September 9, 2010

旅の記憶-2-

カテゴリ:自叙伝
旅のノウハウで最も大事なもののひとつは、初めての国、初めての街にはできるだけ明るい時間に着くようにすることだ。多少高くついてもその方がリスクが少なくメリットが大きい。暗くなってからのホテル探しは辛いものだし、足もとを見られて変なホテルを高値づかみしたりする。空港や鉄道駅やバスターミナルは、地理に不案内な旅行者をねらう連中のいちばん多い場所だ。そういう場所からはさっさと立ち去るべきであり、暗くなってから到着してうろうろすることほど危険なことはない。

ところが飛行機はいろいろな理由でよく遅れる。このときは3時間以上遅れたため、晩秋のパリはもう暗くなり始めていた。空港からはバスで地下鉄駅に行き、地下鉄で鉄道駅まで行けばいいということだけはわかっていたが、いったいどのバスに乗ったらいいかわからない。番号だけで行き先表示がないのだ。

フランス語はシルブプレとメルシー、パルドンしか知らないのだから、フランス人に尋ねることもできない。同じ飛行機の乗客たちは慣れた足取りでさっさといなくなってしまった。しかたがないので、インフォメーションへ行き、無料のガイドマップをもらうことにした。英語が通じるかもしれないという期待もあった。

さすがに安い飛行機会社だけあって、着いたのはシャルル・ドゴール空港ではなくオルリー空港だったが、このインフォメーションが最悪だった。フランス美人が二人いたが、おしゃべりに熱中してこっちを見ない。何度か「マップ、シルブプレ」を繰り返したところ、まるで汚いもので見るような目でこっちを振り返りつつ、マップを放ってよこしたのだった。そのあとはまたおしゃべりに夢中で、英語で話しかけても返事もない。

それでも不思議とイヤな気がしなかったのは相手が美人だったからではなく、おしゃべりを中断された相手の気持ちも理解できたからだ。思ったこと感じたことを隠さずストレートに表す、その態度にも親近感をおぼえた。心にもないことを口にしたり、贈り物をするとき「つまらないものですが」と謙遜する日本の文化にずっと違和感を抱いてきた僕は、大げさに言えば故郷に帰ってきたような気さえした。

そうか僕はヨーロッパ人だったのだと、そのとき思った。日本社会に適応できなかったのは、僕のせいではなく、社会の側に原因があったのだ。無愛想なフランス女との出会いは僕には大きな救いになった。

父がよく言っていたことを思い出す。父は水産関係の研究者をしていたため、漁師や漁協と関係が深く、また農協にも招かれることがあった。両方の大会は、全く雰囲気がちがうのだという。

農協の大会は、和気あいあいとした雰囲気で異論もなくすすむのに対し、漁協の大会は、罵詈雑言と怒号が飛び交い、ケンカ腰。しかし大会のあとは、あれだけ罵りあってもそのあとはさっぱりしているのに対し、農民の方は、あとから批判めいたことをうじうじ言うのだという。

土地から離れられない農民がどうしても本音と建て前を使い分けるようになるのはしかたのないことだろう。争いを避け形式的にでも和を尊ぶ気質は、たぶん洋の東西を問わず農民には強いのだろう。しかし、日本はとっくに農業国ではなくなっているのに、同質なものを求め、自己主張をしないことが美徳という風潮が強い。ストレートな表現より婉曲な言い回しを好むのは特に京都あたりに強く存在する文化だが、僕はこうした文化が苦手だ。贈り物をするとき「つまらないものですが」と謙遜する文化は、理解できなくはないが僕には異質だ。プレゼントは、それがどんなに珍しく貴重で有用か、それを説明しながら渡すべきだとさえ思っている。

ミュンヘンの彼女(以後K)からの手紙には、ドイツ人の学生は、自分の意見をはっきりと言い、どんな相手とでも堂々と論争するとあった。そのくせ、どんなに意見や思想が異なっても、それはそれとして仲が悪くなることはない、遊びの場面では一緒に楽しむ、それが日本人とちがっていて驚いたとあった。

自分の意見を持ち、それをはっきり言い、イヤなことはイヤ、嬉しいことは嬉しいと感情をストレートに表すことを好ましいと思う感性は、なぜできたのだろうかと思うことがある。当時は日本だったとはいえ台湾出身の父と、東北出身ながらソウルの師範学校を出て職業を持っていた母の影響は大きかったのかもしれない。

そういう性格は、学生時代は面白がられたり人気の素になったりしたが、社会ではそうはいかない。いまとちがって、若者が自分の意見を持ち自己主張することなどは職場の年長者がゆるさない、そんな雰囲気が強かった。

インフォメーション前に取り残されていた日本からの乗客がもうひとりいた。僕と同年代のその男に話しかけると、やはり地下鉄駅行きのバスがわからないという。二人で外に出てバスをひとつずつあたると、おそらくこれだろうというバスを見つけた。その男は僕以上に外国語のできない男で、バスの運転手に日本語で聞いていて笑えた。運転手はまったく相手にしないどころか、あっちへ行けと手を振り、愛想のないことはインフォメーションの美女と同じだ。

しかしそのとき、バスのすぐ近くで、障害者の乗った車イスが道路のすきまにはまって動けなくなった。そうしたら、この無愛想な運転手が脱兎のごとく運転席から飛び出し、助けに行ったのである。

フランスでは危機に遭遇している他人を見過ごすと刑事罰の対象になるということをかなりあとで知ったが、その運転手の行動、というか条件反射的行動には、その直前に無愛想な対応をされただけに深く感じるものがあった。

警察が、被害者がストーカーに殺されるまで動かない国から来た人間としては、表面的には愛想がなく冷たいが弱者に優しいフランス人の国民性がすばらしいものに思えたのである。

空港でもたついている間にすっかり夜になってしまったが、何とかバスで地下鉄駅まで来た。僕はフランクフルト経由でミュンヘン、空港で知り合った男はベルリンに。ヨーロッパの大きな街では、行き先というか方面によって駅がちがうことがよくあるので気をつけなければならない。僕はパリ西駅、男はパリ北駅が出発駅になる。

どこへ行くのか地下鉄の中で話したが、彼は聞いたことのない地名を繰り返す。 コーロンに行く、コーロン経由でベルリンに行く、と言うのである。

はて、と思って地図を見せてもらうと、そこにはケルンと書いてあった。スペル通り読むとコーロンだが、ケルンのことだ。彼は気分を害したと思うが、思わず笑ってしまった。もしかすると数分間、笑い続けていたかもしれない。ケルンも知らない、ケルンと読めないような人間でも平気で旅ができるものなのか、それがおもしろくておかしくてしかたがなかった。この一事で、初めての海外旅行という緊張が、一気にとけるのを感じた。その安心感というか、なんだそんなものなのかという安堵感から、張りつめていた気持ちがゆるんで笑いが止まらなくなってしまったのだった。

旅の最初に、ケルンをコーロンと呼ぶ男に出会ったのは何とも幸運だった。宮城県の雑貨屋の二代目で、年に1~2度、一週間程度の日程でヨーロッパの主な街をまわっていると言っていた。外国をひとり旅というとたいへんなことと思う人はいまでも多いかもしれない。しかしアルファベットと数字が読めれば、たいていのことは何とかなる。日本人であればかなりの数の英語を知らず知らずのうちに身につけている。

ケルンをコーロンと読む男でも、何とかできてしまうのが海外ひとり旅なのだ。





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最終更新日  September 9, 2010 06:29:12 PM
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