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ワルディーの京都案内

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2016/05/28
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テーマ:京都。(6067)
2016年4月29日(金)(昭和の日)「京都市内全寺社巡り」の山科区7日目の第3回(最終回)です。

本シリーズ第2回は下記。

http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201605260005/

この日全体の行程とその地図は第1回分に示されています。

http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201605190004/

下記地図には訪問先がスポットされています。

https://drive.google.com/open?id=1NjttlTaOIQLc0JrKBgvrm4BlYr0&usp=sharing



=============================
(続き)

実如上人、証如上人の墓(山科区東野井ノ上町)を訪れた後、国道1号線の南側で、京都外環状線を横断します。


眞光寺(浄土真宗本願寺派)
P1070257.JPG

歌碑がありました。
 
「両親(おや)おくり 妻先にゆき子の急ぐ 茜の雲は美しきかな」
                          土橋秀高
P1070258.JPG


土橋秀高氏は昭和期の中国仏教思想研究者。龍谷大学教授。
私は存知あげませんが、帰宅後、検索して次ぎのような文に巡り会いました。

◆60才(定年より5年早く)龍谷大学教授辞任。
 子息(京都大学仏教学(院)、インド留学)の就職(東海大学助教授)を期に自坊(山科 真光寺)に戻り住職専業。 
 その1,2年後、奥さん、暫くの患いで逝去。 
 その1年後、自坊全焼(夕事のローソクの灯の消し忘れが因。住職1人住まい故、防音の書斎に入っていて気づかず。通行人が発見。火炎の中、消化器を取りに入り、頭、腕に火傷)。「私の責任」と詫びる。火災の翌日、「真光寺本堂庫裏再建委員会」立ち上がる(門徒の支援篤い)。2年半後に復興する。
 しかし、その1年前、東京から若坊守と孫2人、山科の寺に帰っており、子息は単身赴任。毎日のように電話連絡。ところがある時、通じない。一週間ほどして、住職上京。電気こたつに足入れて自殺している子息を発見。死臭。遺書「自分が先にいくから葬式はしないで」。東京で火葬。山科の再建まっさらの本堂で葬儀。子息の腕時計一個を形見としてもつ。「この孫2人が成人するまでは老骨に鞭打って頑張る」と式で挨拶。会葬者の涙をそそる。
 ところが1年後、一周忌の翌日、若坊守は2人の子どもをつれて寺を去る。
 全くの一人となる。教え子の浅田正博氏、先生を訪ね・見舞う。話は子息のことばかり。

 (後略)



ここに登場する、浅田正博氏による顕彰碑もありました。

P1070259.JPG



南に行きます。

称名寺(浄土宗西山禅林寺派)
P1070260.JPG



少し東に戻ります。


佛光寺舊址

 仏光寺は,建暦2(1212)年,流罪を解かれ越前から帰京した親鸞(1173~1262)が,この地建てた堂舎にはじまる。順徳天皇(1197~1242)から「興隆正法寺」という寺号を賜り,当初は興正寺と号した。その後,第七代了源(1295~1335)が東山渋谷の今比叡に移し,寺号を仏光寺に改めた。一説によると山科興正寺を建立したのも了源という。なお,仏光寺が現在地(下京区高倉仏光寺)に移転したのは天正14(1586)年である。
 (京のいしぶみデータベースより)
P1070261.JPG

 

西雲寺(真宗大谷派)
 門前のお寺の石柱の後ろに、自然石の「表徳碑」が立っています。京都鳩居堂の主人であった熊谷直恭(蓮心・1859年没)が、このあたりに老牛馬の放牧場を設けたり、洪水・窮乏から村を救ったことを顕彰するための碑です。明治21年建碑。
P1070263.JPG

P1070262.JPG


さらに西に進むと、東野公園北には「三之宮神社」があります。


三之宮神社
 鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)・醍醐天皇・後水尾天皇を祭ります。江戸時代造営の本殿があり、その南に幹周5メートルを越える欅(けやき)の大木があります。
P1070264.JPG 

P1070270.JPG

P1070270.JPG



神社内に宝蔵があります。
P1070268.JPG


その由来の駒札全文です。

大般若経宝蔵の由縁
  三之宮は延喜年中(901~923)の創建と伝えられ、往古(おおむかし)より
 山科七郷の総鎮守的存在であった。
  後、応永三年(一五九六)に、後小松天皇より山科郷に大般若経六百巻と
 大般若十六善神本尊を下賜され、三之宮宝蔵に之を納め、尓来(それより)近世に
 至るまで毎年三回山科郷士が廻り持ちで輪読供養されていた。
  其の後、元和三年(一六一七)神社境内に別当寺妙智院が造営され、是より
 大般若経輪読の際には憎が修行することとなったが、明治維新の神仏分離令発令に
 伴い廃止された。
  この経典は、郷中の最も尊重するもので、うち三巻は御宸筆で其の餘(ほか)は
 当時の親王、公卿、門跡方の書写せられたものである。

 平成十三年正月 三之宮氏子有志 識


南に向かい、旧道沿いに小さなお寺が2つあります。

西楽寺(浄土宗)

P1070271.JPG

法敬寺(浄土真宗本願寺派)
 春には門前の桜がきれに咲くそうです。
P1070272.JPG

P1070273.JPG


南に向かいます。

吉川邸(景観重要建造物)
 現在はBar&喫茶YOSHIKAWAを営んでおられます。素敵なミュージックサロンだとか。
P1070274.JPG


ぐるぐる歩き回って、「ゆうなぎの水」を見つけました。

ゆうなぎの水
 椥辻池尻町の「ゆうなぎの水」は、水が湧き出ているところで、深さ30センチほど、
 ゆっくりと東から南に流れています。平成13(2001)年に京都市が湧き水の
 周りに護岸や階段を整備してできたものです。そして平成15(2003)年に、
 名前を区民に募集して「湧く(ゆう)」「椥(なぎ)」の字からこの名が付いたそうです。
 (鏡山次郎氏ホームページより)

P1070275.JPG


地下鉄椥辻駅に向かう途中で、山科区役所前に「山科区誕生記念碑」を発見


山科区誕生記念碑

P1070276.JPG


観光案内板もありました。
 これから回るところの参考になりそうです。
P1070277.JPG


地下鉄椥辻駅から帰途に就きました。


山科区の歩き部分(約13km)、自宅からの全歩数は約18,000歩でした。


山科区第7日目、終わりです。



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最終更新日  2019/08/26 10:30:51 AM
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