投資の余白に。。。

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自叙伝

May 12, 2016
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カテゴリ:自叙伝
先を急ごう。

ミュンヘンからヴェネツィアまでは550キロある。6時間から8時間はかかったはずだ。

朝ミュンヘンを出ても、ヴェローナで昼食をとったりしたからヴェネツィア到着は夕方だったはずだ。

翌日は午前の列車で出発した記憶があるから、24時間どころか、ヴェネツィアには18時間程度の滞在だったと思われる。

このときの写真が何枚か残っている。それを見ると、リアルト橋近くの中央市場に行ったりしている。朝食のあと明るくなったヴェネツィアを歩いたのだろう。フェリーから撮った写真も残っているので、フェリーに乗って終点まで往復する、というようなこともやったのだろう。

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ミュンヘンへ帰る彼女とヴェローナで別れたあと、ミラノへ向かった。有名なドゥオモだけ見た。ミラノはイタリア経済の中心地だが近代的な都市であり、見どころは少ない。ドゥオモはたしかに壮麗で圧倒されたが、5分も見ればもういい。ドゥオモから徒歩圏にあるレストランで夕食をとった。

「ヨーロッパ2000円の宿」に紹介されていたレストランを探して行った。歩いていると、入口が小さいが何か由緒ありげな建物があった。近づいてみるとスカラ座だった。

入った店はイタリアでは標準的なレベルだったように思う。何か野菜料理とパスタを食べようと思ってそれらしきものを注文した。

運ばれてきたのはほうれん草の炒め物とアサリのパスタ、いわゆるボンゴレ・ビアンコだった。

食べた瞬間にアタマの中が真っ白になり、気がついたときには目の前に空の皿だけがあった。そういう経験はその後何度かしたが、このときが初めてだ。

いや、6~7歳のまだ食が細いころ、月に一度か二度、母が作ってくれたカレーはそういうものだった。味噌と塩と醤油、ダシといえば煮干し、マヨネーズやケチャップでさえまだ珍しかった時代、カレーだけはお代わりをして食べたものだ。一皿目は、食べ始めた瞬間に記憶がなくなるほどおいしいと感じ、やっと二皿目でゆっくり味わって食べた、そんな記憶がある。

だからこのときも、ほんとうはもう一皿追加すべきだったのかもしれない。

ドイツではあまりおいしいものにあたらなかったせいもあって舌が飢えていたのかもしれない。しかしそれにしても、ゆでたパスタにアサリを和えただけのものがこれほどおいしいとは、人生観が変わる思いだった。いままで食べていたのはいったい何だったのだ。

だまされていた、という思いとともに痛感し後悔したのは、自分自身の好奇心の不足である。高いカネさえ出せばおいしいものを食べられる、というか高いカネを払わなければおいしいものを食べられないという思いこみがあった。だから、食べることに対する興味を自ら閉ざしている部分があったと思う。

しかしごく庶民的な店でおいしいものが食べられるイタリアに来てみると、そういう思いこみが木っ端みじんに粉砕されるのを感じた。高いカネを払わないとおいしいものが食べられない日本社会の構造は、資本主義の罠だったのだ。

サイゼリヤの創業者が世界中を旅して、低価格でおいしいものを食べているイタリア人の生活に注目しその再現をめざして開業したことはよく知られている。サイゼリヤとさほど変わらない値段でサイゼリアよりはるかにおいしいものを食べているのがイタリア人の日常なら、日本人やドイツ人やアメリカ人の日常は何なのだ。

おいしいものが食べられないからあくせく働くか戦争をするか人種差別をするしか能のない人間になるのだろう。

ムッソリーニが作ったアーケードで有名なミラノ中央駅に戻るため、地下鉄に乗ろうと思った。ドゥオモまで来るのにも地下鉄を使ったので、来たのと反対側のホームに行けばいいと考えた。

しかしおかしなことにそのホームには人がいない。向かいの、反対方向に行くと思われるホームには人がたむろしている。ロックコンサートでもあったのか、パンクの服装をした若者たちが大勢いた。

人のいないホームにいてもしかたがないと思ったのでそちらに行った。念のためパンク少年に聞いてみたら、夜遅い時間帯はこちら側の線路しか使わないのだという。にわかには信じがたかったが、同じ線路を正反対方向に電車が行き交うというのはどういう仕組みになっているのだろう。

地下鉄だから、待避するような仕組みにするのはコストがかかりすぎるはずだ。本数の少なくなった時間帯は同じ電車が飛行機のように同じ路線を往復するのだろうか。そうだとすると、何だか笑えた。

行き先も書いていない電車が入ってきた。パンク少年は「THIS、THIS」と教えてくれた。

金髪にピアスにケバイ化粧の、ちょっとやばそうな見かけだったが親切でいいヤツだった。

背も低かった。






最終更新日  May 14, 2016 11:59:16 AM
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May 11, 2016
カテゴリ:自叙伝
天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、と言ったのは度し難い差別主義者であった福沢諭吉である。福沢にとってアジア人は人間のうちに入っていないからぬけぬけとこういうことが言えたのだろう。

たしかに天は王制や天皇制のような身分制度を作らなかった。それを作ったのは人間だ。しかし人間を作ったのは天だから、天は人の上に人を作り、人の下に人を作るように人を作ったといえる。

生まれながらの人間に身分はない。いずれ死すべき生物としてこの世に現れる。いつどこでどのような環境で生まれるかを自分では決めることができない。ついでに言えば、どんな遺伝子を持って生まれるかも決められない。

それを決めるのは運であり運命だ。そしてそれは決して平等ではなく、人生のほとんどを決めると言っても過言ではない。

ナイジェリアで生まれたアルビノと戦後日本で生まれた人間を比べてみればよい。そこまで極端でなくても、同じ日本でも、オホーツクの漁村と京都の祇園で生まれ育った子供の間に何か共通理解項が存在するとは思えない。

ニースやカプリ島を訪れたときと同じことをヴェネツィアでも思った。沢木耕太郎はコートダジュールの海岸を走るバスの中で「コレハヒドイジャナイデスカ」と思ったというが、その感じに近い。最初は無邪気にその美しさすばらしさに興奮し感動する。しかし、自分の生まれ育った環境とのあまりの落差に嫉妬や怒りのような感情が起こってくるのをどうしようもない。

ヴェネツィアのすべての路地を歩き、すべての水路をいくにはいったいどれほどの時間がかかるだろうか。ここで暮らすということは壮麗な芸術作品の中で日々を送るということにほかならないが、それはどんなことだろうか。

だが最もうらやましく感じたのは、ヴェネツィアで生まれ育った人間は、故郷がいつまでも変わらない姿であることだ。

戦後日本は大きく変わった。終戦直後との比較の話ではない。たった20年ほどであらかたの風景は大きく変わってしまっている。

わたしが生まれ育ったのは人口5万人ほどの小都市だが、あまり変わっていないのは神社のような場所だけで、当時の記憶を呼び起こすようなものはほとんど残っていない。ノスタルジーを感じるより先に自分の幼年~少年期が消されてしまったかのような無念さを感じることの方が多い。

あるイタリア人の女性は、亡くなった両親と会うとき墓には行かないのだという。丘の上に続く道は、昔と全く変わることがない。だからそこへ行くと両親に会えるのだという。

そういう場所を日本人は失った。故郷は山田洋次の映画の中でしか再会できない場所になった。それはどういうことかというと、人間としてのアイデンティティの重要な一部を失ったということだ。

ヴェネツィアのようなところで生まれ育った人を心底うらやましいと思った。街を出て、どこかで傷ついたとしても、故郷に変わらない風景があるなら挫折しないですむ。母のような存在としての故郷や風景を持っているかどうかは、ひとりの人間にとって非常に重要だ。

1992年11月23日のヴェネツィアに観光客は少なかった。あとで知ったが、このころのイタリアはポンド危機に端を発する経済危機のまっただ中だったのだ。

今でもおぼえているが、この年の1万リラは日本円で100円ほどだった。それが93年には75円になり、94年には50円になった。これだけ短期間に通貨の価値が半減するのは異常事態だ。

いや、むしろ為替の変動が経済危機のバッファの役割を果たすのだから、リラ暴落はむしろイタリアにとってプラスだっただろう。外国人は旅行しやすくなるし輸出には有利だ。ただでさえイタリアの物価は北ヨーロッパの国より安い。

通貨統合は弱い通貨の国にとってマイナスの方が大きいということがわかる。

ヴェネツィアは大観光地なので物価は決して安くない。それでも、フランスやドイツに比べれば何割か安かったし、宿代や外食費は半値ほどに感じられた。それはだいたい、日本の半分くらいということを意味する。

自分がふだんなじんでいる環境よりも物価が安いということが精神衛生にどれほどいいかを知った初めての体験だった。

パリからフランクフルトまでの寝台運賃も安かった。水とビール2本とサンドイッチ2つ、それと寝台運賃が同じだったのだから。

しかし、概して物価それ自体は日本より安いものの、外食のような、人間の手間のかかったものは高かったし座るとテーブルチャージのようなものもかかる。おまけにチップもいる。だからトータルするとそれほど変わらないという印象だった。

ところがイタリアではほとんどすべてのものが(通貨安のせいもあって)安く感じられた。ワインが水より安いというのはほんとうだった。

現地の人にとってはそれがあたりまえだろうし、安いと感じて生活してはいないのだろうから、そういうこと全体が不思議な気がした。

人情があって、陽気で、しかも物価が安い。イタリア、ブラヴォーだ。

しかしヴェネツィアは観光地ゆえの問題も多い。おいしいレストランが少なく、便利な場所にあるそれはほとんど不法な料金を請求してくる。特にイタリア語以外のメニューのある店などは気をつけた方がいい。

このときは夕食と翌日の朝食をとっただけだが、彼女があとで伝票をチェックしたところ、やはりぼられていたらしい。日本円にすると数百円のことだが、リラにすると数万リラで、ものすごい金額をぼられたような気になってしまう。思い起こしてみると、たしかにどちらの店主もどこかずるそうなやつだった。

それ以来、店主の顔をよく観察してから入るようになった。

最悪だったのはホテルだ。翌日のことを考えて国鉄駅からさほど遠くないところに泊まったのだが、ベッドが縦に二つ並んでいる細長い部屋だった。

外国でホテルに泊まるのはこのときが初めてだったので、何の交渉もしなかった。日本的常識なら、同じ料金ならそのとき空いている最もいい部屋から案内するし、無料でアップグレードしてくれることも多い。そんな感覚でいたので、通された部屋に何の疑問も持たなかったのだ。

いやしくもカップルである。カップルで泊まりに来ているのに、ふつうこれはないだろう。しかし疲れてもいたし、どうでもよくなった。宮殿の一室のような部屋に泊まりたかったわけではない。ごくふつうの、ベッドが二つ横に並んだツインの部屋に泊まりたかっただけなのに、そんな希望さえ言葉にして主張しなければならない現実にげんなりした。ここもヨーロッパなのだ。自己主張しないと存在しないもの、意志がないものとして扱われる。

彼女との最後の夜なのだ。念入りなセックスで有終の美を飾らなくてはならない。

しかし、歩き回った疲れが出たのか、それともヴェネツィアの毒のある魅力にやられたのか、彼女にじゅうぶんな快感を与えるまえに終わってしまった。

長い人生にはいくつもの後悔があるが、あのときの不本意なセックスを思い出すと冷や汗が出そうになる。






最終更新日  May 13, 2016 02:01:35 PM
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May 10, 2016
カテゴリ:自叙伝
納戸を整理していたら一枚のメモが見つかった。パスポートのコピーの裏に書かれた、この旅のときのものだ。

旅の前半は一日につき数行書いているが、後半は一行だけ。どこからどこへ移動した程度のことしか書いていない。

それでも、それを読んであらためて思い出したこと、あるいは完全に忘れてしまったこと、いくつかの記憶がちがっていたことなどがわかった。

記憶ちがいは大したことがないのでそのままにしておこう。むしろ、ただ記憶だけで20年も前のことをよく書けたものだと、30代の自分の記憶力に感嘆させられてしまった。まるで少年の日の記憶のようだ。そのことからわかるのは、旅は少年の日に戻ることだということだ。ブログを書いたり読んだりするヒマがあるなら、旅に出ることだ。

そのメモによると、パリからミュンヘンへフランクフルト経由で行ったぼくは、ミュンヘンで3泊したあとベルリンへ行き、2泊したあとミュンヘンへ戻った。次の日夜行でウィーンに行き夕方ミュンヘンに戻った。

前回書いたのはここまでだ。こう書くと身も蓋もないが、何とせわしない旅をしていることか。

ついでに書くと、翌日にはヴィネツィアに行き一泊。ベローナまで戻ってミラノ、ニース、マルセイユを通ってバルセロナへ。バルセロナで1泊したあとパリへ。2泊して帰国。

数えてみると17泊18日で、ホテルに泊まったのはベルリン2泊、ヴェネツィアとバルセロナで1泊、パリで2泊の合計6泊。彼女の部屋に泊まったのが5泊だから、夜行列車で6泊していることになる。何とハードな旅だったことか。

思い返してみると、肉体的な疲労は大したことがなかった。疲労を好奇心が上回っていたと言うべきかもしれない。休むより移動していた方が新しい刺激で疲労を忘れることができた。ただ、あんな旅をあと何日も続けていたら、間違いなく体調を崩していただろう。

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最新の電車なのに、坂が続くためかゆっくりだ。登る一方の長い峠の頂上あたりをすぎたと思ったとたん、空気が変わったのを感じた。温度ではなく、大気そのものが明るく暖かく感じられる。何かほっとするような柔らかい空気感を感じた。

電車は停車し、コンパートメントに中年の女性が入ってきた。それまではぼくと彼女の二人きりで、彼女はしくしく泣いていた。別れを宣告したからだ。

気まずい雰囲気が流れたが、どうしようもない。泣いてどうなるものでもあるまいに、ほんとに女はバカだと苦々しい思いがするばかりだった。別れたくなければ、論理的に説得すればよいではないか。

もし愛する女性から一方的に別れを宣告されたらどうするか。幸運なことにそういう経験は今までにないが、できるだけ感情を抑え、理性的な説得を試みるだろう。恋愛感情の不条理さについて注意を喚起し、自分ではなく他の男を選ぶ、あるいはぼくから去るその決断がいかに幼稚で不見識で絶望的に悲惨なことかを淡々と説くだろう。

男にもときどきいるが、この泣けばなんとかなると思う日本の女に特有の「甘えの精神」については稿をあらためて論ずるべきかもしれない。ともかく、このときは腹立たしいばかりだった。

コンパートメントに入ってきて向かいに座った中年女性のことは忘れられない。ぼくたちの異様な雰囲気を察して、すぐに同情するような表情になった。ぼくはつとめて明るく振る舞ったから、深刻な問題ではないということだけは伝わったはずだ。

すると、その女性は持っていた袋の中からリンゴをくれた。何があったか知らないどさ、リンゴでも食べなさい。食べて気持ちを落ち着かせてから話をしなさい。

そう言われたような気がした。

その親切というか人情に、さっきまでとはちがう国に来たのだと直観した。長い坂はブレンナー峠で、国境を超えてイタリアに入ったのだ。

これがイタリアとの出会いであり、明るく暖かく柔らかい空気感と人情味あるイタリア女性が忘れられない印象として残った。

第一印象のイタリア、ブラヴォーだ。このブラヴォーは、わずか30時間たらずのイタリア滞在で何度叫んだかわからない。

列車はミラノ行きだったのでヴェローナで乗り換えた。若者の集団がいる。ちょうど登下校の時間だったのだろうか。出発する電車の窓からこちらに手を振る若者がいる。大声でチャオという若者もいる。

フランスでもドイツでもオーストリアでも遭遇しなかった陽性の好奇心、歓迎の気持ちを感じた。やあ、イタリアへようこそ、いいところだろ、と語りかけられたような気がした。彼らの「チャオ」には何とも心が弾んだ。

見ず知らずの、しかも人種の異なる人間に何の「壁」も感じさせない彼らに、ささいなちがいで人を差別し排除する日本人との落差を思ったし、ヨーロッパの他の国とのちがいも強い印象となって残った。

ヴェローナには夏のオペラで有名な円形闘技場(アレーナ)がある。というか、アレーナのまわりに街ができている。

昼食をとろうと思い、近くにいた老人に「いいレストランはないか」と聞いた。そうしたら、イタリア語ができるとかんちがいしたのか、質問をはさみながら延々と話す。一言も理解できなかったが、たぶんこういうことだ。

「きみが食べたいものは何か。もしヴェローナの名物料理を食べたいなら、この道をまっすぐ行って3本目を左に曲がると右側にある××という店の○○という料理がおすすめだ。肉料理でフィレンツェ風ビーフステーキならアレーナの反対側の広場に面してある××、コッパパルマなど前菜がおいしいのは2キロほど離れた××で、歩いていくと営業に間に合わないからタクシーで行きなさい。わたしのおすすめは魚料理だが、グリルがいいかねフライがいいかね。グリルなら××、フライなら××・・・・」といった感じで、話が止まらない。何とか一言でもヒントがつかめればと思ったが、止まらないのでさえぎって礼を言い、そそくさといちばん近いレストランに向かった。

イタリア人にとっての食の重要さ、人生に占める大きさを知ったのはこのときだ。日本人によくいる、高級レストランでの食事体験を「消費」するグルマンとは全く異なっているし「食通」タイプともちがう。空腹を満たし栄養を摂取する機械的かつ機会的な食事ではなく、人生を豊かにするために行う「食べる」という行為。

人生を楽しむ、その重要な一部として食を自然に位置づけている。ほかに楽しみがないからおいしいものでも食べて、というのとは全く逆だ。

入ったのはセルフレストランだった。おいしいものは期待できないが、これはこれで好きなものが食べられて好都合だった。現金なことに彼女の機嫌も直っている。ピーナツ味の野菜があって感動した。ルコラというのだとレジの人が教えてくれた。

ヴェネツィアは人工的に作られた島の上にできた都市である。「本土」からの線路は海の上を走っていく。

ヴェネツィアは数々の映画の舞台になっている。しかしそういう映画を全く見たことはなかったし、テレビや雑誌でも見たことがなかった。だから予備知識はほとんどなかった。

それは何とも幸運なことだった。晩秋のパリで初めての海外旅行をひとりで始めたのと同じくらい、いやそれ以上の幸運だったかもしれない。

予備知識なしに訪れたヴェネツィア、それは都市というより壮大な美術作品だった。その華麗なたたずまいに呆然とした。しかし自失してはいられない。24時間程度しか滞在の時間はないのだ。

もう薄暗くなっていたヴィネツィアのサンマルコ広場めざして、ひたすら歩いた。地図もなにもない。矢印のついた看板だけが頼りだ。自分がどこにいるのか、どこへ向かっているのかわからないのには不安もあったが、歩き続ければどこかへ出るし、いずれ着く。

そんな根拠のない確信だけを頼りにひたすら歩いた緊張と興奮の数時間。

それを表すのに幸福という言葉以外を思いつくことはできない。






最終更新日  May 12, 2016 09:20:23 PM
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June 3, 2014
カテゴリ:自叙伝
もし神に、「ちょっと都合でドイツか日本のどちらかをこの世から消すことになった。どちらを消しどちらを残すか、一ヶ月の間に決めてくれ」と命じられたとする。

ぼくならこう答えるだろう。「一ヶ月も考える必要はありません。日本を消し、ドイツを残すべきです」。そう思うのは、1992年にミュンヘン郊外のダッハウである光景を見たからだ。

20年以上も前のことはどんどん忘れていく。ただ、忘れるだけではない。忘れると同時に、重要なことが記憶の海からブイのように浮上してくる。気をつけなくてはいけないのは、どうでもいいことの順に忘れていくのではなく、大事なことも忘れていくということだ。人生の年輪を加えるにつれ、大事なこともかわってくる。かわってくるから、10年前には覚えていたことも、20年後には忘れているかもしれないのだ。

それすらも、忘れてしまっているのだから、思い出しようがない。仮に記録していたとしても、それはそのとき印象に残ったことを書きとめているだけだから、重要なことは記録せずにいるかもしれない。昔の日記を読み返して恥ずかしさを感じない人は少数だと思うが、それはつまらないことにとらわれていた自分を見つけるからだ。新聞のスクラップを読んだときも同じ。なぜこんな意味のない記事に着目したのかと、幼稚だった自分を思い知らされることになる。

とはいえ、一般的には時間がたつほどに瑣末なことから忘れ、重要なこと、驚きや感動など衝撃を受けたことが浮上してくるものだ。

ミュンヘンを歩くときはいつも彼女が一緒だったので、よけいにミュンヘンのことは覚えていない。自分で地図や路線図を読んで周囲の景色を記憶しながら移動するのとちがい、他人まかせだと全く記憶に残らない。個人旅行以外は旅行ではないと思うのはそういうわけだ。

そもそもミュンヘンという街にはほとんど興味がなかったし、ナチス党結党大会が行われたというビアホールも一度行けばもういい。

そこでダッハウの強制収容所跡に行ったのだが、骸骨があるわけでもないし、観光客用の英文の説明を読んでもホロコーストの残虐さを感じられるわけでもない。アラン・レネの「夜と霧」などの方がナチス・ドイツの蛮行をリアルに感じられる。

しかしダッハウに行ったのは賢明な選択だった。訪れたとき、ちょうど教師に引率された高校生とおぼしき集団が見学していたからだ。

その集団のたたずまいが印象的だった。日本の高校生とは集団の放つ雰囲気がまったくと言っていいくらいちがっていたのだ。ただたんに行儀よくおとなしく聞いているのではなく、さりとて自民族の蛮行に怒ったり感情的になったりするのでもなく、まずかんがえるための客観的な知識をニュートラルに得ようといった非常に理性的な態度が感じられたのである。引率教師の説明は一言もわからなかったが、教師と生徒の両方に、まず事実を知り、事実に即して判断するというあたりまえの知的誠実さ、徹底した理性を感じたのだった。

戦後のドイツは、ナチスによるホロコーストを正面から裁き、切開して教訓化している。現在でもナチスの戦犯を追い続けているし、ナチスの蛮行を擁護したり虐殺の事実を否定することは法律で禁じられている。犯罪なのだ。

ドイツ中央銀行がインフレファイターなのはファシズムがインフレから生まれた過去を教訓化しているからだ。

ひるがえって日本はどうか。戦争の最高責任者は沖縄と引き換えに保身に走っただけでなく、責任を問われることなく天寿を全うした。国会議員はおろか総理大臣にさえなった戦犯もいる。

南京大虐殺を否定したり、従軍慰安婦を「どんな国でもやっていた」と擁護する人間が準国営放送局の長になったりしている。そういえば、買春観光を「ODAだ」と言い放った自殺したヤクザを父に持つ政治家もいる。

人間は誰でも失敗する。判断を間違う。それが国家であれ政党であれボランティア団体であれ、人間の作った組織であるかぎり必ず間違いを犯し失敗をやらかす。人間の知性や感性は歴史や環境に規定された限定的なものだからだ。

たとえ善意から生まれたものであっても、いやそうであるほど致命的ともいえるひどい失敗をやらかすことには最大限の注意が必要だ。オウムの一億人ポア計画は善意から生まれている。

善意は相対化、客体化の契機をもちにくい。

逆に、人間は失敗や間違いをきちんと認め、その原因を究明し教訓化することで成長していく。失敗は成功の母と言われるが、成功や成長は失敗を直視し分析することによってしか得られない。もっと言えば、失敗の原理的・哲学的省察こそが成功の母なのだ。

しかし、戦後を概観してわかる通り、日本人にはこうした省察を行う能力がない。DNAに重大な欠落があるとしか考えられない。日本にあるのはアツモノにこりてなますを吹くたぐいの愚劣な処世術だけだ。

人間の歴史は、ごく乱暴に言えば文字文明を持つ民族が文字を持たない民族を滅亡させる歴史だった。日本でも渡来人が原住民であるアイヌ民族を滅ぼしてきた。

この歴史を反転することが求められている。ホロコーストを冷静に見つめるドイツの高校生の中からは根源的な文明批判を行う者、それを21世紀のマルクスやバクーニンと呼ぶなら、多くのマルクスやバクーニンが生まれてくるだろうことは想像に難くない。

生まれてからのほとんどを日本で過ごし、友人の99%は日本人でもある。日本人女性以外と恋愛はおろかセックスをしたことさえない。その自然と文化と習慣には理屈抜きの愛着がある。

しかし重要な判断に感情は無用の長物だ。

ナチス協力者は肉親さえ殺したヨーロッパのパルチザンを見習い、神には日本を消しドイツを残すように進言する。

強制収容所やガス室を見たあと、丘の上にある古城に行った。古城の一部がカフェになっているというので休んでいくことにした。

収容所とは打って変わったメルヘンチックな街をぬけ、坂を登っていくとやはり古城カフェに行くらしい老婆が杖をつきながら歩いている。なんでも、このカフェのケーキはたいそうおいしく週に2度食べにくるという。友だちに会っておしゃべりでもするのだろう。

よそゆきの服を着てお化粧をして出かけるのは、こういう機会だけなのだろう。

こういうところにドイツの豊かさを感じた。歴史的建築物のカフェで午後のティータイム。日常生活の中にそういう時間を持つというか生活そのものを楽しむという発想自体が、まだバブル景気の余韻に浸っている当時の日本人にはなかった。

いまもないにちがいない。






最終更新日  June 3, 2014 05:31:45 PM
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May 25, 2013
カテゴリ:自叙伝
旅で大事なのは、ベストシーズンを知ることだ。

ベストシーズンを知る必要があるのは、ベストシーズンに訪れるのが必ずしもいいことではないからだ。ベストシーズンはどこも観光客であふれる。その街の素顔を見られる機会は極端に減少する。

ただローシーズンだからいいというものでもない。冬の北ヨーロッパ、真夏のパキスタン、台風シーズンの沖縄などは避けるにしくはない。

ベルリンからローテンブルクに寄り道をしてミュンヘンに戻ったぼくは、ウィーンに行くことにした。レイルパスがまだたっぷり残っているし、その後の旅程から考えて一泊くらいはできる時間的余裕があった。

11月下旬のウィーンは最悪だった。暗く寒い。旧市街は大きな建物が多いので威圧的だ。カフェをのぞくと老婦人がひとりで生クリームたっぷりのコーヒーを飲んでいる。何だかものすごく甘そうな大きいお菓子を食べている人もいる。不機嫌そうな人ばかりに見える。うろうろ歩いているうちに雪まで降ってきた。


国立歌劇場に行き、立ち見の席(というか場所)を確保した。ウィーン国立歌劇場は立ち見の場所が舞台正面で近い。料金も安く200円くらい。映画一本を立って観る根性があればじゅうぶん楽しめる。

場所を確保したあとムジークフェラインに行き、ウィーンフィルの演奏会を聴いた。こちらも立ち見だと200円くらいだったと思うが、1階の最奥で三方を囲まれているので音がこもる。国立歌劇場とちがって音はよくない。

昼間のオーケストラがほとんどそのまま午後のオペラで演奏していた。これはすごいことだ。こんなことを年中やっていたら、ルーティンワークになってあたりまえだろう。ウィーン・フィルの演奏は来日公演でも聴いたし、FMでは数え切れないほど聴いた。あるときはあまりにヘタなオーケストラなので逆に興味をひかれて最後まで聴いたらウィーン・フィルだった、ということもあった。感心することはあっても感動したことがない。

ウィーン・フィルに群がる日本人はウィーン・フィルという記号を消費しているだけだ。マーラーやブラームスが指揮したこともあるモーツァルトやベートーヴェンが活躍した音楽の都のオーケストラだから「すばらしい」とかんちがいしている。ジェームズ・レヴァインの大甘な指揮を見ながら思ったのはそんなことだった。

深夜にウィーン西駅で彼女と待ち合わせていた。次の日一緒にウィーンを歩くつもりだった。しかし、雪と寒さと暗さで閉口したのでミュンヘンに帰ることにした。時刻表を調べると、彼女が乗る予定の電車の出発時間の30分前に帰り着くことができる。ミュンヘン駅で電車に乗ろうとした彼女を見つけ、説得してその日は引きあげた。

2011年5月に約20年ぶりに訪れたウィーンはパリにも負けない「花の都」だった。街には笑いと歌があふれ、深みを増した新緑が美しかった。若い女はのびのびとした肢体を惜しげもなくさらし、恋する幸福を全身から発していた。老人が茶をすする暗くて寒い街という印象とはおおちがいだった。

そんなことから考えた。旅にふさわしい季節はハイシーズンでもローシーズンでもなく、ミドルシーズンではないだろうか。しかも、日が短くなる秋よりも春。四季のある地域では、冬のあとの春の訪れというのはうれしいものであり、気分も明るくなるからだ。旅人に対しても優しくなるのではないだろうか。

11月のウィーンは寒すぎ、5月のウィーンは暑すぎた。四季を体験してはじめてその土地のことがわかるというのはその通りだろう。しかし、そう何度も訪れることがかなわないとしたら、いわゆるベストシーズンとされる少し前の時期に行くのが、宿に困ることもなく賢明だと思う。

一般に旅行のベストシーズンとされるのは、ウィーンでは5月から9月。ちょうど音楽のシーズンとは反対だ。ということは、4月、その時期がムリであれば10月が旅行に最適な季節なのだろう。

ミュンヘンを発つ、つまり彼女と最後のときを過ごすのは航空券の日付から逆算すると一週間を切った。せめてこの間は「思い出」を作ろうと思った。ウィーン旅行はそのひとつだったが、ウィーンはやめてヴェネツィアに行くことにした。ミュンヘンはオペラをのぞくとさほど音楽会は多くない。それでも、チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル(ソプラノはジェシー・ノーマン)、バイオリンのティモシェンコとピアノのクラウス・シルデ、この時期多い教会でのモーツァルト「レクイエム」をきいた。

この「レクイエム」はどうもアマチュアの団体だったようで、お世辞にも上手とはいえなかった。日本なら、無料でも関係者以外、みな途中で帰ってしまうようなレベルだった。にもかかわらず、聴衆は真剣にきいている。

このとき、音楽のあり方が日本とはちがうということに気がついた。「レクイエム」をききにきたドイツの聴衆は、日本人のそれのように商品としての、コンサート・ピースとしての「レクイエム」をききに来ているのではない。クリスマスのこの時期に「レクイエム」をきくことが、たとえていえば座禅をしたりするような、気持ちを整え、心を洗い清める「行事」になっている。バレエ「くるみ割り人形」やオペラ「ヘンゼルとグレーテル」がこの時期よく上演されるのも、子どもに最適な演目であるだけでなく、おとなにも忘れかけている大切なものを思い出させる力がこれらの作品にあるからだろう。年末に「第九」が集中的に演奏される日本の習慣はグロテスクだが、教会でへたくそな「レクイエム」をまわりのドイツ人と一緒に神妙になってきくのは、演奏の上手下手を超えた音楽の価値に気づかされる体験だった。

何かヨーロッパ人には楽器の音や響きそのものに対する畏敬と崇拝の気持ちがあり、それはキリスト教とも切っては切れない関係にあるように思う。音楽とかメロディの話ではない。楽器の音そのものに、何か聖なるものをききとろうという姿勢が感じられるのだ。一見、おとなしくきいている日本人が真剣なようでいて実は音の響きの向こうにあるものに無関心なのとは対照的だ。

いや、日本人も音に謙虚に耳を傾けていた時代があった。ぼくが音楽会に通い始めた1970年の聴衆はいまとはまったく別だった。真剣さがまったく異なっていた。ああいう聴衆は、1980年代後半から急に少なくなっていったように思う。つまり、経済のバブル化を境にして日本人は大きく変質したということだ。

その影響はすべての世代に及んだと思うが、若い世代ほど大きな影響を受けたにちがいない。

豊かさとトレードオフの関係にあるという言い方もできると思うが、ドイツは日本と同じか、むしろ豊かな感じがする。豊かであるにもかかわらず、精神的な価値を大事にする度合いは日本人よりも強い。それが国民性や民族性に由来するのか、宗教が関係しているのか、考えるほどにわからなくなっていく。ベルリンの労働者は「われわれもニキシュが指揮するベルリン・フィルがききたい」と武装蜂起したが、しかしその労働者たちは経済危機の中でナチス党員になっていく。

「アウシュヴィッツの音楽隊」は、楽器の演奏ができたためにたまたま収容所から生還した人の「証言」である。モーツァルトの音楽をきいたその人物がガス室のスイッチを入れる。パウル・ツェランの詩「死のフーガ」はこうしたエピソードが基になっているという気がするが、音楽をはじめとするすべての芸術の限界、危機における無力さを物語っている。

戦前のウィーンに学んだ文化人類学者の石田英一郎は、ドイツ・オーストリア人の中でも最も誠実で善良だったのがナチス党員だったと著書に記している。民族浄化のおそろしさはここにある。自分が信じる「正義」の相対性を疑うことのない人間は、潜在的にはみなナチスになる可能性があるということだ。

地下鉄駅から彼女のアパートに帰る途中の壁には、「ドイツ人はみなナチスだ」という落書きがあった。移民が書いたものかもしれないが、知的で公徳心の高いドイツ人に感心しつつ、「そういうものかもしれないな」と思った。









最終更新日  May 28, 2013 05:57:18 PM
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July 23, 2012
カテゴリ:自叙伝
このときの旅で持っていったのは「地球の歩き方ヨーロッパ」と「ヨーロッパ2000円の宿」というユースホステルのガイドブックだけだったので、ベルリンの詳しい地図や細かい観光名所は載っていなかった。そもそもベルリンという街には何の関心もなかったのでそれでよかったが、翌日は街を歩いてみた。

適当に歩いていると、真ん中がかすかに盛り上がっている道路があった。その道路の向こう側に酒屋があるので、歩きながらビールでも飲もうと店に入ってみた。

するとどうだろう。値段がびっくりするくらい安い。

道路のこちら側の店と比べて、同じ商品が2~3割も安い。しかも道路の向こう側は家が何となくくすんでいる。それで気がついたのだが、その道路は、「壁」があったところなのだ。3年前にベルリンの壁は崩壊し、壁は削られてなくなっていたが、かすかにその名残があった。壁はなくなっても東西の差が残っていたのであり、不思議な感じがした。

ベルリンには3泊するつもりで来た。小澤征爾の指揮するベルリン・フィルを3回聴こうと思ったのだ。しかし、2日聴いてじゅうぶんだと思ったので、3日目の夜はベルリン国立歌劇場に行くことにした。旧東ベルリン地区にある、旧東ドイツが国家的威信をかけて運営していた瀟洒なオペラハウスである。

しかしここでも「東」に遭遇した。生まれてから一度も笑ったことがないのではないかと思える無機的な女をドイツではときどき見かけるが、このオペラハウスのチケット売り場の老婆と、マントを着た客席係の若い女は、そろってこうした「無機的無情女」だった。こういう人間がこの世にいるかと思うとぞっとするくらい、人間性そのものの欠落を感じる。どうもプレミア公演なので一般席の売り出しはないということのようだったが、不親切というより「気持ち」を感じないのだ。まごついている客はぼく以外にもいた。日本なら、きょうは一般公演ではないので申し訳ありませんが入場できませんと「気持ちのこもった」アナウンスがされるところだが、そういう「感情」を感じさせるものがまったくないのだ。

これは融通のきかないドイツ人の民族性もあるだろうが、このオペラ・ハウスには「東」がまだ保存されていたということだろう。世の中はゆっくりとしか変わらないものなのだ。

3泊目の同室者は高校生の二人組だった。朝起きると、二人のうち一人が好奇心を抑えがたいという感じで話しかけてきた。驚くほどへたな英語で、どこから来たかとか聞いてくる。日本から来たがミュンヘンに滞在していると話すと、ミュンヘンのオータムフェスタがどうのとしきりに話す。「酔っぱらい」という英語がどうしても思い出せないらしく、話がつまるが、言いたいことはわかった。酔っぱらってアホみたいになる人間がたくさん出る、と言いたいようだった。

逆に、彼らの旅の予定を訊いてみた。すると、大学ノートを見せてくれた。そこには分刻みで旅の予定が書き込まれていたが、何でも計画しなければ気の済まないドイツ人気質は若い世代も変わらないのかと呆れた。天気だって、交通機関の事情だってどうなるかわからないのに、せっせと勤勉に旅をする姿は日本人とどこか似ている。

高校時代、船でしか行けないユースホステルに行こうとしたことがあった。しかし、港に着いてみると高波で欠航だという。バスで行く手もあったが、そうすると海岸を4時間以上も歩かなければならない。そうした長時間の歩行に抵抗のある同行者がいたので困ってしまった。常にセカンドチョイスを考えておくこと、予定を立てすぎるのは賢明ではないということを学んだ。

レイルパスの関係で電車には夜7時過ぎに乗ることにしていたから、出発の日は時間があった。宮殿を見たり一通りの観光をして、それでも時間があったので博物館と美術館に行くことにした。ルーベンスの絵があるというので見てみたいと思ったのである。

日本の感覚だと1~2時間もあれば余裕で見られるだろうと思ったが、途方もなく広い。全部見ていたら何日もかかりそうなくらいの展示物がある。「見る」「集める」ということに対するヨーロッパ人の執着というか執念を思い知ったはじめての体験だった。部屋から部屋へ走りながら移動しているうち、絵の印象などすっかり忘れてしまった。

ヨーロッパの美術館や博物館で大事なのは、どの部屋をカットするか、どの展示物をカットするかを事前に決めておくことだ。あれもこれもと見ていると、肝心の展示物にたどり着く前に疲弊してしまう。

ミュンヘンに戻る途中で寄り道をした。ロマンティック街道の宝石と言われる街、ローテンブルグに寄ることにしたのである。「危険」と言われる南行の列車に乗り込むと、博物館疲れですぐ寝込んでしまった。

朝起きると、オーストラリア人とおぼしき青年が青ざめた顔して通路に立っていた。寝ている間にウェストポーチの中身を全部とられたという。パスポートなど貴重品が入っていたらしく、車掌には話したが打つ手がなく呆然としていた。まったく気がつかなかったというから、もしかすると催眠ガス強盗にやられたのかもしれない。気の毒だったのでポケットにあった10マルク札を渡したが、彼のおかげで泥棒にあわずに済んだのかもしれないので後払いの保険料のようなものだ。

ローテンブルグはたしかに美しい街だった。メルヘンチックな旧市街には小さな店や雰囲気のあるこぢんまりとしたペンションやガストホフが趣味よく立ち並んでいる。駅で自転車を借りられたので短時間でくまなく回ることができた。ロマンティック街道のツァーはたくさんあるが、自転車で縦走するといいだろうと思った。

古風な町並みの中にとけこんだ地味で質素だが趣味のいいペンションを眺めていると、いかにも若いカップル向けな日本のペンション村の軽薄さを思い知らされた。嫌味でキザな言い方になるが、ホンモノを知ってしまうとキッチュなニセモノには興味を持てなくなるのだ。だいたい、高原にビーチサイドが似合うようなペンションを作ってどうしようというのだ。

いくつかのペンションを見てみたが、だいたい、シングルだと3000円、二人以上だとひとり2000円くらいで泊まれるようだった。

左側通行の交通ルールを見てわかるように、戦前の日本はヨーロッパの文化を取り入れていた。戦後取り入れたのは戦勝国アメリカの文化だ。アメリカ文化の本質とは大量生産の大量消費であり、日本人を大きく変えたのはアメリカ文化だったことが、このほんとうに宝石のように美しい街に来てみると痛感される。

ローテンブルグで驚いたのは日本人ツァー客の多さ。うんざりしたが、向こうもけたたましいブレーキ音をたてて走り回るぼくの姿を見てなんだあの日本人はとうんざりしたにちがいない。

ドイツの自転車は、ペダルを逆回転させることでブレーキがきくようになっている。そうとは知らずに、ハンドルについているブレーキを多用したものだから、キーキーとやたらにうるさかったのだった。

このあとミュンヘンに戻り、郊外にあるダッハウという街に行った。ダッハウもローテンブルグに似た美しい街である。しかしダッハウにはナチスの強制収容所があり、多くの政治犯やユダヤ人がガス室で殺された。

ローテンブルグやダッハウのような美しい街を作り上げたドイツ人、そのイメージと大量虐殺がどうしても結びつかない。もしかすると、こんなにも美しい街を作り上げる、その美的感性は大量虐殺を生む選良意識と一体のものではないのか、と疑ってみることもできる。

美しいものを見て美しいと素直に感動できない世界に生きるのは不幸なことだが、美しいものに無邪気に感動するだけの人間は、再び大量虐殺に加担していくことになるだろう。






最終更新日  July 30, 2012 12:11:55 PM
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December 30, 2011
カテゴリ:自叙伝
ミュンヘンからベルリンに向かう夜行では熟睡できた。朝になって外を見ると、廃車なのか、タイヤのはずされたボロボロの乗用車が並んでいる。中途半端な数ではない。10キロも20キロも続いていたのではないだろうか。何千台か何万台か見当もつかない。

そこで見たのは何だったのか。単なる廃車の列ではない。心の廃墟とでもいうべきものだった。どんな廃墟もあれほど寒々しくはない。

その場所がどこだったのか、いまとなっては憶測しかできない。

ベルリンは旧東ドイツの中に孤島のように存在する街だった。だからミュンヘンからベルリンに向かう鉄道はすべて旧東ドイツを通る。ドレスデンかライプチヒを経由するから、そのどちらかの都市とベルリンの中間地点くらいだろうと思う。

あのきれい好きなドイツ人が、これはいったいどういうことか。永遠に続くかと思われる廃車の列を見ながら、これが「共産主義」のもたらす必然だと気づくのにそう時間はかからなかった。

官僚主義と無責任体系は共産主義の専売特許ではない。しかしそれにしても度を過ぎている。先進国なら、これほど事態が悪化する前に市民が声をあげるし、行政もここまで怠慢ではない。むしろ、チャンスとばかり自動車のスクラップビジネスに取り組む起業家が現れるにちがいない。自動車に使われている鋼板は非常に質がよく高く売れる。

それは余談だが、どんな精緻な「共産主義批判」よりも、あの風景は「共産主義」の非人間性を雄弁に物語っていた。

「ショスターコヴィチの証言」の中にある、「ヒューマニストの言うことに耳を傾けてはいけない。あなたは誠実に自分の仕事をしなさい」というショスタコーヴィチの言葉が聞こえてきた気がした。旧ソ連を訪れて歓迎され親ソ派になったロマン・ロランのような人物のことを指していたのだろう。あるいは、芥川也寸志のような人物もショスタコーヴィチが指弾する「ヒューマニスト」のひとりだったのかもしれない。

民主化以前の共産国を訪れて共産主義の本質を見抜けなかった人間の目は節穴以下であり、頭には味噌がつまっているにちがいない。もちろん、だからといって反共主義者が正しいわけではない。浅薄な反共主義者はそのバカさでむしろ人々を共産主義へ傾斜させる道化にすぎないのは歴史が教えている。

まるでタルコフスキー映画のシーンのような、朝霧の中の廃車の列を眺めて暗澹としていると、「まもなくベルリンに着く」という陰鬱な声の抑揚のないアナウンスが流れた。「ベルリン」のあとに「アレクなんとか」と言ったような気がしたがそのときは気にとめなかった。

ベルリンのことは前年に旅行した知人のT君から聞いていた。列車はZOO駅に着くが、その周辺は泥棒が多いので気をつけるようにとのことだった。

しかし列車から降りて駅に出てみると、一国の首都の玄関口にしてはあまりにも薄暗くさびれている。どれくらい薄暗いかというと、持参した「地球の歩き方ヨーロッパ」を開いても字が読めないくらいなのだ。

しかも、駅構内のベンチに座っている人たちも不気味なくらい無表情で生気がない。よどんだ空気は暗いだけでなく重くすら感じられる。

そこで気がついた。着いたのはZOO駅ではなく、旧東ベルリンのアレクサンダー駅だったのだ。レイルパスがあるととりあえず来た列車に安易に乗ってしまうことがある。このときもそうだった。

薄暗い駅の中にいる、無表情で生気のない人たちにZOO駅への行き方を教えてもらおうという気持ちにはならなかった。一刻もはやくここから立ち去りたい、関わり合いになりたくないとしか思わなかった。

ZOO駅へは地下鉄で行った。国鉄駅を出てすぐ地下鉄を見つけ、たぶんこっちだろうという方向の車両に乗った。

その地下鉄のことはよく覚えている。というのは、乗ったとき、車内は陰気で生気のない雰囲気だったのに、いくつか駅を過ぎるうちに、カラフルな服装の人が増え、明るく賑やかになっていったからだ。ああ、旧西ベルリン地区に入ったのだと、やっと生きた心地がした。

顔にピアスをしているような人を見ると、日本ではぎょっとしてしまう。しかしこのときはほっとした。人間が自由に好き勝手に生きている。たとえそれがバカバカしく愚かなことであっても、そういう自由が保障された社会こそ健全なのだ。そんなあたりまえのことを、東ベルリンから西ベルリンへの車内で知った。

ZOO駅に着いた。よく考えたら、ZOO駅に来る必要はまったくなかった。宿にいちばん近い地下鉄駅に行けばよかったのに、なぜかそう思わなかったのである。アレクサンダー駅ではなくZOO駅から旅を始めなければならない、そんな強迫観念にとりつかれていたのかもしれない。

ZOO駅では荷物をコインロッカーに預けるつもりだった。知人のT君が泥棒被害にあった場所だ。しかしコインが足りない。大した荷物でもないし、持っていくことにして駅を出た。するとどうだろう、T君を襲ったのと同じかどうかはわからないが、若い男二人があとをつけてくる。

ZOO駅を出るとすぐベンツマークのあるショッピングビルとカイザー・ヴィルヘルム記念教会があり、ベルリン観光の定番になっている。この教会は空爆で破壊され、一種の戦争モニュメントとして保存されている。広島の原爆ドームと同じで、いきなり厳粛な気持ちになる観光客は少なくないだろうと思われる。

しかしその教会より、たったいま見てきたばかりの旧東ドイツ、東ベルリンのあれこれの方がよほどすさんだ景色に見えた。何しろ生きた人間が廃墟のようなものなのだから、これ以上の悲惨は想像しがたい。だからヴィルヘルム皇帝記念教会ですら浮き立つような景色に見える。「退廃した資本主義の都」に着いたぼくはハイになっていて、こそ泥の二人組などまったく恐るるに足りない気分だった。共産主義の身の毛もよだつ恐ろしさを知ったいま、なにもこわいものはない。

50メートルくらい歩いたところで、いきなりUターンして男二人組に向かった。走りはしなかったが、猛然とした早足で、「てめえらぶっ殺してやる。T君の仇をとってやる」と心の中で念じながらまっすぐその二人をにらみつけながら向かっていった。

するとどうだろう。不意をつかれた二人組はあわててくるっと踵を返し、走ってZOO駅の方へ逃げていくではないか。なんて弱気なやつらだと呆れた。まあ先進国のチンピラなんてこんなものだろうと思い、深追いはしなかったが、ネオナチではなかったのは幸いだったかもしれない。

ベルリンに来たのは小澤征爾が指揮するベルリン・フィルを聴くためだった。「カラヤンのサーカス小屋」と揶揄されるフィルハーモニーを見てみたいという気持ちもあった。1992年のあのころ、日本にはまだ音楽専用ホールは珍しかった。

ベルリンは大都会だが、主な観光地は徒歩でまわることができる。宿(フィルハーモニーに近いユース)にチェックインしてからフィルハーモニーへ向かった。コンサートは7時30分からだが、チケット売り出しの3時間前に行けば何とか買えるだろうと3時に行った。

するとすでに刑事コロンボを10歳くらい若くしたような中年男と20代はじめくらいの年齢的に不釣り合いなカップルが並んでいる。

この女は平凡な感じだったが、男はユニークだった。チケット売り場があくまでの3時間、しゃべりっぱなしだったのだ。

ドイツ人はフランス人やイタリア人に比べると寡黙な印象がある。それにどちらかというとスクエアな感じであまり笑わないと思っていた。しかしこの男は、明石家さんまも顔負けというくらいに早口でしゃべりまくる。時折、ジョークかオヤジギャグでも言ったのか、どうだおもしろいだろうと笑いながら振り返ってこっちを見る。意味がわからないからおもしろくも何ともないが、その男の話し方や表情の豊かさが愉快で、そのたびについ愛想笑いをしてしまう。

男は自分のジョークに自分で大声で笑うが、女はにこっとするくらいで声を出しては笑わない。ということは、さほどおもしろいジョークではないか、すべったジョークだということだろう。しかしそんなことはおかまいなく、男はひたすらしゃべりまくる。

おしゃべりであることに関してはかなり自信がある。これまで付き合った女性は例外なくぼくがおしゃべりなのに驚いたし、年下の女性にほとんどもてなかったのも、たぶん彼女たちが無口な男に魅力を感じるカルチャーの住人だったからだろう。

誤解されることも多かった。クラスメートとおしゃべりしているときなど、話題につまることがある。若いころはネタをたくさん持っているわけではないから当然だ。そういうとき、相手の長所を見つけてほめることにしていた。相手がブサイクでも、たまたま以前より似合う髪型をしていたらそれをほめたし、まあ、たいていの人は長所の一つや二つは持っているものなのでそれをほめた。

そうすると、あいつは女と見ればだれでも口説くといううわさがたったのである。

たしかに、おしゃべりな男が軽薄に見えることは多い。日本の男でありがちなのは自慢か知識のひけらかしである。女が化粧や服で自分を飾るように、男は自分の知識や経験のひけらかしで自分を飾る。したがって、能ある鷹が爪を隠すように、男は黙ってサッポロビールを飲み続けるのが賢明ではある。行動すべきところを大言壮語におきかえるだけの「代行主義」も避けられる。

しかし、沈黙や無口は美徳だろうか。よく考えてからゆっくりしゃべる寡黙さを好ましく感じることはあるが、感動や発見を言葉を尽くして伝えようとするのが人間の本質ではないだろうか。それをしないということは、そもそも感動や発見、つまり語るべき内実を持っていないだけではないだろうか。極論すれば、無口な人間とはバカの別名ではないか。

くたびれたコートを着てマフラーを投げやりに巻いたこの男のおしゃべりさになかば呆れ、なかば感嘆しながら思ったのはこういったことだったが、ぼくにとってはパリの空港案内所の無愛想な女にもまして救いだった。男はおしゃべりでいい。このときからそう思えるようになったからだ。

結局、チケット売り場に並んだのは3人だけだった。当日券もけっこう残っていて拍子ぬけした。チケット購入に迷っていると、おばあさんが寄ってきて定期会員のチケットをくれた。お金はいらないという。連れが来られなくなったのだろう。あまりいい席ではないが、ありがたくもらうことにした。

こうして日本だと数万円するチケットをタダで手に入れることができた。

コンサートでは印象的なことがあった。静かな部分で、すぐ前の席の老婦人がひどく咳き込んだのである。すると間髪を入れず右側からハンカチが、左側からはアメ玉が手渡しで送られてきた。

日本ならとがめるような冷たい視線がとびかうタイミングである。ささいなことかもしれないが、ドイツ人の公徳心というか道徳心の高さに感銘を受けた。40年以上のコンサート通いで、日本でこんな光景を目にしたことは一度もない。

こうしたドイツ人の公徳心の高さはしばしば感じた。たとえば、ユースでも、食事のあとはみな自分のテーブルを拭いてから席を立つ。高校生くらいでも、ごく自然にそういうことが身についている。

充実した一日だった。共産主義の必然的帰結と思われる心の廃墟を眼前に見た旧東ドイツ、暗鬱な旧東ベルリン、自由で退廃的な旧西ベルリン、弱気なこそ泥、おしゃべり男に親切な老婆、公徳心の高いフィルハーモニーの聴衆・・・さまざまなドイツがあり、さまざまなドイツ人がいる。

6年在籍した大学よりも多くのことを学んだ一日だった。






最終更新日  January 3, 2012 02:18:32 PM
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March 5, 2011
カテゴリ:自叙伝
部屋を人に見せるのは恥ずかしいものだ。どんなに整理・整頓されていても、そこには何かしら住む人の美意識、内面が反映してしまうからだ。一見、上品に見えても、数分も眺めていればそれがほんとうの上品さなのか、上品ぶっているだけなのかがわかってしまう。

まだ時差ボケの抜けない僕は、とにかくKの部屋で休ませてもらうことにした。彼女のアパートの大家はオペラ座を引退した元ソプラノ歌手で、かなりの高齢だった。

ドイツ人はほかのものはさておいても家にお金をかけると聞いていたが、そのアパートも日本なら豪邸レベル。建てるときから老後はアパート経営をしようと考えていたにちがいない。豪邸なのに凝った造りではなく、玄関などは小さく、使いやすさを最優先して作られていたのはそのせいだろう。わるくいえば没個性的、よくいえば合理的で、すっきりした造りだった。敷地全体の面積は200坪くらいだったと思うが、そのうち80坪くらいは庭で、数十人規模の立食パーティなら開けそうな広さだった。

大家の老婆にあいさつに行くと、ちょうどメイクボランティアが来ていた。いまは珍しくないが、そういうボランティアがあることを知って少し驚いた。寝たきりに近い状態のようだったが、週に2度ボランティアが来て化粧をしてくれるのだという。大家の部屋は最上階にあり、元は二つの部屋だったところをひとつにして使っているようだった。広さは全体で60平方メートルかもう少しあるような感じだった。

その部屋というのが、すっきりして何もないに近い。もしこの老婆が亡くなったとしても、数時間もあれば片付いてしまいそうだ。

しかし、何もないということはありえない。思い出の品だってたくさんあるに違いない。そう思っていたら、家具や家電はそれとわからないように配置してあり、ふだん使わないものは専用の物置にしまってあるのだという。

もうひとつ印象的だったのは天井の高さ。3メートルはありそうだった。Kの部屋は日本でいえば8畳間くらいだったが、天井が高く、暖房がオイルヒーターであることもあって、開放感があった。

劣悪な住宅で暮らす都会の日本人の多くは、その居住環境をさらに自分の手で貧困なものにしている。というか、あってもなくてもいいようなもので埋めつくして、古くなったものを直したりという工夫をせず、壊れたらすぐ大量生産の規格品を買ってくる。色も形もバラバラの家が並ぶ住宅地の街並みにも似て、いかにも貧乏くさい。モノが捨てられないのは、モノしか心を満たすものがないからだろう。

ムダなモノがなく電気製品がむきだしになっていないのは、何とも豊かな感じがした。

大家に言われて、ほかの部屋に住む20歳くらいの男がマットレスを運んできてくれた。学生に見えたが、なぜかいつも半地下にあるダイニングキッチンでクロスワードパズルをやっていた。

ミュンヘンの不動産は貸し手市場らしく、家賃は東京並みに高く、このアパートも満室のようだった。が、このパズル男以外では若い女をひとり見ただけだった。この女が共同電話やシャワー室を延々と独占するので困るとKはこぼしていた。実際、この女がシャワー室に入ると最低でも1時間は出てこない。冬だったので困ることはなかったが、これが夏なら、かなりいらついたかもしれない。

僕は、銭湯文化は日本が世界に誇る偉大な文化だと思っている。言葉ではなく、実体験で身につける道徳というかマナーの多くを銭湯で学んだという気がするからだ。ちょっとした譲りあい、ちょっとした我慢。遊びの延長のような場でありながら、傍若無人にふるまってはいけない世界。

それに身長が1メートルに達するくらいまでは、子どもは男女どちらの風呂に入ってもかまわなかったから、行ったり来たりしてその世界の違いを楽しんだものだ。

たとえば同じように混雑していても、女湯に比べると男湯はのんびりしていた。混雑しているときの女湯の殺気といったらなかった。女たちは他人には目もくれず、ひたすら髪や体を洗いまくっていた。お湯にのんびりつかるというより、髪と体を洗濯しにきたようだった。ああいう光景をいつも見ていたから、女性に対するよけいな幻想を持たなくなった。

体重計や身長計も置いてあって、計るのは楽しみでもあった。背が伸びたと言って母親が喜び子どもの頭をなでるような光景がよく見られたし、乳児を連れた母親が来ると、女の子などはよってたかって赤ちゃんを抱かせてもらったりしていたものだった。

老若男女が入り交じった庶民の社交場。こうした世界をくぐることで養われたものが、自分のの中の柱というか基礎のようなものになっている。

イタリアやスペインには、ペンションなどは自分の家の一室を旅人に提供しているようなところもあるので、その国の人がどんな暮らしぶりをしているのかをかいま見たりすることはできる。しかし、他の国ではなかなかそういう機会がない。

そういえば、キッチンはほとんど使われた形跡がなかった。共同炊事場のはずだから、誰か使った形跡があってよさそうなものだ。ドイツ人はきれい好きなので油を使った料理をしないと聞いたことがあるが、フライパンなどはホコリをかぶっている感じでしばらく使われていないようだった。

大家の老婆や自己中のシャワー女、それにいつもこのキッチンにいるパズル男が何を食べているのかは謎だった。こういう作りのアパートなら、日本でなら自然発生的に鍋パーティなどが行われるにちがいない。鍋文化も銭湯文化と並ぶ偉大な日本文化だと思うが、ここではみなで作ってみなで食べるというようなことは決して起きなさそうに思われた。

文化や習慣のちがいと言ってしまえばそれまでだが、銭湯文化を知り鍋文化を知っている日本人は自信を持っていいと思う。人口密度の高さに起因するアジア的共同体文化の一種と言っていいかもしれないが、こういうものを知っているのと知らないのとでは大きな差が出る。

こんなことはドイツに来てKが寄宿しているアパートに滞在するというようなことをしなかったら、絶対に思わなかったし考えもしなかった。

パズル男が運んでくれたマットレスで一休みして起きると、無性に音楽が聴きたくなった。札幌を出てからずっと音楽のない状態が続いている。Kの部屋にはテレビもステレオもなかったがラジオがあった。バイエルン放送のクラシック音楽専門チャンネルがあり、いつも何かしら流れているというのでそれをかけてみた。

今でも鮮烈に覚えているが、その音が妙なのだ。ひとつひとつの楽器の音が異様に分離して聞こえる。ハーモニーがハーモニーとして響かず、バラバラの音が同時に鳴っている、という風に聞こえる。曲や演奏のせいかと思ったが、どうもそうではないようで、そのあまりの非音楽的な録音に耐えられなくなって消した。

こんなひどい音が平気で垂れ流されているなんて、ヨーロッパ有数の音楽都市ミュンヘンも実は大したことがないのかもしれないという疑念がわいたほどだ。

最近、許光俊というドイツ留学経験のある音楽評論家の本を読んだら、バイエルン放送の非音楽的な録音についての叙述があって驚いたが、たぶん、ドイツ人とは音に対する美意識が全く違うのだろう。うまく言えないが、バイエルン放送の録音から感じるのは、ドイツ人は音楽を左脳優位で分析的に聴いているのではないかということだ。日本人はどちらかというと情緒的に音楽を聴く。音楽全体よりもメロディに意識を集中して聴く傾向がある。

ヨーロッパに来た目的の半分はクラシック音楽の本場で音楽を聴くことだったが、その「本場」での音楽との最初の出会いからもたらされたのは落胆だった。






最終更新日  March 6, 2011 11:01:15 PM
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March 3, 2011
カテゴリ:自叙伝
初めて訪れる外国の街で恋人と再会する。なんてロマンティックな瞬間であり展開かと思うだろう。

だがミュンヘン駅前で半年ぶりにKと再会したとき、最初に感じたのは落胆だった。「はるばるミュンヘンまで来てみたけれど、この娘のことはやっぱりあまり好きじゃないな」と思ってしまったのだ。

人なつっこい笑顔で迎えてくれたら印象は違っていたかもしれない。彼女はすでにノイローゼが始まっていたのか、周囲に対して萎縮しているような感じだった。はるばる来たのにその仏頂面はなんだよと気持ちが萎えてしまった。

恋はいつ生まれるのか考えることがある。思うのは、恋というのはある瞬間、突然に生まれるということだ。初対面だろうと、長い付き合いだろうとその事情に変わりはない。恋はよく火や炎にたとえられるが、気化したガソリンが一瞬で爆発するように、爆発的に着火する。そして着火した恋愛の持続には、あたりまえだが燃料がいる。燃料は常に供給され続けなければならない。その燃料とは、思い出を作ることであり、ささいな事柄でも包み隠すことなく伝え合って情報を共有しお互いの感情の襞を寄り添わせることだろう。

自営業を営む夫婦の仲がいいのは、いつも報告し相談しあっているし、常にお互いを必要としているからだ。

人間は理由なしに生きていくことはできない。誰かが自分を必要としている、誰かに愛されている、そういう「他人を鏡」としてはじめて生きていける。だから長期間会わないでいると、自分が相手にとって切実な存在ではない、いちばん大事な存在ではないということに気がついてしまうし、相手のこともどんどん遠くなっていく。遠距離恋愛が長続きしないのは、あたりまえだが日常的な交流や接触を欠くからだ。

恋はいろいろなきっかけで生まれる。同情から生まれることもあるし、尊敬が恋愛感情に転化することもある。親しくしているうちに心が通じるようになり理解しあえたという信頼感が生まれて運命的な相手だと思うようになることもある。好意を寄せてくれた相手を好きになる人も特に女性には多いようだ。

Kとの関係でいうと、同情に近い気持ちがあった。ヨーロッパに音楽留学をするのは実家が裕福なお嬢さんにほぼ限られる。しかし、彼女の実家はふつうの家庭で、娘を外国に出す余裕はなかった。そんな中で資金獲得のためのコンクールに挑戦する準備をしたり、ドイツ語を習ったり、アルバイトでせっせと資金を作っている彼女は健気で、少し不憫に思えた。一方、「歳の離れた男性フェチ」の彼女は、何度か会ううちにはっきりとぼくに好意を持つようになったのがわかった。好きになられて悪い気はしない。しかし出発までの時間は半年しかなかったし、彼女は卒業試験もあったりと忙しく、普通の恋人たちのようにデートを積み重ねる時間はなかった。

それでも、出発までの付き合いは濃密だったかもしれない。最終バスに乗り遅れた彼女をよく部屋まで送った。冬だったから、どこかへ出かけるということはなかったが、ひんぱんに会い、会わないときは電話で話した。会ったり話したりするのは楽しかったが、彼女に恋したわけではない。彼女はぼくに恋をしたように見えたが、ほんとうのところはそれだってわからない。卒業=留学という人生の転機を前に、孤独で不安でさびしかっただけかもしれない。恋する気持ちの裏側には、さびしさや不安から逃れたいという気持ちが張り付いていることが多いものだ。

結婚願望の強い人たちに共通して感じることがある。ひとりで生きることの不安ときちんと向き合ったことがない、という幼稚さである。逆の言い方をすれば、彼らは不安が人を偉大にするという割と単純な真実を知らない。偉大というと大げさだが、成長と言いかえるとわかりやすいかもしれない。偉大さの獲得に関心のない人は、自分自身の成長よりも精神の安定、つまり不安からの逃避をとる。

恋は、始まるのも一瞬だが終わるのも一瞬だ。どんなに激しく燃え上がった恋でも、長く続いた恋でも、炎が消えるように一瞬で終わる。そしてたいてい、二度と燃え上がることはない。

きっかけは恋がはじまるときと同様にさまざまだ。

大学時代の彼女への気持ちがさめたのは、長い汽車旅で帰宅する彼女を駅まで見送ったとき、彼女がキオスクで買った雑誌が「週刊女性」だったからだ。6時間以上の移動時間を週刊誌の読書で過ごそうというのは、無趣味だということだ。何か熱中している趣味があれば、ゴシップ雑誌にカネと時間を費やすなどということはありえない。

その後付き合った三越のエレベーターガールは、超のつく美人だったが、できたばかりのディズニーランド旅行のおみやげにペナントをくれた。ペナントをおみやげにあげたりもらったりするのは小学生、ぎりぎり中学生だと思っていたので、その幼稚さに呆れた。料理のヘタさも驚くほどだった。一度、おでんを作ってくれたが、かろうじて食べられなくはないといったシロモノで、「おでんの素」を使ってあれだけまずいおでんを作ることができるのは特異な才能と言いたいくらいだ。気持ちはありがたかったし嬉しかったが、そういう細かなことがひとつまたひとつと積み重なり臨界点を超えた。

思えば、Kと初めて会ったときも、数年後に再会したときも、笑顔はなかった。地方の港町で生まれ育った生粋の北海道女性なのに、都会の女のような警戒心や閉じた心を感じた。括弧つきにせよ恋人同士になったはずなのに、やはり久しぶりの再会にも笑顔がなかった。ミュンヘンには彼女に別れを告げるために来たが、この再会が新しい恋のはじまりになる可能性がなかったわけではない。だが再会の瞬間にその可能性は消えたと心の中で思った。恋は始まる前に終わった。

それなら予定通り行動するまでだ。ミュンヘンを拠点にベルリンやウィーンに行き、イタリアやスペインに寄ってパリに帰ろう。最後はどこかへ旅行に行き、別れさえ美しい思い出にしよう。






最終更新日  March 4, 2011 02:36:46 PM
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November 10, 2010
カテゴリ:自叙伝
LCC(格安航空会社)が当たり前になったヨーロッパで、鉄道を使ってパリからミュンヘンへ行こうという人などもうほとんどいないにちがいない。パリからミュンヘンまでは直線でも800キロほどはある。実乗車距離は1000キロを越えるのは間違いない。本州の端から端まで列車移動するのに近い。ユーレイルパスの当時の値段は一日あたり5000円くらいだったから、5000円で1000キロの移動であり、一キロあたりの移動コストはわずか5円。これは安いと思って買ったが、安いだけあって時間もかかるし不便なことも多かった。

列車がパリを出てすぐ、車掌が来て大声でわめいた。何かと思ったら、パスポートを出せという。なぜ渡さなければいけないのかわからなかったが、大声で催促するので渡した。向かいのチェコ人らしき二人も渡しているからまあ大丈夫だろう。

結果から言うと、翌朝、返してくれた。国境を超えるとき、係官みたいなやつが回ってきて、寝ている客を大声で起こす。寝ぼけまなこで何だろうと起きると、パスポートと照合していった。パスポートを集めていったのは、言ってみれば入国審査のためだったわけだ。

この審査はほとんど形式的だった気がする。日本のパスポートと見ると中を開くことさえしなかったからだ。しかしそれでも複数の係官と車掌が深夜、どやどやどやってきて大声を出すのには閉口したし、何事か理解するまでは恐怖でもあった。

フランクフルトに着いたのは朝。ここでシャイだけど気のいいチェコ人らしき二人とは別れ、ミュンヘン行きに乗り換えることになる。一言も話さなかったが、どこかのんきで微笑の絶えない、印象に残る男たちだった。

このときだけでなく、この後、ヨーロッパを歩いていつも感じたのが、ヨーロッパの男に感じる人間味である。特に年配の男性に感じることが多いのが、誠実さと人情味であり、裏表のない正直さだ。立ち振る舞いや仕草にも品がある。特に感心したのは食事のマナーで、チャップリン扮する乞食の食事時のシーンを思い出したりした。

フランクフルトの駅には防毒マスクが売られていた。何でも、南へ向かう列車で、個室に催眠ガスを噴霧し、眠ったあと金品を奪う強盗が多発しているのだそうだ。だからと言って、防毒マスクをして寝るのには抵抗があった。それなら眠らずにいて強盗を撃退したほうがマシと考え、買わなかった。

ミュンヘン行きの列車に乗ろうと長いホームを歩いていると、ドイツ人の母子とすれちがった。息子は20歳前後だろうか、背が低いので高校生くらいにも見え、リュックを背負っている。母親はと見ると、ニコニコして歩いている息子の横で涙ぐんでいる。少し太った、いかにもドイツの肝っ玉母さんという感じの女性がなぜか顔をくしゃくしゃにして歩いてくる。

息子が長い旅から帰ったのが嬉しいのか、それとも兵役でも終えて無事に帰ってきたのか。想像するしかないが、ニコニコ顔の少年と泣き顔の母親が一緒に歩いてくる姿に、ほとんど一瞬のことだがドイツの女性というよりもひとりの母親の真情を感じた。愛想がなくとっつきにくい感じのすることの多いドイツの女性だが、この母親を見たことで印象ががらりと変わった。

フランクフルトからミュンヘンまで、初めて外国の風景というものを車窓から見た。美瑛の丘のような美しい農村地帯が延々と続いていく。それを見て、夜行列車の移動はもったいなかったかもと少し後悔した。

スケールが少し違うが、牧草地と防風林が交互に現れる北海道の農村地帯とさほど変わらない風景を眺めているうち、先ほどの母親のこともあって、自分の体が外国というものになじんできた気がした。初めての外国の初めての夜が夜行列車というのもハードだったが、そうしたハードさをくぐっていま明るい朝の光で眺める外国は、それほど外国という感じがしない。

ユーレイルパスだと一等に乗ることができるのもよかった。疲れているときは他人とあまり関わりたくないものだが、一等に乗っているドイツ人はビジネス客がほとんどで、こちらに全く関心を示さないのもありがたかった。座席もゆったりとしていて快適さが違い、二等のドイツ人に対して何となく優越感を感じる。ミュンヘンはもうすぐだ。ミュンヘン駅前のバーガーキングに巨乳の彼女が僕を待っているはずだ。さすがドイツ国鉄、時間通りに運行している。

札幌を出てもうすぐ60時間がたとうとしていた。






最終更新日  November 11, 2010 11:51:57 AM
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