|
テーマ:京都。(6420)
カテゴリ:京都研究
伏見稲荷大社とその周辺の「お滝」について その7
ワルディー・ヨーリョ 13.各「お滝」の所在地特定と創建年代 全「お滝」の所在を、伏見稲荷大社社領内か否か、伏見稲荷大社管理か否か、現役の「お滝」か否かを含めて図1に示す。併せて、今回の研究で、詳細所在地が特定できなかった「お滝」、研究によって詳細所在地が特定できた「お滝」、新たに発見した「お滝」も示した。 ![]() 今まで述べてきた研究から、これら「お滝」の創建年代と、廃滝となった場合の年代を特定・推定した結果を図2に示す。 ![]() 年代の根拠は、「お滝」管理者などへの取材、「お滝」建設年代を示す石碑、現地の説明板、第6章にあげた地図への記載の有無、第5章にあげた文献での記載などによる。創建年代については、約3分の2が、ほぼ特定できたといえる。残り3分の1は、まだまだ研究の余地がある。特定できたなかで、多いのが明治末期から大正期にかけての創建である。鉄道網の発達により、参拝者が増え、それとともに「お塚場」や「お滝」が増えていったものと推定される。 多くが、明治末期から大正期を創建年代とするなかで、3つの「お滝」を江戸時代末期から明治時代初期としたが、推定の域を出ない。「白滝」は管理者への取材で、創建は江戸時代とのお話であったことと、現管理者で6代目ということからである。「薬力滝」の管理者への取材では、創建は不明とのことであったが、現管理者で8代目ということから、おおよそ割り出したものである。「鳴滝」は「朱」36号の「稲荷山のお塚についての覚え」に、明治2年の「山林掛襍誌」に「鳴滝」の名が登場するためである。ただ、この「鳴滝」が今の「鳴滝」と同じ場所だという確証はない。「白滝」も「鳴滝」も、自然水流や簡易な工事で「お滝」を造れるような場所にあり、江戸時代あるいはそれ以前から修験者が滝行を行っていた可能性は考えられる。 伏見稲荷大社管理のものも含め、すべての「お滝」が私設で創建されているためか、管理者の方々に取材する限り、記録がほとんど残っておらず、代替わりを多く経た今、創建年代の特定が難しい状況となっている。 14.廃滝の年代の特定・推定 廃滝時期については、現管理者あるいは先代、先々代での廃滝が多く、廃滝にあたって、現管理者自身が見聞したケースが多いので、取材によって比較的正確に年代を特定できた。 廃滝の理由としては、滝行人口の減少が1つあげられる。13回にわたって現地踏査をしたと述べたが、その間、滝行する人の姿を見ることはなかった。管理者のお話でも、多くても、月に数人とか、ある決まった時期に信者さんの団体が来られて滝行をする程度とのことであった。 他には管理者あるいは教祖の代替わり時に継承が途切れてしまう例である。前出の「ねざめ滝」「岩龍滝」がそうである。 「清メ滝」のように、上流が開発されて田畑になり、水流が濁ってしまったりとか、前出の「たつみ滝」のように、近隣に学校が建設されて、水流が弱くなったりとかが原因という例もあった。 水流はないが現存する「お滝」でも、「御壺滝」や「熊鷹本滝」については、無住となっており、廃滝の理由を特定することはできなかった。 よろしかったらぽちっとお願いします。 ←前回「京カレッジ『お滝の研究』」 次回「京カレッジ『お滝の研究』」→ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026/08/09 07:37:45 AM
コメント(0) | コメントを書く
[京都研究] カテゴリの最新記事
|
|