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ワルディーの京都案内

2021/08/01
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テーマ:京都。(5682)
カテゴリ:若冲と応挙
【2021年8月1日(日)】

 昨日は、30日の会のお役目月イチの集まりの文書作成で終日費やし、今日は、その最終化でした。それ以外に、車の1年目の定期点検でディーラーを往復しました。オリンピックの熱戦とともに、暑い日が続きます。

 
 「若冲と応挙」の第28回目、「黄金期へ」の続きです。


◆第3章 円山応挙(続き)

3-4 黄金期へ(続き)               

 さて、そろそろ「黄金期」のお話しに入っていきましょう。「黄金期」は三井家の庇護を受けた時期でもあると書きました。三井家のことについて触れておきます。

 三井家の初代三井高利(1622~94)は、三重・松坂(現松阪市)で生まれました。高利は延宝元年(1673)、江戸に呉服店・越後屋を開き、京都に西陣織などを仕入れる仕入れ店を置き、そこを商いの本拠とし、やがて高利も京都に移り住みました。高利は「現金正価販売」「薄利多売」という当時としては画期的な商法で越後屋を発展させるとともに、両替商も営み、一代で三井家の業容を大きく発展させました。代々の三井家の人々は、江戸時代の間は、多くの分家も含め、ほとんどが京都に住まいました。現在の三井グループは東京が本拠となっていますが、江戸時代は京都が本拠だったのです。この11月3日、超豪華ホテル「ホテルザ三井京都」が二条城前に開業しましたが、その地は、もと三井の総領家(本家)があった場所なのです。
                          図1「郭子儀祝賀図」一幅
                            三井記念美術館

 財力をつけた三井家は、18世紀になると、茶道具など美術工芸品の収集を盛んに行い、芸術に対する関心を高めていきました。しかし新興商人であった三井家の芸術に対するアプローチはかつての商人たちのようにはいきません。古いタイプの商人は、伝統に基づいた貴族的な美を追求しました。以前の回で書いたように、江戸時代前期に活躍した尾形光琳の絵は商人たちに人気がありましたが、宮廷生活など伝統的な約束事の知識をもっていないと、真に観賞できないものでした。京都の伝統という基盤を持たない新興商人の三井家にとっては、近寄りがたいものでした。しかし、応挙の写実的な絵は、前提知識を必要とせず、平明で分かりやすく、かつ美しく心に訴えるものだったため、三井家は応挙の絵を所望するようになります。こうして応挙40歳、安永元年(1772)頃、応挙と三井家の関係が始まりました。東京日本橋の三井記念美術館に応挙の作品が多く所蔵されているのはこのような経緯によるものです。

 特に応挙と親しかったのが、三井家四代の三井高美(たかはる)です。図1は高美が実弟の高彌の還暦祝いに送った「郭子儀(かくしぎ)祝賀図」です。郭子儀は唐の人で、多くの武功に輝く名将で、子宝に恵まれ、長寿を誇ったといわれ、吉祥画題としてよく採り上げられます。この絵では郭子儀は高彌の肖像画で描かれています。高美の一周忌に応挙は図2「水仙図」を供えています。


図2「水仙図」一幅 三井記念美術館蔵



 黄金期の応挙は多くの傑作を遺しており、前回の「雲龍図屏風」は黄金期初期のものです。もう一つ黄金期の傑作を紹介します。図3「藤花(ふじばな)図屏風」です。純金地にフジのみを描いています。フジは他の植物や物体に絡まって育つ植物ですが、あえてフジのみをピックアップし、複雑に絡み合う樹形に興味を集中させています。幹や蔓(ツル)は、輪郭線を用いない没骨(もっこつ)法で、付立(つけたて)(2種類の濃淡がある墨や絵具を大きめの筆含ませ一気に描き上げる技法)の画技をもって、刷毛で一気に描かれています。それに対して、花や葉は没骨法ではあるものの極めて精緻に描かれています。応挙の大画面作品のなかでも、極めて装飾性が高い作品で、以前の回で述べた写生理論、「気ヲ写ス第一ト(シ),其上理ヲ学て可レ付レ意云々」=「生き生きとした生命感を写すことを第一義としたうえで、理(対象の構造や構成の原理)を学び、意(画家の制作意図)を加える。」を実践した作品といえるのではないでしょうか。


図3「藤花図屏風」六曲一双の右隻 根津美術館蔵(下の図は部分拡大)





 若冲のところで述べたように、「平安人物志」には応挙も常連として登場します。繰り返しになりますが、「平安人物志」は、江戸時代中期から後期にかけて刊行された京都の市井の各方面の文化人を人気番付のようなかたちで紹介した書物です。円満院時代の初期、明和5年(1768)版の画家部門で、応挙は大西酔月に続き2番目にランキングされています。このとき若冲3位です。さらに黄金期の安永4年(1775)版では、応挙は1位にランキングされ、若冲は2位です。後の時代の天明2年(1782)版でも応挙1位、若冲2位です。特筆すべきは、明和5年版にはランキングに応挙の弟子の嶋田内蔵助(島田元直)が既に入っており、安永4年版には、円山派から派生した四条派の祖である松村文蔵(呉春)、応挙の弟子である駒井幸之助(源琦)らがさらに加わっていることです。天明2年版(1782)にはやはり応挙の弟子である山本主水(山本守礼)長沢蘆雪も加わっています。若冲がランキングで孤軍奮闘していたのに対して、応挙の門人たちは、応挙が画風を確立し始めた頃に既に活躍を始めていたということです。

 次回は円熟期へと入っていきます。


前回はこちら   次回はこちら



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最終更新日  2021/08/01 01:25:44 PM
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