February 27, 2010

こんなコンサートに行った~札幌交響楽団第526回定期演奏会 二日目 

カテゴリ:クラシック音楽
ショスタコーヴィチの交響曲第8番(通称タコハチ)が演奏される機会は非常に少なく、北海道でプロのオーケストラが演奏するのはこれが初めて。つまり札響初演。

独ソ戦のさなかに作曲され1943年に初演されたこの曲は、すでに60種類以上の録音が世に出ている。しかし、録音では今ひとつこの曲の真価というか、作曲者のメッセージがつかめない。そこでタコ・イヤーの2006年、井上道義指揮新日本フィルで聴いてみたりしたが、オーケストラが弱体だったこともあって生音でこの曲を聴いたというにとどまった。

しかし、世界有数の響きの美しさを持つキタラホールで、この奇妙な音楽を聴いていて、この音楽は希望を表しているのだということに突然気がついた。

希望は、希望の種子はどこにあるのか。それは、たとえば天災や戦乱のさなかでも、遊びに熱中する子どもの中にある。現状の悲惨さを理解しない、理解できない知的障害者、気のふれた女にこそ人類の希望は宿っている。ミサイルや砲弾が飛び交う中でも繰り返される普通の人々の日常生活のささいな一事こそ希望そのものなのだ。

ソ連がナチス・ドイツを駆逐する大戦争のさなかに作曲されたこの曲は、悲劇的な内容が進撃し勝利しつつある祖国にふさわしくないと批判され、1960年まで演奏が禁止されたという。しかし、ソ連とドイツの戦争など似た者同士の「内ゲバ」にすぎなかったことが明白となった現在から見れば、どんな戦争もいつかは終わること、もっと言えば「どんな苦難も長くは続かない、長く続く苦難は大したことがない」(エピクロス)といったような、人生に対する根本的に楽天的な世界観を音楽で描き提出することがタコの「意図」だったことがわかったのだった。

この、人生に対する根本的に楽天的な世界観を表現するためにこそ、長く暗鬱な第一楽章が、戦争の暴虐や権力に追従する人間を諧謔的に描いた後続楽章が必要だったのだ。フィナーレを力強く輝かしい勝利の音楽ではなく、牧歌的に平和な音楽にしたのは、どんな波乱もいずれは終焉し平和な日常が戻るしその日常こそが未来であり希望であり幸福であることを言いたかったからなのだと思う。

以上のような作曲者との対話を可能にしたのは、高関健の明快な指揮によって複雑なスコアが目に見えるように解析され、つまり見事な交通整理によって響きが混濁することなく明朗に鳴り渡ったことが大きい。オーケストラも、フォルティッシモでうるさい響きになったり、ピアニシモで響きが痩せるといった欠点はあるものの、全体として非常に完成度の高い緻密な演奏になった。ファゴットやコールアングレ、ピッコロなどの名人芸的なソロをはじめとして自発性に富んだ演奏の見事さ、ティンパニの武藤厚志がたたき出す胸のすくような連打は特筆大書される。

札響に「世界一」を見つけるとすれば、このティンパニではないだろうか。こんなにいい音で鳴るティンパニというのは記憶にないし、首席奏者はこの楽器にふさわしい名人である。

前半、モーツァルトのフルート協奏曲第1番のソリストは札幌出身の工藤重典。デビューしたてのころは、ランパルのコピーという印象しかなかったが、50代もなかばをすぎ、フランス的な洒脱な感覚と日本的なシリアスな感覚がちょうどよくバランスしてきたのを感じる。ただ軽妙なだけではない、美しいだけではない、一本芯の通った「熱さ」の感じられる演奏で、この曲の演奏としては現在聴くことのできる世界最高のものかもしれない。

「音楽が背広を着て歩いているような男」と工藤のことを評した人がいたが、たしかに、どんな細部も、ミスですらも音楽的で、モーツァルトを聴く生理的な悦楽を満たしてくれる。高関はこの曲では柔らかい美音を札響から引き出し、まるで宮殿か教会で行われているコンサートのような素朴なゴージャス感を味あわせてくれた。

  

          





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最終更新日  March 2, 2010 10:25:03 AM
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