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ワルディーの京都案内

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研修会

2017/12/14
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テーマ:京都。(5412)
カテゴリ:研修会
2017年12月14日(木)】

 今日はガイド会の全体研修の今年度第2回があり出席しました。

 「ここまでわかった幕末 第2回 大政奉還」というお題で、京都女子大学非常勤講師 中村武生先生にお話しいただきました。前回8月22日の「第1回 薩長同盟」(こちら)に次ぐ2回目です。

 9時30分から開始の予定でしたが、あるトラブルがあって、約30分遅れでのスタートになりました。その30分をある先輩が、大政奉還のテーマで色々お話をして繋がれました。この方といい、先日の、後水尾天皇・東福門院のお話を、急きょピンチヒッターで話された先輩といい、すごい先輩がたくさんいらっしゃいます。


 さて、お話の要点です。

 
●誤解されてきた「大政奉還」

 坂本龍馬が土佐参政の後藤象二郎に。後藤から老公山内容堂に。さらに将軍徳川慶喜に。これは龍馬の驚天動地の無血革命論として評価されることが多い。しかし、実は司馬遼太郎先生の「龍馬が行く」の小説上のお話。実際は、先立つ5年前、徳川の役人大久保忠寛(一翁)の発案による。
・大久保忠寛が、政事総裁職(事実上の大老)の松平春嶽勝海舟に大政奉還を働きかける。
 「攘夷の勅諭を受けてはダメです。過去朝廷から重大な件の沙汰ある時はいつも『後々は何とかなるので、一応は請けよ』と内々にお達しがあったが、口頭なので、後日に困っても何の証拠にもなりません。」 「今度はどこまでも攘夷は国家のためには得策ではないと進言し、それでも朝廷がお聞き入れならず、攘夷を断行すべきと仰れば、政権を朝廷に奉還し、徳川家は神祖の旧領、駿遠三の三州を請い受けて単なる一諸侯に降りるべきです。政権を奉還すれば、世の中がどうなるか分からないが、徳川家の美名は千歳に伝わります。攘夷をして、見識のない失敗をし笑いの種になるよりは、よほどの得策です。」

 勝海舟のもとでその使いをしていたのが龍馬。だから龍馬は大政奉還のアイデアは知りえた。しかし徳川慶喜も山内容堂も大政奉還のアイデアはすでに知っていた。ただ現実化しなかった。それどころか、松平春嶽はその後もたびたび将軍家茂や後継者慶喜に訴えつづけたが、無視された。龍馬の意義といえば、タイムリーなときに再発言したことに過ぎない。決して龍馬主導の驚天動地に無血革命ではない。


●具体的な大政奉還への過程

・慶応3年10月3日、山内容堂が将軍慶喜へ上書
・同年10月11日、慶喜が在京の諸侯重役に、13日の二条登城を命ず。
・12日、慶喜が二条城黒書院で、守護職、所司代、大目付、目付、禁裏付、町奉行などの
 公辺役に大政奉還の意志を伝える。
・13日、紀州・尾張・加賀・阿波・仙台・薩摩・土佐・安芸・備前・宇和島など50人ほどが集合。
 大目付戸川伊豆守安愛が諸侯宛の書付を渡す。重役らにもみせる。
・老中板倉勝静が将軍に何か申し述べる希望者がいないか問う。
 薩摩家老小松帯刀、土佐参政後藤象二郎・福岡藤次、安芸家老辻将曹、備前牧野権六郎、
 宇和島都築荘蔵
が希望
・いったん控室に下がる。あらためて6人以外が大広間に。
 主君宛の書付が渡され、上洛が命じられる。
・6人大広間へ。将軍慶喜の謁見。小松がそばの板倉にすみやかな朝廷への奏聞を力説。
・小松・福岡ら摂政二条斉敬を訪ね、すみやかな上表の受理をするよう要求。
・小松「王政復古の義、十分に相立ち、実に意外の事」
・福岡「土州抔にても意表に出、驚愕」
・翌14日、慶喜が二条摂政へ大政奉還建白を差し出す。15日慶喜参内、受理。


●「二条城で大政奉還」の虚構

・「奉還」は書類が二条摂政へ渡った時点。二条城ではない。
 受理が「奉還」としても、場所は禁裏御所(小御所)。二条城ではない。
・ニノ丸大広間の人形陳列/二条城が発行している案内紙の説明/
 聖徳記念館の村田丹陵筆の絵なども誤解を招いている原因の一つ。


村田丹陵の大政奉還の絵。
これは黒書院。従って12日の将軍が幕臣に大政奉還の意志を伝えている場面





ところが上の図と同じような場面の人形展示しているのは大広間。
そして以前は大政奉還の場面として説明されていました。

以前の二条城パンフレットから

 これが、「大広間にて将軍から直接諸藩重臣に大政奉還が伝えられた」との誤解を招く原因になりました。慶喜は、大広間で直接諸藩重役には会っていないし、大政奉還はこの場で成立していません。あくまで大政奉還の意志を伝えただけです。

 村田丹陵の絵は、明治神宮の依頼によるもので、聖徳記念絵画館(せいとくきねんかいがかん)に収められた幕末から明治時代までの明治天皇の生涯の事績を描いた絵群の一つです。丹陵は当初、13日の将軍が大広間で小松らに謁見している場面を描き完成させる予定だったようで、下記のような下書き残っています。ところが、徳川慶光公爵と旧幕家臣団から新政府側の人物ではなく、幕府の人物を描くよう変更を求められ、明治神宮においても了解が得られたため、上記の現在の画になったといいます。






 ここまでのところは、この9月の二条城ガイドの準備で勉強してきたところですが、曖昧なところも多かったので、今回頭の中がしっかり整理されてよかったです。


 その後、「家康が征夷大将軍に任じられた場所は二条城」は間違い、「二代秀志の将軍宣下は、この二条城で行われた」は間違い、正確な「二条城ものがたり」の構築が必要などのお話が続きましたが、これらの部分は私も頭の中が整理できていたので、特に新規に知ったことはなかったです。


 今回にしても前回にしても、相当の予備知識を持っている観光ガイドが対象ということで、いつも話す内容より濃くして、レジメもパワポ資料も一から作っていただいての熱弁で、とても参考になったし、面白かったです。


 最終回(第3回)は新選組をテーマにしたお話です。


 21日の「光雲寺」の参考資料をコピーしていただくために事務所に寄って、京都駅のポルタで修学旅行昼食処の下見を兼ねて昼食をとりました。→こちら


 その後、年賀状の写真に使う、寺社などの門の写真撮影で京都を回りました(こちら)。


(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)

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最終更新日  2019/08/25 10:23:48 PM
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2017/12/07
テーマ:京都。(5412)
カテゴリ:研修会
2017年12月7日(木)】

 今日はガイド会地区組の研修会でした。

 当ガイド会担当の某講座のうち、当エリア会が担当する講座の前半部分の座学とフィールドワークの予行を兼ねた内容でした。

 午前中の座学のテーマが「後水尾天皇と東福門院」、午後がそのゆかりの寺院である光雲寺の見学でした。

 座学の講師は、急きょ予定以外の他の方が講師を務められました。昨日依頼されて、自分で作ったものではない資料での講義だったのですが、しっかりと講義されたのはさすがです。

 この9月1日に二条城での詳細なガイドを担当し、後水尾天皇や東福門院のことはある程度勉強したので結構知識はありましたが、今回の講義で新たな色んなことを知ることができました。猪熊事件、奈良時代以来の女帝明正天皇誕生の理由、豊臣秀頼の寺社諸堂建築・修復は徳川家康が豊臣家の財力を低下させるためだと思っていたが秀頼にはそれなりのメリットがあったことなどなど。

 午後は午前の講義と関連して、東福門院の菩提寺「光雲寺」を見学させていただきました。南禅寺の境外塔頭で、もとは摂津国天王寺にあった寺院で、開山は南禅寺開山大明(だいみん)国師(無関普門禅師)。通常非公開で、以前特別公開があったとき、我がガイド会が担当したようです。


光雲寺のロケーション

パンフレットから


光雲寺






仏殿




 ご住職自ら長時間にわたって説明してくださいました。仏殿では須弥壇の上まで上がらせていただいて、東北門院から贈られた御本尊「釈迦如来坐像」、脇侍「迦葉(かそう)尊者」(釈迦十大弟子の一人。執着がなく、頭陀(ずだ)第一とされた。阿難尊者は修復中)、厨子内に納められた「聖観音菩薩坐像」(東福門院の念持仏で伝・運慶作)、「木造東福門院坐像」(東福門院没直後に造られたもの)、「金銅仏舎利塔」(東福門院ゆかりで、菊と葵の紋が刻まれている)などを拝見することができました。

本尊 釈迦如来坐像。脇侍 迦葉尊者像、阿難尊者像

パンフレットから

聖観音菩薩坐像

パンフレットから


木造東福門院坐像

パンフレットから



 その他、須弥壇左では「大明国師像」、中興の祖「英中玄賢禅師像」などを拝見することができました。

 また、「東福門院自筆過去帳」東福門院の遺髪も見せていただきました。

 その後、第7代小川治兵衛による池泉式庭園、加藤清正公が朝鮮出兵の際に招来した瑪瑙の手水鉢(東福門院寄進)などを見学させていただきました。おまけに立派なガイドブックも全員にいただきました。ありがたいことです。


庭園

パンフレットから



パンフレットから


瑪瑙の手水鉢



いただいたガイドブック




 最後にお寺を出て、裏の哲学の道に上がり、後水尾天皇第四皇女・顕子内親王(女三宮)のお墓を俯瞰しました。




 21日には本番の講座があり、この光雲寺でお手伝いをすることになっているので、しっかりと務めさせていただきます。


 もともとはもっと早く終わるだろうと予測し、中央図書館または歴彩館に寄る予定でしたが、ご住職が一生懸命時間をかけて説明してくだいましたので、その時間はなくなり直接帰宅しました。


 今日は次女が定期的な健診で、家内が三菱病院に連れて行ってくれました。順調で予定通り26日付近の出産のようです。

 
(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)

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最終更新日  2019/08/25 10:23:18 PM
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2017/10/30
テーマ:京都。(5412)
カテゴリ:研修会
2017年10月30日(月)】

 今日の夕刻は花山天文台の観望会に参加しました。

 今年の「京の夏の旅」で花山天文台が観光資源として一般公開されましたが、そのとき我がガイド会が案内や受付を担当させていただきました。私は担当ではなかったですが、見学には行かせていただきました(こちら)。

 このような経緯から、我々ガイド会のメンバーを対象に観望会を開いていただくことになった次第です。公の交通機関がありません(通常の観望会では送迎バスが出る)ので、メンバーの車に分乗して花山天文台に集合でした。

 まず台長の柴田一成教授から『明月記と超新星』のお話を聞かせていただきました。

 「明月記」は鎌倉時代の公家である藤原定家の日記。定家自筆原本の大部分は冷泉家時雨亭文庫に残り、国宝に指定されています。

 日記には、定家自身が遭遇したものや過去の観測記録など、さまざまな天体現象についての記録も残されています。当時、見慣れぬ天体現象(天変)は不吉の前兆であると考えられており、人々の関心事だったからです。定家の出生以前の出来事も、陰陽師によって報告された過去の記録として記されています。

 かに星雲は超新星爆発の残骸です。爆発の際にはものすごく明るい発光が見えたと思われます。中国には1054年にこのかに星雲の方向で明るい星が出現したとの記録がありますが、他に確たる記録がないため、これがかに星雲のものという同定ができずにいました。そこに、アマチュア天文家の射場保昭が、「明月記」のこれら記述を英文で1934年から1939年にかけ、影響力のある雑誌『ポピュラー・アストロノミー』に掲載し、このことが超新星爆発が1054年に発生したと特定できるきっかけとなりました。

 
【原文】
後冷泉院 天喜二年 四月中旬以降 丑時 客星觜参度 見東方 孛天関星 大如歳星

【原文読み下し】
後冷泉院・天喜二年四月中旬以後の丑の時、客星觜・参の度に出づ。
東方に見(あら)わる。天関星に孛(はい)す。大きさ歳星の如し。


 グリニッジ天文台の歴史の展示コーナーにおいて、「1054年、中国と日本の天文学者がおうし座に新たに光る星を観測。この残骸が現在のかに星雲と同定される」と記述されているくらい重要なイベントと認められています。

 竹本修三(京都大学名誉教授)が、明月記の超新星爆発を英文報告をしたのが的場氏であるということを柴田台長から聞いて、それをインターネットで紹介したところ、2012年に射場氏の遺族が名乗り出たことなどから、それまで謎に包まれていたその人物像が再び明らかにされたというエピソードも紹介していただきました。

 この的場氏は花山天文台の初代台長山本一清に師事したとのことで、花山天文台のアマチュア天文家育成がなかったら、この重要な発見もなかったであろうとのことでした。


 その後、45センチ屈折式望遠鏡で月の表面を交代で見せていただきました。昼間は曇っていたのですが、我々が望遠鏡で見る時間になって、月の方向に晴れ間が出現したのです。まさにラッキーとしか言いようがありません。

 月全体を見る望遠鏡と、一部を拡大して見る望遠鏡2つで見せていただきました。今日は半月に近い月で、後者の望遠鏡では、影と日なたの境目の海とクレータ・山脈などがはっきりと観ることができました。





開口部に月が見えます。





 台長の明月記とアマチュア天文学者のお話、望遠鏡での月表面の観察、感動の一日でした。


 台長や操作案内していただいた係の方に礼を申し上げ、花山天文台をあとにしました。

 
 同じ車に乗り合わせた仲間の皆さんと、反省会と称して、三条河原町で夕食兼飲み会となりました(こちら)。


(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)

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最終更新日  2019/06/11 06:17:57 AM
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2017/08/22
テーマ:京都。(5412)
カテゴリ:研修会
2017年8月22日(火)】

 次女は8月17日に東京から来ましたが、今朝、家内が最寄りの駅まで送って行って東京に戻りました。今日は東京に帰って仕事だとのこと。次は、里帰り出産で11月下旬ごろ来ることになると思います。

 長女は出産10日目の検診でした。赤ちゃんの体重は順調に増えていて、母子ともに健康です。

 私は、今日は色々と忙しかった一日でした。

 1)9:30~11:30 研修会(後で説明)。

 2)鴨川縁で三味線練習(こちら)。

 3)昼食を兼ね、四条河原町近辺の修学旅行食事処を一軒見学(こちら)。

 4)「歴彩館」で、伏見稲荷大社関連の図書を閲覧(こちら)。

 5)17:00~三味線レッスン(こちら)。


 ここでは(1)の研修について書きます。

 「ここまでわかった幕末」シリーズとして、京都女子大非常勤講師の中村武生先生に3回お話をいただきます。今日はその1回目「薩長同盟」でした。


http://tempo.knt.co.jp/shop_search/1324/seminar/hakodate.html


 要約です。

 「薩長同盟」成立過程をについて、それを知り得る当事者による資料は2つしかない。いずれも木戸孝允の手によるもので、一つは晩年に記した回想。もう一つは、同盟の6ヵ条を記した、坂本龍馬宛書簡。これらの資料により、坂本龍馬が薩長同盟成立に大きく関わり、薩長同盟は「断乎幕府と決戦」を意識したものであると信じられている。

 しかし、青山忠正氏は、木戸自自叙の内容に疑義を呈した。「薩長同盟」の主たる狙いは「決戦」ではなく、「戦争回避」であると。

 また宮地正人氏は、「市岡家文書」から、一会桑(一橋・会津・桑名)勢力はおろか、幕府軍との抗戦や天皇奪取まで計画されていたとする。

 三宅紹宣氏は、「同盟」の日の特定を試みた。1月18日、20日、21日、22日の4説あるが、詳細検討され、1月21日とした。

 本年、町田明広氏は、「同盟」研究の常識をいくつも覆す説を唱えた。一例をあげると、「同盟」は坂本到来以前に決着していたというもの。すなわち、坂本は薩長同盟成立にそれほど寄与していないというもの。


 「薩長同盟」という言葉は知っていても、内容は知りませんでした。今回の研修でかなり突っ込んで知ることができたし、まだまだ分からないところが多くあるということもよく分かりました。

 熱く語っていただいた2時間。価値のある研修でした。


(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)

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最終更新日  2019/08/25 10:22:38 PM
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2017/03/27
テーマ:京都。(5412)
カテゴリ:研修会
2017年3月27日(月)】

 今日は、ガイド会のエリア研修会に参加しました。

 去年8月の入会後、エリア研修会は他のエリアグループ主催分も含め、研修には何度か参加してきました。

 今日は、他エリア主催の「もう一つの150年 新選組の4大事件の2つを訪ねて」というお題での、現地訪問をしながらの研修でした。案内役は、先輩の某さん。


 新選組4大事件というのがあり、それは

 1.1864年6月5日 池田屋事件
 2.1866年9月12日 三条制札事件
 3.1867年11月18日 ​油小路の変(決闘)​
 4.1867年12月7日 ​天満屋事件​

 です。このうち3番、4番のゆかりの地を中心に巡るという企画です。

 午前10時に、京都駅ビックカメラ西隣の東小路公園からスタートしました。

 まず、ハトヤ瑞鳳閣というホテルへ。

 ここは新選組3つめの屯所となった「新選組洛中屋敷」があったところで、碑が建っています。









 新選組発足からのおおまかな歴史は

 1863年(文久3年)2月、200名余の浪士たちが「浪士組」として一団を結成し将軍に先がけて上洛
        同3月、壬生村八木邸前川邸などを屯所として新選組の前身である
        「壬生浪士組」を結成
        同年8月、いわゆる「八月十八日の政変」の警備で活躍し「新選組」の隊名を拝命
 1864年(元治元年)、「池田屋事件」および「禁門の変」に参加し活躍
 1865年(慶応元年)、西本願寺(太鼓楼他)に屯所を移転
 1867年(慶応3年)6月15日、屯所を西本願寺から不動堂村に移転

 不動堂村に屯所を移したのは、組織内の抗争や血の粛清など、騒ぎの静まる暇もない新選組に、本願寺側が不満を抱いていたことが背景にあったようです。建築費、諸経費は西本願寺が負担しました。

 しかし、その不動堂村にも半年しかおらず、伏見奉行所に移動し、鳥羽伏見の戦に参戦することになります。


 続いてリーガロイヤルホテルへ。ここにも屯所跡の碑「不動堂村屯所跡碑」があります。







 続いて、塩小路通を渡り、油小路木津屋橋を上がったところにある、本光寺へ。

 「油小路の変」で、伊東甲子太郎が絶命した場所です。

 以前、「京都全寺社巡り」で訪れたことがありますが、そのときは先代のご住職の体調の関係で門が閉まっていて、後述の碑は見ることができませんでしたが、近所の床屋さんのご主人が色々教えてくださいました。





 その後、今の庵主さんが継がれました。今日は、その庵主さんから、お話をいただきました。ご朱印もいただきました。


 「油小路の変」の経緯です。

 伊東甲子太郎は、その尊王攘夷思想から彼を含め14人を引き連れ新選組を脱退します。14人は「孝明天皇御陵衛士」を任命され、高台寺月真院に移ります。これにより高台寺党と呼ばれました。

 近藤勇土方歳三らは、高台寺党壊滅に動き、まず伊東の暗殺を企てます。慶応3年(1867)11月18日、近藤らは、伊東を近藤の妾宅に呼びます。一席が設けられ、伊東は酒が進んだ後、午後10寺頃、用意された駕籠を断って木津屋橋通を東に向かって歩きます。そこで切りつけられ、本光寺の門前で絶命しました。享年32歳。そして、遺体を収容に来た御陵衛士のうち、藤堂平助を含め3名が切り殺されました。





伊東甲子太郎がよりかかって絶命したといわれる門派石
 門の中にあります。甲子太郎が暗殺されとのは夜中なので、お寺の門は閉まっていたので、
 門の中のこの石のところで絶命したというのはおかしいように思いますが、当時はお寺の
 前の道路が広くて、門はもっと東にあり、この石は門の外にあったとのこと。





門の前には「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」の石碑が建ちます。





 油小路通を北上します。油小路花屋敷下ルに「中井庄五郎殉難之地碑」があります。この場所にあった旅籠・天満屋で後に「天満屋騒動」と呼ばれる事件が起き、中井庄五郎が亡くなったことを示す碑です。





「天満屋騒動」とは

 紀州藩士である陸奥宗光は、勝海舟神戸海軍操練所に入り、慶応3年(1867年)には坂本龍馬海援隊(前身は亀山社中)に加わるなど、終始坂本と行動をともにしました。慶応3年11月15日の龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、慶応3年海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃しました。襲撃側は十津川藩士・中井庄五郎が死亡、2、3名が負傷しました。


 堀川通に出て西本願寺に向かいます。

 池田屋事件に続いて禁門の変が起こり、幕府にとって長州が討伐対象になると、増員で手狭となった新選組の壬生村の屯所を親長州派の西本願寺に移転させました。これは、西本願寺と長州系志士たちのつながりを絶つことを狙いとしたものといわれます。

 西本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山。戦国時代、本願寺は織田信長と長期抗争状態(石山合戦)にありましたが、その間毛利家は本願寺に兵糧を運び込んで助けました。そうした縁があり、幕末期にあっても本願寺は長州藩・長州系志士を支援していました。

 大所帯となった新選組は西本願寺の北集会所太鼓楼を屯所としました。僧侶や信徒たちの迷惑も顧みず武芸の稽古や砲撃訓練などを繰り返しました。仏教で忌まれている肉食も境内で大っぴらに行われたといいます。傍若無人なふるまいを続ける新選組は、寺側にとってはまったく招かれざる客だったでしょう。ついに本願寺は、新選組のために新たな屯所を建設する費用をもつという条件で退去を要請し、新選組は慶応3年(1867年)6月に西本願寺からほど近い不動堂村に建てられた新たな屯所(前述の不動堂村屯所)に移転していきました。


西本願寺 太鼓楼



 西に向かい、大宮通のさらに西の櫛笥通を北上します。万寿寺櫛笥通を北に上がった西側に末慶寺があります。この辺りは、お寺が集まって建っています。

 末慶寺には新選組とは関係ありませんが、裂女と呼ばれた畠山勇子の墓があります。

 畠山勇子は元治(げんじ)2年1月2日生まれ。安房(あわ)(千葉県)出身。離婚して上京し、魚問屋ではたらきました。明治24年ロシア皇太子大津市で襲撃された大津事件をきき国の将来をうれえ、5月20日京都府庁の門前で自殺し、27歳で亡くなりました。








 続いて、大宮通綾小路を西に入ったところにある光縁寺に向かいました。

 光縁寺には、新選組山南敬助の墓があります。




 光縁寺の門前近くには新選組の馬小屋がありました。山南家の家紋と光縁寺の鬼瓦の紋がが同じだった事もあり、当時の住職・良誉上人と山南敬助の間に親交が生まれました。そして、山南の紹介で、屯所で切腹した隊士たちが良誉上人によって弔われ埋葬されました。山南もその3人目になり、その後も多くの隊士関係者が葬られました。埋葬は壬生村の共同墓地にされましたが、明治新政府軍によって暴かれ、伊東甲子太郎はじめ御陵衛士新撰組隊士たちが亡くな一派は、東山にある泉涌寺塔頭の戒光寺に改葬されました。山南敬助他の志士たちは、この光縁寺に改葬されました。ここには沖田総司の縁者といわれる方のお墓もあります。






 ご住職は、我がガイド会のある方が高校の同窓でもあり、我々を本堂に集めてお話もいただきました。

 庭には仏手柑の実が生っていました。






 この研修で、新選組のことをより深く知ることができました。八木邸のガイドはあと1回なので、今回のガイドに活かせなかったのは残念です。


 終了後、参加していた同期の方々と四条大宮の王将(王将発祥の地)で、餃子とビールで反省懇親会でした。
 

(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)

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最終更新日  2019/08/25 10:22:05 PM
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2017/03/23
テーマ:京都。(5412)
カテゴリ:研修会
2017年3月23日(月)】

 ガイド会のエリア研修会で、京都迎賓館の見学でした。

 事前予約ありの団体が入場できる時間帯と、事前予約ありの個人が入場できる時間帯が別になっています。予約がなくても、当日10時から整理券が配布されるので、当日入場が可能です。水曜日は休館日です。時期によってはガイド付きのツアーもあるようですが、この期間は自由観覧方式でした。

 去年のGWに京都迎賓館の試験公開(入場無料)があり、家内と行ってみたことがありますが、すごい人出で、整理券が早いタイミングで無くなってしまい、入れず仕舞いでした(こちら)。その後、有料での一般公開が去年7月に始まり、行こう行こうと思っていたのですが、結局行けず仕舞い。私はこの日が初見学となりました。


 堺町御門を入ったところの鷹司邸跡「黒木の梅」がきれいでした。







入場券



概要










 門を入って、地下の駐車場に降ります。賓客があるときは、玄関で降ろした後、車はこの地下駐車場に止めることになるようですが、見学時には見学者の入り口になります。空港のような探知機による荷物チェックがあり、ある大きさ以上の荷物はコインロッカーに預けます(お金はあとで戻ってきます)。見学場所に入ると、見学者が使えるトイレはありませんので、ここでトイレは済ませておく必要があります。

 再び地上に上がり、正面玄関両側の靴箱に履物を入れて、靴箱のスリッパで中に入ります。賓客があるときは、この靴箱は撤去されるのだと思います。



●正面玄関











●聚楽の間






伊砂利彦氏 型絵染 「さくら」




●夕映えの間




日本画家の箱崎睦昌(はこざきむつまさ)氏の下絵を基に綴織り技法を用いて製作された織物

東側:比叡月映(ひえいげつえい)




西側:愛宕有照(あたごゆうしょう)




●藤の間




日本画家の鹿見喜陌(しかみきよみち)氏の下絵を基に綴織り技法を用いて製作された織物






39種の花が描かれていることを示すパネル




人間国宝の故・江里佐代子氏作の截金(きりがね)細工による舞台扉装飾
「響流光韻(こうるこういん)」






食器類 銀メッキ食器:ノリタケ  洋食器:大倉陶苑  グラス:HOYA




●和厨房




●桐の間





全長12メートル、漆の一枚仕上げの座卓
 座椅子の背面の蒔絵は「五七の桐」。明治時代から日本国政府の紋章。
 京都迎賓館の紋章でもある。
 蒔絵作者はサービス台のも含めて、下出祐太郎氏。






◆床の間などの飾り 
  林駒夫作 「熨斗(のし)飾り」
  西陣工業組合 西陣織「源氏物語」
  浅野美芳(びほう)作 金工「桐の舟(吊り舟)」
  大田佳男作 奈良人形「立雛」







●庭園
















 まさに一級品揃いで、見ごたえがありました。


 見学後、午後から時間のある同期で、よく行くハートピア近くの「おおたや」さんで昼食しながら、ワイワイガヤガヤ。しかし、ガイド会の会議があったのでしょう、先輩方のグループも昼食中でした。先輩方の噂話もするので、「わざわざ、ここで昼食することもないなぁ。」と一つ賢くなりました。


 午後から、京都歩きをする予定でしたが、昼食が終わったら午後2時頃だったので、真っすぐ家に帰りかけましたが、思い直して東山区へ向かいました。歩きの様子はこちら


(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)
 
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最終更新日  2019/08/25 10:21:33 PM
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2017/03/21
テーマ:京都。(5412)
カテゴリ:研修会
2017年3月21日(火)】

 今日、午前中ガイド会の研修、夕刻津軽三味線のレッスンが京都でありました。その日記はこちら

 ここでは講演会の様子を書きます。

 我がガイド会は、別エリアグループの研修会ですが、席に余裕があるので参加させていただきました。

 講師は、冷泉 貴実子(れいぜいきみこ)さん。

 冷泉家時雨亭文庫の常務理事。烏丸今出川を東に入った北側、同志社大学に隣接する冷泉家の第24代当主故・冷泉為任氏の長女で、第25代当主冷泉為人氏の妻。



 冷泉家は藤原俊成、定家の流れをくむ歌道の宗匠家の内の一つで冷泉流歌道を伝承しています。住まいの「冷泉家住宅」は、1790年の建築で、現存する唯一の公家屋敷で、国の重要文化財に指定されています。

 我が会は、営利を求める団体ではなく、そんなに高額な講演料は払えないと思うので、普通なら冷泉貴美子さんを個別にお呼びしての講演会など考えられないのですが、そこは我が会の強みなのでしょう、会のメンバーに冷泉家での和歌の会に参加していた方がいらして、その繋がりで来ていただくことができたようです。

 場所は、我が会の事務所があるハートピア京都の会議室でした。

 演題は「和歌に詠まれた四季」

 初めて知ったことも多く、最初から最後まで楽しく拝聴させていただきました。


 色々知ったことを列挙します。

・現在の暦・太陽歴は明治5年に導入された。それ以前の和歌は旧暦(太陰暦)で理解しないといけない。例えば、睦月、如月、弥生は1月、2月、3月だが季節は春。それぞれ、今の2月、3月、4月(きっちりではないが)

・旧暦では新月のときが1日。

・お月様が出る時間は毎日52分ずつ遅くなっていく。十六夜は「いざよいの月」(ぐずぐずすろという意味)、十七夜は立待月(たちまちのつき)、十八夜は居待月(いまちのつき)、十八夜は臥待月(ふしまちのつき)と呼ばれるのは、どんどん月の出が遅くなっていくため。二十六夜頃の月は有明月(ありあけのつき)と呼ばれる。夜明けの空(有明の空)に昇るから。

・月の満ち欠けは29.5日で1周するので、29日の月(小の月)、30日の月(大の月)を6回ずつ設け、1太陰年を354日とした。すると、3年で1月以上の誤差が出るので、閏月を設けた。(昔の人の誕生日や死亡日に、例えば「XX年閏X月」と書かれていることがあったが、その意味が分かりました。)

・春、夏、秋、冬の始まりが立春、立夏、立秋、立冬。節分はその前日で、季節を分けるという意味。年4回あったが、今残っているのは立春の節分のみ。

・お正月は昔は、今の2月だった。春に近かったので、迎春という言葉がぴったりだった。

・昔は照明がなく夜は暗かった。月の光は、現代とは比べ物にならないほど、明るい存在だった。


 その後、季節ごとの歌を紹介いただきました。なお下記の黒太文字で書かれた歌の解釈は、当日、冷泉貴美子さんが示されたものでなく、私がネットから見つけてきたものです。
                            
(一) さざ浪や滋賀の浜松ふりにけりたが世にひける子の目なるらん
                        藤原俊成(新古今)

滋賀の浜辺の松は老木となってしまったなあ。いつの御代に引いた子の日の松が根付いたものなんだろう。


 門松は平安時代の宮廷儀礼である「小松引き」がルーツと考えられています。「小松引き」とは、正月初めの子(初子)の日に、外出して小さな松の木を引き抜いてくる貴族たちの遊びの一種で、この「子の日の松」を長寿祈願のため愛好する習慣から変遷したものです。現在でも「根引きの松」と呼よばれ、関西地方の家の玄関の両側に白い和紙で包み金赤の水引を掛けた根が付いたままの小松が飾られています。

根引き松

http://ruiruitomidori.blog.fc2.com/blog-entry-808.html


 若い子であっても自分の干支は知っている。未成年者を補導し、年齢を偽っていそうだと感じたら、「何年(なにどし)産まれ?」と聞くのがテクニック。

 方角は「子」が北、「卯」が東、「午」が南、「酉」が西。これから子午線という。
 

                            
(二) 君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ
                        光孝天皇(古今)

あなたにさしあげるため、春の野原に出かけて若菜を摘んでいる私の着物の袖に、雪がしきりに降りかかってくる。


 昔は冬の間は、緑の物は食べられなかった。春の七草、七草粥はまさにご馳走だった。



                            
(三) 梅が枝に鳴きてうつろふ鶯の羽白妙に淡雪ぞ降る
                        惟明親王(新古今)

梅の枝から枝へと飛び移っている鶯。その鶯の羽が真っ白になるほどに沫雪が降っているよ。


 淡雪は春の雪、白雪は冬の雪。

 「梅は花の兄、菊は花の弟」という諺がある。梅は百花にさきがけて咲くので花の兄と呼び、菊は後で咲くので弟という意味。

                          
(四) 大空は梅の匂ひにかすみつつ曇りも果てぬ春の夜の月
                        藤原定家(新古今)

大空は梅の香りに霞んでいる。そしてぼんやりと曇りも果てない春の夜の月、そう朧月が出ている。


 春は霞、秋は霧。だから春の月は朧月。今は春の霞は、黄砂とかPM2.5で嫌われるが、昔は初めての霞を初霞といって喜んだ。冬は冴ゆる月。

                            
(五) またや見む交野のみ野の桜狩花の雪散る春のあけぼの
                        藤原俊成(新古今)

また見ることがあるだろうか、いや、ないだろう。交野のみ野での花見で、桜の花が雪のように舞い散る、この春のあけぼののすばらしい景色を。


 桜は今はソメイヨシノが主だが、昔は山桜だった。交野は猟場だったところ。泊りがけで出かけた。藤原俊成が実際に出かけたわけではない。このように昔の和歌は、実体験に基づかないものも多い。


(六) 三千年になるてふ桃の花咲けり折りてかざさむ君がたぐひに
                           (落窪物語)

桃の花が咲いているのを、人が折っている。三千年に一度だけ実がなるという桃の、花がたわわに咲いているのを折って、花かんざしにしましょう。あなたのように長寿になるように。



 三千年は「みちとせ」と読む。「三千年の桃」とは、漢の武帝が西王母(せいおうぼ)(崑崙山に住む女仙)からもらって食べた、三千年に一度実を結ぶという不老長寿の桃。この西王母の誕生日が3月3日。古代中国では3月3日に、御祓をした人型を川に流し、また邪気を祓う桃の枝を飾った。この行事が日本に伝来して宮中行事の「曲水の宴」になり、奈良時代以降やはり3月3日に行われた。3月3日を「桃の節句」と言うのは、西王母と深く関わりがあると思われる。

 男の人も帽子にかんざしを差した。

 陰陽道の陰は偶数、陽は奇数を表す。五節句は1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日(重陽)と奇数になっている。9は今では「苦」に繋がると縁起が悪い数字だが、昔は「九重」で縁起の良い数字だった。9月9日は、「救急車の日」でもあるそうな。


(七) 卯の花のむらむらさける垣根をば雲まの月のかげかとぞみる
                        白河院(新古今)

卯の花が群がって咲いている垣根を雲の間からもれる月の光と見てしまいます。


 卯の花(うのはな)は初夏に白い花を咲かせるウツギの花を指す。旧暦の4月(卯月)頃に咲くことから「卯月の花」=「卯の花」と呼ばれた。唱歌『夏は来ぬ(なつはきぬ)』では卯の花にホトドギスの組み合わせ。

 昔は下水道も上水道もなく、夏は病気が流行った。死を招く最悪の季節。 

                            
(八) うちしめりあやめぞ香るほととぎ鳴くや五月の雨の夕暮
                         藤原良経(新古今)

しっとりとした空気の中で菖蒲(しょうぶ)の香がする。ほととぎすの鳴く五月の雨が降る夕暮れどきよ。


 5月は旧歴では夏。五月雨(さみだれ)とは梅雨の雨であり、五月晴れとは梅雨の合間の晴れ。あやめ=菖蒲。

 この季節は病気が流行る。5月5日の端午の節句には、病気が入らないようにヨモギやショウブを飾ったり、屋根に置いたり、お風呂に入れたりした。それが薬玉(くすだま)になり、軒に吊るした。端午の節句も、男の子が元気に育つようにと願う日になっていく。

 「ホトホトギス」の名は、「ホトホト」と鳴くことから。「ス」はカラスやウグイス同様、鳥の名の接尾語。

                            
(九) 風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりけり
                         藤原家隆(新勅撰)

風がそよそよと吹いて楢(ナラ)の木の葉を揺らしている。この、ならの小川の夕暮れは、すっかり秋の気配となっているが、六月祓(みなづきばらえ)のみそぎの行事だけが、夏であることの証なのだった。


 夏越祓=六月祓。半年の穢れを祓う。御禊(みそぎ)は、水の中で身を清めること。足だけ清めるのが「御手洗(みたらし)祭」。葵祭では斎王代が手だけを清める。

 冷泉家ではススキの葉で「人形(ひとがた)」を作り、全身をなでながら和歌を唱えて息を吹きかけ、水を張った手水鉢の中に放。                

 宮中では夏越の祓の後、氷を食べた。氷に小豆を乗せた。これがお菓子「水無月」に繋がる。



(十) 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
                         藤原敏行(新古今)

(立秋の日になっても)秋が来たと、はっきりと目にはみえないけれど、風の音で(秋の到来に)はっと気づきました。



(十一) 雲間より星あひの空を見わたせばしづ心なきあまの川浪
                         大中臣輔親(新占今)


雲の間より二つの星がで会う空を見わたせば、落ち着かない天の川波です。私も二つの星が無事に出会えるのか心落ち着きません。

 七夕は今は梅雨シーズンで、何故天の川の見えにくい季節なのかと思ってしまうが、旧歴では今の8月で、秋の始めと言ってよく、天の川が見える可能性は大きい。

 冷泉家では乞巧奠が行われる。中国起源の7月7日に行われる織女に対して手芸上達を願う祭。「巧みを乞う」、すなわち歌や蹴鞠が上手くなることを祈る。

                            
(十二) 星あひのゆふべすずしきあまの河もみぢの橋をわたる秋風
                         西園寺公経(新古今)

彦星と織女が逢っている夕方、涼しい秋風が天の川の紅葉の橋を吹き過ぎてます。



 中国伝説では、鵲(かささぎ)という鳥が天の川を紅葉でうずめて橋を成し、織姫と牽牛が出会う。7日の月なので、半月。それを渡し船の見ることもできる。


                             
(十三) 白露に風の吹きしく秋の野は貫きとめぬ玉ぞ散りける
                         文屋朝康(後選)

草の葉の上に乗って光っている露の玉に、風がしきりに吹きつける秋の野原は、まるで紐に通して留めていない真珠が、散り乱れて吹き飛んでいるようだったよ。




                             
(十四) 秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ
                          藤原顕輔(新古今)

秋風に吹かれて横に長くひき流れる雲の切れ目から、洩れてくる月の光の、澄みきった美しさといったらどうだろう!


 8月15日は仲秋。

                             
(十五) 露ながら折りてかざさむ菊の花老いせぬ秋の久しがるべき
                          紀友則(古今)

露があるままでも、折ってこの菊の花を頭に挿して飾ろう、老いることない秋がずっと続くように。


 9月9日は重陽の節句=菊の節句。菊の葉から水が川に落ち、それを飲んだ慈童や村人が長寿となり、不老長寿を祝った。これが菊酒を飲んだり、菊のきせわたをして、災

厄を祓い、健康や長寿を祝う「重陽の節句」に繋がる。

 お酒の名前に「菊正宗」「菊の盛」など「菊」が付くのはこのため。今では、菊は弔事の花のイメージがあるが、昔はお目出度い花だった。今、菊が弔事の花になっている

のは、ヨーロッパでお墓に菊を飾ることが日本に入ってきたからのようだ。

                             
(十六) 奥山にもみぢふみわけ鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき
                          猿丸大夫(古今)

 人里離れた奥山で、散り敷かれた紅葉を踏み分けながら、雌鹿が恋しいと鳴いている雄の鹿の声を聞くときこそ、いよいよ秋は悲しいものだと感じられる。


 
                             
(十七) けふはもし君もや訪ふとながむれどまだ跡もなき庭の雪かな
                          藤原俊成(新古今)

 今日は、ひょっとして君でも訪れてきてくれるんじゃないかと思って眺めているけど、 門に通じている庭の雪には、まだ何の跡も無いんですよ。


 女になって詠っている。こういうことはよくあった。


(十八)へだてゆく世々のおもかげかきくらし雪とふりぬる年の暮れかな
                        藤原俊成女(新古今)

振り返ればいろいろなことがあったけれど、この降る雪が空を覆い隠してしまうように、昔の面影を忘れさせてくれる、そんな年の暮れです。



目からウロコ的お話しが多く、とても勉強になりました。


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最終更新日  2019/08/25 10:21:09 PM
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2017/01/05
テーマ:京都。(5412)
カテゴリ:研修会
2017年1月5日(木)】

 ガイド会の我がエリアグループの研修会が行われました。私が入ってから2回目の研修会です。

 場所は、上京区今出川大宮にある京都市考古資料館。午後1時半開始でした。五条通を通るバスで行って、五条大宮で降りて約1時間歩きました。散歩を兼ねるのと年金生活者の交通費節約のためです。

 途中、私がよく訪れるブログに先日紹介されていた四条大宮近くの「モリタ屋」というすき焼きレストラン(こちら)の前を偶然通りました。お隣にはそのお店のお肉屋さんもありました。


「モリタ屋」さん
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 考古資料館を少し西に行き過ぎたところの「彦さく」というラーメン屋さんで腹ごしらえ。

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 開始30分前に考古資料館に入りました。

 考古資料館は1979年(昭和54年)11月に開館されました。もともとは大正3年(1914)に西陣織物館として建築されたもので、日本におけるモダニズム(近代主義)建築の先駆者として知られる京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授 本野精吾(もとのせいご)により設計されました。京都市登録有形文化財に登録されています。西陣織物館の機能は昭和51年に、堀川今出川にできた西陣織会館に移っています。

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 上記のような建物の生い立ちから、館の前には西陣の顕彰碑が建てられています。

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 考古資料館は何度も前を通ったことがありますが、入るのは初めてでした。入館料は無料です。今日の研修会は、いつもは入ることのできない3階のホールで行われました。

 このホールは、西陣織物館時代に貴賓室だったところで、内装は当時のまま残っています。壁紙は普通のクロスに見えますが、西陣織とのことです。1983年に大阪城で兵馬俑展が開かれました(私も結婚直後、母、家内といっっしょに見に行った記憶があります)が、そのときの兵馬俑像のレプリカがいくつか置かれていました。像がたくさん展示されたのですが、先頭の像は本物ですが、後ろの多くの像はレプリカだったそうで、それを譲り受けたとのことでした。


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 今日の研修のお題は「知っているようで知らない応仁の乱」というタイトルで、考古館の副館長山本雅和氏から1時間半ほどお話をいただきました。

 内容はすごく濃くって、面白かったです。応仁の乱は名前こそ誰もが知っていますが、色んな人物が絡んでいて、なかなか全貌を把握するのが難しいのです。今日のお話でよく理解できました。特に印象に残ったのが、戦乱の勃発地であった上御霊神社も、西軍の山名宗全邸があった今の西陣の地も、当時は都の街並みの外れであったということ。そして、応仁の乱で京都の町全体が焼け野原になったという印象を持ちがちですが、そうではなくて、上京こそ焼けましたが、それ以外は、そんなに焼けたわけではないということ。それでは、何故多くの神社仏閣が焼失したかというと、両軍が神社仏閣などに陣取ったので、そこを攻撃したり、戦乱に紛れて放火して寺宝や物品を略奪したりしたためだということです。目からウロコでした。


 講演が終わってから、山本氏が1階の展示室も案内してくださいました。2階が常設展示、1階が企画展示室です。

 正面に去年話題になった金閣寺で発見された七重塔の相輪片が展示されていました。相輪片の湾曲から相輪直径は2.4メートルもあると推定され、それから全高を推定すると100メートルを超えるとのこと。私が去年特別拝観で担当した東寺の五重塔の全高が55メートルですから約2倍です。


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 その後、今開催されている企画展「HEIAN掘る!」も案内してくださいました。私は知らなかったのですが、平安高校には地歴クラブというのがあり、昔から遺跡発掘調査で多くの成果をあげてきたとのことで、その発掘品や活動の様子が展示されていました。

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 今年は応仁の乱後550年で、今回案内いただいた山本副館長が2月26日に、上京区総合庁舎で「応仁の乱 洛中洛外図屏風に見る乱後の東陣」というテーマでお話されるそうです。是非、聴きに行きたいと思います。

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 帰り際に、この考古資料館で「京都歴史資料散策マップ」というのが無料でいただけるということが分かり、4つのコースの分をいただきました。全部で40のコースがあり、私の住む「大枝・桂坂」のものもありました。普通のガイドブックには載っていないようなことが分かりやすく書かれており、優れものです。一度には4つしかいただけないので、また見学がてら寄って、少しずつ揃えていきたいと思います。


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 帰りも五条大宮まで歩き、バスで帰ってきました。


 今日は、家内の実家の両親が、柳谷観音と山崎聖天だったか長岡天神だったか2箇所初詣に行った後、我が家に立ち寄ってくれたようです。年末年始に2泊3日で、須磨の国民宿舎泊の旅行をして3日に帰ってきたところです。その翌々日には2箇所の初詣ですから、まだまだ元気のようです。もう2人とも88歳になっているのですが。
 

(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)

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最終更新日  2019/08/25 10:20:04 PM
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2016/09/13
テーマ:京都。(5412)
カテゴリ:研修会
2016年9月13日(火)】

 今日はガイド会の奈良研修に行ってきました。新しく入ったメンバーが近鉄奈良駅前に午前10時集合。研修担当の方と先輩ガイド2名の方が、奈良公園周辺の観光スポットを歩きで案内してくださいました。

 観光ガイドは基本京都市域なのですが、修学旅行では京都に宿泊して翌日に奈良を見学する場合にときどきガイドの依頼があるそうです。そのため、このように研修が組まれています。

 奈良のガイドは、大きく分けて2パターン。東大寺など奈良公園周辺の観光スポットか薬師寺・唐招提寺などの西ノ京。これに法隆寺が加わる場合があるとのこと。法隆寺はバスで行くことになるが、本数が限られているので、バスの便をよく調べて行かなければいけないとのこと。唐招提寺はガイドの下見は無料だが、薬師寺は有料、法隆寺に至っては、ガイド当日もガイドは有料だとのことです。

 今日のコースは、


 近鉄奈良駅
 ↓
 興福寺(東金堂・国宝館。無料で拝観させていただきました。)
 ↓
 昼食(奈良をよくご存知の方がいて東向き商店街の
    「うどん むぎの蔵」に入りました。)
 ↓
 五重塔・三重塔(昼食時間を利用して、特別公開中のところを有志で拝観。
    興福寺友の会に入っておられる方がいて、割引き料金で拝観できました。)
 ↓
 東大寺(無料で拝観させていただきました。)
 ↓
 二月堂・三月堂(法華堂)(外からのみ)
 ↓
 春日大社(回廊内を無料で拝観させていただきました。)
 ↓
 近鉄奈良駅


マイマップ
 https://drive.google.com/open?id=1PWVYyiTTYuxdV6pCid2-BRpLLy8&usp=sharing

20160913-奈良Map.jpg


 地図上の計測で、歩いた距離は8.7km。
 

 奈良をこうやって時間をかけて回るのは、M社時代の1990年ごろ、アメリカからの長期出張者を案内したとき以来ですから、25年ぶりくらいです。

 興福寺の国宝館では、前から見たいと思っていた阿修羅像を見ることができました。
 
 やはり京都に比べて、お寺も仏像も古いし、お寺は大きくて広いです。大仏の迫力はやはり圧巻でした。天気が悪いこともあってか、全体的には人出がそれほどでもなかったように思いますが、東大寺だけは外国人観光客や修学旅行生でものすごく混雑していました。有名な柱の穴は、修学旅行生で長蛇の列でした。

 町は京都に比べると、しっとりと落ち着いています。京都の町には、京都の良さ、奈良の町には奈良の良さがあることを改めて実感しました。

 雨が途中で激しくなって、蒸し暑く、春日大社への坂道も含め、15,000歩強の歩きで、相当疲れました。

 京都は京都検定の勉強をしたり、主だった観光地は実際に何度も訪れたりして、修学旅行レベルの案内は不安がありませんが、奈良はほとんど白紙状態です。その機会があれば、事前に勉強し、もう一度下見をしたうえで、臨みたいと思います。

 
 現地解散して、近鉄京都駅まで戻ってきましたが、いっしょの電車だった仲間の某1さんと、某2さんから、夕食に支障のない範囲で飲みに行かないかと誘われ、京都駅北の室町通にある「ひょうたん」という立ち呑み屋さんに寄りました。・・・・・・

以降、下記に続きます。
http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201609130004/


(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)

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最終更新日  2019/08/25 10:18:36 PM
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2016/08/23
テーマ:京都。(5412)
カテゴリ:研修会
2016年8月23日(火)】

 今日はガイド会の「三尾研修」がありました。三尾というのは、京都西北の山間地、栂尾(とがのお)・槇尾(まきのお)・高雄(高尾/たかお)を合わせた呼び方です。

 この地域には、高山寺(世界遺産)、西明寺、神護寺があり、特に秋の紅葉シーズンには人気のスポットで、非常に混雑します。お客様からの要望に応じて行う公募ガイドが、このエリアで多くあるとのことで、公募ガイドとしては件数の多いエリアになっています。今回入会した我々メンバーもいずれは、この公募ガイドを担当することになるので、今日、特別に研修が組まれました。

 京都駅八条口に朝7:30までに集合し、チャーターしたバスで、栂尾の高山寺に向かいました。歩いて、高山寺、西明寺、神護寺を巡り、また京都駅までチャーターバスで戻りました。



今日のコース


20180823-三尾.jpg

https://drive.google.com/open?id=1akdEYzFZNCpTpuz7HBUjcbFkaKs&usp=sharing


 いつものように先輩ガイドさんから、それぞれのお寺で説明を受けたのですが、今日、よかったのは、それに加え、それぞれのお寺の住職さんなり、お寺の方に直接説明いただいたことです。内容まではなかなか覚えることはできませんが、やはり宗教的に深堀りした説明が聞けて、とてもよかったです。今日が、一連の研修の中で、一番新たなことを知ることができた研修だったのではないかと思います。非常に濃い研修でした。

 さらに濃かったのが体力面。今日も京都は最高気温が36.0度の猛暑日でした。だいぶ標高が高いところなので、市中よりは気温が低かったとは思いますが、坂道が厳しく、体力的にはかなりきつかったです。移動時には、列が前後に長くなってしまいました。歩いた距離は4キロくらいですが、アップダウンで、相当疲れました。

 公募ガイドでは、三尾の後、さらに歩いて嵐山まで行くのが一般的なコースのようで、今日よりはさらに長い距離を歩くようです。今日のような天気であれば、これ以上歩くと熱中症になりそうです。しかし、実際には、真夏にはここのガイドの要請はないと思います。春、秋ならば、私は体力的には対応可能だと思います。もちろん、説明内容は勉強しないといけませんが。


 京都駅に帰って来てから、同期入会会員で、懇親のための昼食会がありました。現地研修で同じグループだった約半数の方は名前と顔が一致するのですが、あと半分の方の名前がまだまだ認知できていません。これから追い追いでしょう。次回は忘年会のシーズンに集まることになりました。


 自宅に戻ったら、家内と次女がいません。高槻の義父母の呼ばれて行っていたとのこと。次女は義父母の家から帰ってきてから、友達に会うとのことで夕刻にまた出かけました。家内と二人きりの夕食でした。

 オリンピックが終わり、夕刊の新聞記事が元の調子に戻りました。また、前の生活ペースに戻るでしょう。

 日本のメダル数41個は過去最高。逆転勝利の多い日本チームでした。それから3位決定戦での勝率が非常に高かったように思います。認識している範囲では、愛ちゃんが個人戦で負けた以外は全部勝ったのではないかと思います。

 4年後は地球の正反対であると同時に、治安面でも正反対の東京での開催。選手たち、観客たちが、幸福感を胸に終えることができるオリンピックになればいいなと思います。そして、私も何らかのかたちで貢献できたらいいなと思います。


(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)

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最終更新日  2019/08/25 10:18:15 PM
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