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テーマ:京都。(6436)
カテゴリ:知られざる伏見稲荷大社
知られざる伏見稲荷大社 その5
今回は下記ルート図で「6」及び「7」のエリアをご案内します。 のエリアをご案内します。 知られざる伏見稲荷大社 フィルードワーク ルート図 ![]() 6.御茶屋(重要文化財)、松の下屋(したや)(京都市指定登録文化財)(通常非公開) 本殿前階段の前を南に向かいます。本殿の南側の塀に囲まれた敷地に、御茶屋、松の下屋、そして松の下屋庭園の門があります(図1)。 図1 「御茶屋」「松の下屋」「松の下屋庭園」の門 ![]() 御茶屋がこの地にあり、稲荷大社が維持している由緒は少々複雑です。 慶長11年(1606)に宮廷における非蔵人(ひくろうど)再興が始まります。非蔵人とは賀茂・松尾・稲荷などの神職の家や家筋のよい家から選ばれ、無位無官で宮中の雑用を勤めた者のことです。この年、稲荷社家の羽倉(荷田)延次と大西(秦)親明の2名に加え他社の神職2名が後陽成天皇の非蔵人として召しだされました。羽倉延次は最年長者としてその頭に任じられ、やがて後水尾天皇の即位後も宮中に仕え、さらに退位後も後水尾院に出仕しました。そして上北面の玄蕃頭(げんばのかみ)に任じられました。上北面とは院御所を警備する侍で、院への昇殿を許された四位、五位の諸大夫(しょだいぶ)です。このような関係から、羽倉延次が寛永18年(1641)に禁中古御殿の一部であった御茶屋を後水尾院から拝領し、西羽倉家の敷地内(現在の参集殿<現在は取り壊され駐車場の一部になっている>とその前の駐車場の位置)に移築したと考えられています。しかし、明治時代に現在地に移築されることになります。次がその経緯です。 現在、御茶屋、松の下屋がある敷地は社家松本家の所有でその屋敷がありました。明治維新後、神職神官世襲の制が廃止され各社家が衰退していきます。明治17年(1884)に松本家の土地が、当時主典(禰宜(ねぎ)の下にあって、祭儀や庶務を執行した判任官待遇の神職)だった竹良豊(たけりょうほう)に譲渡されます。竹良豊は羽倉家の養子で、書写・詩歌に優れ、富岡鉄斎とも交友がありました。明治22年(1889)になると竹良豊が羽倉家から分家し、その際、西羽倉家にある「御茶屋」の損廃を惜しみ、保存を前提に「御茶屋」を西羽倉家から譲り受け、松本家から譲渡された現在地に移築し修理します。 しかし、竹良豊没後、この敷地は大阪の実業家木田氏の所有になります。さらに大正6年(1917)には福田氏という実業家が木田氏から買収します。そして大正7年(1918)から8年(1919)にかけて、福田氏が現在の「松の下屋」を建て、御茶屋を修理しました。庭園もそのときに今の形に整備されたのではないかと考えられています。一説によると福田氏は料亭として利用しようとしたといわれています。「松の下屋」は神社境内にある建物としては、少し異質な感があるのはそのためだと考えられます。その後、また別の人の手に渡ると聞いた稲荷大社が、御茶屋の保存を目的にこの敷地を買収しました。このように、御茶屋、松の下屋とも複雑な経緯を経て現在に至っています。 御茶屋の欄間には吹寄せの菱格子を入れ、付書院に続く仲敷居窓は、桟と腰の舞良とも吹寄せとして、書院造の厳格さを和らげています。床・違い棚・付書院を備えた書院造の格調を保ちながらも、数寄屋風な意匠で構成されて、おだやかなたたずまいに仕上げられています。小堀遠州もこうした構成の座敷を作っていますが、この御茶屋はどちらかといえば、曼殊院小書院、西本願寺書院など、貴族の好尚を示す遺構に通じるものと言えます(図2、図3)。 図2 御茶屋室内 ![]() 図3 御茶屋外観 ![]() 「松の下屋」は2階建ての書院造ですが、敷居に石を用いたり、縁側部分が四半敷になっていたりで、一風変わった造作も見られます。棟方志功氏が奉納した襖絵が所蔵されています(図4、図5)。 図4 松の下屋 ![]() 図5 棟方志功筆襖絵 御牡丹図 ![]() 「松の下屋庭園」は、明治・大正期に流行した別荘庭園の趣が色濃く感じられるところから、植治こと七代目小川治兵衛の息の掛かった庭師が作庭したのではないかといわれています。川の流れを作り、その東にせり上がった斜面をもち、その上には茶室「瑞芳軒」を頂き、稲荷山三ヶ峰を借景としています。「松の下屋」2階座敷から眺める「松の下屋庭園」は圧巻です(図6)。 図6 松の下屋庭園 ![]() この一画は普段は非公開ですが、棟方志功氏の襖絵とともに「京の冬の旅」などで特別公開される可能性もありますので、興味のある方はそのときに是非見学ください。 御茶屋前を少し本殿側に戻ったところには、その世界では有名なオダイさん砂澤たまゑ氏奉納の照明灯が建ちます(図7)。オダイさんとは霊能者で、昔はオダイさんが信者を連れて夜間も含め「お山巡り」の修行をよくしていましたが、今ではほとんど見られなくなりました。砂川たまえ氏には「霊能一代」という著書があり、今は絶版となっていて、ネットで8万円とかの高額の値付けとなっていたりします(図8)。筆者の研究上読みたかった本なのですが、京都の図書館にはなく、大津の図書館まで遠路借りにいきました。 図7 砂川たまゑ氏奉納の照明塔 ![]() 図8 砂川たま恵著「霊能一代」 (amozon.com.jpから) ![]() 7.荷田春満(かだのあずままろ)旧宅(国指定史跡・通常非公開)、東丸(あずままろ)神社 荷田春満[1669~1736]は、江戸時代中期の国学者で、社家の一つ羽倉家の二男として生まれました。古典・国史を研究して近世国学を発展させ、『万葉集』『古事記』『日本書紀』などを研究し、儒学の古学のもと、復古神道を提唱しました。賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤(あつたね)ととともに国学四大人(したいじん・しうし)といわれます。その生家がここに残る平屋建て書院造りの旧宅(図9、図10)です。祭器庫や庭なども当時の遺構をよく残しています。大正11年(1922)に国の史跡に指定されました。「京の冬の旅」などで、特別公開されることがあります。 図9 荷田春満旧宅の門 ![]() 図10 荷田春満旧宅書院 「京都を彩る建物や庭園」サイトより ![]() 春満の死後、明治16年(1883年)に、正四位の位が贈られたのを機に、稲荷大社宮司らによってその学徳を称えるための神社創建への動きが起こり、荷田春満を祭神とする社殿が造立されました。それが荷田春満旧宅の東隣にある東丸神社です(図11)。 図11 東丸神社 ![]() 当初は稲荷大社の摂社として位置づけられていましたが、大正2年(1913)に羽倉家末裔羽倉信義氏に稲荷神社奉仕を辞し、東丸神社に専務する辞令が出され、東丸神社は独立した神社になりました。社殿の造りも、稲荷大社本殿が流造に対し、東丸神社は春日造と独自色を持っています。また、本殿の前の鳥居も山王鳥居と呼ばれる造りになっており、ここにも独自色が見られます。稲荷大社は今では商売繁盛祈願の神社として有名ですが、東丸神社はその御祭神の功績から、学業成就祈願や合格祈願の神社として静かな人気を集めています。千羽鶴が多く奉納されています(図12)。 図12 東丸神社 春日造・山王鳥居・千羽鶴 ![]() 入り口の鳥居を潜って、すぐ右側に「としまいりの石」(図13)が建っています。「としまいり」とは、人の歳の数だけご祈願を重ねることです。本殿前にあるこちらの竹棒ボックスから歳の数だけ竹棒を持って、本殿と「としまいりの石」の間を心静かにまわります。竹棒は本殿にお願いする度ごとに一本ずつ箱に納めます。 図13 としまいりの石 ![]() よろしかったら下記と「いいね」をぽちっとお願いします。 ←前回「知られざる伏見稲荷大社」 次回「知られざる伏見稲荷大社」→ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026/09/18 09:17:34 AM
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