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ワルディーの京都案内

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2018/04/13
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テーマ:京都。(6049)
カテゴリ:京都研究
2018年4月13日(金)】

 研究員研究の13回目のフィールドワークで稲荷山に出かけました。

 お昼過ぎにJR稲荷駅に着き、修学旅行昼食処下見を兼ねて師団街道の「きんちゃん」という中華料理屋さんで昼食をとりました。→こちら

 今日の目的はまだ訪問できていない「お滝」管理者の方を訪問することと、滝行の体験です。


◆間力滝

 まず、御産婆稲荷道の間力教会へ。中にいらしゃった女性の方にお伺いしたところ、「お滝」のことはよくご存知ありませんでした。宮司さんは出張中とのこと。宮司さんは毎月1日と第1日曜は確実にいらっしゃるが、それ以外は信者さんところを回るために不在のことが多いとのこと。奥様は今日は所用でたまたまいらっしゃらないが、普段はだいたいいらっしゃるとのこと。

 この女性の方に、知っている範囲でよいからと「お滝」のことを尋ねてみたところ、いつできたかはご存知ありませんでしたが、別の場所から移したとのことでした。七面滝での滝行の信者さんのお一人が、真心滝が間力教会に移ったというお話と符合します。

 成果発表会のレジュメと名刺をお渡しして、後日電話させていただくので、宮司さんや奥様にお渡しいただくようお願いしました。



◆熊鷹滝

 次に以前「熊鷹滝」のことについてお伺いした茶店「梶亭」さんへ。前回のインタビューのお礼を申し上げて、成果発表会のレジュメをお渡ししました。ご主人のお歳をお伺いしたところ、75歳とのことでした。子供の頃はまだ「お滝」が実動していたとのことですので、「熊鷹滝」は昭和25年~30年頃に廃滝になったと考えられます。



◆荒木滝

 三ツ辻から「荒木滝」へ。初めて管理者宅を訪問します。外で作業されていた、老齢の女性の方が作業の手を休めて応対してくださいました。

 今で3代目。「お塚・お滝」のできた年代は詳しく分からないが、明治時代終わりではないか。大正初期の「獨案内」と「神蹟全図」に掲載されていることと符合します。

 今は、「お滝」をされる方はほとんどいらっしゃらない。「お塚」の多くは持ち主が分からなくなっている。ご主人は石清水八幡宮の神職、今は城南宮(ここは私のウロ憶え)の神職をやっておられる(おられた?)。ご主人が別に職業を持っておられて、奥様が「お塚・お滝」のお守りをしておられる構図は、他の多くの「お塚・お滝」と共通の構図。

 「お滝」の水は上流の溜め池の水を使っていたが、溜め池が農地になったので(時期は不詳だが、昭和の初め頃とおっしゃっていました)、湧水をせき止めて、各「お滝」に流すようになった。豊富な水量が流れていました。

 ここは北九州小倉に本部を置く神理教の教会。ただ、「お塚」建立者は九州に関係なく、お稲荷さんの信者の方が多いとのこと。後でネットで調べると、神理教は神道十三派のうちの一派。ホームページを見ると明治時代に全国に布教をしています。九州の本院内に大元稲荷神社があるので、そういった関係で、ここに教会を置いたのかもしれません。


◆ねざめ滝

 吉田図絵では、「荒木滝」と「権太夫滝」の間に、「ねざめ滝」が描かれています。以前、民家の庭にお塚が多数建っているのを発見し、そこが「ねざめ滝」と推定し、無断でお庭を拝見しましたが、「お滝」は発見できませんでした。しかし、「荒木滝」の管理者の方が、そのお家の裏に廃滝が残っているとの証言をいただきました。管理者の方は「お滝」の名前まではご存知ありませんでしたが、そこを「ねざめ滝」と特定できました。

 今日は、「ねざめ滝」のお宅を訪問しました。ご主人が応対してくださいました。ご主人で3代目、現在70歳代前半とのことです。創建年代は分からないが、お爺様が始めたので、明治時代ではないかとのこと。ただ、大正初期の「神蹟全図」にも「獨案内」にも掲載されていません。大正初期の創建と考えるのが妥当だと思われます。

 ここは明心教(「めいしん」と読むことを知りました)の教会だった。「お滝」は、物ごころついてから、使われるのを見たことがなかった。中学生のときに、おじい様が亡くなって、父親は教会を継がなかった。上流の溜め池が農地になり、下流の滝群が湧水をパイプで引いて「お滝」を存続させたが、そのパイプが壊れたことも廃滝の引き金になった。昭和30年頃には廃滝になっていたと思われます。昭和13年生まれの、権太夫滝の管理者の方が、物ごころついたときには、廃滝になっていたというお話とほぼ符合します。

 「お塚」にお参りになる方は、全くいないとのこと。破損して撤去する費用も大変だとのこと。お家の中には祭壇が設えられていて、信者さんのお参りはなくても、明心教を継いでおられるようです。お父様が継がれなかったので、2代目という表現もされていました。

 裏に回って、「お滝」の痕跡を見せていただき、写真も撮らせていただきました。







◆権太夫滝

 3回目のインタビューになります。上流のため池が農地になったのは、昭和25年頃。

 「お塚」の所有者は幸いなことに、多くが分かっているとのこと。この点は、他の「お塚」場とは異なります。管理費用は、「お塚」にお参りになるときに、志納の形でいただいている。ご主人は若いときは別の職業に就いていたが、お父様は「お塚・お滝」を専業としていた。この辺りは、他の「お塚・お滝」と似た構図です。子供が近くに住んでいるので、継いでくれるものと思っている。継承は問題ないようです。土日にお参りが多いので、土日が休みではなかった。そこは子供たちに申し訳なかった。

 「一度、滝行を体験したいのですが。」とお願いすると、快諾いただきました。以前、行衣を貸していただくことも可能とお聞きしていたので、貸していただくことに。白の下着は必要かもと思って、行きがけにイオンで白いパンツを買ってきてはいたのですが、腰巻も貸していただけたので、いっさい特別な衣装は不要でした。

 行衣に着替え、滝場へ。危険を伴いますし、作法も知りませんので、ご主人に導師を務めていただき、指導を受けながら滝行を体験しました。

 まず、滝場には前に行をされた方の穢れが残っていることがありますので、通常は置いてある箒で掃除をします。今日はご主人が掃除済みですので、私も掃除したという仮定で前に進みます。

 次に蝋燭とお線香に火を点けてお供えします。ここでは蝋燭は1本でした。そして、お皿に盛った塩を、「の」の字を描くように、上のほうに何度か振りまいて清めます。相撲の取組み前に塩を撒くのに似ています。

 そして、滝水の横に立ち、導師が祝詞をあげて下さり、私も名前と歳を唱え、手を合わせます。滝の水を前に見て、落ちるポイントの前に足を揃えます。首を横に移動させたうえで、前に出し、頭に滝水が当たらないようにして、頭を横に戻します。首の付け根に滝水が当たるようにします。導師の祝詞が続きます。滝水の圧力は想像以上です。滝水は冷たく、体が芯から冷えていきます。寒くて、体が震えます。導師が頃合いを見計らって、滝水から首筋を外すように導いてくださいました。最後に神様にお礼の言葉を申し上げ滝場を離れました。その後も、導師の神様へのお礼の祝詞がしばらく続きました。

 滝に打たれていた時間は2、3分でしょうか。それ以上続けるのは、体が冷えて危険だと感じました。私の年齢や気候、水温などを見ながら、導師が滝に打たれる時間を判断されるのだと思います。初心者は適切な指導者なしで滝行をするのは危険だと、ネット情報でよく見かけますが、まさにその通りであることを実感しました。

 普通はダメなのかも知れませんが、研究のためにということで、導師に修行中の写真も撮っていただきました。下半身が少し黒く見えるのは、緊張していて、ボトムの下着を脱ぐのを忘れていたためでです。幸い前述のようにイオンで買った白い下着があったので、履きかえることができました。


滝に打たれる前




滝に打たれているところ




 滝行が終わった後、お茶をいただきながら、ご主人(導師)と色々お話しさせていただきました。非常に清々しい気持ちになりました。体はむしろ火照っいます。冷たい水に当たったので、体温を上げようと体が反応しているのでしょう。精神的な面でメリットがあるだけでなく、滝行で病気が治ったりという例がよくあるのも、こういう点にあるのかもしれません。

 貴重な体験をさせていただきました。また、時々滝行をしたいと思います。



◆不動滝? 岩龍滝?

 「権太夫滝」を後にして、四ツ辻から、左回りでお山を巡り、「末広滝」に下り、より上流の「不動滝」と思われる「お滝」に行ってみました。そこから「お滝」の入口に示してある連絡先に電話してみました。ご不在でしたので、メッセージを残し、帰宅後、再び電話をしてみました。

 奥様が電話で応対してくださいました。「お滝」の名前は知らないとのこと。伏見稲荷大社の近くに住むおじい様が、昭和8年に修行のための滝を建設されたとのこと。「お滝」の前に建つ鳥居の字彫が昭和8年だったのと符合します。昭和25年におじい様がお亡くなりになり、お父様が継いだが「お滝」は廃滝にした。「お塚」は今は何もないが、往時は「お塚」もあったのではないかとのこと。滝の傍に住んだことはないとのこと。

 大正末期の吉田図絵には「不動滝」と掲載されていますが、このお話しだと創建は昭和8年。矛盾が生じます。昭和初期作成ではないかと思われる「参拝図」では、「岩滝」と「末広滝」の間に、「岩龍滝」があります。これが位置が間違っており、上流から「岩龍滝」「岩滝」「末広滝」で、「岩龍滝」の位置に、大正末期には「不動滝」があったが、一度廃絶して、現所有者のおじい様が新たに建設・あるいは整備して、「岩龍滝」と命名した。あるいは「不動滝」の持ち主から、お爺様が譲り受けたり、買い受けたりして、名前だけを「岩龍滝」と変えたとも考えられます。


「岩滝」上の建物跡
「岩滝」の管理者の住居跡か?




「岩滝」横の平坦地
 滝行の小屋跡地か?




「末広滝」上の貯水槽
 ここに一旦水を溜め、水量を確保しているようだ。





大岩大神の磐座にも足を延ばしてみました。




「七面滝」の題目碑の字彫
 石碑側面に写真では見にくいですが、明治四三年と彫られており、これが滝建立の年と考えられる







◆熊鷹本滝

 山を下りて、滝道から少し離れた「熊鷹本滝」へ。ここは「廃滝」になっていますが、近くに管理人が住んでおられると思しき建物があったというのを記憶していたので行ってみました。軽トラックは置いてありましたが、表札もなく、戸も閉まっていて、インターホンもなく、住んではおられないようです。軽トラックも近くの農家の方が置いておられるのかもしれません。連絡先なども見当たらず、ここは管理者へのインタビューはあきらめざるを得ません。
 

 新たなことが色々分かり、滝行初体験もでき、実りの多いフィールドワークとなりました。

 間力滝は後日電話連絡をとるとして、あと清明滝、清滝の聞き取り調査ができていません。こられは伏見稲荷大社の御膳谷奉拝所の管理になっており、文献でも歴史がある程度明らかになっています。また、成果発表会までも時間も限られているので、一旦フィールドワークはこれで終え、今後は4月28日の成果発表会の表示用資料の準備と発表練習に集中したいと思います。

 最終報告書が5月の末ですので、清明滝、清滝についての聞き取り調査は、成果発表会が終わって、時間に余裕があれば行いたいと思います。


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最終更新日  2019/06/25 07:28:39 PM
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