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ワルディーの京都案内

2018/12/01
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テーマ:京都。(5823)
カテゴリ:私的ガイド
2018年12月1日(土)】

 再就職したN社の同時期入社4人会の集まり(N社四人会)が今日ありました。いつものシバさん、キタさん、マルさんが集まりました。

 過去の集まりは、

 第1回 2014年2月 北陸 山代温泉(カニ食べツアー)
 第2回 2014年4月 京都 岡崎近辺(花見)

 私の病気で中断。

 第3回 2015年5月 京都 東山 六道珍皇寺など
 第4回 2015年11月 京都 源光庵・大徳寺高桐院(紅葉)
 第5回 2016年4月 京都 醍醐寺(花見)
 第6回 2016年7月 京都 鞍馬・貴船+川床料理
 第7回 2016年11月 京都 嵐山(紅葉)
 第8回 2017年4月 京都 京おどり+清水寺・高台寺(花見)
 第9回 2017年7月 京都 上賀茂・下鴨神社・旧三井家下鴨別邸+鴨川納涼床
 第10回 2017年11月 京都 東山 銀閣寺・霊鑑寺・真如堂・金戒光明寺(紅葉)
 第11回 2018年2月 京都 城崎温泉(カニ食べツアー)
 第12回 2018年6月 京都 御所・護王神社・二条城・御金神社・本能寺址

 今日は、紅葉狩りで修学院界隈を歩くことにしていました。折角ですから修学院離宮も行きたいところ。しかし、入場できる人数は制限があり、私がだいぶ前に調べた段階で事前申し込み分は定員に達していました。ですが、当日受付枠が13:30と15:00の見学分にあり、11時頃から整理券が発行されるとのこと。恐らくこの整理券発行にも列ができるだろうからと思い、早めに行きました。確か10時20分頃に修学院離宮に着いたと思いますが、すでに13:30分は定員に達しており、15:00分の整理券をもらうことができました。

 当初、13:30からの見学を想定して、叡山電車修学院駅12:50集合後、修学院離宮を見学してから南下する心積もりでしたが、15:00からの見学となったので、急遽一乗寺駅集合に変更し、北上して最後修学院離宮とすることにしました。

 予定より少し早く皆さん集まっていただき、詩仙堂→曼殊院→修学院離宮と見学すべく、まず詩仙堂に向かいました。


叡山電車一乗寺駅近くの道標









●一乗寺下り松

 剣豪・宮本武蔵と、剣術道場の吉岡一門が激戦を繰り広げたとされる「下り松」の決闘はこの場所で行われたという伝説があります。しかし、町道場である吉岡道場が、市街地から遠く離れた一乗寺にあるのは不自然ではないか、下り松の決闘は一乗寺ではなく、一条だったとのではないかという説もあります。この説を裏付けるのが、堀川一条を東に入った所にある石碑。石碑には「諸侯屋敷」「一条下り松」と刻まれています。一条下り松は吉岡道場の裏庭にあったとされ、この界隈に道場があったことを石碑が示しています。

 写真右側の石碑は「大楠公(だいなんこう)戦陣蹟」。『太平記』によると,建武3(1336)年正月,楠木正成(?~1336)勢と足利尊氏(1305~58)勢がこの地で対陣し,正成が足利軍勢を追撃したとされます。





●詩仙堂

 江戸時代初期の文人で江戸幕府家臣でもあった石川丈山が59歳のとき隠居のために造営した山荘跡。国の史跡に指定されています。現在は曹洞宗の寺院でもあり丈山寺と称します。詩仙堂は中国の詩家36人の肖像を掲げた詩仙の間からのネーミング。 詩仙は日本の三十六歌仙にならい林羅山の意見をもとめながら漢晋唐宋の各時代から選ばれました。肖像は狩野探幽によって描かれ詩仙の間の四方の壁に掲げられています。


門「小有洞」






「嘯月楼」からの眺め







「詩仙の間」入口の扁額

 「仙」に「僊」という字が使われています。「僊」には「魂が肉体を抜け出て、飛べるようになった人。仙人センニン。」という意味があるようです。写真下に歌仙の絵がいくつか写っています。





3階建ての「嘯月楼」





僧都・添水 (そうず) (ししおどし)

 詩仙堂は日本で初めて「ししおどし」が作られた場所だといわれます。





残月軒





庭園の眺め









ご朱印





 予定より早くスタートしたこともあって、もう一箇所回れそうなので、圓光寺も拝観することにしました。




●圓光寺

 ここは私も初めて拝観します。今日はGoodwill Guide のガイド証で入場させていただきましたが、ここだけは拝観料を納めなければなりませんでした。

 臨済宗南禅寺派の寺で、山号は瑞巌山(ずいがんさん)、開山は閑室元佶(三要)、開基(創立者)は徳川家康。当寺では徳川家康の命により、日本における初期の活字本の一つである「伏見版」の印刷事業が行われました。

 昔は知る人ぞ知るというお寺でしたが、近年お寺が観光用に整備したり、マスコミでも取り上げられるようになり、いつの間にかメジャーなお寺になってしまいました。紅葉シーズンに限っていえば、いまや後で訪れた曼殊院や詩仙堂より観光客数は多いのではないかと思います。桜を植えた庭も造られており、春もメジャーなお寺にという意気込みが見られます。


正面の門






奔龍の庭

 平成25年(2013年)に完成した新しい庭。作庭者は調べましたが、分かりませんでした。重森三玲風の斬新なデザインです。渦を巻き、白砂を雲海に見立て、天空を走る龍を表しています。後部の切り立った石柱は稲妻。龍の頭部も含め、お寺の井戸に使われていたもので、端に開けられたいくつもの穴にその名残を見ることができます。






 お堂(瑞雲閣)の中に、宝物室があります。


円山応挙 雨竹風竹図屏風(重要文化財)(複製)

 宝物室内は撮影禁止だと思い撮影しなかったのですが、撮影OKだったようです。この円山応挙の絵は複製だったことを後で知りました。


https://ameblo.jp/kyo-bonbon/entry-12279574880.html

圓光寺版(伏見版)木活字(日本最古の木活字)(重要文化財)


http://www.enkouji.jp/history.html


瑞雲閣から十牛の庭を眺める







十牛の庭

 牛を追う牧童の様子が描かれた「十牛図」を題材にして近世初期に造られた池泉回遊式庭園。十牛図に描かれた牛とは、人間が生まれながらに持っている仏心をあらわしています。牧童が禅の悟りにいたるまでの道程であり、懸命に探し求めていた悟りは自らのなかにあったという物語。







水琴窟

 縁が広い盃型の手水鉢を用いた水琴窟はあまり例が無く、「圓光寺型」と呼ばれています。





本堂に上がります。


富岡鉄斎 米點山水図

 南宗画の巨人、富岡鉄斎が明治十八年(1885)に紅葉の圓光寺を訪れて描いたもの。あとで、米點とは、水墨の点を打ち重ねて描く南宗画の技法であることを知りました。。すべて点描で表現されているそうですが、近くで見なかったので気付きませんでした。





本堂から十牛の庭を眺める





応挙竹林

 この孟宗竹林は昔、円山応挙がよく訪れた竹林。この竹林を前出の「雨竹風竹図」として描き残しました。





 座禅堂、鐘楼を過ぎ、墓地があります。新聞記事、第二次世界大戦中にマレーシアから留学し、広島原爆に被爆して日本で亡くなったサイド・オマール氏のお墓があるということを知っていたので、このお寺を訪れたらお参りをしたいと思っていました。詳しくは下の駒札の写真をご覧ください。こんも墓地には舟橋聖一「花の生涯」のヒロインともなった村山たか女のお墓もあります。

サイド・オマール氏の墓所









 階段を上っていきます。京都の景色が一望できる絶景ポイントです。紅葉もここが一番キレイでした。

圓光寺と京都市街を眼下に望む





徳川家康公の墓

 歯を埋葬しているとのこと。









栖龍池に浮かぶモミジ葉





渡辺章雄筆 四季草花図





ご朱印





 紅葉を満喫しました。このお寺が紅葉の時期、人気が高いのも頷けました。

 圓光寺が思った以上に広くて、見所も多くあったので、想定以上に多くの時間を費やしてしまいました。修学院離宮の15時からの見学に間に合うように、次の曼殊院は駆け足での見学になりました。


●曼殊院

 天台宗の寺院で。開基(創立者)は是算(ぜさん)。竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院(皇族・貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のこと)であり、青蓮院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の1つに数えられます。

 他の天台門跡寺院と同様、最澄(767-822)の時代に比叡山上に草創された坊(小寺院)がその起源とされます。円仁安恵らを経て、天暦年間(947 - 957年)、是算国師の時、比叡山三塔のうちの西塔北谷に移り、東尾坊(とうびぼう)と称したといい、曼殊院ではこの是算を初代としています。その後、12世紀頃に北山(現在の金閣寺付近)に本拠を移しましたが、足利義満の北山殿(後の鹿苑寺)造営のため移転を余儀なくされ、さらに洛中(現在の相国寺付近)に移転します。

 明応4年(1495年)頃、伏見宮貞常親王の息で後土御門天皇の猶子(公卿・武家の社会で兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れたもの)である大僧正慈運法親王が26世門主として入寺して以降、曼殊院は代々皇族が門主を務めることが慣例となり、宮門跡としての地位が確立しました。

 曼殊院を東山山麓の現在地に移し、寺観を整えたのは29世門主の良尚法親王です(法親王とは皇族男子で出家後に親王宣下を受けた者の称である)。曼殊院の現在地への移転は明暦2年(1656年)のことで、現存する大書院(本堂)、小書院などはこの時のもので、庫裏、茶室八窓軒も含め重要文化財に指定されています。良尚法親王は桂離宮を造営した八条宮智仁親王の皇子です。そのため、建物や室内の造作には桂離宮と類似の部分が多く見られます。

 曼殊院は平安時代以来、近世末期に至るまで北野神社(現・北野天満宮)と深い関係がありました。歴代の曼殊院門主は北野神社の別当(管理責任者)を兼ねており、前述の是算が菅原氏の出身であったことから、菅原道真を祭神とする神社である北野神社の初代別当になったといいます。

 書院庭園は国の名勝に指定されています。国宝としては不動明王像(通称「黄不動」)古今和歌集(曼殊院本)がありますが、いずれも現在は京都国立博物館に寄託されており、ここに展示されているのは複製です。

 良尚法親王によって作られた八窓軒の見学は追加1000円の拝観料が必要なのであきらめました。三畳台目の席で、古田織部や小堀遠州の好みを取り入れ、貴族趣味を加味したもので、その名のとおり多数の窓による光の演出が見事な茶室です。


手水鉢
 
 有名な梟(ふくろう)の手水鉢ではありません。





鶴島 

 樹齢400年の五葉松





亀島









谷崎潤一郎寄贈の鐘

 氏が「少将滋幹の母」を執筆するにあたり、当時天台宗の碩学と呼ばれた曼殊院第三十九世山口光円門主に天台の教学を学び、作中に描かれました。そのお礼の寄贈だとことです。





「少将滋幹(しげとも)の母」:王朝物の時代小説。美しい若妻・北の方を藤原時平に強奪された老齢の藤原国経の妄執の念と、その遺児・藤原滋幹が恋い慕う母の面影の物語。

ご朱印





 時間がなく駆け足での拝観になったのは残念でした。修学院離宮に急ぎます。


●禅華院

 修学院離宮の正門の南側にある小さなお寺す。臨済宗大徳寺派に属する解脱山禅華院(ぜんけいん)です。

 たくさんの石仏が各所から遷され祀られている。最も古いものは、石仏の背に平安時代後期、「大治元年五月八日」(1126)の銘があります。鎌倉時代後期の等身大の石仏二体は、修学院離宮の田園の中にあったものが遷されたといいます。












●修学院離宮

 15:00からのガイドツアーは14:40から入場を受けつけ、15:00ギリギリに来ても入れないことがあるというので早めに着くようにしました。京都御所同様、宮内庁管理ですが、荷物検査はありませんでした。

 門を入ったところのモミジがとてもキレイでした。生涯で一番キレイな紅葉を見たと言っても過言ではありません。赤のモミジは真っ赤、黄色のモミジはピュアな黄色。グラデーションが全くなく、その色一色なのです。何か種類が違うのでしょうか、それとも手入れが行き届いているためでしょうか。







 待合室で10分ほどのビデオを見てから、ガイド付きで回ります。皇宮警察員が常に後方に着いて目を光らせています。各場所で門を開けるのはガイドの方ですが、この皇宮警察員が全員出るのを確かめて門を閉めます。「立ち入らないでください」と書かれた所で、中に入ってしまった方が、厳しく注意を受けていました。ガイドの方はゆっくりと歩いてくださいますが、足が丈夫でない方は、階段の上り下りもあり、遅れないように歩くのはきついのではないかと思います。

 修学院離宮は、17世紀中頃(1653年(承応2年) - 1655年(承応4年))に後水尾上皇の指示で造営された離宮(皇居以外に設けられた天皇や上皇の別邸)です。谷川を堰き止めた人工池を中心とした広大な庭園とその関連建物からなります。桂離宮・仙洞御所とならび、王朝文化の美意識の到達点を示しています。面積は54万平方メートルと広大ですが、田畑が大きな部分を占めています。この田畑は離宮ができたときから、離宮所有のものと思っていたのですが、そうではありませんでした。

 もとは下御茶屋(しものおちゃや・下離宮)と上御茶屋(かみのおちゃや・上離宮)しか所有敷地はなく、田畑は民間の所有だったとのこと。中御茶屋(なかのおちゃや・中離宮)を加えた3つの離宮を結ぶ松並木の道がありますが、これはもとは細い畦道でした。馬車が通れるように幅を広くし、皇族の通行が見えないように松並木を植えたということのようです。それを昭和39年に宮内庁が田畑を買い上げ、農家に貸しているのです。ガイドの方が、宮内庁所有の土地に農家の方が毎日のように出入りするのは煩雑だけれども、それは正解だったとのこと。なぜかというと家が建ってしまうということを防ぐことができたから。家が建ってしまったら景観は台なしです。

 ちょっと歴史的にややこしいのが、中御茶屋です。この地にはもともと後水尾上皇の第一皇女梅宮文智女王が開いた圓照寺がありました。同寺は移転して、現在は奈良市にあります。修学院離宮が営まれたときは、上御茶屋、下御茶屋のみで、後水尾上皇は寛文8年(1668年)頃、第8皇女朱宮光子(あけのみやてるこ)内親王のために、離宮の隣接地であり、かつて朱宮の姉である文智女王の円照寺があったこの地に山荘を建てました。この建物が現在の中御茶屋の楽只軒(らくしけん)です。延宝6年(1678年)、東福門院の死去に伴い、その御所の奥御対面所と御茶の間が中御茶屋に移築され、客殿となりました。延宝8年(1680年)、後水尾上皇が没すると内親王は出家して照山元瑶と称し、山荘を寺に改め林丘寺と号しました。寺は林丘寺宮とも音羽御所とも呼ばれました。宮は享保12年に没しましたが、その後も皇族の皇女・王女が入寺して尼門跡となり、多くの寺領も与えられました。明治初期には衰退しましたが、明治17年(1884年)楽只軒を含む寺域の約半分が皇室に返還されて修学院離宮の一部「中御茶屋」となり、寺は再び尼寺となりました。この林丘寺と離宮敷地は塀によって分離されていますが、離宮内には林丘寺に続く生活道路があります。今日も郵便局のバイクがその道路を使って、林丘寺に郵便物を届けているところに出くわしました。

 下御茶屋、中御茶屋、上御茶屋を約80分で一回りします。拡声器もワイヤレスガイドシステムもなく、今日のガイドさんは声も大きくなかったので、場所によってはあまりお話しがよく聞けなかったのが残念でした。

 まず下御茶屋。

●御幸門(みゆきもん)





●寿月観





扁額 後水尾上皇宸筆





一の間

十五畳。三畳の上段、一間半の床と琵琶棚、飾棚。戸袋には鶴の絵、下の地袋には岩と蘭の絵。いずれも原在中筆。





虎渓三笑の絵。岸駒筆。





 東門を出ると視界が大きく開け、田圃の向こうに比叡の霊峰から東山、北山の山並みが一望されいます。

上離宮へ続く松並木





中離宮に入ったところのモミジ





楽只軒・客殿に繋がる門





●楽只軒

 黒いコートを着た方が今日のガイドさん。









「網代の欄干」 漁村で網を干した形をデザイン




「楽只軒」扁額





●客殿






霞棚(かすみだな) 
 
 桂離宮の桂棚三宝院の醍醐棚とともに天下の三棚。戸袋には更紗(さらさ)模様、地袋には友禅染、引手には羽子板の形、花車を象った七宝流しの釘隠しなど、女性のお住まいらしい華やかさが現われています。床、襖、壁には和歌や漢詩の色紙を張り交ぜるなど雅を極めています。









林丘寺





 中離宮をあとにして上離宮に向かいます。
 

上離宮に向かう松並木の道





上離宮の入口のモミジとサザンカのコントラスト





●鄰雲亭

 修学院離宮の中で最も高い位置にある建物です。一番北奥の2坪の板の間を洗詩台といいます。南を除く三方を吹き放しとした開放的な空間です。










一二三石

一二三石には「空観(くうがん)、仮観(けがん)、中観(ちゅうがん)、この三つが一つの白いしっくいでつらなり、一心のしっくいは、三観という三つのものの真の見方となり、広範な景色は、その実相をあらわしてくる。」という意味があるそうです。





浴龍池の眺め

 島の形を泳ぐ龍の姿に見立てたものと言われます。中央の中島を万松塢(ばんしょうう)と呼びます。堰き止めた西側の直線的な部分を西浜といいます。





 隣雲邸の高みから下りていきます。日蔭になっているためでしょう、まだ紅葉の色付きがキレイです。









●千歳橋

窮邃亭のある中島と万松塢を結びます。切り石を組んだ橋脚二基に一枚石を渡し、二つの橋脚に宝形造りと寄棟造りの四阿(あずまや)風なものを建ててこれをつないでいます。中国風のアンバランスな美を醸し出しています。





●窮邃亭(きゅうすいてい)

創建当時の建物で唯一残るものです。「窮邃」の扁額は後水尾上皇の宸筆です。十八畳と附属の水屋一間からなり、一隅に直角に折れて畳一段高くした上段を設け、上段西いっぱいに低く一枚板を渡して御肘寄(おひじよせ)としています。















土橋を渡り、浴龍池の北に回り込みます。





西浜方向に夕陽を望む





船着から千歳橋、隣雲亭を望む





西浜から千歳橋、万松塢を望む





西浜から棚田を望む





西浜から船着、土橋を望む





西浜から隣雲亭を望む





浴龍池南端





西浜南端から棚田と下離宮へ続く松並木を望む





下離宮へと下りる松並木から大刈込を望む

 谷川をせき止めて浴龍池を作った土堤に、石垣で四段に土留めをし、石垣上部の斜面を数十種類の常緑樹を混植して広大に刈り込んだ大刈り込みで覆っている。





 修学院離宮で今日の案内行程終了です。同じ郊外でも嵐山とは違い、外国人観光客はあまり来ておらず、混雑もさほどではありませんでした。気候も温和で紅葉を堪能した半日でした。皆さんもとても喜んでくださいました。

 夕刻の懇親会へと祇園方面へバスで向かいましたが、途中からバスが大混雑。途中の停留所では積み残しが何度も発生しました。三条京阪で降りて、祇園まで歩く予定でしたが、東山三条のバス停で市バスの係の人が待機していて、「これから先渋滞しています。京都駅に行かれる方は、地下鉄の無料券をお渡しますので、ここで降りてください。」と言います。そこまでやるかという感じですが、渋滞して予約の時間に遅れてもいけないし、東山三条から歩いても大したことはないので、東山三条で降りて、祇園の広東料理屋さん「平安」に向かいました。→こちら

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最終更新日  2019/08/26 08:09:18 AM
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