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ワルディーの京都案内

2019/03/19
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テーマ:京都。(5711)
カテゴリ:研修会
【2019年3月19日(火)】

 昨日「京の冬の旅」のガイドが終了しました。私の勤務していた龍泉菴だけでなく、すべての拠点で終了です。常時公開拠点に勤務する人や事務所・会計担当の人は、まだ勤務がありますが、多くの人は次のサイクルの4月初めまで、勤務の空白期間が生じます。私も、もう一つの泉涌寺も終わりましたので、4月初めまで勤務がありません。こういうガイド空白期間を利用してガイド会の研修が行われます。今日は、全体研修が行われました。

 昨日は龍泉菴の勤務終了慰労会で結構お酒をいただきましたが、朝起きるのはしんどくはありませんでした。しかし、生理現象頻繁につき、バスを西京極運動公園前で降りて、行くところに行って、阪急西西京極駅から阪急と地下鉄で、烏丸丸太町の会場に向かうという羽目になってしまいました。何とか時間には間に合いました。

 今日のテーマは「源氏物語と観光ガイド」。北地域組のSGさんの講師による研修でした。この方、短歌に堪能で、古典文学にも造詣が深い方です。ただ、お話しはちょっと分かりにくかったです。私は、源氏物語は瀬戸内寂聴さんの現代文で一通り全部読んだことがあるので、何とかついて行けましたが、そうでない方はしんどかったと思います。


 色々新しく知ることもありました。帰宅後、ネットで調べた情報も交えて記します。(順不同)

・紫式部は本名がない。娘の大弐三位(だいにのさんみ)は、本名を藤原賢子(ふじわら の かたいこ/けんし)と名がある。これは、は親仁親王(後冷泉天皇)の誕生に伴い、その乳母に任ぜられたため。平安時代中期の女流歌人で女房三十六歌仙の一人。

・当時14、15歳で結婚するのが普通だったが、紫式部は20歳代で、親子ほども年の差がある山城守・藤原宣孝と結婚した。藤原賢子(大弐三位)を儲けたが、この結婚生活は長く続かず、4年で宣孝と死別した。

『紫式部日記』は、藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部が、1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月まで、宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。藤原道長の目に触れるものであった。『源氏物語』の作者が紫式部であるという通説は、伝説とこの『紫日記』にでてくる記述に基づいている。

・「紫式部日記」の寛弘5年11月1日(1008年12月1日)の記述に、源氏物語の作者紫式部に対して、藤原公任が「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」(そういえば、このあたりに若紫の姫君がいらっしゃるのでは)と語りかけたとある。「若紫」とは源氏物語の登場人物であることから、源氏物語が歴史上はじめて記録されたものとされ、11月1日が「古典の日」となった。

・皇室には常に複数の分家が存在する。しかし全員が皇族の身分のままだと、財政の負担が増大して来る。そこで皇籍を離脱、すなわち臣籍降下をすることになる。皇族には姓が無いので、臣籍降下の際、姓が与えられた。それを賜姓皇族という。最初は例えば橘(第30代敏達天皇末裔)、清原(第40代天武天皇末裔)の様に、個別に姓氏が与えられていた。ところが平安初期の嵯峨天皇(記紀52代、桓武天皇皇子)には皇子女が多く、大人数を臣籍降下させる必要があった。この様な場合、個別の賜姓は大変。そこで、一括して「源」の姓を贈る事になった。そして中国古典による『皇室と血筋の「源」を同じくする』というネーミングからか、嵯峨天皇以降も臣籍降下の際に源が贈られる場合が続出した。他に賜姓皇族として有名なのは平氏。

・「ろうたし」=かわいい 「うるはし」=美しい。端正だ。 「なまめかし」=若々しい。みずみずしい。

・空蝉は紫式部の自画像といわれる。

葎(むぐら)は、みすぼらしい家や庭の景物として、蓬(よもぎ)や浅茅(あさぢ)とともに、文学作品に早くからみられる。

伊勢斎宮は天皇退位とともに京に戻ったが、賀茂斎院は天皇が亡くなるまで続けた。村上天皇の皇女選子内親王は12歳のときから5代の天皇の57年間にわたって、賀茂斎院をつとめ、大斎院と称された。

六条御息所・秋好中宮親子の話しのもとになったのが、徽子女王(きし(よしこ)じょおう)。醍醐天皇の皇孫。朱雀天皇朝の伊勢斎宮、のち村上天皇女御。斎宮を退下の後に女御に召されたことから、斎宮女御と称された。三十六歌仙および女房三十六歌仙の1人。村上天皇が崩御後は一人娘の規子内親王と共に里第(内裏外の邸宅)で暮らした。規子内親王が27歳で円融天皇の斎宮に選ばれると、翌貞元元年(976年)の初斎院入りに徽子女王も同行、そして円融天皇の制止を振り切って斎宮と共に伊勢へ下向し、前例のないこととして人々を驚かせた。

六条御息所と葵の上の車争いは、葵祭本祭ではなく、御禊の儀の日。当時御禊は鴨川で行われた。車争いの場所は一条戻り橋辺りといわれる。

 最後にSGさんお薦めの源氏物語訳は、角田光代さんのものとのこと。果たして、将来源氏物語を読む時間がとれるかどうか分からないですが、もしょい読むなら角田光代氏のものを読んでみたいと思います。


https://cakes.mu/posts/18664


 終了後、同期ガイド仲間に昼食に誘われましたが、4月3日の二条城と近辺の私的ガイドの下見と昼食場所の確認のため、京都府庁方面に向かいました。→こちら


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最終更新日  2019/08/25 10:27:31 PM
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