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ワルディーの京都案内

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2017/01/13
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テーマ:京都。(6067)
カテゴリ:京都ガイド諸活動
2017年1月13日(金)】

 「京の冬の旅」特別公開「金戒光明寺」の続きと、同時塔頭「西翁院」です。(「その1」はこちら


●金戒光明寺(続き)

「熊谷直実 鎧掛けの松」
 熊谷次郎直実(1141~1208)は、平安末期の源平の戦いで有名ですが、建久4年(1195)ここ黒谷の法然上人を訪ね、方丈裏の池にて鎧を洗いじこの松の木に鎧を掛け出家しました。池はその後、鎧池と呼ばれるようになりました。庵は蓮池の畔に建てられ、現在は蓮池院(熊谷堂)となっています。現在の松は三代目。

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この後、西翁院を拝観しましたが、その後に訪れた金戒光明寺の墓地エリアを先に紹介します。


蓮池と極楽橋
 前述の熊谷直実ゆかりの蓮池です。寛永5年(1628)に春日局が徳川二代将軍秀忠の正室お江与のい御台基を建立し参詣するために、蓮池に木造の「極楽橋」を寄進しました。その後、寛永10年に豊永堅斎が秀忠公追善菩提のために山上に三重塔を建立し、同18年(1641)に「極楽橋」を石橋に作り替えました。

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「アフロ仏像」

 最近話題になりました。墓地の真ん中の階段を上がって少し、階段の近くにあるので、簡単に見つけることができました。この仏像、正式には「五劫思惟阿弥陀仏(ごこうしゆいあみだぶつ)」という名で、気の遠くなる程長い時間修行をした姿を現した仏像なのです。気の遠くなる程長い時間を修行したため、気が付けば頭も伸び放題でこのような大きなアフロヘアーになっているとのお話も。

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お江(徳川二代将軍秀忠の正室)の供養塔
 お江の父小谷城主浅井長政、葉は派織田信長の姉・お市。姉に豊臣秀吉側室淀殿、若狭小浜城主京極高次の室お初がある。浅井氏が滅びたのち、母姉とともに伯父信長に養われ、その後、母お市が越前北庄城主柴田勝家に再嫁する際、姉とともにそこに伴われ、翌年、柴田氏が滅び、母お市も自害すると、姉とともに秀吉のもとに引き取られた。
 のち秀吉の養子丹波亀山城主豊臣秀勝(秀吉の姉瑞竜院日秀の次男)に嫁して女子(秀忠養女・九条幸家室・同道房母)を儲けたが、文禄元年(1592)、秀勝が没するに及んで寡婦となった。同4年、秀吉の計らいによって秀忠に再嫁し、家光・忠長の二男、千姫・和子など五女を儲けた。和子は東福門院。
 寛永3年没後、三代将軍をめぐって夫人と争った春日局が、追善供養のためにこの供養塔を建立。夫人の遺髪が納められている。

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三重塔(文殊塔)
 1633年(寛永10年)、徳川二代将軍秀忠の供養ために建立され(国の重要文化財)、黒谷の北西にあった中山宝幢寺(ほうどうじ)の本尊だった文殊菩薩像が安置された。現在、文殊菩薩像は御影堂に遷座している。

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高木文平(1843~1910)の墓
 三重塔の裏(だったと思う)に偶然発見。
 1882年に京都商工会議所の初代会長に選出される。1888年には米国視察を経験し、現地(マサチューセッツ州ホリヨークなど)で電気鉄道を目の当たりにし、日本でもこれを実現すべく奔走した。結果、1894年に日本初の市街電車となる「京都電気鉄道会社」を立ち上げ、自ら社長に就任した。

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清和天皇火葬塚
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八橋検校の墓
 八橋検校は名曲「六段の調」の作曲者として知られる江戸時代初期の音楽家。京銘菓「八つ橋」の由来は諸説あるが、このお墓に墓参に訪れる人に琴に似せた干菓子を「八ッ橋」と名付け、黒谷参道にあたる聖護院の森の茶店にて、販売したのが始まりというのも一つ。 この茶店は現在の聖護院八ッ橋本店の場所にあたるという。

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会津藩殉職者墓地
 文久二年~慶応三年の六年間に亡くなった二百三十七霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者百十五霊を祀る慰霊碑(明治四十年三月建立)があり、禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に三カ所に分けられ二十二霊祀られている。会津松平家が神道であった関係で七割ほどの人々が神霊として葬られている。

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墓地からの京都市内眺望
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●西翁院


 金戒光明寺の御影堂の前を西に向かうと西翁院があります。「京の冬の旅」で特別公開中ですが、ここは我が会が担当していないところです。ご朱印をいただきたかったのですが、授与はしておられませんでした。

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 学生ガイド協会の大学生が案内してくださいました。彼らは、我々シニアのガイドと違ってマニュアル通りのガイドですが、そこがまた初々しくていいです。


 以下はいただいたリーフレットから

◆西翁院の歴史
 天正12年(1584)、明連社光誉上人を開祖として、藤堂家御用達の御服商であった藤村源兵衛が創建した金戒光明寺の塔頭寺院。源兵衛の法名「西翁院宗徳居士」から寺名が付けられた。源兵衛の孫にあたる藤村庸軒は、侘び茶の奥義を極め、千宗旦の優れた四人の弟子「宗旦四天王の一人」(他は山田宗偏、杉木普斎、久須美疎安)に数えられた江戸時代の茶人である。

◆枯山水庭園
 茶室の北側には、三尊石組や枯滝石組が残る江戸初期作庭と伝わる小さな枯山水庭園がある。昭和期の造園家・重森三玲も研究に訪れた。

◆茶室「淀着席(澱看席)」【重文】と露地
 貞享2~3年(1685~1686)頃、庸軒が造った茶室「紫雲庵(反古庵)」(重文)は、「淀看席(澱看席)」の名で知られている。淀、山崎方面まで遠望できる高台に位置することからその名で呼ばれるようになったという。三畳の広さで、内部の点前座と客座の間に中柱を建て、壁で仕切られているのが特徴であり「宗貞囲(道安囲)」とも呼ぶきわめて閑雅な茶席である。西側の内露地全体を杉皮葺きの屋根が覆い、その下に袈裟形の跨鋸かあり、庸軒が植えたという檜の大木が茂っている。
 江戸時代後期に出版された『都林泉名勝図会』にも、西翁院の景観が紹介されている。平成19年、京都市の名勝指定を受けた。


20170113-西翁院建物.jpg
http://www.jalan.net/event/evt_196508/


20170113-西翁院茶室.jpg
http://www.jalan.net/event/evt_196508/


20170113-西翁院tukubai.jpg
http://guide.jr-odekake.net/event/40472


20170113-西翁院茶室道安.jpg
http://pao-architects.seesaa.net/article/185035481.html



平面図(いただいたリーフレットから)
20170113-西翁院平面図1.jpg


別の平面図
20170113-西翁院平面図.jpg
http://tairyudo.com/tukan04/tukan4964.htm


都名所図会の西翁院
20170113-西翁院都名所図会.jpg
http://kyoto-albumwalking2.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-1603.html


 夕刻から、ガイド会の月例会があるので、西翁院を拝観後、西にどんどん歩きました。


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最終更新日  2019/08/25 07:01:39 PM
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