にできない人間はバカ以外のなにものでもない。この経営者の会社がその後あっけなく倒産したのはあまりにも当然であり、こんな経営者に経営を付託していた株主も同レヴェルのバカにほかならないが、会話力のないバカと付き合うと大損するという教訓はよくかみしめておく必要がある。

もう一つ思い出したのは、前日に見た芝居の感想を知人にたずねた時のことである。感想をたずねているのに、その知人は延々とストーリーを話し始めたのだった。

映画や演劇の感想を話すとき、ある程度のストーリーを話すことはあっていいし、必要でもある。しかし大事なのは作者がその作品を通じて言いたかったことであり、原作との距離感はどうだったとか、それら総体を自分がどう評価するかである。感想をたずねた側は、その作品が相手にどのような影響を与えたかを推測し、体験する価値があるかどうかを判断する材料にするわけだから、ストーリーは最小限でいい。相手が高く評価するからこそ行く必要はないと判断することもある。「スター・ウォーズ」や「ロード・オブ・ザ・リング」を激賞する人が「つまらない」という映画はいい映画である確率が非常に高い。

こうしたことは、端的にいえば、時間を費やし金を払うだけの価値があるかどうかを判断する材料さえ手に入ればいいのだ。

36年の人生を1分30秒で話した元カノの例に照らすなら、2時間の映画や芝居のストーリーを語るのは30秒でも長すぎる。ストーリーと感想を合計して1分、どんなに長くても1分30秒が限度だろう。

こうしたことは失敗から自然に学んでいくことである。わたし自身、20歳そこそこのころは見てきたばかりの映画についてストーリーを含めて延々と語ってしまったことがある。話し始めて1分をすぎたころ、相手の目に退屈と失望の色が浮かんできたのを見てこうしたことを悟ったが、この手の失敗は誰でも何度かはやらかしてしまうものだ。大事なのはそうした失敗から学ぶことだ。

中高年になってもこうした失敗を自覚せず繰り返す人間を最近の日本ではKYともいうらしいが、そんな上品な言葉は必要ない。ただのバカと呼び身辺から遠ざけるべきだろう。

投資倶楽部の主婦グループと会ったときのことも思い出した。景気サイクルの現状とイラク戦争からどういう銘柄への投資が適切かという話をしたのだが、どうも話がかみあわない、というかこちらの話が相手に入っていかない。

しばらく話していてわかったのは、この人たちは自分が名前を知っていたり身近だったりする会社が「いい会社」だと思っていて、知らない会社は「悪い会社」か「あまりよくない会社」だと思い込んでいるということだった。

要するに、この人たちは新しいことを学ぶ気持ちがなく、自分たちの意見に「共感」しそれを補強する意見を聞きたいだけなのだ。

だったら最初から講師など呼ばず、 仲良しグループで共感ごっこをしていればよい。「共感」で儲けられるほど株式投資も、世の中も甘くない。

「同情するなら金をくれ」という「家なき子」のフレーズがあれだけ人口に膾炙したのは欺まんを暴露しているからだけではない。論理なき感情、論理の獲得とそれにもとづいた行動をともなわない「感情」の告発と断罪を含みもっているからだ。   

言葉を共感ごっこの道具に貶めて恥じない人間がバカであること、共感や同情を行動に結びつけることのない消極性がバカの淵源であることは、稿をあらためて論じるべきテーマかもしれない。

それにしても初キスの相手の会話力には驚いた。合唱団を四つ指導し100人以上の女性と恒常的に関わりを持つ中で養われたのかもしれないが、そもそもとても聡明だったのだ。そんな彼女とつまらない意地の張り合いで別れてしまったぼくは日本一のバカかもしれない。

そんなぼくにバカ呼ばわりされる人間に、生きている価値があるだろうか?






最終更新日  December 9, 2012 11:45:35 AM
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July 6, 2010
カテゴリ:折々のバカ
高校の同級生に野球部員だった男がいる。地方大会の決勝戦で負けたので甲子園には行けなかったが、この決勝戦で長打を打ち、相手チームとの得点差を縮めたのが自慢だ。

その試合から10年以上たってからも、同期の集まりではいつもその自慢をしていた。そろそろ35年たつが、たぶんいまでも自慢していることだろう。

この男は地方公務員になった。そして独身だ。公務員のように安定して比較的高収入であれば、よほどのことがない限り結婚相手には恵まれるものだ。そうならなかったのは、端的に言って「女にもてない、好かれない」からだろう。彼女ができたという話さえ聞いたことがない。

この男は、多少背が低めであることを除けば、さほどブサイクではないし、アタマも悪くはない。社交性もそこそこある。風俗遊びをすることを公言していたから、同性愛者ではない。

女性は一般に、40歳に近づくと結婚相手に対するハードルはがくんと下がる。条件は収入だけに収れんする例がほとんどだ。

それでは、なぜこの男は結婚できなかったのか。

もちろん、それはこの男がバカだからである。

「男の子」が「男」になるにあたって、最も必要なのは「英雄体験」である。アメリカ映画「スタンド・バイ・ミー」を思い出せばいい。4人の男の子が「冒険旅行」に出かけて帰ってくる、それだけの話だし、あとでよく考えると冒険といえるほどのものでもない。

しかし、あのささやかな「冒険旅行」で「英雄体験」(年長の不良に知恵と勇気で打ち勝ち、ピストルを向ける場面がそのクライマックスだ)をした彼らは、少年から一人前の男へと成長していく。

女が男に求めるものは、英雄体験を通して勝ち取った、知恵と勇気である。英雄体験そのものは問題ではなく、その体験を通して、どんな知恵と勇気を得られたかが重要なのである。女は、自分を守ってくれるのは、そうした男の知恵と勇気であることを本能的に知っている。だからこそ、そうした知恵と勇気のある男を好きになるのである。

英雄体験は大したものでなくてよい。オリンピックに出場したとか、エベレストに登ったとか、そういうことだけが英雄体験なのではない。日常で遭遇するトラブルを切り抜けた体験はもちろん、失敗ですら英雄体験になりうる。

この同級生は、「決勝戦で長打を打った」という英雄体験を持っている。しかし、その体験を語るだけで、そこに知恵と勇気を感じさせるものは何もない。あるのは、ただの事実だけである。決勝戦で逆転サヨナラホームランを打ったというのなら一生自慢してもいいかもしれないが(笑)、それでもプロ野球に入れなかった自分の限界を語り、「他人に花を持たせる」ようなことを語る男を女は好むはずである。

「世界一の金持ち」オナシスに恋をしたマリア・カラスのことを考えてみよう。彼女が「世界一の金持ちにして世界屈指のぶ男」であるオナシスに恋をしたのは、オナシスが戦争中と戦後の悲惨な状況を知恵と勇気で乗り切った、その話に魅了されたからである。

男女の愛情のベースにあるのは、というかあるべきなのは尊敬である。自分にないものを持っている、自分のできないことができる。女は男を、その男が英雄体験を通じて獲得した知恵と勇気の質で判断する。その知恵と勇気が自分を守るのにじゅうぶんなものか、相手の人間的な器量の大きさをそこで判断し、尊敬から愛情が生まれていく。

こんなことは、女にもてる男の言動のパターンをいくつか分析すればすぐわかることだ。

英雄体験を知恵や勇気の源泉としない男、そもそも英雄体験をしようとしない男、ついでに言えばそういう男を好きになる女。

それらはみなバカである。そしてこの手のバカは急速に増大しているように思われる。






最終更新日  July 6, 2010 04:47:03 PM
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March 5, 2010
カテゴリ:折々のバカ
20年来の友人である東京在住のY氏には札幌に彼女がいる。いや、いたというべきであろう。Y氏はアラ還、彼女はそろそろ40代のなかばに差しかかるところだ。M子という。

M子とY氏の付き合いは長い。出会って20年以上であることは間違いない。実はY氏はM子の姉と付き合っていた。その姉からM子の借金について相談されたのをきっかけにM子と付き合うようになったのだ。

M子は金銭管理のできない困った女で、家賃を払えなくなった彼女の夜逃げというか秘密の引越(笑)をY氏と共に手伝ったこともあった。しかし何とか立ち直り都心に美容室を開業、数年前には結婚もした。

Y氏は14~5年前に札幌の事務所を引き払い、東京へ帰った。帰ってからもしばしば札幌を訪れ、彼女の美容室に遊びに行ったりと交流があった。彼女の父親が亡くなり、莫大な相続が発生したものの父親に隠し子がいたことが判明し、その対処に奔走したこともあった。彼女が被害者となった交通事故では裁判を起こしたこともあった。

しかしY氏が言うには、結婚後、たまに飯でも食おうじゃないかと連絡すると、「わたしは人妻なので」と断るようになったという。だから結婚後は会っていないし、たぶんこれからも会うことはないだろう。

結婚後、それまで付き合いのあった男性と縁を切る。そういう女性は多い。どんなに長期間付き合っても、新しい恋人ができたとたん、以前の男にはまったく興味を失う。どうも女とはそういう生き物らしいがM子は典型だ。

20代とか、若いときならそれもしかたがない。新しい出会いのもたらす幸福にひたっている間は、過去の男など壁のシミのように色あせた思い出でしかないだろう。時間は無限、人生が後ろではなく前の方にあると感じている間は、ひとりの異性と長く親密に過ごした時間の貴重さ、その関係性の貴重さなどわかるわけがない。

しかし、30代、40代ともなると話は別だ。30代も後半になれば親は老い、行く末を考えるようになる。よほど軽薄な人間以外、内省的になるし、人間関係という財産について考えるようになる。

M子にしてみたって、Y氏の不倫相手というだけでなく、前述したように生活そのものに深く入り込んだ付き合いをしていた。言ってみれば恩人でもあるのだ。その恩人を結婚したからといって切り捨てる。

それはなぜか。彼女が、人間関係こそが最も貴重な財産であるということに気づかない、それを知らないバカだからである。

そしておそろしいことに、日本ではほとんどの女がM子と同じバカに侵されている。イスラムのシャリーア法じゃあるまいし、そんな道徳はブタにでも喰わしてしまえ、というかブタも喰わないだろう。

故・千葉敦子の本だったか、元カレたちが交代し分担して彼女の入院=闘病生活を支えた、というのを読んだとき、彼らの心の広さに感動したものだ。日本で同じことをしたなら、変なヤツと思われるだけだろう。それはバブル以降とくにひどくなった。無償で何かをすると何かよからぬ魂胆があると邪推する人間が急速に増えたのである。助け合いとか親切が消えた社会で成長した人間は、人の善意を信じない人間になるということだろう。特に大都会で生まれ育った人間に顕著だ。

また、大都会に生まれ育った人間は警戒心が強く私生活を閉ざす傾向がある。希薄な人間関係に慣れきってしまっているのだろう。濃密な時間を過ごした相手でも簡単に切り捨ててしまう。それを洗練と呼んでもいいかもしれないが、狡猾ともいえる。少なくとも、純粋ではない。

警戒するのは悪いことではない。ただ、相手に警戒を悟られてはならない。むしろ自分の手の内をさらけだして相手の油断を誘い、本性を見ぬくのが大事だ。世間知らずであまりに無防備でないとすれば、警戒すべきポイントを間違っていたり、警戒心を悟られるからストーカーに殺されたりするのだ。

金銭トラブルや、憎しみ合って別れたのでなければ、バースデイメールくらい送り、年に一度くらいは会うことだ。

カネをドブに捨てるヤツはバカ呼ばわりされるだろう。数年という時間は、長い人生の中といえども決して短い時間ではない。そしてその数年の自分を知るのは、その人しかいない。昔の自分、今より若かった自分を知る人間というのは財産であり、恋愛が終了したからといってそれをドブに捨ててしまうのはカネを捨てるより愚かなことだ。

草食系ならドブに捨ててしまってもかまわないかもしれない。しかしY氏は侠気のある人物である。そのことはわたしよりも付き合いの古いM子はよく知っているはずだ。結婚して幸福なら、その幸福について話せばいいではないか。自分の幸福は他人が妬むだけだと思っているから会わないし話さないのだ。ということは、他人の幸福は妬ましいだけなのか。

元カノではないが、たまに二人きりで会いたいと思う人がいる。高校のクラスメートだ。第3者のいないところで、じっくりと話がしたい。そう思っているだけなのに、誘うとみなで会いましょうというメールが来る。予防線を張っているわけだが、醜く太ってしまったキミには男性として興味がないから安心しておいでとは言えない(笑)。言えないから、結局会わないし、会って話さないから、彼女は永遠にソニー株の含み損にあえぎ、BYDやコスモ石油で儲けられずに終わることになる。

定期的に会う元カレ、元カノのいない人間。いや、元カレ、元カノと積極的に会おうとしない人間はバカである。わたしが立法者なら、そういう人間には逆シャリーア法としてむち打ちの刑を用意するところだ。






最終更新日  March 6, 2010 11:06:06 AM
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February 26, 2010
カテゴリ:折々のバカ
ローマは一日にしてならず。バカは一日にして生まれない。日々の地道な積み重ねがローマを作ったように、バカも毎日少しずつ、長い期間をかけて作られる。実は人間には元々バカ遺伝子という遺伝子があるらしい。この遺伝子はがん遺伝子と同じで、ある条件の下で動き始め、ゆっくり広がり、最後には全身を侵す。

バカは生活習慣病だったのだ。意識してそれを回避しようとしない限り人間を侵していくのである。もって生まれた知能や才能はあまり関係がない。

それでは、何がバカを作るのか。

バカは馬鹿と書く。しかし、馬や鹿は人間とちがってバカではない。人間に従順だからといって馬や鹿をバカにするのは、当の人間がバカだからだ。

人間固有の生活習慣病であるバカは、いったい何が作るのか。知能が関係ないとすれば、何がバカ遺伝子を発動させるのか。

これはあくまで推測だが、それは言葉である。言葉が人間をバカにする。バカを作る。聖書にあるように、はじめに言葉があった。言葉を発明した人間は、この便利な道具の入手とひきかえに、バカ遺伝子を発動する宿命を負ってしまったのである。

小学生のころ聾唖の同級生がいた。同級生でただひとりバカではないと感じたのがこの子どもだったことは、このことを裏付ける有力な証拠だ。

たまに会う不動産会社の二代目がいる。親の株式資産は30億、ただしバブルの全盛期には1000億だったというまだ30代の人物である。

若いのに4人も子どもがいる。いや、6人だったかもしれない。

お金持ちの御曹司なのに謙虚で腰が低く、それでいて慇懃さがない。さぞ女性にはもてただろうと聞くと、結婚までに100人以上の女性と関係したと自慢するふうでもなく言う。その表情は、遊びのセックスなんてつまらない、よき母である妻以外の女性に興味はないと語っている。

それは正直な気持ちだろう。そしていつも、こういう話が続く。経営者として、社員を食べさせていく責任がある。大事なのは会社や利益の拡大ではなく、きちんと従業員に給料を払い生活を支えていけるように守りの経営をすることだ。

こう経営者としての姿勢を話したあとで、たいていプライベートな話にいく。子どもはかわいい。

長年の観察によれば、こういう、誰も反対できないあたりまえのこと、皮肉な見方をするなら陳腐なことしか言わない人間というのは、かなりの確率でバカになる。バカだからこういう陳腐なことしか言わないのか(バカが先か)、陳腐なことしか言わないからバカになるのか(言葉が先か)は検討の余地があるが、後者、つまり陳腐なことを言うからバカになるのだと思う。

もちろん、若いころは誰でも、何も考えずにこういうことを言ってしまうことはある。夕焼けは美しいとか、イタリア料理はおいしいとか、それ自体が新しい発見であるような人生の黎明期においては、こういう陳腐な見解の披露も許される。

何かの素晴らしさに初めて気がついたとき、それを口にするのは、誰も奪うことのできない特権ではある。

しかし、子どもがかわいい、というのは大のおとなが口にしていい言葉ではない。

たとえば、何かを一緒に食べていて、この料理はおいしい、と言うのは陳腐ではない。かわいい子どもを見て「かわいい」というのも同じだ。思わずついて出る言葉であり、正直な感想である。

何か感動や経験を共有しようというときは、ただ感想を述べる、あるいは述べ合う、それでいい。

しかし、ある程度の人生経験を積んできた大人が決して言ってはいけないのが、たとえばある料理を「おいしい」、ある音楽を「美しい」、ある映画を「面白い」と言った言葉で評することである。感想ではなく批評が求められている局面で感想を述べてしまうのは、精神が幼稚であり、社会性や公共性を欠いているからだ。

子どもがかわいいのはあたりまえだ。他人の子どもでさえかわいいのだから、自分の子どもならなおさらだろう。あたりまえのこと、誰でもがわかりきったことをことさらに言葉にするのは、それ以外に何も発見できないからにほかならない。

その言葉をきく人がどう思うかを考えるなら、軽率にそういう言葉は口にできないはずだ。なぜなら、子どもをもたない人生を選んだ人、子どもに恵まれなかった人を傷つける可能性があるからだ。

精神的に幼稚で、社会性や公共性を欠き、他人に対する想像力がない人間。こういう人間をバカと呼ばずにいられない。

わたしの母は教師だった。ある時、自分が担任をしている子どもの方が他のクラスの子どもよりかわいらしく感じる。それはとても不思議だと話したことがある。

これは、日常的に慣れ親しんでいる子どもの方をかわいらしく感じるという人間の性質への洞察を含んだ発言であり、「自分の子どもはかわいい」と、他人にとってはどうでもいいことを偉大な発見であるかのように語るのとは大違いだ。さすがにわたしの母だけのことはあると思ったものである。

その一方、年長の従姉が「家庭の幸福より素晴らしいものはない」と語ったことがある。これも批評すべきところで感想を述べた例だ。その場にいた独身のイトコは全員が困惑した。それから約10年後、彼女は夫と不仲になり子どもからも疎んじられ「女は三界に家なしというけどほんとうだわ」と嘆いてみせたが、誰も同情しなかったのは言うまでもない(笑)

気をつけなければいけないのは、二代目やこの従姉のようなことを言うと、バカ遺伝子が発動し、繰り返しこういうことを言うことでバカが加速していくことである。

他人に好かれようと思うと、どうしてもつまらないことを言ってしまう点にも気をつける必要がある。つまらないことを言うとつまらない人間、つまりバカになっていく。斎藤孝ふうに言えば、コメント力のない人間、あるいはコメント力を磨こうとしない人間はバカになっていくのである。

コメントで大事なのは人と同じこと、抽象的かつ非本質的なことを絶対に言わないことである。子どもがかわいいというのは、人生で大事なのは愛であるといったたわごとと同じで、抽象でしかない。それを言うなら、たとえば「子どもは地の光」(クセナキス)といった具体的なイメージ喚起力を持った言葉で表現すべきなのだ。

もう一つ大事なのはウィットだ。「長寿と健康の秘訣は?」という陳腐な質問に「わたしは慎重に両親を選んで生まれてきた」と答えた人が、「なぜ音楽家になったのか?」という質問に「音楽家になったのではない。音楽がわたしを選んだのだ」と答えた人がいたが、ウィットのないコメントをしているとバカが全身にまわる。

あたりまえのこと、誰でも言いそうなことしか言えないなら黙っていればよい。そして人の話をよく聞け。聞き上手になれ。そして、相手の話す内容、コメントが表現の域に達しているのか、それとも幼稚な感想にすぎないのかをよく考えながら聞くことで、少なくともバカ識別力は身につけられる。

文章を書くのは、本来、思考力をアップする最高の方法である。しかし、ブログのほとんどは、そういうベクトルで書かれてはいない。何かを発見しようという意志も、何かを伝えようという情熱も欠いた空虚なひとりごとでしかない。これでは文章を書くほどに思考力を減退させるばかりだ。

くだんの二代目には、よく会うことになりそうだ。陳腐なことしか言わない、言えない人間の全身にいつバカの毒がまわり、それが何をもたらすかはしっかり見届けて教訓にしたいと考えている。






最終更新日  February 27, 2010 03:15:43 AM
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December 3, 2009
カテゴリ:折々のバカ
かれこれ10年ほど前のこと。80年代前半まで7~8年関わったミニコミ喫茶が閉店することになり、最初で最後の同窓会が開かれた。

ほとんどの人とは15年ぶり以上の再会で、それはそれで感動的だった。

同窓会というのは、基本的に成功者の集まりである。アウトローで同窓会に参加するような鉄面皮の恥知らずはわたしくらいのものだ。

市民運動(注・市民によるスポーツイベントではない。無農薬野菜の普及、障がい者のボランティア、冤罪事件被害者の救援のほか、地下鉄に「原発反対」のビラ貼りをしたり、右翼を殴るのが趣味のやつがいたりするなど、いわゆる反日共系で非新左翼党派、つまりいわゆる雑多な無党派「アカ」の集合体)の拠点として機能していたこの喫茶店の関係者は、高学歴者が非常に多かったため、弁護士こそいないものの、議員から大学教授、労働組合の大幹部、NPOの理事長といった錚々たる顔ぶれが並んだ。

翌日は中でも特に親しかった人たちだけで集まった。かつては毎日のように集まって、背広を着た上に化粧をして居酒屋に行く、などというハプニング的なおバカをやって遊んだ仲間である。

わたし以外はみな出世した連中だ。革マル派をテロったり、三里塚闘争や学園闘争で逮捕歴があっても、旧帝大さえ出ていれば出世できるということをそこで知った。

出世していても、そこは弱きを助け強きをくじく市民運動の関係者である。上場企業管理職のようなイヤミな人間はいない。

しかし、ひとしきり話したあと、つまり懐かしさという感情が落ち着いてみると、漠然とした違和感がわきおこるのをどうしようもなかった。

そのときの違和感をずっと温めていた。その違和感には何かとても大事なことがあるような気がして、折にふれて考えた。

あの愉快だった仲間たちが、まあ仕事人間になってしまったのはわかる。元々優秀な人たちだから、職場でも信頼され重要な仕事を任されている。それが生きがいになりプライドになるのもわからなくはない。

それでは、何が変わったのか。アメリカ映画を続けて何本か観たとき、はっと気がついた。

アメリカ映画は、脚本がよくできているものが多い。悲しい別れのとき、絶体絶命のピンチのとき、激しい口論のとき、物事がうまくいったとき、どんな場合でも、セリフの中にユーモアがまじる。

これがアメリカ文化というものなのだろう。言葉でケンカができず、すぐ手が出たり感情的になって泣き崩れたりする日本人とは国民性が根本からちがう。

そう、かつては数分おきにジョークを連発していた連中が、中年になり、全くといっていいくらい言わなくなっていたのだ。

何が変わったと言って、彼らのユーモア力とでも呼ぶべきものの減少もしくは消滅である。何しろ偏差値の高い人たちだからそのジョークはレベルが高かった。それだけに、よけいに激しい変化を感じたのだった。

実際には、歳をとるほどにユーモア力は増すはずだ。ユーモア力とは、一面では文脈力であり連想力である。文脈力や連想力は、人生経験を経て見聞や知識が増えるほどに加速度的に高まる。若いときは瞬間芸的ジョークしか言えなくても、歳をとると意味の含有率の高い、つまり含蓄のある複雑なジョークを言えるようになるものなのだ。

笑ってはいけないのに笑ってしまうような、不謹慎なジョーク(注・たとえば「笑える投資サイト」を参照のこと。あるいは綾小路きみまろの著書)を言えるようになるのがおとなというものだ。

ローマは一日にしてならない。彼らの「ユーモア力」も、少しずつ減少して、長い年月のうちに消滅しかけてしまったのだろうと思う。

そのいつの時点でもいいから、なぜ気がつかなかったのだろうか。体重だってそうだ。倍とか3倍になる前に、なぜ気づいて対処しなかったのか(笑)

人間は歳をとる。内面も外見も変化する。しかし、生理的な加齢は避けられないにしても、精神的な加齢(や肥満や乾燥症)はある程度避けられる。自分の「ユーモア力」が減ってきたことに気がついたら、手遅れにならないうちに対処すべきなのだ。

ユーモア力の減少に気づかなかったのは、「ユーモア」を大事なものだと思っていなかったからだろう。

どんな暴君もユーモアを殺すことができない。わたしは高校生のころショスタコーヴィチの「交響曲第13番」に使われているエフトシェンコの詩で知ったが、それはつまりユーモアこそが生き延びるための知恵であり、人類を破滅から救うただ一つの思想の種子であるということにほかならない。

ゴルバチョフがソ連共産党の書記長になったとき、これでソ連は崩壊すると思った。なぜなら、ゴルバチョフはジョークを言う人だったからだ。

ナチスと日本軍国主義とスターリンの恐怖政治とポル・ポトの粛清と中国の文化大革命とマッカーシズムと連合赤軍の同士殺しとアルカイダと黒シャツ隊とイスラエル軍と機動隊には共通点がある。

ユーモアのほぼ完全な欠落である。

ユーモアは精神の余裕から生まれる。自分を振り返ってみても、余裕のないときはジョークが出ない。しかし、死の床にあってもジョークを言える人はいる。そういう人こそ大人物というべきだろう。

ユーモア力を身につけるには、ほかのことと同じで、まずマネることだ。ザ・ニュースペーパーや綾小路きみまろや瞬間芸的ではない漫才や落語、コメディー映画などでネタを仕入れて、それを知らないと思われる人に使ってみるのだ。

それを繰り返すうち、しだいにオリジナルなジョークを言えるようになる。世の中をナナメに見る柔軟性も身についてくる。

ユーモアのおそるべき力を知らずその重要性を理解しない人間をバカと呼ぶことにどんなためらいも必要ではない。

そこでユーモア力の減少したみなさまに綾小路きみまろを一発。

「体重計、そーっと乗っても、デブはデブ」






最終更新日  December 4, 2009 01:39:40 PM
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December 2, 2009
カテゴリ:折々のバカ
この連載では、ほんとうのバカをバカと罵ったりしない。アタマはいいのに、知恵がない、考えることをしない。そういう、いわば「計数としてバカな人」を取り上げてきた。

しかしこの人はほんとうのバカかもしれない。いや、計数としてのバカであると信じたい。

数ヶ月前のこと。スポーツジムで40代なかばくらいの、わたしにとっては妙齢の女性と知り合った。

わたし以外に誰もいないエアロバイクのコーナーで、わざわざわたしの隣に来て、むこうから話しかけてきたのである。

すわ、これがうわさの逆ナンかと思った。

しかし、そうではなく、機械の使い方がわからないので教えてもらおうとしただけだった。

テレビではちょうどトムラウシ山の大量遭難のニュースをやっていた。「わたし、この山に登ったことあるんです」という。登山という共通の趣味の話題で、ひとしきり話が弾んだ。

最近は行かないのかとたずねると、太ったので登りがつらい。若い頃の体重に戻ったらまた行きたい、と言う。

何でも、若い頃は40キロだったのに、一時は60キロまで増えた。何とか10キロ痩せて50キロになったけど、そこからがなかなか減らない、ということだった。

ダイエットという共通の関心事があったので、またまた話が弾んだ。

しかし、話しているうちに「あれ?」と思うことが出てきた。

10キロ以上減らないので、いろいろなダイエットを試したという。レコーディングダイエット、毎日体重をはかるダイエットもやったが、まったく効果がなかったという。

レコーディングダイエットとは、食べたものを記録するダイエットである。記録することで、ちょっと食べ過ぎたかなとか、バランスが悪かったかなとか考えて微調整するようになる。あるいは食べたら記録しなくてはならないので、それが面倒で間食などもしなくなる、そういう効果を狙ったダイエットである。

体重をはかるのも同じだ。ちょっと増えたら、気をつける。痩せるとうれしくて、もう少しがんばろうと欲が出る。

しかししばらく話していて、この人は記録さえすれば、体重さえはかればダイエットになると信じているのがわかったのである。そのときの驚きを隠すのは容易なことではなかった(笑)

ネタではない。かつては登山もし、健康管理にも関心があって、それなりの自己規律を保って10キロのダイエットに成功した女性。しかしその彼女は、ただ記録したり計測したりすれば自動的にダイエットになると思っているのだ。その記録や数字を見て自分の行動を軌道修正することがダイエットになるというシンプルな理屈さえ、わかっていなかったのである!

日本人はここまで「考える」ということができなくなっているのか。驚きのあまりため息も出なかった。

そういえば「ダイエットコーク」が売り出されたとき、飲めばダイエットになると思ってたくさん飲んで太った女がいたらしいが、そのレベルに近い。

まあ彼女に日本人全般を代表させるのも行き過ぎかと思うが、損得や合理性・快適性ばかりを追求してきた日本人が、年代や世代に関係なく論理的思考力そのものを失ってきている危険については注意しなけばならない。

オリックスのかんぽの宿譲渡問題で鳩山邦夫が一瞬でも正しいと思ってしまった人。

郵政民営化に反対する民主党政権の政策が正しいと思っている人。

小泉純一郎と竹中平蔵による構造改革-規制緩和などが不況の原因だと思っている人。

こういう人は、くだんの彼女に負けない、立派なバカである。くだんの彼女は永遠にダイエットできないだけで社会的に有害ではないが、これらのバカは害悪だから困る。

これらのバカはこれから次第に勢力を増すだろう。その象徴が亀井静香だが、日本のアルゼンチン化はこれらバカの手によってまもなく成就することになる。

それはいつか。

カウントダウン

この数字が日本の個人金融資産の額を超えたときである。

え?そんなこともわからないの?それってバカじゃない?






最終更新日  December 2, 2009 12:16:48 PM
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June 10, 2009
カテゴリ:折々のバカ
世界一美しい湖は北海道にある。グアテマラのアティトラン湖が世界一だと言われているが、屈斜路湖、支笏湖、洞爺湖などはいずれもアティトラン湖より美しい。

その支笏湖を源流とする川に千歳川がある。日本でも屈指の、つまり世界でも屈指の美しい川の一つである。

しかしその千歳川よりももっと美しいのが、千歳川の支流の一つ内別川だ。

この川は支笏湖を源流としているのではなく、珍しくも湧水が集まった川である。アニメ「もののけ姫」にでも出てきそうな、神秘的なオーラさえ感じさせる。この川一体は立ち入り禁止になっているが、源流部から千歳川に合流するまでの長さ2.5キロメートルのほどの川の水=ナイベツ川湧水は日本の湧水名水100選にも選ばれている。

千歳市の水道水にはこの水が使われている。塩素消毒されているとはいえ、市販のほとんどのミネラルウォーターよりおいしい。

内別川と千歳川の合流地点近くには浄水場があり、その周囲は「名水ふれあい公園」になっている。水飲み場も一ヵ所だけある。

日常飲用・炊飯に使う水は、できるだけ水道水を避けるようにしている。塩素消毒することによってトリハロメタンなどの発がん物質ができるからだ。できれば入浴や洗顔も水道水は避けたいのだが、微量でもとりあえず口から発がん物質を入れるのはゴメンだ。

だから春と秋の二回、羊蹄山の湧水を汲みに行き、日常の炊飯と飲料にはこの水を使っていた。だが羊蹄山は遠い。往復で5~6時間かかる。もう少し近くで湧水を汲めるところはないか。そう思ってナイベツ川湧水に目をつけたのだった。ここなら、往復2時間で済む。

しかし、名水公園と銘打っている割に、水を汲める場所がない。小さな蛇口ひとつだ。これで400リットルの水を汲もうとしたら何時間もかかってしまう。もし先客がいたらひどく待たされるし、待たせてしまう。

ここを訪れた10年ほど前、この蛇口から出る水をコップにため、匂いをかいだりしていた。母と、これはほんとうに湧水だろうかと言い合っていたその時である。

作業服を着た小太りでブサイクな中年男が近づいてきて、聞きもしないのに「何やってんのさ。大丈夫だ。この水はちゃんと塩素消毒してあるから飲めるに決まってるべや」と北海道弁で怒るように説明して去っていったのである。

その男が何者かはすぐわかった。浄水場の中に入っていたからである。千歳市水道局の役人かそこに雇われた管理人だということだ。

われわれは唖然とした。塩素消毒されている水道水を避けて湧水を汲みに来ている人間に、塩素消毒されているから安全だと言い放ったのである。こんな輩を税金で養い水利権の一端を担わせているのかと思うと腹立たしくもあった。

たしかに「塩素消毒すると安全」なのは間違いではない。

たとえばコレラ菌。これは、日本の河川にも存在し、散発的ではあるが最近も感染者が出ている。1886年の大流行では日本でも10万人以上が死んでいる。ラムネやサイダーなど炭酸飲料の爆発的普及はこうした明治期のコレラ大流行の時期と一致しているが、これはたぶん水道水の飲用を避けた代替消費によるものだと思う。

正確には、塩素消毒するとコレラ菌などは死滅するので安全だがトリハロメタンなどの発がん物質が生成するので危険。これが水道水である。

それでは名水が安全かというと、そうとは限らない。日本三大清流の一つ柿田川の水からはトリクロロエチレンが検出されたこともある。

この公園管理人のバカさはあまりにもシンプルで誰にもわかりやすいが、テレビなどでしばしば見聞する「植物由来成分なので安心」というキャッチコピーには何となく騙されてしまうことが多い。

化学調味料はシイタケやコンブから作られる。この事実だけをもって化学調味料の安全性の根拠にする人がいるが、植物由来、あるいは自然界由来の毒は種類もその強さも人工的に作られた毒の比ではない。

有名なのはワラビである。ワラビのあくには発がん物質が含まれている。アーモンド、ウメ、杏などは腸内細菌によって分解され有毒な青酸ができる。あく抜きをしっかりする調理法とか、大量に食べてはいけないとか、食べ合わせのタブーとされている食物があったりするのは、われわれの先祖が植物由来の毒を経験的に知っていたからにほかならない。

大事なのは、何となく思いこまされているイメージを信じず、すべてを疑ってかかることである。

何が安全か危険かは、わたしやあなたが決め判断するのであり、名水公園の管理人や厚生労働省の官僚ではない。






最終更新日  June 11, 2009 01:17:25 PM
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June 8, 2009
カテゴリ:折々のバカ
金川欣二という人がいる。言語学者で数冊の著書がある。ホームページも持っている。言語学に興味はないが言葉には興味があるので、ときどきROMしている。教えられること、なるほどと感心することも多い。さすが博覧強記、話の引き出しの多さには敬服もする。

こんなことを書いている。

誰がマリア・カラスを殺したの?または制度化した音楽というタイトルの文章で、マリア・カラスが引退したのは日本公演で聴衆がブラボーを浴びせたからだと主張しているのである。

・・・・マリア・カラスは既に声も太くなっていて、自分で堪えられない演奏だったと思っていたのに、「ブラボー」が続いた。映画でも出てくるが、何をしても、観客は「ブラボー」というのであって、演奏を聴きに来ているのではない、サーカスに出ているのと同じだ、と思い、50歳にもならないうちに演奏活動を止めたのであった。

つまり、日本人の心ない「ブラボー」がカラスを殺したのだ・・・

この文章ではフライング・ブラボー批判に始まり、自然な気持ちで音楽を楽しむことをしようとしない日本の聴衆が問題にされている。そして、そうした聴衆が演奏家を殺すこともあるという例として、マリア・カラスが日本公演を最後に引退した事実をもって自分の批判の正しさの「証明」としている。

事実はまったく違う。カラスは翌年には日本でトスカを歌うつもりだったし、後進の指導にも意欲を燃やしていた。「日本公演を最後に引退」したのは結果として事実ではあっても、マリア・カラスを「記号として消費」するブラボー連呼のバカ聴衆に絶望して引退したのではない。

こんなことは少し文献をあたればわかることだし、自分の想像でしかないことを事実のように書くのは文章を書く人間が守るべき規範を逸脱している。結果としてこの人はウソをつき、読者をミスリードしている。

その文のあとにこんなことも書いている。

・・・ちなみに、カラスは若い頃、100キロを超えていた。『ゼフィレッリ自伝』(東京創元社)によれば、楽屋に『ローマの休日』のヘップバーンの写真を飾っていたという。あんな風になりたいと思っていたのだろうが、サナダムシ(広節裂頭条虫コウセツレツトウジョウチュウという種類で効き目は抜群、下痢、腹痛、悪性貧血を起こしやすく高いリスクがある)で痩せるなどという過激なこともして後にグラマーと言われるくらいまでに痩せたのである・・・・

これも全くのデマである。カラスが痩せたのはサナダムシを排出してからであり、ダイエットも16ヶ月で35キロという、過激ではなくむしろ穏当な痩せ方だった。

こんなことも少し調べればわかることなのに、この人は「調査なくして発言なし」という毛沢東の言葉を知らないらしい。

「調査なくして発言なし」という毛沢東の言葉を知らない、知っていても守らない、あるいは知っていても実践できないインテリはバカ以外のなにものでもない。こういうバカをやるから、ほかの文章も同じように稚拙な間違いが多いのではないかと思ってしまい、著書を読む気も失せる。

結論。金山欣二はバカである。彼の文章は基本的な誤りがある可能性があるので注意して読むように。

亀山郁夫という人がいる。全共闘運動に一瞬だけ参加したことのあるロシア文学者で、ドストエフスキーの翻訳(名訳)で知られる。東京外語大の学長でもある。

テレビで観て、何と誠実な人だろうと感服した。インテリはたいてい専門バカというバカと分類していいと思っているのだが、この人がテレビでしゃべるのを観て、こうした偏見を改める必要と自分の独善を反省したのだった。

しかしその番組(ショスタコーヴィチの音楽を紹介する音楽番組)での続く発言には驚いてしまった。

ショスタコーヴィチはスターリン主義下のソ連で生き死んだ作曲家である。その作品には、自分の名前を音型で印したり、反スターリン、反共産党のメッセージをしのばせた音型が散りばめられている。

スターリンやソ連共産党を支持している人には、それらをたたえているように一見きこえるが、そうでない人には作曲家の本意、つまりスターリン主義と共産党の圧政と戦う人々を鼓舞するメッセージが聞き取れる、そういうからくりや仕掛けがなされた音楽、それがショスタコーヴィチの音楽である。

ここまではわたしの意見であり、亀山の意見でもある。同じだ。

しかし、共産主義は崩壊した。共産主義が崩壊した現在、ショスタコーヴィチの音楽が世界中で評価が高まり演奏されているのは、反スターリン主義、反共産主義のメッセージを、グローバリズムに対する抵抗のメッセージとして「読み替えて」聴く人が増えているからだと、この人はのたまったのである。

わたしのへそは茶をわかし、お尻は椅子からずり落ち、ブルータスよお前もかというシーザーと同じため息をつくことになった。亀山郁夫よ、お前もか。

クラシック音楽の流行を作り出すのはレコード会社やマスコミである。ベートーヴェンやブラームスに飽き、マーラーにも飽きた聴衆に何を売ればいいか。最後の交響曲作家であるショスタコーヴィチがいた。2006年は生誕100年というアニーバサリーでもあった。

こうした「商業主義的な」動機で作られたのがショスタコーヴィチ・ブームである。

クラシック・ファンの中心的な階層はプチブルであり、疑似インテレクチュアルである。男でいえば、理系の高偏差値大学の出身者が圧倒的に多い。こうした連中はだいたいにおいて政治オンチであり、保守的な思想の持ち主が多い。いや、保守的という以前に、アタマは空っぽで何も考えていないと言った方が正確だ。

断言するが、グローバリズムという言葉の意味を知っている人間など、クラシック・ファンには数%もいない。

彼ら彼女らは、音楽に癒しや慰めや刺激を求め、いっとき現実逃避しているだけだ。キャバクラやホストクラブに行くのと動機は変わらない。故宮下誠のように音楽に「世界苦」を聴く人間などほぼ皆無と言っていい。

現代は、他人や世界の痛みを遠ざけるような愚昧な情報に満ちている。その限りにおいて「クラシック=ショスタコーヴィチの音楽」もまた、そうした愚昧な情報の一つとして「消費」されているだけだ。音楽は、利己的かつ狭小な世界に閉じこもり、無自覚とイノセントであることに疑問を持たず快楽的・享楽的に生きている人間、つまりブタのエサになっている。
        
インテリは、説明したがる。わからないことを、わからないと言えない。わからないことでも、もっともらしい理由を見つけてなるほどと尊敬されようとする。

これは臆病のなせる技だと思う。インテリは「わからない」と言えないのだ。質問されたら正解を答えなければならないという強迫観念に支配されている。

その点、小田実のような「インテリ」は偉大だった。彼の話は、自分が見聞してきたことを並べ、こうかもしれない、ああかもしれない、わからないが一緒にかんがえよう。そういうスタンスで一貫していた。

ここだけの話だが、わたしも金川や亀山のようなインテリの端くれだ。だから彼らのような「バカ」をやってしまいそうになることがある。いや、この連載やブログでもやっているかもしれない。

しかし、わたしは匿名の存在であり、金川や亀山とはちがう。失うべきなにものもないから放言ができるし、何の責任もないし(残念なことに)影響力もない。ノブレス・オブラージュからも自由だ。

大事なのは、わからないことはわからないという勇気なのだ。金川や亀山に代表される「良心的で誠実な知識人」に欠けているのはこの勇気だ。彼らはバカにされるのがコワイのだ。人にはバカにされていろ、という「親父の小言」も知らないのだろう。

亀山のような「解釈・解説」病はインテリ一般に広く見られるが、別の言い方をすれば観念や抽象に遊ぶ、または逃げているということだ。

もちろん抽象化や観念化が必要なこともある。議論というのはだいたいにおいて具体的なことを抽象化して行われるものでもある。だから物事を抽象化できない人間は議論ができず発展がない。

しかし、そうした議論ならともかく、一般的な視聴者や読者を相手にするときは徹頭徹尾具体的でなければならないと思う。少なくとも、抽象化した断定は避け、「ではないだろうか」と仮説の提出にとどめるのが誠実「ではないだろうか」。

いろいろな本を読んで、この本はおもしろい、あるいは著者の真情が伝わる、と思うことがある。そういう著者の文章を検証してみると、共通点がある。

それは、常に具体的かつ詳細で、観念や抽象に遊ぶことがないということだ。

世の中はややこしい。金川や亀山や、さらに言えば辺見庸のような、知的で誠実で「世界苦」に共感できる人間的感性に満ちたインテリでさえ、こんな初歩的なことがわからず、あるいは心得違いをしてせっかくの業績をすべて吹き飛ばしてしまうような不用意な「一言」を発してしまうことがある。






最終更新日  June 9, 2009 09:59:11 AM
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November 19, 2008
カテゴリ:折々のバカ
大学に入学してすぐやることは、単位をとりたいと思う科目の最初の講義に出て登録することである。

単位などさっさと取ってしまって学生生活の後半は楽をしよう。多くの学生と同じく、わたしもそう思ったのであらゆる講義に出席して登録しまくった。当時は出欠もうるさくなかったので、登録だけしておいて代返を頼み、レポートや試験だけクリアすればいいという風にも考えた。

そうして登録した科目に「心理学」というのがあった。

出席してみて驚いた。男の方が多い大学なのに、圧倒的な数の女子学生で教室が埋めつくされていたからだ。

その理由は、今となってはわかる気がする。女性は、とにかく他人の気持ちが気になる生き物だからだ。他人の心の痛みがわかる、女性の持つ優しさという特質が、彼女たちをして「心理学」を選択せしめていたのだろう。

しかし、最初の講義を聞いてわたしは思った。これは学問と呼べるようなしろものだろうか。

その講義では、当時まだ存命だった、ピアジェというスイスの心理学者を扱うようだったが、ピアジェの本を読んでも、普通に生活していれば誰にでもわかることしか書いていない、としか思えなかった。

そのころ流行っていたのはユングだった。ユングはフロイトの門下生である。フロイトには学問の香りがある。しかし、精神的病理の原因はすべて両親との関係性にある、とするフロイトの最も有名な「エディプス・コンプレックス」のテーゼにしても、その根拠はあまりに脆弱だと思った。

この世の悪はすべて資本主義に原因があるとする共産主義、信じれば救われるという新興宗教と同じで、どうひいき目に見ても科学ではない。

こうして、登録はしたが心理学の単位はとらずに終わった。

それでも宮城音弥、岸田秀といった心理「学」者の本も読んでみた。そのころ知り合った演劇青年が、しきりに岸田秀を持ち上げたりしていたからだ。

それはそれで面白い部分もあったが、やはり学問ではない、科学ではないと思った。文学サークルなどの知的サロンで話題にする分にはかまわないが、まともに勉強するに値する「学問」とはいえないし、そもそも学問ではないのだ。

学問でないとすれば何か。オカルトである。神学と同じで、荒唐無稽な前提を受け入れることによってのみ成り立つ錯覚の体系、といえばいいだろうが、実際、それほどの体裁すらないのが心理「学」というしろものだ。

大学で「心理学」の単位を取った女性は多いことだろう。それらの女性すべてを敵にまわすことになることになるかもしれないが、それでもかまわない。

心理学がオカルトでしかないことに気がつかず、その後も気がつかずに俗流心理学の本などを買っているあなたは、バカ以外のなにものでもない。






最終更新日  November 20, 2008 11:46:38 AM
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