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ワルディーの京都案内

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2017/10/24
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テーマ:京都。(6067)
カテゴリ:常駐ガイド
2017年10月24日(火)】

 大徳寺塔頭興臨院でのガイド第5日でした。

 今日のペアの方は下見の際にお世話になりましたが(こちら)、いっしょにお仕事をさせていただくのは初めてです。ベテランらしさが随所にうかがえるお仕事ぶりに感心し、私も色々指導いただきました。この年になって、新入社員のように先輩から仕事で指導いただくというのは、そうそうあるものではありません。これも気持ちを若く保つための一つかと思ってやっています。

 台風のとき、ここ興臨院の勤務も台風の影響を受けたようです。22日の台風接近の際は、少しだけ早めに拝観をストップをしただけだったようですが、翌日は拝観は中止になったとのこと。天気は回復したのですが、風で木の葉や木の枝などが庭や縁に散乱して、とても拝観できるような状態ではなかったので、拝観中止なったようです。

 しかし今朝、出勤した際には、いつもと同じように葉っぱ一つ落ちてなくて、全くそんなふうになった気配も感じられないほどでした。枯山水の砂紋も新たに描かれ、むしろいつも以上にきれいでした。我々はただ出勤しただけですが、お寺さんはさぞかし大変だった思います。私は気付きませんでしたが、大徳寺内の松の木も何本か倒れたようです。


 興臨院の案内の続きです。

●興臨院案内#4 興臨院#1 歴史

 現在、大徳寺には塔頭が22ありますが(これ以外に別院が2)、戦国武将ゆかりの塔頭が多いことを前回書きました(こちら)。

 興臨院もそれらの塔頭同様、戦国武将により建てられました。1520年代の大永年間、大徳寺第86世小渓紹ふ(付の下に心)(しょうけいじょうふ)和尚を開祖として、師に深く帰依した能登の守護職畠山義総によって建立されました。寺の名前は義総の法号「興臨院殿傳翁徳胤大居士」からつけられました。

 小渓紹ふは仏智大通禅師とも呼ばれます。徳望厚く、塔頭瑞峯院開祖徹岫宗九(てっしゅう そうきゅう)、正受院開祖清庵玉雲院開祖天啓和尚など門下に優秀な人々が輩出しました。

 畠山義房七尾城主として一向一揆(いっこういっき)を鎮圧し、領国を安定させました。古典、和歌、漢詩文などの文芸を愛好し、能登畠山文化の全盛期を築いた名君として知られます。しかし1545年に義総が死ぬと重臣たちの主導権争いが始まり、畠山氏は急速に衰退し、ついには天正5年(1577年)、上杉謙信の侵攻を受けて滅亡しました。

 興臨院は畠山家没落とともに衰退しますが、天正9年(1581)、前田利家が屋根の葺き替えを行うなど庇護し、父利春公(1561年没)の菩提も弔われました。ですので、興臨院は畠山家の菩提寺であるとともに、前田家の菩提寺にもなっています。

 前田利家は、はじめ織田信長に仕え、その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、天正9年(1581年)、織田信長より能登一国を与えられ、七尾城主となり23万石を領有する大名となりました。信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付きますが、後に羽柴秀吉に臣従しました。以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築きました。また、豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の傅役(後見人)を任じられました。秀吉の死後、対立が顕在化する武断派と文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力しますが、秀吉の死の8ヶ月後に病死しました。




(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)

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最終更新日  2019/08/24 02:43:36 PM
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