徳川8代将軍吉宗の母親は浄円院といい、紀州藩主だった吉宗の父光貞の側室である。ある時光貞が入浴中、卑賎の身分出身のこの母親が湯殿番として身の回りの世話を焼いていた際に、光貞がお手をつけて吉宗が生まれたとされている。ところが、この母親は偉かったらしい。どのように偉かったかというと、こんな逸話が残されている。
吉宗は元禄10年(1697年)に越前国鯖江の3万石の領主となり、その後、本家の紀州家の藩主となり、さらに将軍となった。そのため母親の一族も厚遇されることになる。母親浄円院の出身の巨勢家から甥がまず5千石を賜り、次には浄円院の弟も5千石を賜り、吉宗のそばに仕えるようになった。
吉宗は非常に母親思いで、たびたび浄円院のもとを訪れたが、その時に浄円院は口癖のように言ったという。「鯖江に居た頃の気持ちを忘れるなよ」と。さらに巨勢家の者が5千石ちょうだいした際には、「将軍だからどのように取り立てようとご自由ですが、巨勢家はもともとは町人の身分だから、そんなに引き立ててはだめですよ」と賛成しなかったそうだ。ただ、「そうは言ってもいったん発令したものを取り消しはできないだろうから、今後はこれ以上の役職に就けないでもらいたい。今のままで十分だから」とも言ったそうだ。
また自分自身の出自もよく認識していて、吉宗の正室から会いたいという申し出があっても、「自分はごく軽い身分の者からこうなったのであり、お歴々の皆様の前に出るような者ではありません」と、固く辞退し続け、さらには正室から要請されて吉宗の寵愛を受けて姫君を産んだ側室の於久免(おくめ)に面会する際には、遠慮して於久免が居る部屋には立ち入らず、次の間に控えて於久免のそばに仕えている女たちに挨拶するだけだったという。自ら分というものをよくよく認識していた方だったのですね。
亭主の威光を笠に着てあちこちに顔を出して騒動を巻き起こす、どこかの国の宰相のカミさんに、この浄円院の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいものです。
参考:根岸鎮衛(やすもり)「耳囊(みみぶくろ)・上巻」1991年初版岩波文庫p40-41
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最終更新日
2018年01月17日 02時00分08秒