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ワルディーの京都案内

2018/12/17
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テーマ:京都。(5711)
カテゴリ:研修会
2018年12月17日(月)】

 秋の特別公開が終わり、「冬の旅」が始まるまでの、12月中旬から1月上旬にかけては、常駐ガイド拠点が減り、かつ修学旅行もほとんどないため、ガイドの延べ件数が少なくなります。それでこのタイミングを利用して、研修会が多く行われます。

 今日は地区組の研修会でした。曇華院鹿王院の見学です。鹿王院は定常公開しているので拝観したことがありますが、曇華院は非公開寺院なので、門をくぐったところまでしか入ったことがありませんでした。このガイド会のすごいところは、会自体が色んな寺社との繋がりがあったり、会員の中に繋がりがある人がいたりして、お願いすれば見学をさせていただくことができることです。

 今日は先輩のMさんが中心で案内してくださいました。Mさん繋がりで実現したのかもしれません。

 曇華院、鹿王院は嵐電嵐山駅から東に2つ目の鹿王院駅の近くに隣合わせで位置しています。

 まず曇華院を拝観させていただきました。









 曇華院は尼門跡で、「竹の御所」とも呼ばれます。山号は瑞雲山で、臨済宗系単立寺院です。お寺さんでは「どんけいん」と称しています。中での説明では「とんけいん」とも聞こえました。「尼寺三十六箇所巡り」の第5番札所です。尼門跡で現在残っているのは、京都と奈良で13しかありません。寺格は、大聖寺門跡、宝鏡寺門跡に次いで3番目です。

 暦応年間(1338~1342)に足利義満が、室町第二代将軍足利義詮(よしあきら)の夫人紀良子(きのりょうし・よしこ)の生母智泉尼を開基として、三条東洞院に瑞雲山通玄寺を建立したことに始まります。通玄寺は尼寺五山に列せられる尼僧の禅道場になりました。智泉尼は、通玄寺境内の東庵に隠退し、「曇華の額」を掲げられたことから「曇華院」と称せられるようになりました。以降、将軍家息女が住持に就かれました。

 その後、何度も火災・再建を繰り返すなか、第105代後奈良天皇(1497~1557)の第四皇女・蘭渓聖秀(しょうしゅう)女王が入寺され、以降代々皇女が入山し、法統が守られてきました。

 元治元年(1864)の蛤御門の変で焼失しましたが、明治4年に現在地の元鹿王院塔頭の瑞応院を修築して移住し、現在に至っています。旧地には曇華院前町という町名が今も残っています。本尊や一部の寺宝などが持ち運びだされ、現在も残っています。

 1953年に、門跡寺院では初めての保育園が開園されました。「若竹保育園」です。子供たちの元気な声が聞こえていました。お寺維持の一助ともなっているのでしょう。

 このお寺がすごいのは、公開寺院ではないので、古い襖絵や杉戸などが、そのまま無造作に結界もなしに置かれているということです。ですので、荷物が当たったりしないように気を配りました。

 お寺の方にご案内いただきました。客殿では、歴代皇女ゆかりの「貝合わせ」の貝や御所人形を拝見させていただきました。昔実際に使われた貝合わせの貝をこんな間近で見たのは初めてです。花鳥蒔絵貝桶とともに後西天皇から拝領されたものです。

 続いて本堂へ。ご本尊は十一面観音菩薩。平安時代の恵心僧都(源信、942~1017)の作と伝わります。


本堂




瑞雲山の扁額。平田精耕・元臨済宗天龍寺派管長(2008年没)の筆です。




襖絵 資料によると江戸時代前期の画家・山口雪渓筆。かなり傷んでいます。






違い棚




杉戸絵 こちらもかなり傷んでいます。






本堂南の庭園












 続いて鹿王院へ。

 康暦2年(1380)、足利三代将軍、義満が延命祈願のために建てた寺院。京都十刹の第五という名刹。義満が24歳のときに建てられました。臨済宗単立寺院。

 開山は義満の師でもあった普明(ふみょう)国師春屋妙葩(みょうは)。もともとは宝幢寺(ほうどうじ)で、鹿王院はその塔頭(開山塔所)でした。名前の由来は、開山堂を建立しようとしたところ、藪の中から野鹿(白鹿)が群れをなして現われたことによると伝わります。正式名称は「覚雄山 大福田 宝幢禅寺 鹿王院」といいます。その後、宝幢寺は応仁の乱で廃絶し、開山の塔頭であった鹿王院のみが残って寺蹟を継いでいます。

 江戸時代。寛文年間(1661~1673)に、客殿などの主要な建物が復興され、それまで宝幢寺の塔所であった鹿王院は、正式に1つの寺院として、寺領・塔頭を抱えることになりました。舎利殿は、宝暦13年(1763)に建立されました。

山門




四脚門。建仁寺総門に継ぐ古い門という説もあります。 唯一創建時の建物。



山門の「覚雄山」の額



足利義満24歳のときの自筆。「覚雄(かくゆう・おう)」とは「悟りにいたりし威大力の英雄」という意味で、お釈迦様のこと。



参道





天台烏薬(うやく)の銘木が繁りますが、紅葉がキレイなところで隠れた名所です。



三社大明神 鹿王院の鎮守社




鎮守社前から薬医門、舎利殿を望む





客殿の縁でご住職から、鹿王院の案内を聴かせていただきました。

客殿の扁額「鹿王院」 足利義満筆




客殿から庭園、舎利殿を眺める




 庭園は本庭と呼ばれ、嵐山を借景としています。舎利殿が建立された宝暦13年(1763)に造られたという説が有力です。日本最初の平庭式の枯山水庭園です。舎利殿前の三尊石は室町時代の石組とのこと。

三尊石




 続いて本堂へ。本堂は、開山春屋妙葩の塔所でもあります。本尊釈迦如来坐像と十大弟子像(運慶作)が安置されています。創建当時のものです。他に「開山普明国師像」、「弥勒菩薩像」、「開基 足利義満像」などが安置されています。

 また壁面には「応永釣命絵図(きんめいえず)」が掛けられています。応永33年(1426)に描かれた絵図で、当時の嵯峨一帯に禅寺が林立していた様子が窺えます。原本は天龍寺蔵の重要文化財で、現在東京国立博物館に寄託されていますが、これだって非常に貴重なものですが、無造作に壁に掛けられています。


 次に舎利殿へ。

舎利殿とモッコクの古木



 釈迦の遺骨である舎利を安置する建物です。鎌倉将軍実朝が、宋の国から鎌倉に招来した仏牙舎利が、厨子内部の多宝塔に祀られています。仏牙とはお釈迦様の歯です。鎌倉・円覚寺などを経て、後光厳上皇が1374年に普明国師に与えて鹿王院に安置されたと伝わります。この仏舎利が日本の博多に無事到着したのが10月15日だったので、昔から毎年その日を「舎利会」と定め、開帳がされます。また、この厨子の装飾が実に見事です。

 舎利殿の中には、仏涅槃図1幅と十六羅漢図が掛けられています。十六羅漢図は円山応挙の弟子の山跡鶴嶺(やまあとかくれい)(狩野鶴嶺)の筆です。

 「駄都殿」の扁額も置かれていますが、これは舎利殿の別名です。


ご朱印




 曇華院、鹿王院とも、とても勉強になりました。ここをガイドで案内するということはないとは思いますが、他の場所での案内の深みを増す一助になると思います。
  

 午後の時間を利用して、来年の年賀状のテーマ「京都の橋」の写真撮影の2回目に向かいました。→こちら

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最終更新日  2019/08/25 10:26:37 PM
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