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ワルディーの京都案内

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2016/08/13
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テーマ:京都。(6067)
 「京都市内全寺社巡り」2016年8月11日(水)の東山区1日目の第2回(最終回)です。


◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。

http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201608100007/


◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記です。

https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing


===============================

それでは第2回(最終回)です。

佛光寺本廟の西に良恩寺があります。


●良恩寺(浄土宗西山禅林寺派)
 

創建は永禄年間(1558~70)とされます。

本堂に祀られる像高三尺(約九十センチ)の阿弥陀如来坐像は、小野篁(おののたかむら)作と伝わります。地蔵堂(導引地蔵堂)に祀られる地蔵菩薩像は、伝教大師の作とも伝わり、「導引地蔵(みちびきじぞう)」の名前で知られています。

この「導引地蔵(みちびきじぞう)」という名前の由来ですが、かつて背後の華頂山(東山三十六峰の一つ)に火葬場があったことが関係しているようで、良恩寺はこの火葬場を管理し地蔵堂の前で葬者に引導を渡していたことから、この地蔵尊は導引地蔵と呼ばれるようになったといわれます。


石柱の道路側には、写真では分かりにくいですが、「導引地蔵」と刻まれています。

P1080609.JPG

 

本堂。小野篁(おののたかむら)作と伝わる 阿弥陀如来坐像が安置されています。

 P1080607.JPG

 



地蔵堂。導引地蔵が安置されています。

P1080608.JPG



●庚申堂登口【道標】


P1080610.JPG

[北]庚申堂 登口
[西]将軍塚
[南]昭和十三年十二月建之
[西]吉岡和助
牧崎春吉

粟田神社に上る階段下の鳥居の東側にあります。庚申堂とは後から訪れる尊勝院のことです。確かに、これから訪れる粟田神社の境内を通って、尊勝院や将軍塚に行ける道があるのですが、今は門が閉まっていて実際には行けません。

粟田神社への登り口を三条通方向に少し歩きます。



●粟田焼発祥地碑

P1080612.JPG

[東]粟田焼発祥之地
[南]平成元年十月吉日
[西]青蓮院門主 慈洽書
[北]粟田焼保存研究会建

 粟田焼は洛東粟田地域で生産された陶器の総称で,いわゆる京焼の一つ。寛永初年(1624)頃,三文字屋九右衛門が瀬戸より来て粟田口三条に開窯したのに始まります。初期は銹絵・染付陶器を生産しましたが,野々村仁清(生没年未詳)が御室窯で上絵付色絵陶器を完成後は色絵の高級陶器を焼き代表的窯場となりました。しかし,明治維新後は衰微の一途を辿りました。



●出世恵美須神社参道【道標】

P1080614.JPG

[西]出世恵美須神社参道
[南]皇紀二千六百年十月二十日
[北]奉斎会建之

出世恵美須神社は、あとで訪れる粟田神社の摂社の一つです。創建年代は不詳ですが、もとは三条蹴上の夷谷に奉祀されていました。源九郎義経が牛若丸の幼少時代に奥州下向の時、源家再興の祈願をされた恵美須神であり、出世又は門出恵美須と称されました。500年以上前に蹴上の山崩れがあり、土砂と共に流出した際に止まったところが現在の三条神宮道付近であり、夷町といいます。永く夷町、金蔵寺に奉斎されていましたが、明治に粟田神社摂社として遷し、出世恵美須神社として崇敬されています。地図で確認すると、確かに、蹴上を山科の方向に行ったところに日ノ岡夷谷町、三条神宮道に夷町という名前が残っています。



●粟田神社

スサノオノミコト・オオナムチノミコトを主祭神として祀り、厄除け・病除けの神として崇敬されてきました。京都の東の出入口である粟田口に鎮座する為、古来東山道・東海道を行き来する人々は旅の安全を願い、また道中の無事を感謝してお参りされるようみもなり、いつしか旅立ち守護・旅行安全の神として知られるようになりました。
粟田祭では神輿に先行して剣鉾が巡行します。剣鉾は祇園祭の山鉾の原形と云われており、 室町時代には祇園会が行われない際は粟田祭をもって御霊会としたと伝えます。一説には奈良朝より活躍した粟田氏の氏神として創建された社とも云います。



三条通に面した石標

P1080613.JPG



三条通から少しだけ南に入ったところにある鳥居

P1080611.JPG

 

参道の石榴(ザクロ)の木

P1080615.JPG

P1080616.JPG 
 

階段の登り口の鳥居

P1080617.JPG

P1080618.JPG



鍛冶神社。粟田口の刀工、三条小鍛冶宗近・粟田口藤四郎吉光と、作金者(かなだくみ)の祖である天目一筒神を祀る鍛冶の神様。

P1080619.JPG

P1080620.JPG



拝殿と本殿。
拝殿は桧皮葺き。本殿・幣殿・拝殿は市の有形文化財に指定されています。

P1080623.JPG

P1080621.JPG



粟田祭夜渡り神事に行われる「粟田大燈呂」の出し物だと思います。

P1080622.JPG

 境内は少し標高の高いところにあり、北側の眺望が楽しめます。五山の送り火の「左大文字」「船形」が正面に見えます。神社の方に聞いてみたら、送り火の日には200人から300人の方が来られるようです。眺望可能な場所は狭いですが、入れ替わり立ち替わり観るので(どなたかが仕切っていらっしゃるのか、自発的かは分かりません)、混んでいても観られますよとのことでした。「五山送り火」のビューポイントの一つに加えておきます。

 石段を下り、三条通の一つ南の道路をさらに西に向かいます。



●元三大師【道標】

P1080624.JPG

[北]元三大師
[西]文化二乙丑年四月建之
[東]多賀大社

あとから訪れる尊勝院への道であることを示しています。



●青蓮院宮御墓参道【道標】

P1080625.JPG

[北]青蓮院宮御墓 参道
[東]←
[南]大阪皇陵巡拝会

この道標に従っていくと、青蓮院宮墓地が右手にありました。しかし、金網があり入れません。青蓮院を拝観したときに、訪問可能と思ったので、写真は撮りませんでした。しかし、帰ってきてからネットで色々調べると、青蓮院境内からも訪問は不可能なようで、一般の人には閉ざされているようです。。


この道をさらに上っていくと尊勝院があります。


●尊勝院(天台宗)


元三大師(良源)を本尊とする寺院で「元三大師堂」と呼ばれることもあります。青蓮院に属する寺院で、青蓮院の門主が、住職を兼務しています。

尊勝院は、保延年間に陽範阿闍梨が比叡山横川に尊勝坊を開創したことに始まり、その後青蓮院三条白川坊の裏に移されたと伝えられています。応仁の乱により荒廃しましたが、文祿年間に豊臣秀吉によって本堂が再建されたといわれています。大正4年に寺地が現在地へ移転されましたが、その際、建物は本堂のみが移されました。

内陣は極彩色が施されており、桃山時代の趣がよく残されています。小規模ではありますが、古式で上質の建物です。

尊勝院は別に青面金剛(しょうめんこんごう)を祀り、京都三庚申(注)のひとつにも挙げられる庚申信仰の霊場です。境内には、「不見、不聞、不言(みざる、きかざる、いわざる)」の三猿の像があります。

京都三庚申とは尊勝院、八坂金剛寺、山之内庚申堂(猿田彦神社)

これでさきほどの粟田神社の三猿の張り子の由来が分かりました。

P1080626.JPG

P1080628.JPG



尊勝院奥の山道に入ります。この道は京都一周トレイルの道で、家内と以前、逆方向からですが、歩いたことがあります。前回訪れた将軍塚に繋がっていますが、「いしぶみデータベース」によると、いくつかの道標があることになっているので、もう一度向かいます。

P1080629.JPG



●青蓮院・都ホテル【道標】

P1080630.JPG

[南]左 青蓮院
[東]右 都ホテル

この山道に設置された道標は明治-昭和時代前期の実業家である中井三郎兵衛(1851-1932)が、東山周遊の便にと建立したものではないかと言われています。中井三郎兵衛は京都府会議員で、京都織物、京津電気軌道、王子製紙などの役員をつとめました。かたわら京都を観光都市として発展させるために東山の開発に尽力しました。



●将軍塚青龍殿舞台 
前回訪れた舞台を下から眺めます。

P1080632.JPG



●将軍塚大日堂由来碑 前回訪れたときに、見逃していました。

P1080634.JPG 

[南]
遍照法界(印)(印)【印文「邦彦王章」「泰山」】【以上篆額】
顕廣主
めつらしきこのみほとけそのまゝに
ちとせの後に見るそかしこし
従二位男爵九鬼隆一識
[北]
此の石仏大日如来像は中井君か将軍冢のあたりにて発見
せるものにして君は菩提功徳の為めに明治戊申の夏もろ@@の名僧
知識を集め再建供養の儀式を執行はれたり余も亦其の
式に招かれけれは親しく其像を見てけるに古朴温容
の中に自ら最高顕廣の相を備へ本邦にて稀なるものなる
へく大方平安奠都後程遠からぬ時代の製作として観
賞せり乃ち一首の咏歌を題語とを書して崇敬の念を
しるすといふ 九鬼りう一識
(@@はかな2文字の繰り返し記号)


中井三郎兵衛が将軍塚山上で石造大日如来像を発見し,翌年これを安置した大日堂を建立しました。この碑は九鬼隆一による大日堂建立経緯の記、および同人の歌を刻んだ碑です。


●東山道路工事碑

P1080636.JPG

P1080635.JPG 

将軍塚展望台駐車場にあります。東山ドライブウェイは昭和34年に開通し、当初は日本道路公団の有料道路でした。


●清水寺・山県有朋紀念樹・高台寺【道標】
(山科区#13で掲載済み)

P1080399.JPG

[北東]右 山縣公紀念樹
     高臺寺
[南東]左 清水寺



今回は、東山ドライブウェイを下りずに、京都一周トレイルの山道を南下します。


●井上世外詩碑

P1080637.JPG

P1080638.JPG

[西南]
山水増光 (印)(印)【印文「邦彦王章」「泰山」】【以上篆額】
天懸海外三千界
月満人間幾百州
侯爵井上世外 (印)(印)【印文「侯爵」「井上馨之印」】
[東北]
碑陰記
碑面所勒世外井上侯句也建碑者中井慈眼翁也蓋
桓武帝奠都之地山水明媚美甲于寰宇翁欲以為一
大公園経営名区尽瘁不措今茲侯與春畝公来祭木
戸公乃有此作翁於是卜地勒碑以培風致欲深富国
之源其志美矣余惟園囿以招遠人不問雉兎芻蕘則
文王之仁必達遐陬厥美更無窮極耳乃為記之
明治四十三年八月 浪華南岳藤澤恒撰文
伊勢錦山矢土勝之書
設計監督 安田時秀 肝煎 辻坂楢吉
鐫刻 芳村茂右ヱ門 運搬 松山米吉


 井上世外とは侯爵井上馨(1835~1915)の号。井上が揮毫した元人劉シン(「ごんべん」に先)作七言律詩の対句を表に記し,裏面には建立の経緯を記しています。井上と伊藤博文は明治42(1909)年に木戸孝允(1833~77)の三十三回忌列席のため来京。中井慈眼(中井三郎兵衛)が伊藤・井上の詩碑を東山に建立することを発意し建設されました。伊藤博文の詩碑はこの碑の西方にあり姉妹碑とでもいうべきものです。伊藤博文の碑は、今後探索予定。



●清水寺・将軍塚・稚児ヶ池・山科街道【道標】


P1080639.JPG

[北西]右 清水寺
   左 将軍塚 大日如来
[南西]右 稚児ヶ池
     山科街道



●山県有朋紀念樹・高台寺・大日如来・将軍塚等【道標】

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[南西]右 山縣公紀念樹
     高臺寺
[南東]右 大日如来 粟田青蓮院
     将軍塚 京津日ノ岡停留所
     圓山公園 知恩院
     都ホテル 山縣公手植松



●清水寺・将軍塚【道標】


P1080641.JPG

[北西]左 将軍塚
     大日如来
[北東]右 清水寺


石塀に囲まれたお地蔵様。風雨から守るためでしょうか。

P1080642.JPG



木の根道。鞍馬寺奥の木の根道と同じような道がありました。

P1080643.JPG 
 

●石塔

P1080644.JPG


九十九折れの急な坂道を下り、五条通(国道1号線)近くの道に出ました。清水寺の方向に歩き、子安の塔側の入口(下の写真)から清水寺に入りました。ここから清水寺境内に入るのは初めてです。ちなみに清水寺の有料拝観の部分は舞台のある本堂だけですので、奥の院、子安の塔、音羽の滝、地主神社、舞台の下からの眺めなどは、この子安の塔側の入口から入場したり、普通の参拝経路を逆行することで、無料で観ることができます。

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子安の塔から、清水寺のパノラマをしばし眺め、外国人観光客で混雑する清水坂、産寧坂を下り、八坂の塔を右に見て、東山通に出て、八坂神社前まで辿りつきました。八坂さんの手前の「王将祇園八坂店」で、ビールと野菜炒めで遅い昼食。

P1080646.JPG 
P1080647.JPG



16:40、阪急河原町駅から電車とバスで帰宅しました。

最高気温36.1度の暑い一日で、山道が多かったので、相当疲れた歩きでした。


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最終更新日  2019/08/26 10:40:24 AM
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