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ワルディーの京都案内

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研修会

2018/12/14
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テーマ:京都。(5704)
カテゴリ:研修会
2018年12月14日(金)】

 今日の午前中はガイド会全体の研修でした。

 今般旧三井家下鴨別邸でお仕事をごいっしょいただいたUさんが、少し先に定年でお辞めになるので、その前にご自身の知見の一部を披露していただくというかたちでの研修会でした。テーマは「天皇と藤原氏」で、今日14日と19日、2回に分けての講義です。今日は、会場の広さの関係で、抽選で参加者が決まりましたが、運よく当選しての参加となりました。

 高校生のお孫さんがパワポ資料を作成し、今日も表示の操作をするという、微笑ましいプレゼンでもありました。

 分かりやすい資料と説明で、楽しく聴講させていただきました。ガイドのとき天皇の名前や経歴・功績などを説明することはありますが、そのガイド先に関係する天皇をピンポイントで説明するだけです。今日は、体系的にかつ時系列的に教えていただき、歴史の流れの中での天皇の位置づけがよく分かりました。初めて知る内容も多くあり、聴講の皆さんも、それ相応の知識を持っておられるはずですが、ときどき「ほぉー」とか「へぇー」とか嘆声が聞かれました。

 新たに知ったことを、書き出してみます。

・京都は原爆投下標的第一候補地だったが、それを阻止したのは米国陸軍長官ヘンリー・スティムソン氏

・天皇125代中、女帝は10名。飛鳥時代の推古・持統・皇極・斉明(さいめい)、奈良時代の元明・元正(げんしょう)・孝謙・称徳、江戸時代の明正(めいしょう)・後桜町 このうち皇極・斉明、孝謙・称徳は重祚(ちょうそ・一度退位した君主が再び即位すること)。


推古天皇

Wikipedia


・京都に都があった時代の天皇は、50代桓武天皇から121代孝明天皇までの72人(全体の58%)。これに北朝5名が加わって77名。

・京都府に陵(墓)がある天皇は74名(泉涌寺16名、深草十二陵12名、龍安寺5名)

・最高紳(太陽神:天照大御神)の末裔で5代目の孫が神武天皇


神武天皇

Wikipedia


・「神」の名のつく天皇は3名(初代:神武天皇、10代崇神天皇、15代応神天皇、皇后は1人神功皇后)。初代の神武天皇は(BC660年)は古い歴史を形成するために創設されたという説あり(初代は10代崇神天皇説が有力)。「神」の天皇の代は、系統の交代を表すという説あり。


神功皇后

Wikipedia


・「祟り(たたり)」の文字がつく天皇は3名。32代崇峻天皇(唯一暗殺された天皇)、崇道天皇(桓武天皇の弟・早良親王)。75代崇徳天皇

・天皇の遺体は、火葬41人、土葬73人、不明8人。仏教は釈迦に倣って火葬。神道は土葬。

・日本の民・国土はもともと天皇のものだったが、奈良時代の44代元正天皇は、開墾の田地は「三世一身(父・子・孫)法」で私有地を認めた。45代聖武天皇の時代に「墾田永年私財法」を発布し、永久私有地が認められた。これが天皇・藤原氏・社寺の「荘園」に繋がっていく。

 このあと、祭祀、政治、軍事を誰が担ったかを時代別に分析し、蘇我氏、藤原氏への話に繋がっていきますが、私自身が不勉強の分野で、初めて知ったことだけを列挙するにしても、大変な分量になるので、ここで留めます。

 また、平安京の天皇の一覧表には、どういう立場で皇位を継承したか(例えば、子として、弟として)、即位年齢、在位年数、没年齢、母の父(祖父)が纏められており、これから各天皇の当時置かれた環境を垣間見ることができます。例えば、第79代六条天皇から第83代土御門天皇までの即位年齢は連続で10代以下であり、院政の時代と符合しています。また、天皇の母の父(祖父)には室町時代までは藤原氏関係が名を連ねます。いかに藤原氏の皇室への影響が大きかったかということを、このことからも知ることができます。

 講義時間でお話しいただいたのは、いただいた資料の半分もないでしょう。実に充実した資料です。通しで読みたいとは思うのですが、諸般あるなか果たして読み切れるかどうか。

 後半の講義も楽しみです。


 午後の時間を利用して、来年の年賀状に掲載する写真の題材集めで、京都を歩きました。→こちら


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最終更新日  2019/08/25 10:26:09 PM
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2018/11/29
テーマ:京都。(5704)
カテゴリ:研修会
2018年11月29日(木)】

 今日はエリアグループの今年度2回目の研修会でした。来月、我がガイド会が担当する某シニア講座の予行演習も兼ねています。私はその講座の企画委員の一人ですので、今日は受付などを担当するとともに、本番講座に向けて訪問地の現地確認を行いました。

 まず午前中にKさんによる「琳派」についての講義がありました。企画委員として参画してきたし、私自身も若冲・応挙の勉強の過程で琳派のことにも触れるので、既知の部分が大半でしたが、今日、初めて知ることも多くありました。

 その中で一つ印象に残っているのが、「燕子花(カキツバタ)図屏風」には型紙が使われているということ。上記のカラーの部分がそうです。


燕子花図屏風 カラーの部分が型紙使用部。

https://mananavi.com/%E5%9B%BD%E5%AE%9D%E3%80%8C%E7%87%95%E5%AD%90%E8%8A%B1%E5%9B%B3%E5%B1%8F%E9%A2%A8%E3%80%8D100%E5%B9%B4%E3%81%B6%E3%82%8A%E3%81%AB%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%B8/


 午後から、「妙顕寺」と「本法寺」を訪問させていただきました。それぞれのお寺において、我がエリアグループのIさん、Mさん、Yさんによる案内がありました。下見は以前しましたが、先様との調整が中心でした(こちら)。今日はしっかりと見学させていただくことができました。


●妙顕寺

境内の紅葉







四海唱導の庭









孟宗竹林の坪庭





光琳曲水の庭




 宝物館では「細字法華経」を見ることができました。極小の字の大きさで書かれたお経は、人間業とは思えません。



●本法寺


「巴(ともえ)の庭」の「巴」がどの部分を指すのか、今日の訪問で分かりました。

巴の庭










光悦の蹲(つくばい)





現在の配置





江戸期代の様子 「都林泉名所図絵」より

上記2つの絵はお寺からいただいたパンフレットから
 

十(つなし)の庭
 庭の石は9つでも、見る人の心にもう一つの石(意志)が存在するというところからの命名。「十」を「つなし」と読むのは、数字の1~9を数えるとき、ひとつふいたつと「つ」がつきますが、十(とお)には「つ」がつかないことから。







 長谷川等伯の「佛涅槃図」(複製)も見せていただきました。


 予定通りの時間に終わり、委員は堀川今出川上ルのシュークリームの美味しい「オアフ」というお店で、アルコール抜きの反省会でした。ここでは私が担当する部分のフィールドワークは深草の石峰寺と宝塔寺を訪問することで了解が得られました。石峰寺はすでに訪問してお寺さんにお願い 済みです。今後、宝塔寺にIさんといっしょに訪問して、受け入れをお願いすることになります。


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最終更新日  2019/08/25 10:25:21 PM
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2018/05/02
テーマ:京都。(5704)
カテゴリ:研修会
2018年5月2日(水)】

「応仁の乱 東陣跡を中心に訪ねる」と題して、街歩きの研修会がありました。

 歩いたルートを下記に示します。右上の地下鉄鞍馬駅を10時に出発し、左下の「山名宗全邸跡」に12時到着、全行程約4kmでした。赤丸は解散後、仲間と昼食を食べた「鳥岩楼」です。→別途投稿(こちら

 
本日のルート



 地下鉄鞍馬口駅(地図番号1)を午前10寺頃出発しました。


●尾形光琳邸跡碑(地図番号2)

 1694年頃にこの地に移ったといわれ、この地で1716年に亡くなりました。この碑は「緒方」となっています。






●今出川が流れていた道(地図番号3)

 前述の尾形光琳邸跡から上御霊神社西側への道。木が生い茂っているところが上御霊神社です。

 今出川は上御霊神社・相国寺の西を南下し、その下流で現在の今出川通りを東進していました。それで同志社大学と京都御苑の間の通りを今出川通と呼ぶようになりました。(後出の上御霊神社の項の地図参照)






●上御霊神社(地図番号4)






◆応仁の乱勃発の地碑

 応仁元年(1467)1月18日、畠山政長は自邸を焼き、この森にたてこもり畠山義就(よしひろ/よしなり)と戦いました。形勢不利となった政長は当社を焼いて脱出したといいます。

 上御霊神社は西に今出川が流れ、南に堀があって自然の要塞だったとのことです。











◆松尾芭蕉句碑

 応仁の乱は、前述の勃発から10数年続き、京都の寺社はことごとく焼かれてしまいました。「半日は神を友にや年忘れ」の句碑が建ちます。松尾芭蕉は元禄3年(1690)の師走に、門人と神御霊神社を訪れて「年忘歌仙」を開きました。そのときの句です。








◆御霊会

 前述の松尾芭蕉の句の「神」は、当社の祭神である八所御霊といわれる怨霊神、早良親王、井上内親王、他戸親王、藤原吉子、文屋宮田麻呂、橘逸勢、吉備真備、火雷神(菅原道真)と考えられます。桓武天皇の時代、各地で疫病が流行し、これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催されました。この御霊会が当社および下御霊神社の創祀であるとされます。その後、当社は皇室の建物が移築されることが通例となりました。現在の本殿は宝暦5年(1755)賢所御殿が下賜されたものだといわれます。

 御霊祭は毎年5月1日に神幸祭(社頭の儀)、5月18日に還幸祭(渡御の儀)が行われており、昨日神幸祭があり、神輿が社殿に置かれています。 三基の神輿(小山・今出川口・末広)のハイライトは御所・朔平門での神輿上げです。






◆清明心の像

 国際児童年(1979)にあたり生命の尊重と子供達の健やかな成長を祈り、中国宋代の学者司馬温公の故事に拠って建立されました。司馬温公が幼少の頃、友達と遊んでいる時に友達が誤って、父親が大事にしている大きな水がめに落ちておぼれてしまいました。司馬温公は、壊す事によって怒られるかもしれないという懸念よりも真っ先に友達の安否を優先して水かめを割って友達を助けたというストーリーを表しています。








◆砲弾型の石
 明治末期、日露戦争の戦利品として、砲弾が全国の府県及び官幣招魂社に配布されたらしいです。金属製だったと思いますが、錆びて傷んできたので、石にしたのでしょう。残っているところは珍しいようです。






◆アヤメ

 南側の水路に咲きます。






●相国寺

◆藤原定家、足利義政、伊藤若冲の墓(地図番号5)

 相国寺の墓地に、この3つのお墓が並んで建ちます。

 藤原定家の墓は、石像寺(釘抜地蔵)墓地にもあり、藤原家隆の墓と並んで建ちます。厭離庵庭園にも「定家卿御塚」と呼ばれる墓があります。

 伊藤若冲の墓は石峰寺にもありあす。相国寺の墓は、生前に若冲が建てた墓(寿蔵)です。側面に刻まれた「若冲居士寿蔵碣銘」は、若冲の境遇や学画、制作の状況を知り尽くした大典が撰文したものとして、若冲の人生を知る上での根本資料となっています。








◆禁門変長州藩殉難者塔(地図番号5)
 
 前述の3つのお墓の西隣に建ちます。元治元(1864)年7月19日禁門の変において鷹司邸附近で、会津・薩摩藩などと戦って破れた長州藩士の戦死者約200余名のうち、湯川庄蔵、有川常槌ら20数名がこの地に葬られました。 






◆放生池(地図番号6)

 1467年に大内政弘が入京し、西軍が9月に反攻を開始します。西軍は内裏を占拠するなどし、東軍を花の御所と隣接する相国寺付近に封じ込めます。さらに西軍は10月3日に相国寺の東軍に総攻撃をかけます。東軍は相国寺の南方、烏丸殿付近に歴戦の将、京極持清や武田信賢らを配して防戦しますが、西軍の畠山義就、大内政弘らの猛攻が続きます。相国寺が出火すると、東軍に動揺したのか全軍が撤退し、西軍が相国寺を占拠します。しかし、東軍は寡兵ながらも畠山政長らを相国寺に向かわせます。政長は相国寺内に陣取る一色義直、六角高頼軍を急襲し、混乱に陥れます。暴れまくる政長軍に西軍は撤退を余儀なくされます。政長らは800もの首を奪い、奪還に成功しました。そのとき多くの兵が、相国寺内の放生池で命を絶ったといわれます。

 この相国寺の戦いによる双方の痛手は大きく、戦いは小康状態となり、戦火は地方に拡がっていきます。地方での覇権争いが有力守護大名の強大化や下剋上の風潮を呼び、時代は大きく変化していきます。








●室町時代の石敷き遺構(同志社大学寒梅館)(地図番号7)

 2002年の寒梅館の建設工事で発見された遺構です。足利義晴が再築した室町殿の北東の社と南の築地基礎の可能性があります。寒梅館の中にも資料が展示されているそうですが、大勢で入る訳にはいかないので、入りませんでした。近くに寄った際に、見たいと思います。








●大聖寺(御寺)(地図番号8)

 臨済宗単立寺院の尼寺。山号は岳松山。別名御寺御所、大聖寺門跡とも。貞治7年(1368)天龍寺で営まれた光厳天皇の法事のさい、妃が落飾して無相定円という尼僧になり、足利義満が室町御所内の岡松殿に迎えたのが当寺の始まりといいます。

 その後、寺域は転々としますが、元禄10年(1697)に現在地に戻ります。そして正親町天皇の皇女が入寺して、天皇は大聖寺を尼寺の第一位とする宣旨を下します。歴代の内親王が入寺して、それは光格天皇の皇女まで続きました。女帝明正天皇の御所から材料を移して元禄10年に作成された名庭でも知られます。








27世・花山院慈薫(かさのいん じくん)の歌碑「九品仏 慈悲の眼の変らねば いづれの御手に 吾はすがらむ」


菩提樹だと思います。







●薩摩藩邸跡(地図番号9)

 京都には3つの薩摩藩邸がありました。錦小路藩邸、二本松藩邸、伏見藩邸。二本松藩邸は、現在の同志社大学の位置にありました。石碑が同志社大学の西門前に建ちます。

 京都に薩摩藩が藩邸を置いたのは、中京区錦東洞院ですが、そこが手狭になったので、文久2年(1862)に、ここに大きな藩邸を建てました。

 薩摩藩の代表・西郷隆盛と、長州藩・木戸孝允の直接会談が行われる場所となったのが、京都・二本松の薩摩藩邸です。しかし、薩摩・長州共に誇り高きものを背負っており、そもそも因縁の仲であり、連日酒の宴を催すものの、『薩長同盟』の締結までは至りませんでした。

 10日間以上も経過し、しびれをきらした坂本龍馬が、場所を変え、薩摩藩・西郷隆盛がその言葉を切り出すことになります。その場所は、「摂家近衛家(小松帯刀寓居跡)」(京都・堀川通一条東入ル)と言われてきましたが、近年学説が覆えり、「御花畑御屋敷跡」(京都市上京区室町通鞍馬口下ル)となっています。

 なお同志社大学の土地は、明治維新の混乱のなかで薩摩藩邸跡地を購入した山本覚馬から寄贈された土地です。山本覚馬は元会津藩士で、幕末には会津班の公用方として活躍しました。その妹八重は、同志社大学の創始者新島襄と結婚しました。








●室町幕府跡(地図番号10)

 室町通と今出川通の交差点の北東角に室町第跡を示す石碑があります。室町時代という名称のもとになった「室町第」は現在の、烏丸通、今出川通、室町通、上立売通に囲まれたエリアにありました。室町第は幕府将軍の邸宅ですが、賀茂川から水を引き、多くの花々が植えられていたことから「花の御所」と呼ばれました。

 この碑は切断され上部5分の4だけが残っていました。それに戦後下部5分の1を新たに作って補いました。北面には本来建碑者として「京都市教育会」と記されていたのを「教」の下を補ったときに誤って「教育委員会」としてしまいました。




https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ka041.html


●上京区総合庁舎前道標(地図番号11)

 安政五年(1858)から今出川室町の東北角で百年間ほど立ち続けていたこの道標は、昭和30年代に当時の上京区役所前へ、さらに構内の駐車場へ移されました。今回、新庁舎の完成により表通りへ現れたのです。

 方角とともに「上かも」「天満宮」「東山」の目的地名が簡潔に彫り込まれ、京都における最も美しい道標の一つです。






●本阿弥光悦京屋敷跡(地図番号12)

 白峯神宮の北東にあります。私の「全寺社巡り」のとき見つけることができませんでしたが、マンション工事中だったためのようで、今はそのマンションの南西隅に建っています。

 光悦は徳川家康の命により、元和元年(1615)58歳で一族郎党とともに、鷹ヶ峯の地に移るまでの間、ここで過ごしました。








●細川勝元邸跡(地図番号13)

 小川児童公園内にあります。室町幕府における将軍に次ぐ役職である管領を代々務めた細川宗家の邸宅です。








●持明院仙洞御所跡(光照院門跡・常盤御所)(地図番号14)

 鎮守府将軍を務めた藤原基頼が邸内に「安楽光院」と呼ばれる持仏堂を創設し、後にこれを「持明院」と名付けたことから、この家系を「持明院家」と称するようになりました。

 鎌倉時代、持明院基家の娘陳子(後の北白川院)は守貞親王の妃になり、茂仁親王(後堀河天皇)を生みました。承久の乱後、後堀河天皇が即位して、父親の守貞親王には太上天皇の尊号がおくられ、後高倉院と称してここで院政を行いました。

 続いて後堀河天皇の即位後にもここを御所として院政を行いました。その後も後嵯峨天皇・後深草天皇が即位後御所に定められたことから、後深草天皇の系統を後に持明院統(北朝)と称し、大覚寺統(南朝)と皇位継承で争いました。

 持明院は、文和2年(1352)2月に焼失し、以降荒廃し、応仁の乱後に光照院が移転したと云います。この地に持明院殿の持仏堂安楽光院がたっていたため、一時は安楽光院とも称しました。

 開山以来、代々の皇女が法系を継ぎ、寛政元年(1789)に光格天皇が常盤御所の称号を与えました。代々の宮のお手植えの五葉の松が、書院の庭に繁ります。

 通常非公開ですが、平成22年に「京の冬の旅」、平成27年に「古文化」で特別公開されています。
















●妙泉院(地図番号15)

 妙顕寺の東にある塔頭寺院です。非公開寺院で入口は閉ざされていますが、門の格子の隙間から、尾形(緒方・小形)光琳の墓を見ることができます。このお墓は、複数回移築をされており、それに纏わる歴史が門前の石造説明板に書かれています。










●百々橋跡(地図番号16)

 1378年に足利義満がこの地に幕府(花の御所)を開いた室町時代、室町は政治・文化の中心地でした。「小川通寺の内」の東西の通りを古くから「百々の辻」と呼び、この辻を流れる小川(こかわ)に百々橋(どどばし)がかかっていました。橋の長さは四間一分(7.5メートル)、幅は二間二分(4メートル)。

 応仁の乱(1467年)5月、山名宗全と細川勝元の覇権争いから、対立する多くの守護大名が西軍と東軍に分かれて結集し、この橋を挟んで大きな合戦が行われました(応仁の乱)。

 小川は昭和38年頃から埋め立てられ、百々橋も解体されました。その橋材は一時室町小学校に保管されました。その後、橋脚を支える四基の礎石のうち、一基を現地に遺構として残し、一基は室町小学校で保管、残りの二基は他の橋材とともに洛西ニュータウンの竹林公園に移され、昭和55年に竹林公園内に復元されました。

 この百々橋跡は小川通と寺之内通の交差点にあり、ここから北に向かって上御霊前通までの小川通では、2012年から無電柱化、石畳化などの整備が行われ、このときに百々橋跡も整備されました。ですので、昔に比べると、ずいぶんキレイになっています。










無電柱化、石畳化された小川通



 小川通沿いを北上し、表千家「不審菴」裏千家「今日庵」を東に見ながら本法寺(地図番号17)の仁王門前に到着。この仁王門前の橋は小川が埋め立てられずに残っています。
 ここで一旦解散し、時間がある人だけで、あと少し街歩きを続けました。私は特に用事もないので、ついてきました。


●報恩寺(地図番号18)

 門前の橋は小川に掛かる橋で、埋め立てられて川はありませんが、この橋で当時の小川の幅を知ることができます。





 境内の「撞かずの鐘」は京都検定の公式テキストにも出てくる伝説ゆかりの鐘です。

 報恩寺のある西陣は機屋の町。昔、寺の近くの織屋に丁稚(でっち)と織子(おりこ)が奉公していた。この2人、何かというと口げんかをしていたという。

 そして、ある日のこと、寺の暮六つの鐘が「いくつ撞かれるか」というこで口げんかとなった。丁稚は八つだと言い張り、織子は九つだと言い張った。ただ、丁稚は織子が「九つ」だと言うので「八つ」と言い張っただけのことで、実際は「九つ」撞かれることを知っていた。

 そこで、丁稚は使いに出たついでに寺へ行き、寺男に暮六つの鐘を今日だけ「八つ」にしてくれるよう頼んだ。そして日没のときがきて報恩寺の鐘が鳴り出した。鐘は八つ鳴って終わった。

 翌朝、寺男が鐘を撞きに行くと、鐘楼に帯をかけて死んでいる織子を発見する。

 以後、報恩寺では朝夕の鐘は撞かれなくなり、除夜と大法要のときのみ撞かれるようになったのだという。





●山名宗全邸跡(地図番号19)

 室町八代将軍のとき、畠山・斯波両管領家の後継者争いをめぐる内紛と、義視と義尚の将軍後継問題がからんで、管領細川勝元と山名宗全とで対立抗争が起こります。勝元は室町殿(花の御所)に本陣を置き、宗全はその西にあった自邸に本陣を置き、それぞれ東軍と西軍と呼ばれました。

 応仁元年(1467)1月、東軍の畠山政長が自邸を焼いて上御霊神社に陣を移し、西軍の畠山義就と戦ったのを契機に戦闘は拡大、京の各地で戦いが展開されました。文明5年(1473)に宗全・勝元が相次いで病死した後も小競り合いが続きますが、1477年に西軍の大内政弘と畠山義就が京都から兵を引きあげて乱は終結しました。






 ここで最終解散となりました。予定通り12時頃に終わりました。約2時間の街歩きで、いずれも行ったことがあるところばかりですが、忘れていることや、初めて知ることも多く、また「応仁の乱」を軸として新たな視点で観ることができ、色々収穫のあった研修となりました。雨が途中でパラパラ降りましたが、本降りにならずに助かりました。準備・案内いただいた方に感謝です。

 お昼時間でしたので、同期の参加者の方々と「鳥岩楼」というお店に行きました。→こちら


(守秘義務再考版。原文の削除箇所は非公開日記に移動済み。)

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最終更新日  2019/08/25 10:24:56 PM
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2018/01/30
テーマ:京都。(5704)
カテゴリ:研修会
2018年1月30日(火)】

 今日は研修があり出席しました。

 「幕末政治と新選組」というお題で、京都女子大学非常勤講師 中村武生先生にお話しいただきました。前々回8月22日の「第1回 薩長同盟」こちら)、前回12月24日の「第2回 大政奉還」こちら)に次ぐ3回目です。今回でこのシリーズ最終回です。

 今日はこの研修会が終わった後、午後にガイド会同期の茶話会で、津軽三味線を弾くことになっているので、その会をアレンジしてくださっているガイド同期仲間の方のマンションに寄って、三味線を預け、ハートピアに向かいました。

 より具体的なお題は「幕末政治と新選組~土方歳三からみてみる」






 さて、まとまりがなく申し訳ないですが。印象に残ったお話の羅列です。いつもの中村節でした。

「禁門の変」という言葉は御所の蛤御門が戦いの中心であったような誤解を招く。伏見深草が戦場になり、天王山、神戸まで戦域になっている。だから「禁門の変」という言葉は使いたくない。

・西本願寺の侍臣・西村兼文は、西本願寺が屯所であったころの新選組を見ている。その兼文が昭和3年に「新撰組顛末記」を書いた。その中で「元治甲子戦争」と呼んでいる。この言葉を使いたい。下母沢寛が後に「新選組顛末記」を書いた。こちらは「撰」ではなく「選」。

「尊王攘夷」「公武合体」は対立するものだと一般には理解されているがそうではない。当時誰もが「尊王」であった。新選組も「尊王」だった。天皇のもと徳川幕府があり、そこに仕えていただけのこと。「公武合体」も、考え方としては誰も反対するものはいなかった。「尊王攘夷」と「公武合体」は対立するものではない。「尊王攘夷」の「攘夷」とは、外国と戦争をすることではない。外国から国を守ること。国防である。

・幕府と朝廷は対立するものではなかった。安政の大獄で、朝廷が幕府を信用しなくなった。
。家茂将軍上洛は文久3年(1863)3月4日。4月20日に朝廷は幕府に攘夷を約束させる。その期限は5月10日。何も外国を5月10日までに攻めろというのではない。通商条約破棄を通告する期限というだけ。

・そのとき長州は下関で、アメリカ商船(軍艦ではない)を宣戦布告なしで攻撃。対岸の小倉の小笠原藩は助けなかった。禁裏は「長州ようやった」と言い、小笠原藩を「何故助けなかったのか?」と非難した。幕府は小笠原藩の行動は正しいと評価。

・この状態を「政令二途」といい、これはよくないとのことで「公武合体」が進められた。

・新選組は「京都の治安維持」が目的といわれるが、それだけではない。長州征討だって参加する可能性もあったし、外国と大阪湾で戦争が始まれば戦った。壬生寺の迷惑な訓練は長州征討のための訓練。

・対立事項は諸大名が攘夷するか、徳川幕府が攘夷するかということ

池田屋事件が禁門の変のきっかけになったのではない。すでに毛利家の若殿は京都への出兵を決めていた。池田屋事件は正当性を主張するため、後付けで付け足した。池田屋事件は会津が長州に戦いを始めた日

奈良本辰也氏は、新選組を「歴史のあだ花」「時代の奔流とは何の関係もない」と言った。1969年 大学紛争に際し立命館大学教授を辞任。高野澄氏は奈良本氏との共著が多い。

吉田栄次郎氏は、新選組を「研究の深化には寄与しない」「歴史的に何の意味もない」と評した。

・このような評価から新選組の研究が行われてこなかった。過去、平尾道雄氏が昭和3年に書いた「新撰組史」という素晴らしい本があったが、同じ昭和3年に子母澤寛が出した『新選組始末記』のほうが売れてしまった。

家近良樹氏は松平容保・会津研究をされた功労者。

・2004年大河ドラマ化で本がたくさん出た。松浦玲氏「新選組」、宮地正人氏「歴史のなかの新選組」、鶴巻孝雄氏の著書などが注目すべき本。
(松浦玲氏は、京都大学在学中の1953年(昭和28年)、全学連主催の学園復興会議の京大での開催に奔走した。しかしその過程で起こった荒神橋事件などの混乱の責任者とされ、大学当局による放学処分を受けて中退。)

・新選組の研究が少ないのは資料がないことも要因。剣客としか看做さない風潮があるが、そうではない。

近藤勇の再評価は進んだが、土方歳三は本格的に論じられたことがない。司馬遼太郎著「新選組血風録」「燃えよ剣」のイメージしかない。

・鶴巻氏は近藤勇の書翰29、建白書17が残っているという。これに対し土方や沖田総司は長い手紙を書かない。近藤の書翰にゆだねてしまうから。しかし、沖田はともかく、土方はけっこう書翰を残している。菊地明氏の「土方歳三・沖田総司全書簡集」には、土方の書簡は28通掲載されている。

・この書翰では、近藤ではなく土方が「報国有志」だと言っていることが注目に値する。自らを攘夷有志だといっている。

・土方の書翰は、元治元年10月ごろの書翰から政治的発言が増える。近藤が京を離れているタイミングである。「砲術の訓練はすべて西洋の大砲に替えた。」「長州攻めの先鋒を任されるかもと恐悦しています。」など。

・西本願寺に屯所を移した後の佐藤彦五郎宛ての書翰では、攘夷が進まないことへの憂慮が書かれている。老中本荘宗秀阿部正外が上洛し、孝明天皇支持のもと、在京して政局を牛耳ってういた「一会桑」(京都守衛総督一橋慶喜、会津侯京都守護職松平容保、桑名侯京都所司代松平定敬)を江戸に召喚し、その勢力を解体して京都を都合よく扱おうとした。天皇の意思に対して、攘夷を実行しない江戸の閣老たちの姿勢を批判し、「尽忠報国」の四字を守り、天皇に「忠勤」をいたすべきだと言っている。前述の松浦氏は報国の「国」は徳川家だとの解釈だが、「日本国」だと考えるべき。天皇側の人間として語っている。

・土方は「もし近藤がいなくなったら」と考えたのではないか。近藤は江戸の道場主でいつまでもい留守にできない。土方は四男で失うものはなく、新選組局長を引き継ぐということも意識していたのではないか。



 面白く聴かせていただきました。我々ガイドを対象にした非常に専門的なお話でしたが、ガイド業をする中、八木邸や二条城のガイドなどで幕末史を勉強してきたので、ストンと腑に落ちました。

 こうやって振り返って書くと、話全体がまとまりとして理解できるし、分かったつもりのところが分かってなくて、もう一度調べ直すことで、理科が深まるということもあります。面倒ですが、これからも私自身のために書いていこうと思います。


 研修終了後、昼食をとり、同期の茶話会に向かいました。→こちら


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最終更新日  2019/08/25 10:24:24 PM
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2017/12/14
テーマ:京都。(5704)
カテゴリ:研修会
2017年12月14日(木)】

 今日はガイド会の全体研修の今年度第2回があり出席しました。

 「ここまでわかった幕末 第2回 大政奉還」というお題で、京都女子大学非常勤講師 中村武生先生にお話しいただきました。前回8月22日の「第1回 薩長同盟」(こちら)に次ぐ2回目です。

 9時30分から開始の予定でしたが、あるトラブルがあって、約30分遅れでのスタートになりました。その30分をある先輩が、大政奉還のテーマで色々お話をして繋がれました。この方といい、先日の、後水尾天皇・東福門院のお話を、急きょピンチヒッターで話された先輩といい、すごい先輩がたくさんいらっしゃいます。


 さて、お話の要点です。

 
●誤解されてきた「大政奉還」

 坂本龍馬が土佐参政の後藤象二郎に。後藤から老公山内容堂に。さらに将軍徳川慶喜に。これは龍馬の驚天動地の無血革命論として評価されることが多い。しかし、実は司馬遼太郎先生の「龍馬が行く」の小説上のお話。実際は、先立つ5年前、徳川の役人大久保忠寛(一翁)の発案による。
・大久保忠寛が、政事総裁職(事実上の大老)の松平春嶽勝海舟に大政奉還を働きかける。
 「攘夷の勅諭を受けてはダメです。過去朝廷から重大な件の沙汰ある時はいつも『後々は何とかなるので、一応は請けよ』と内々にお達しがあったが、口頭なので、後日に困っても何の証拠にもなりません。」 「今度はどこまでも攘夷は国家のためには得策ではないと進言し、それでも朝廷がお聞き入れならず、攘夷を断行すべきと仰れば、政権を朝廷に奉還し、徳川家は神祖の旧領、駿遠三の三州を請い受けて単なる一諸侯に降りるべきです。政権を奉還すれば、世の中がどうなるか分からないが、徳川家の美名は千歳に伝わります。攘夷をして、見識のない失敗をし笑いの種になるよりは、よほどの得策です。」

 勝海舟のもとでその使いをしていたのが龍馬。だから龍馬は大政奉還のアイデアは知りえた。しかし徳川慶喜も山内容堂も大政奉還のアイデアはすでに知っていた。ただ現実化しなかった。それどころか、松平春嶽はその後もたびたび将軍家茂や後継者慶喜に訴えつづけたが、無視された。龍馬の意義といえば、タイムリーなときに再発言したことに過ぎない。決して龍馬主導の驚天動地に無血革命ではない。


●具体的な大政奉還への過程

・慶応3年10月3日、山内容堂が将軍慶喜へ上書
・同年10月11日、慶喜が在京の諸侯重役に、13日の二条登城を命ず。
・12日、慶喜が二条城黒書院で、守護職、所司代、大目付、目付、禁裏付、町奉行などの
 公辺役に大政奉還の意志を伝える。
・13日、紀州・尾張・加賀・阿波・仙台・薩摩・土佐・安芸・備前・宇和島など50人ほどが集合。
 大目付戸川伊豆守安愛が諸侯宛の書付を渡す。重役らにもみせる。
・老中板倉勝静が将軍に何か申し述べる希望者がいないか問う。
 薩摩家老小松帯刀、土佐参政後藤象二郎・福岡藤次、安芸家老辻将曹、備前牧野権六郎、
 宇和島都築荘蔵
が希望
・いったん控室に下がる。あらためて6人以外が大広間に。
 主君宛の書付が渡され、上洛が命じられる。
・6人大広間へ。将軍慶喜の謁見。小松がそばの板倉にすみやかな朝廷への奏聞を力説。
・小松・福岡ら摂政二条斉敬を訪ね、すみやかな上表の受理をするよう要求。
・小松「王政復古の義、十分に相立ち、実に意外の事」
・福岡「土州抔にても意表に出、驚愕」
・翌14日、慶喜が二条摂政へ大政奉還建白を差し出す。15日慶喜参内、受理。


●「二条城で大政奉還」の虚構

・「奉還」は書類が二条摂政へ渡った時点。二条城ではない。
 受理が「奉還」としても、場所は禁裏御所(小御所)。二条城ではない。
・ニノ丸大広間の人形陳列/二条城が発行している案内紙の説明/
 聖徳記念館の村田丹陵筆の絵なども誤解を招いている原因の一つ。


村田丹陵の大政奉還の絵。
これは黒書院。従って12日の将軍が幕臣に大政奉還の意志を伝えている場面





ところが上の図と同じような場面の人形展示しているのは大広間。
そして以前は大政奉還の場面として説明されていました。

以前の二条城パンフレットから

 これが、「大広間にて将軍から直接諸藩重臣に大政奉還が伝えられた」との誤解を招く原因になりました。慶喜は、大広間で直接諸藩重役には会っていないし、大政奉還はこの場で成立していません。あくまで大政奉還の意志を伝えただけです。

 村田丹陵の絵は、明治神宮の依頼によるもので、聖徳記念絵画館(せいとくきねんかいがかん)に収められた幕末から明治時代までの明治天皇の生涯の事績を描いた絵群の一つです。丹陵は当初、13日の将軍が大広間で小松らに謁見している場面を描き完成させる予定だったようで、下記のような下書き残っています。ところが、徳川慶光公爵と旧幕家臣団から新政府側の人物ではなく、幕府の人物を描くよう変更を求められ、明治神宮においても了解が得られたため、上記の現在の画になったといいます。






 ここまでのところは、この9月の二条城ガイドの準備で勉強してきたところですが、曖昧なところも多かったので、今回頭の中がしっかり整理されてよかったです。


 その後、「家康が征夷大将軍に任じられた場所は二条城」は間違い、「二代秀志の将軍宣下は、この二条城で行われた」は間違い、正確な「二条城ものがたり」の構築が必要などのお話が続きましたが、これらの部分は私も頭の中が整理できていたので、特に新規に知ったことはなかったです。


 今回にしても前回にしても、相当の予備知識を持っている観光ガイドが対象ということで、いつも話す内容より濃くして、レジメもパワポ資料も一から作っていただいての熱弁で、とても参考になったし、面白かったです。


 最終回(第3回)は新選組をテーマにしたお話です。


 21日の「光雲寺」の参考資料をコピーしていただくために事務所に寄って、京都駅のポルタで修学旅行昼食処の下見を兼ねて昼食をとりました。→こちら


 その後、年賀状の写真に使う、寺社などの門の写真撮影で京都を回りました(こちら)。


(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)

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最終更新日  2019/08/25 10:23:48 PM
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2017/12/07
テーマ:京都。(5704)
カテゴリ:研修会
2017年12月7日(木)】

 今日はガイド会地区組の研修会でした。

 当ガイド会担当の某講座のうち、当エリア会が担当する講座の前半部分の座学とフィールドワークの予行を兼ねた内容でした。

 午前中の座学のテーマが「後水尾天皇と東福門院」、午後がそのゆかりの寺院である光雲寺の見学でした。

 座学の講師は、急きょ予定以外の他の方が講師を務められました。昨日依頼されて、自分で作ったものではない資料での講義だったのですが、しっかりと講義されたのはさすがです。

 この9月1日に二条城での詳細なガイドを担当し、後水尾天皇や東福門院のことはある程度勉強したので結構知識はありましたが、今回の講義で新たな色んなことを知ることができました。猪熊事件、奈良時代以来の女帝明正天皇誕生の理由、豊臣秀頼の寺社諸堂建築・修復は徳川家康が豊臣家の財力を低下させるためだと思っていたが秀頼にはそれなりのメリットがあったことなどなど。

 午後は午前の講義と関連して、東福門院の菩提寺「光雲寺」を見学させていただきました。南禅寺の境外塔頭で、もとは摂津国天王寺にあった寺院で、開山は南禅寺開山大明(だいみん)国師(無関普門禅師)。通常非公開で、以前特別公開があったとき、我がガイド会が担当したようです。


光雲寺のロケーション

パンフレットから


光雲寺






仏殿




 ご住職自ら長時間にわたって説明してくださいました。仏殿では須弥壇の上まで上がらせていただいて、東北門院から贈られた御本尊「釈迦如来坐像」、脇侍「迦葉(かそう)尊者」(釈迦十大弟子の一人。執着がなく、頭陀(ずだ)第一とされた。阿難尊者は修復中)、厨子内に納められた「聖観音菩薩坐像」(東福門院の念持仏で伝・運慶作)、「木造東福門院坐像」(東福門院没直後に造られたもの)、「金銅仏舎利塔」(東福門院ゆかりで、菊と葵の紋が刻まれている)などを拝見することができました。

本尊 釈迦如来坐像。脇侍 迦葉尊者像、阿難尊者像

パンフレットから

聖観音菩薩坐像

パンフレットから


木造東福門院坐像

パンフレットから



 その他、須弥壇左では「大明国師像」、中興の祖「英中玄賢禅師像」などを拝見することができました。

 また、「東福門院自筆過去帳」東福門院の遺髪も見せていただきました。

 その後、第7代小川治兵衛による池泉式庭園、加藤清正公が朝鮮出兵の際に招来した瑪瑙の手水鉢(東福門院寄進)などを見学させていただきました。おまけに立派なガイドブックも全員にいただきました。ありがたいことです。


庭園

パンフレットから



パンフレットから


瑪瑙の手水鉢



いただいたガイドブック




 最後にお寺を出て、裏の哲学の道に上がり、後水尾天皇第四皇女・顕子内親王(女三宮)のお墓を俯瞰しました。




 21日には本番の講座があり、この光雲寺でお手伝いをすることになっているので、しっかりと務めさせていただきます。


 もともとはもっと早く終わるだろうと予測し、中央図書館または歴彩館に寄る予定でしたが、ご住職が一生懸命時間をかけて説明してくだいましたので、その時間はなくなり直接帰宅しました。


 今日は次女が定期的な健診で、家内が三菱病院に連れて行ってくれました。順調で予定通り26日付近の出産のようです。

 
(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)

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最終更新日  2019/08/25 10:23:18 PM
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2017/10/30
テーマ:京都。(5704)
カテゴリ:研修会
2017年10月30日(月)】

 今日の夕刻は花山天文台の観望会に参加しました。

 今年の「京の夏の旅」で花山天文台が観光資源として一般公開されましたが、そのとき我がガイド会が案内や受付を担当させていただきました。私は担当ではなかったですが、見学には行かせていただきました(こちら)。

 このような経緯から、我々ガイド会のメンバーを対象に観望会を開いていただくことになった次第です。公の交通機関がありません(通常の観望会では送迎バスが出る)ので、メンバーの車に分乗して花山天文台に集合でした。

 まず台長の柴田一成教授から『明月記と超新星』のお話を聞かせていただきました。

 「明月記」は鎌倉時代の公家である藤原定家の日記。定家自筆原本の大部分は冷泉家時雨亭文庫に残り、国宝に指定されています。

 日記には、定家自身が遭遇したものや過去の観測記録など、さまざまな天体現象についての記録も残されています。当時、見慣れぬ天体現象(天変)は不吉の前兆であると考えられており、人々の関心事だったからです。定家の出生以前の出来事も、陰陽師によって報告された過去の記録として記されています。

 かに星雲は超新星爆発の残骸です。爆発の際にはものすごく明るい発光が見えたと思われます。中国には1054年にこのかに星雲の方向で明るい星が出現したとの記録がありますが、他に確たる記録がないため、これがかに星雲のものという同定ができずにいました。そこに、アマチュア天文家の射場保昭が、「明月記」のこれら記述を英文で1934年から1939年にかけ、影響力のある雑誌『ポピュラー・アストロノミー』に掲載し、このことが超新星爆発が1054年に発生したと特定できるきっかけとなりました。

 
【原文】
後冷泉院 天喜二年 四月中旬以降 丑時 客星觜参度 見東方 孛天関星 大如歳星

【原文読み下し】
後冷泉院・天喜二年四月中旬以後の丑の時、客星觜・参の度に出づ。
東方に見(あら)わる。天関星に孛(はい)す。大きさ歳星の如し。


 グリニッジ天文台の歴史の展示コーナーにおいて、「1054年、中国と日本の天文学者がおうし座に新たに光る星を観測。この残骸が現在のかに星雲と同定される」と記述されているくらい重要なイベントと認められています。

 竹本修三(京都大学名誉教授)が、明月記の超新星爆発を英文報告をしたのが的場氏であるということを柴田台長から聞いて、それをインターネットで紹介したところ、2012年に射場氏の遺族が名乗り出たことなどから、それまで謎に包まれていたその人物像が再び明らかにされたというエピソードも紹介していただきました。

 この的場氏は花山天文台の初代台長山本一清に師事したとのことで、花山天文台のアマチュア天文家育成がなかったら、この重要な発見もなかったであろうとのことでした。


 その後、45センチ屈折式望遠鏡で月の表面を交代で見せていただきました。昼間は曇っていたのですが、我々が望遠鏡で見る時間になって、月の方向に晴れ間が出現したのです。まさにラッキーとしか言いようがありません。

 月全体を見る望遠鏡と、一部を拡大して見る望遠鏡2つで見せていただきました。今日は半月に近い月で、後者の望遠鏡では、影と日なたの境目の海とクレータ・山脈などがはっきりと観ることができました。





開口部に月が見えます。





 台長の明月記とアマチュア天文学者のお話、望遠鏡での月表面の観察、感動の一日でした。


 台長や操作案内していただいた係の方に礼を申し上げ、花山天文台をあとにしました。

 
 同じ車に乗り合わせた仲間の皆さんと、反省会と称して、三条河原町で夕食兼飲み会となりました(こちら)。


(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)

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最終更新日  2019/06/11 06:17:57 AM
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2017/08/22
テーマ:京都。(5704)
カテゴリ:研修会
2017年8月22日(火)】

 次女は8月17日に東京から来ましたが、今朝、家内が最寄りの駅まで送って行って東京に戻りました。今日は東京に帰って仕事だとのこと。次は、里帰り出産で11月下旬ごろ来ることになると思います。

 長女は出産10日目の検診でした。赤ちゃんの体重は順調に増えていて、母子ともに健康です。

 私は、今日は色々と忙しかった一日でした。

 1)9:30~11:30 研修会(後で説明)。

 2)鴨川縁で三味線練習(こちら)。

 3)昼食を兼ね、四条河原町近辺の修学旅行食事処を一軒見学(こちら)。

 4)「歴彩館」で、伏見稲荷大社関連の図書を閲覧(こちら)。

 5)17:00~三味線レッスン(こちら)。


 ここでは(1)の研修について書きます。

 「ここまでわかった幕末」シリーズとして、京都女子大非常勤講師の中村武生先生に3回お話をいただきます。今日はその1回目「薩長同盟」でした。


http://tempo.knt.co.jp/shop_search/1324/seminar/hakodate.html


 要約です。

 「薩長同盟」成立過程をについて、それを知り得る当事者による資料は2つしかない。いずれも木戸孝允の手によるもので、一つは晩年に記した回想。もう一つは、同盟の6ヵ条を記した、坂本龍馬宛書簡。これらの資料により、坂本龍馬が薩長同盟成立に大きく関わり、薩長同盟は「断乎幕府と決戦」を意識したものであると信じられている。

 しかし、青山忠正氏は、木戸自自叙の内容に疑義を呈した。「薩長同盟」の主たる狙いは「決戦」ではなく、「戦争回避」であると。

 また宮地正人氏は、「市岡家文書」から、一会桑(一橋・会津・桑名)勢力はおろか、幕府軍との抗戦や天皇奪取まで計画されていたとする。

 三宅紹宣氏は、「同盟」の日の特定を試みた。1月18日、20日、21日、22日の4説あるが、詳細検討され、1月21日とした。

 本年、町田明広氏は、「同盟」研究の常識をいくつも覆す説を唱えた。一例をあげると、「同盟」は坂本到来以前に決着していたというもの。すなわち、坂本は薩長同盟成立にそれほど寄与していないというもの。


 「薩長同盟」という言葉は知っていても、内容は知りませんでした。今回の研修でかなり突っ込んで知ることができたし、まだまだ分からないところが多くあるということもよく分かりました。

 熱く語っていただいた2時間。価値のある研修でした。


(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)

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最終更新日  2019/08/25 10:22:38 PM
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2017/03/27
テーマ:京都。(5704)
カテゴリ:研修会
2017年3月27日(月)】

 今日は、ガイド会のエリア研修会に参加しました。

 去年8月の入会後、エリア研修会は他のエリアグループ主催分も含め、研修には何度か参加してきました。

 今日は、他エリア主催の「もう一つの150年 新選組の4大事件の2つを訪ねて」というお題での、現地訪問をしながらの研修でした。案内役は、先輩の某さん。


 新選組4大事件というのがあり、それは

 1.1864年6月5日 池田屋事件
 2.1866年9月12日 三条制札事件
 3.1867年11月18日 ​油小路の変(決闘)​
 4.1867年12月7日 ​天満屋事件​

 です。このうち3番、4番のゆかりの地を中心に巡るという企画です。

 午前10時に、京都駅ビックカメラ西隣の東小路公園からスタートしました。

 まず、ハトヤ瑞鳳閣というホテルへ。

 ここは新選組3つめの屯所となった「新選組洛中屋敷」があったところで、碑が建っています。









 新選組発足からのおおまかな歴史は

 1863年(文久3年)2月、200名余の浪士たちが「浪士組」として一団を結成し将軍に先がけて上洛
        同3月、壬生村八木邸前川邸などを屯所として新選組の前身である
        「壬生浪士組」を結成
        同年8月、いわゆる「八月十八日の政変」の警備で活躍し「新選組」の隊名を拝命
 1864年(元治元年)、「池田屋事件」および「禁門の変」に参加し活躍
 1865年(慶応元年)、西本願寺(太鼓楼他)に屯所を移転
 1867年(慶応3年)6月15日、屯所を西本願寺から不動堂村に移転

 不動堂村に屯所を移したのは、組織内の抗争や血の粛清など、騒ぎの静まる暇もない新選組に、本願寺側が不満を抱いていたことが背景にあったようです。建築費、諸経費は西本願寺が負担しました。

 しかし、その不動堂村にも半年しかおらず、伏見奉行所に移動し、鳥羽伏見の戦に参戦することになります。


 続いてリーガロイヤルホテルへ。ここにも屯所跡の碑「不動堂村屯所跡碑」があります。







 続いて、塩小路通を渡り、油小路木津屋橋を上がったところにある、本光寺へ。

 「油小路の変」で、伊東甲子太郎が絶命した場所です。

 以前、「京都全寺社巡り」で訪れたことがありますが、そのときは先代のご住職の体調の関係で門が閉まっていて、後述の碑は見ることができませんでしたが、近所の床屋さんのご主人が色々教えてくださいました。





 その後、今の庵主さんが継がれました。今日は、その庵主さんから、お話をいただきました。ご朱印もいただきました。


 「油小路の変」の経緯です。

 伊東甲子太郎は、その尊王攘夷思想から彼を含め14人を引き連れ新選組を脱退します。14人は「孝明天皇御陵衛士」を任命され、高台寺月真院に移ります。これにより高台寺党と呼ばれました。

 近藤勇土方歳三らは、高台寺党壊滅に動き、まず伊東の暗殺を企てます。慶応3年(1867)11月18日、近藤らは、伊東を近藤の妾宅に呼びます。一席が設けられ、伊東は酒が進んだ後、午後10寺頃、用意された駕籠を断って木津屋橋通を東に向かって歩きます。そこで切りつけられ、本光寺の門前で絶命しました。享年32歳。そして、遺体を収容に来た御陵衛士のうち、藤堂平助を含め3名が切り殺されました。





伊東甲子太郎がよりかかって絶命したといわれる門派石
 門の中にあります。甲子太郎が暗殺されとのは夜中なので、お寺の門は閉まっていたので、
 門の中のこの石のところで絶命したというのはおかしいように思いますが、当時はお寺の
 前の道路が広くて、門はもっと東にあり、この石は門の外にあったとのこと。





門の前には「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」の石碑が建ちます。





 油小路通を北上します。油小路花屋敷下ルに「中井庄五郎殉難之地碑」があります。この場所にあった旅籠・天満屋で後に「天満屋騒動」と呼ばれる事件が起き、中井庄五郎が亡くなったことを示す碑です。





「天満屋騒動」とは

 紀州藩士である陸奥宗光は、勝海舟神戸海軍操練所に入り、慶応3年(1867年)には坂本龍馬海援隊(前身は亀山社中)に加わるなど、終始坂本と行動をともにしました。慶応3年11月15日の龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、慶応3年海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃しました。襲撃側は十津川藩士・中井庄五郎が死亡、2、3名が負傷しました。


 堀川通に出て西本願寺に向かいます。

 池田屋事件に続いて禁門の変が起こり、幕府にとって長州が討伐対象になると、増員で手狭となった新選組の壬生村の屯所を親長州派の西本願寺に移転させました。これは、西本願寺と長州系志士たちのつながりを絶つことを狙いとしたものといわれます。

 西本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山。戦国時代、本願寺は織田信長と長期抗争状態(石山合戦)にありましたが、その間毛利家は本願寺に兵糧を運び込んで助けました。そうした縁があり、幕末期にあっても本願寺は長州藩・長州系志士を支援していました。

 大所帯となった新選組は西本願寺の北集会所太鼓楼を屯所としました。僧侶や信徒たちの迷惑も顧みず武芸の稽古や砲撃訓練などを繰り返しました。仏教で忌まれている肉食も境内で大っぴらに行われたといいます。傍若無人なふるまいを続ける新選組は、寺側にとってはまったく招かれざる客だったでしょう。ついに本願寺は、新選組のために新たな屯所を建設する費用をもつという条件で退去を要請し、新選組は慶応3年(1867年)6月に西本願寺からほど近い不動堂村に建てられた新たな屯所(前述の不動堂村屯所)に移転していきました。


西本願寺 太鼓楼



 西に向かい、大宮通のさらに西の櫛笥通を北上します。万寿寺櫛笥通を北に上がった西側に末慶寺があります。この辺りは、お寺が集まって建っています。

 末慶寺には新選組とは関係ありませんが、裂女と呼ばれた畠山勇子の墓があります。

 畠山勇子は元治(げんじ)2年1月2日生まれ。安房(あわ)(千葉県)出身。離婚して上京し、魚問屋ではたらきました。明治24年ロシア皇太子大津市で襲撃された大津事件をきき国の将来をうれえ、5月20日京都府庁の門前で自殺し、27歳で亡くなりました。








 続いて、大宮通綾小路を西に入ったところにある光縁寺に向かいました。

 光縁寺には、新選組山南敬助の墓があります。




 光縁寺の門前近くには新選組の馬小屋がありました。山南家の家紋と光縁寺の鬼瓦の紋がが同じだった事もあり、当時の住職・良誉上人と山南敬助の間に親交が生まれました。そして、山南の紹介で、屯所で切腹した隊士たちが良誉上人によって弔われ埋葬されました。山南もその3人目になり、その後も多くの隊士関係者が葬られました。埋葬は壬生村の共同墓地にされましたが、明治新政府軍によって暴かれ、伊東甲子太郎はじめ御陵衛士新撰組隊士たちが亡くな一派は、東山にある泉涌寺塔頭の戒光寺に改葬されました。山南敬助他の志士たちは、この光縁寺に改葬されました。ここには沖田総司の縁者といわれる方のお墓もあります。






 ご住職は、我がガイド会のある方が高校の同窓でもあり、我々を本堂に集めてお話もいただきました。

 庭には仏手柑の実が生っていました。






 この研修で、新選組のことをより深く知ることができました。八木邸のガイドはあと1回なので、今回のガイドに活かせなかったのは残念です。


 終了後、参加していた同期の方々と四条大宮の王将(王将発祥の地)で、餃子とビールで反省懇親会でした。
 

(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)

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最終更新日  2019/08/25 10:22:05 PM
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2017/03/23
テーマ:京都。(5704)
カテゴリ:研修会
2017年3月23日(月)】

 ガイド会のエリア研修会で、京都迎賓館の見学でした。

 事前予約ありの団体が入場できる時間帯と、事前予約ありの個人が入場できる時間帯が別になっています。予約がなくても、当日10時から整理券が配布されるので、当日入場が可能です。水曜日は休館日です。時期によってはガイド付きのツアーもあるようですが、この期間は自由観覧方式でした。

 去年のGWに京都迎賓館の試験公開(入場無料)があり、家内と行ってみたことがありますが、すごい人出で、整理券が早いタイミングで無くなってしまい、入れず仕舞いでした(こちら)。その後、有料での一般公開が去年7月に始まり、行こう行こうと思っていたのですが、結局行けず仕舞い。私はこの日が初見学となりました。


 堺町御門を入ったところの鷹司邸跡「黒木の梅」がきれいでした。







入場券



概要










 門を入って、地下の駐車場に降ります。賓客があるときは、玄関で降ろした後、車はこの地下駐車場に止めることになるようですが、見学時には見学者の入り口になります。空港のような探知機による荷物チェックがあり、ある大きさ以上の荷物はコインロッカーに預けます(お金はあとで戻ってきます)。見学場所に入ると、見学者が使えるトイレはありませんので、ここでトイレは済ませておく必要があります。

 再び地上に上がり、正面玄関両側の靴箱に履物を入れて、靴箱のスリッパで中に入ります。賓客があるときは、この靴箱は撤去されるのだと思います。



●正面玄関











●聚楽の間






伊砂利彦氏 型絵染 「さくら」




●夕映えの間




日本画家の箱崎睦昌(はこざきむつまさ)氏の下絵を基に綴織り技法を用いて製作された織物

東側:比叡月映(ひえいげつえい)




西側:愛宕有照(あたごゆうしょう)




●藤の間




日本画家の鹿見喜陌(しかみきよみち)氏の下絵を基に綴織り技法を用いて製作された織物






39種の花が描かれていることを示すパネル




人間国宝の故・江里佐代子氏作の截金(きりがね)細工による舞台扉装飾
「響流光韻(こうるこういん)」






食器類 銀メッキ食器:ノリタケ  洋食器:大倉陶苑  グラス:HOYA




●和厨房




●桐の間





全長12メートル、漆の一枚仕上げの座卓
 座椅子の背面の蒔絵は「五七の桐」。明治時代から日本国政府の紋章。
 京都迎賓館の紋章でもある。
 蒔絵作者はサービス台のも含めて、下出祐太郎氏。






◆床の間などの飾り 
  林駒夫作 「熨斗(のし)飾り」
  西陣工業組合 西陣織「源氏物語」
  浅野美芳(びほう)作 金工「桐の舟(吊り舟)」
  大田佳男作 奈良人形「立雛」







●庭園
















 まさに一級品揃いで、見ごたえがありました。


 見学後、午後から時間のある同期で、よく行くハートピア近くの「おおたや」さんで昼食しながら、ワイワイガヤガヤ。しかし、ガイド会の会議があったのでしょう、先輩方のグループも昼食中でした。先輩方の噂話もするので、「わざわざ、ここで昼食することもないなぁ。」と一つ賢くなりました。


 午後から、京都歩きをする予定でしたが、昼食が終わったら午後2時頃だったので、真っすぐ家に帰りかけましたが、思い直して東山区へ向かいました。歩きの様子はこちら


(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)
 
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最終更新日  2019/08/25 10:21:33 PM
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