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ワルディーの京都案内

2016/04/27
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テーマ:京都。(5820)
2016年4月27日(水)】

 今日は失業給付の4回目の認定日でした。いつもならハローワークが終わった後、京都歩きをするのですが、あまり天気が良くなさそうだし、昨日のゴルフで疲れているので、ハローワークのみ行くことにしていました。

 ところが、阪急電車が人身事故でダイヤが乱れていて困った状況に。別のルートで何とかハローワークに辿り着くことができました。予期せず嵐山の渡月橋を渡ることになりました。その様子は下記の散歩日記にアップしました。

http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201604270007/

 ハローワークのほうはいつものように、端末で求人を検索して、ダミーの職業相談。職業相談では就職先を探しているという意志は見せなければ、失業給付はもらえませんので、以前から興味のあった求人の現況について質問しました。10人募集のところに、7人が応募したとのこと。今までの職業相談でも、この求人の状況を質問してきましたが、ずっと2人の方が応募して、まだ一人も採用されていないとのことでした。急に応募者が増えたようです。

 天気予報より少し早かったですが、午後から雨が降ってきました。

 家内はテニスでした。



** 京都市内全寺社巡り 山科区#3-4(最終回) **


「京都市全寺社巡り」3月30日(水)の歩き・山科区3日目の4回目(最終回)。

この日歩いたコースは、下記の散歩日記に掲載。
http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201603300002/

この日に訪れたスポット
https://drive.google.com/open?id=1UaEup3T1OzGGZmur9FoyIeSBebs&usp=sharing

前回記事
http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201604250006/


隨心院から北に向かいます。


●歓喜光寺

・歓喜光寺の開山である聖戒は、宗祖一遍の高弟で、一遍の諸国巡礼に随伴した僧であり、一遍の実弟ともいわれている。

・『弥阿上人行状』等によると(「弥阿上人」は聖戒のこと)、歓喜光寺は正応4年(1291年)、綴喜郡八幡(現・京都府八幡市)に善導寺として創建されたという。

・石清水八幡宮に近いこの地が寺地として選ばれたのは、八幡神の本地を阿弥陀如来とする信仰による。

・それから数年後の正安元年(1299年)、寺は関白九条忠教の庇護のもと、六条東洞院(現・京都市下京区)の源融(みなもとのとおる)左大臣の旧跡(六条河原院)へ寺地を移すとともに、菅原是善(菅原道真の父)の旧邸(現・京都市上京区堀松町)の天満宮とその神宮寺である歓喜寺を合併した。この際、寺号を歓喜光寺に改め、所在地から「六条道場」とも称するようになった。

・応仁の乱の後、寺は高辻烏丸(現・京都市下京区)に移転し、さらに天正年間(1573 - 1592)に豊臣秀吉によって四条京極へ移転させられて、近世を通じて同地にあった。

・この地は現在の京都市中京区中之町(新京極通り四条上る)であり、境内にあった天幡宮だけが繁華街の中に残されて、錦天満宮と称している。

・寺はその後、明治40年(1907)、東山にあった法国寺と合併し、法国寺の所在地である東山区遊行前町(五条通東大路上る)に移転した。東山五条の交差点の近く、大谷本廟などの所在する地区である。

・法国寺は後陽成天皇の母・新上東門院が、父・勧修寺晴右(かじゅうじはれみぎ)の追善のために建てた寺で、当初「豊国寺」と称したが、豊臣秀吉の没後、徳川家をはばかって「法国寺」に改称したという。

・移転はさらに続き、昭和50年(1975)には駐車場建設のため東山区の旧地を立ち退き、郊外の山科区に移転した。

・なお、国宝の絵巻『一遍上人絵伝』(12巻)は、歓喜光寺の開山・聖戒と絵師・円伊によって作製された経緯から、もと歓喜光寺に伝来したものであるが、20世紀末頃に時宗本山、神奈川県藤沢市にある清浄光寺の所有になっているという。
(フリー百科事典「ウィキペディア」より引用)


山門

P1060645(歓喜光寺門).jpg



山門前の石碑の裏側
 明治41年内務大臣原敬名での官報の記述が彫られています。
 歓喜光寺と法国寺の合弁についての官報のようです。

P1060652(門石碑).jpg



本堂
 現在の本堂は、法国寺のもので、慶長6年(1601)に淀君が二世安楽のために
 施主となって建立したもの。

P1060650(本堂).jpg



大日尊
 日露戦争の戦死者を供養するため、大正10年に五条坂にあった「法国寺」に
 建立されました。石碑の字は富岡鉄斎の書を写したもの。

P1060647(大日尊).jpg



地蔵堂

 ・昔、東山の五条坂近辺は、鳥辺野墓地に隣接する埋葬地で、その中に一体の
  地蔵尊が安置されていました。人々はお地蔵さんの前を通り過ぎるとき口々に
  「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」とお唱えご回向したことから、「南無地蔵」
  と呼ばれるようになったと伝えられています。

 ・地蔵堂正面中央に安置されている「南無地蔵」は、丸彫りの石像で背丈は
  1.6mあり、台座石には「宝永7年8月24日」と刻まれています。

 ・地蔵堂には子安地蔵をはじめ8体のお地蔵さんが、堂の周りには約450体の
  お地蔵さんが鎮座しています。
 (以上、駒札から)

 この地蔵堂も東山五条から移転したもので、かつては法国寺の境内にありました。

P1060651(地蔵堂).jpg



ご朱印をいただけるかお寺の方に聞きましたが、やっておられないとのことでした。




●大宅寺廃寺跡碑

  歓喜光寺の隣にある大宅中学校からその北部一帯は、白鳳時代の古代寺院跡の
 大宅廃寺跡です。名神高速道路建設に伴う発掘調査で瓦積み基壇の金堂跡や塔跡が
 見つかり、大宅中学校開校に伴う発掘調査では掘立柱建物跡が出土しています。
 藤原鎌足創建の山科精舎に比定する説もありますが、地元の豪族大宅市の氏寺と
 みる説が強いとのこと。
  大宅中学校内にこの碑はありますが、春休みで授業がなく、部活で門が開いて
 いたので失礼して写真を撮らせていただきました。

P1060654(大宅寺跡).jpg




●大宅一里塚

 
   東海道から分岐した奈良街道の一里塚。塚上にはエノキが植えられています。
  もとは道路の両側にありましたが、今残るのは西側のみ。市内の一里塚が
  ほとんど姿を消し、貴重な存在で、京都市の史跡に指定されています。

P1060656(一里塚跡).jpg

P1060657(一里塚跡).jpg



●岩屋神社御旅所
  東方の山裾にある岩屋神社の御旅所。手前の巨木はクスノキ。

P1060660(岩屋神社御旅所).jpg



●紫晃院
  真言宗醍醐派

P1060663(紫晃院).jpg



地下鉄椥辻駅から帰宅しました。


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最終更新日  2019/08/24 11:30:39 AM
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