テーマ:京都。(6067)
カテゴリ:京都案内
【2016年6月28日(火)】
今日は、シニアガイド会の研修第8日(実地研修は3日目)でした。 今期入会予定の受講者が2班に分かれ、よく訪れる観光地に行って、先輩ガイドさんから、その地の説明のポイントとノウハウを伝授してもらうという内容です。これが3日間あり、その後、3日間我々が模擬ガイドをするということになっています。 今日はその第2日で、北野天満宮、仁和寺、金閣寺と移動しながら、先輩ガイドさんから説明を受けました。 雨が降る予報でしたが、幸い全行程降られることはなく幸運でした。午後からは薄日も差してきました。前回同様、お天気はぎりぎりセーフでラッキーでした。皆さんの日ごろの行いが良いからでしょうか。 今日の3ヶ所とも、何度も訪れたことがある場所で、京都検定の勉強を通じても、大部分知っている内容でしたが(かと言って、それを空で説明できるわけではありませんが)、いくつか新しく知ったことがありましたので、それを書いていきます。 ●北野天満宮 ・露の五郎兵衛顕彰碑 「かぶき踊り」を始めて披露した出雲阿国も北野でしばしば踊ったように、北野天満宮の境内では、様々な芸が行われて、観衆の拍手喝采を競っていました。落語の原型「辻噺(ツジバナシ)」も盛んに演じられ、貞享・元禄年間に活躍した「露の五郎兵衛」は有名で「ひとくさや北野は露の五郎兵衛」ともてはやされました。その言葉を書いた顕彰碑が、一の鳥居を入って右手のほうにあります。目立たない場所です。平成17(2005)年、大阪の落語家・2代目露の五郎が、2世・露の五郎兵衛を襲名しました。 ・一の鳥居 昔は京都電気鉄道の北野線がここまで来ていました。 道路をはさんで南側にある上京警察署のあるところも昔は北野天満宮の境内だったそうです。そこにこの鳥居はあったそうですが、その土地を警察署に売却したとき、鳥居が今の位置に移りました。土地を売却したお金で、今有名なスポットとなっている梅苑を作ったそうです。 また将軍塚青龍殿に移築された武徳殿は、北野天満宮前にあった通称・北の武徳殿(平安道場)だとのこと。 ・一の鳥居前の狛犬 ここ北野天満宮だけではなく、無角の獅子と有角の狛犬とが一対のことが多いようです。 阿形(無角)の獅子(狛犬) 吽形(有角)の狛犬 台座の梅と狛犬のデザインが竹内栖鳳 3つ写真出典: http://yukimarukyotosampo.blog.jp/archives/1054542596.html ・松向軒 一の鳥居横にあるお茶室です。豊臣秀吉が北野天満宮で大茶会を催した際に、細川三斎が作った茶室を復元したものです。影向(ようごう)の松のそばにあったので、「松向軒」と名付けられたと言われています。大徳寺の塔頭・高桐院にも同じ名前の「松向軒」がありますが、こちらは、1628年(寛永5年)に三斎が作った茶室を移築したものです。北野天満宮では、ここ松向軒ともう一つの茶室明月舎で月釜があります。 写真出典:http://takaoka.zening.info/Kyoto/Kitano_tenmangu_Shrine/Shokoken.htm ・長州藩寄進の狛犬 一の鳥居の奥にもうひとつ大きな鳥居があり、狛犬も置かれています。 「北野天満宮社報 第19号」(1974年)に高谷貞次郎氏が「参道に宿敵の鳥居と仲良く」との見出しで次のように紹介されています。 「元治2年(1865年)2月には(中略)、会津藩士による新門辰五郎の江戸火消方の鳥居が建立された。佐幕である会津は宿敵長州の寄進した狛犬が鳥居の傍にあるのは、はなはだ面白くない。ある日狛犬に荒縄をかけて引きずり降ろそうとしたところ、一天にわかにかき曇り、雷鳴が轟きわたった。さすがの徒輩も慌てふためき、ほうほうの態で逃げ帰ったという。」 写真出典:http://blogs.yahoo.co.jp/kucin1126/7247950.html ・織部形石灯籠 「三光門」前東側にあります。この灯籠は元和元年(1615年)に死去した古田織部正重能の墓にあるものの形に因んで「織部形石灯籠」と名付けられたとされており、茶人好みの石灯籠の形式の一つという。十字架の形を、はっきりと分からないように模しており、「キリシタン灯籠」とも呼ばれています。この灯籠の下部(脚部)にマリア像とも見える彫刻があり、このため「マリア灯籠」とも呼ばれています。 ・宝物殿 入口上部の鳳凰は「阿吽」の形になっています。 写真出典http://takaoka.zening.info/Kyoto/Kitano_tenmangu_Shrine/Homotsuden.htm ・刀剣 重要文化財 銘安綱 (号 鬼切丸) 宝物殿の宝物で有名なのが国宝の「北野天神絵巻」ですが、最近は刀剣ブームで刀剣が人気だそうです。 この写真はその一つ「鬼切丸」です。源満仲が長男の頼光に与えて以後、源氏・足利氏・斯波氏から出羽最上氏へと、源氏の家系に代々相伝されたといいます。鬼切丸の号は、頼光が大江山の酒呑童子退治でこれを用いたことや、渡辺綱が一条戻橋で茨木童子の腕を切ったとされていることから。 写真は北野天満宮HPから ・渡辺綱の燈籠 平安時代中期の武将 源頼光の四天王の一人「渡邊綱」が寄進したと伝えられる石灯籠です。渡邊綱は、「大江山の酒呑童子退治」「一条戻り橋の鬼退治」で知られる人物です。一条戻り橋の鬼退治の話は、「渡邊綱が所要で外出し、夜半に一条戻り橋へさしかかったところ、若い美しい女に出会い家まで送り届けることとなりました。暫く行くと、その女は鬼の姿となり渡邊綱を捉えて空へと舞い上がり、愛宕山へ連れ去ろうとしました。北野天満宮の上空へ来た時に渡邊綱は太刀を抜き、彼を掴んでいた鬼の腕を切り落とし、難を逃れることが出来ました。」という伝説です。後日、渡邊綱が北野天満宮の神様のおかげと、この灯籠を寄進したと伝えられています。 写真出典:http://takaoka.zening.info/Kyoto/Kitano_tenmangu_Shrine/Watanabe_no_tsuna_no_toro.htm ・拝殿の立ち牛 境内には多くの牛が置かれていますが、拝殿欄間のこの牛だけが立っています。 写真出典:http://blog.livedoor.jp/nakinishimoarazu2012/archives/8329241.html ・無料のしおり 参拝する修学旅行生全員に、北野天満宮特製しおりが無料進呈されています。授与所(お守り・お札を受ける所)に、クラスまたは班の代表者が人数を申し出ればいただけるそうです。 写真出典:北野天満宮HP 北野天満宮の後、仁和寺に移動しましたが、以降は、後日投稿します。 (内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。) ------------------------------------------------------------------- よろしかったらぽちっとお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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若い頃有った、市電を京都電気鉄道というのですか。北野線は、古い型の電車でした。
(2016/06/29 06:36:02 PM)
そうです。琵琶湖疏水による発電で走ったのが、京電です。最初は塩小路東洞院塩小路下ル(京都駅近く)-伏見下油掛(京橋)間で開業、その後、北野線などができました。市電との競争に敗れ、市電に買収されました。旧京電路線で狭軌のまま最後まで残ったのが北野線でした。N電(Narrowから)とか呼ばれていたようです。私は京都に来たのが昭和48年。北野線廃止が昭和36年ですので、私は残念ながら走る雄姿を見ていせん。京都交通博物館でアトラクションとして、今もN電時代の電車が運行しています。
(2016/06/29 07:06:54 PM)
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