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2016/05/30
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カテゴリ:京都のニュース
2016年5月29日  京都新聞ホームページから

 西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派の寺院・長圓寺(京都市上京区)で、1枚の古い写真がみつかった。調査の結果、新選組隊士で、明治時代に西本願寺の夜間警備を務めた島田魁の写真だと分かった。保存状態が良く、凛(りん)とした表情が読み取れる。しかし、いつ、誰が、何のために撮影したのだろうか。そんな疑問を解き明かそうと、1枚の写真を手がかりに京都の街を訪ね歩いた。

 長圓寺の9世住職来應(らいおう)は明治時代に西本願寺に奉職しており、長圓寺には当時の西本願寺21世明如(大谷光尊)が書いた絵画や、当時事務方のトップだった大洲鐵然(おおずてつねん)に関係する資料などが数多く残る。明治維新後、島田が西本願寺の守衛を務めた頃、長圓寺と接点があったとみられている。

 島田の写真は2002年、長圓寺住職清水祐信さん(61)が本堂の整理中に確認した。縦約9センチ、横約6センチで、島田はちょんまげに洋服姿、脇に差した刀に左手を添えている。14年に京都ノートルダム女子大非常勤講師大喜直彦さん(55)が調査し、写真をくるむ包み紙の文章に注目した。そこには、「亡き父のかたみ」の表題で、

 此の肖像の原版は亡父魁戊辰の際奥羽転戦中仏人某の撮影せし処にて実に今より去る三十有三年前即年齢四十壱歳の時の真影なり

亡父の霊前にて

   柳太郎

 明治三十三年五月十壱日


と書かれていた。

 大喜さんによると、柳太郎とは島田の子で、戊辰(ぼしん)戦争中にフランス人が撮影したことや、魁が亡くなって四十九日ごろの法事に合わせて柳太郎が長圓寺に写真を納めたことが読み取れる。写真の島田の姿はインターネットでも検索できる、よく知られた写真だが、長圓寺が所蔵する島田の写真はオリジナルである可能性が高いという。

 このほかに、寺に残されていた別の資料から、魁の家族は全員「太鼓堂」(現在の西本願寺太鼓楼)で亡くなったと書かれ、魁だけは「下魚棚四丁目」となっていることも確認された。

 島田の孫は、遺品を東山区の霊山歴史館に寄贈している。副館長の木村幸比古さん(67)と遺品を確認するうちに、島田の写真につながると思われる複数の資料が確認できた。

京都市上京区の長圓寺が所蔵する島田魁の写真
20160529-194005Focus1_450.jpg

明治時代の島田魁が勤務したとされる西本願寺・太鼓楼(京都市下京区)
20160529-194013Focus2_450.jpg


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最終更新日  2019/03/31 09:50:30 AM
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