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ワルディーの京都案内

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研修会

2019/12/17
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テーマ:京都。(5670)
カテゴリ:研修会
【2019年12月17日(火)】

 今日は午前中、ガイド会の北地区組主催の研修会に参加しました。外部から講師を招いての研修です。テーマは「宮本組」。何か大工さんの会社か、その筋の団体の名前のようですが、そうではなくて、祇園祭の神輿渡御を支える祇園の町衆で作られた組織です。宮本さんという名前からきているのではなく、お宮の本にあるから「宮本組」です。講師は坂田憲治氏。宮本組のメンバーでもあり、京都産業大学日本文化研究所の上席特別客員研究員も務められています。私も同じ研究員を務めており、期をまたがった研究員の懇親会で坂田氏にお会いしたことがあるような気がします。坂田氏は祇園のお茶屋さんに生まれられ、花街文化にもお詳しいからでしょう、京都産業大学の非常勤講師も務められているようです。恐らく、研究員繋がりで坂田氏と面識のあるガイド会メンバーが坂田氏に講師をお願いしたのではないかと思います。
 
 内側から見た祇園祭、しかも我々がある程度知っている山鉾巡行ではなく、ほとんど知識のない神輿渡御についてのお話しということで、新たに知ることも多く、そしてお話も非常にお上手で、最初から最後まで聞き入りました。

 あらたに知ったこと、印象に残ったことを列挙しておきます。記憶、メモが曖昧な部分があり、間違いがあるかもしれませんが。
  

・神輿  祭神                神輿の形 担当組 
 中御座:素戔嗚尊 (すさのをのみこと)     六角形 三若神輿会
 東御座:櫛稲田姫命 (くしいなだひめのみこと) 四角形 四若神輿会 
 西御座:八柱御子神 (やはしらのみこがみ)   八角形 錦神輿会  
 
・四若(しわか)は高瀬川の船頭衆がルーツ。
 錦は現在では錦市場の町衆だが、もともとは壬生村百姓衆。

・清々講社が全26学区を束ね資金集めをしている。

・もともとは太陰暦の6月7日、14日がそれぞれ神幸祭、還幸祭だったので、
 365日の中では固定ではなかった。ある年の太陰暦の日を、太陽暦に当てはめて
 17日、24日にしただけ。だから17日、24日は偶然。しかし、日曜にすることはせず、
 これらの日をかたくなに守っている。

・八坂神社の本殿で吉符入(1日)を行うのは宮本組だけ。
 吉符入後、清々館でくじ取り式を行い、誰が何を持つかなど神宝の担当者が決まる。

・4日に円融天皇陵(福王子神社近く)に代表者が参拝する。
 円融天皇は974年(天延2年)に祇園祭の神輿を鴨川を渡って平安京を渡御するように
 勅命したと言われているため。
 昔は組長が一人で行っていたが、今は複数人が参加。噂では、昔の組長が一人で行って
 いたのはお妾さんが、近くにいたらかとか言われている。
 
・10日の神輿洗神事の朝6時から四条大橋を宮本組で掃除する。
 出る神輿は中御座のみ。神輿の飾り付けは無し。ここは何故か四若が担当。
 途中、万灯会の「お迎提灯」の列とすれ違う。
 四条大橋東南袂の祓い所に鴨川の水を入れた桶が置かれる。予備が、仲源寺に置かれる。

・万灯会では、鷺踊、小町踊、祇園祭音頭などが奉納される。
 小町踊は篠塚流という京舞最古の流派の踊り。昔は京の花街はすべて篠塚流だった。
 しかし三代目のときに廃れた。

・13日には、長刀鉾稚児社参、久世駒形稚児社参がある。長刀鉾稚児は神の使いであるのに
 対し、久世駒形稚児は神そのもので、こちらのほうが位が上。でも長刀鉾稚児のほうが、
 有名でマスコミへの露出度も高い。資金力の差によるもの。

・15日の宵宮祭でご神体が神輿に乗る。そのときは境内の照明が消され、厳かな雰囲気になる。
 24日の還幸祭で神輿が八坂神社に帰って、ご神体を戻すときも境内の照明が消される。

・17日の神幸祭は「神迎え」、24日の還幸祭が祇園御霊会。本番は24日といえる。
 八坂神社石段下で三神輿同時差し上げするようになったのは最近。
 京都の神輿は江戸のそれよりサイズが大きい。担ぎ棒の先にシンバルのような物が付い
 ていて、それが音を出す。宮本組は先導のため出発済みで、同時差し上げを見る
 ことができない。

・23日に又旅社で「オハケ清祓式」が行われる。この場所はもともとの神泉苑の端に位置
 するといわれる。

・24日の還幸祭では三条通のアーケードが見所の一つ。アーケードに音が反射して勇壮。

・昔の御旅所は西御座が少将井御旅所、東・中御座が大政所御旅所だった。
 豊臣秀吉が今の四条御旅所に集めた。
 少将井御旅所の祠は今は京都御苑内の宗像神社に遷座している。
 大政所御旅所については次ぎのような言い伝えがある。
 平安時代の天延2年(974年)、東洞院高辻に住んでいた「秦助正(はたのすけまさ)」の
 夢に、神人が現れご宣託があった。「汝の家を影向の地とせん 速やかに朝廷に奏上せよ」と
 いうもので、翌朝「助正」の家の庭にある狐塚から蜘蛛の糸が祇園社までつづいていたので
 朝廷に奏上したところ円融天皇も同じ夢を見たとのこと。以後、「助正」の自宅が
 「祇園社」 の御旅所になり、「大政所」といって神殿が造られ、「助正」は神官に命じら
 れた。大政所の宮司の末裔が錦天満宮の宮司といわれている。

・神輿は和御霊(わみたま)、駒形稚児は荒御霊(あらみたま)とされる。

・騎馬武者三騎は江戸時代は弓矢町(建仁寺南側の松原通沿い)が担っていた。
 昭和57年に断絶し、宮本組が復活させた。もともと使っていた甲冑は今も7月15、16、
 17日に弓矢町で公開される。宮本組は映画村から甲冑を借りてきて使っている。

・行列の御錦蓋(ごきんがい)は神様の公的外出用、御菅蓋(ごかんがい)は私的な外出用。

・明治43年の西御座行列の記録を見ると、見座武者、長刀鉾稚児、月鉾稚児、放下鉾稚児が
 書かれており、長刀鉾以外に生稚児(いきちご)がいたことが分かる。

 レジュメはまだ続いていましたが、時間切れでここまでとなりました。


 写真は、2010年に神幸祭を撮ったものです。今年は還幸祭を短時間ですが、見学しました。


八坂神社境内






八坂神社石段下




列は街中へ






夜になって御旅所へ近づく






 終了後、夕刻からのレッスンのために持ってきていた三味線を十字屋御池の事務所に預けたうえ、年賀状用の写真撮影のため、京都市内をウロウロしました。→こちら




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最終更新日  2019/12/22 12:52:20 PM
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2019/12/13
テーマ:京都。(5670)
カテゴリ:研修会
【2019年12月13日(金)】

 今日は午前中にガイド会全体の研修会があり出席しました。昨年度のシニア講座の題材を使っての座学からピックアップして、これから行われていきますが、今日がその一回目でした。私の「若冲と応挙」も声がかかるかもしれません。

 今日の講師は、女性のTHさん。とても分かりやすい講義でした。ところどころに手書きの図やイラストがあるのも、手作り感があって良かったです。受講者のアンケートでも好評だったのも納得です。

 新たに知ったこと、再認識したことをピックアプします。

・大堰川は行政的には桂川。通称は上流から、上桂川⇒桂川⇒大堰川⇒保津川⇒大堰川⇒桂川

・大堰川に通した船も高瀬舟という。
 了以が、作州美作の国(岡山県)の和計川(わけがわ)の高瀬舟を見て、
 大堰川開削を決意した。

・千光寺はもともと清涼寺の西にあったが、了以が開削で亡くなった人を供養するために、
 大堰川を上から眺めることのできる現在地に移した。

・船頭と船大工を備前国(岡山)の瀬戸内水軍配下から呼び寄せ、
 彼らはやがて嵯峨に住み着いた。その地を小屋町と呼び、後に角倉町となった。

・「はなの家」は大堰川の水運管理のために建てられた屋敷。
 後に嵯峨角倉家の屋敷となった。

・高瀬川上流では鴨川支流を利用、下流では農業用水路を利用。
(ワルディコメント:七条以南がぐにゃぐにゃしているのは、農業用水利用のためか)

・高瀬川の用地買収のとき、竹田村では耕地の損失や灌漑用水の欠乏を恐れ、
 反対するものもいた。了以は説明し、誓約書をいれた。
 了以の企業家としての誠実な姿勢を示している。

・素庵は朱印船貿易で、船中規約を作った。今にいう企業倫理にあたるもの。先進的な手法。

・素庵は老年期、籟病を患って亡くなった。

・素庵の子である吉田光由(みつよし)は数学者。数学の知識を使って、菖蒲谷隧道を作り、
 北嵯峨の人々に貢献した。今も水が流れる。北垣国道が明治23年、功績をたたえ、
 石碑を建てている。

・吉田光由は和算入門書「塵劫記」を書き、和算の発展をに寄与した。

・常寂光寺の無料拝観エリアに塵劫記の記念碑がある。

・由光の墓は大分の豊後高田市にあるが、平成24年に算盤関係のお仕事をされている
 女性の方が二尊院でも発見した。この方が、算盤玉で作った多宝塔を千光寺に奉納された。

・祇園祭の鶏鉾の胴掛には、了以が清水寺に奉納した朱印船の絵馬を下絵にしたみものがある。

・ホテルオークラの2階に新しく作られた了以像がある。

・清水寺西門前に、了以の奉納した一対の灯籠がある。彫られた家紋で分かる。

・常寂光寺の料金所近くの休憩所?の天井に大堰川で使われていた高瀬舟がある。


下記は高瀬川沿いの写真。2013年4月1日撮影。古いです。


高瀬川と角倉了以邸跡碑




角倉了以建立の瑞泉寺




角倉了以顕彰碑 旧立誠小学校前





 まっすぐ帰宅し、明日のオーイ会京都案内の準備を本格的にスタートしました。明日の京都歩きは午後からなので、明日の午前中も準備継続です。todoのその日暮らしつが続きます。



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最終更新日  2019/12/13 11:50:06 PM
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2019/10/15
テーマ:京都。(5670)
カテゴリ:研修会
【2019年10月15日(火)】

 今日は夕刻からガイド会の臨時全体会でしたが、その前にガイド会の現地研修会に参加しました。

 私も担当しているシニア講座は全部で20講座あり、一つの地区組で4ずつ担当します。本番の前にその予行も兼ねて当該地区組の研修会が行われることが常となっています。その研修会には他の地区組メンバーも参加できることがあります。今日は南地区組の知恩院での研修でしたが、他の地区組にも参加声掛けがあったので、参加させていただきました。

 「徳川家と京」というテーマの中で知恩院という設定でした。午前9時半から11時半頃まで、本番を想定して約15人くらいずつの班に分かれて案内していただきました。

 知恩院の中を、鐘楼を除いてほぼくまなく歩いたと思いますが、知恩院は特別公開も含めて何度か訪問したことがあるので、全部一度は見たことがあるところばかりでした。しかし、新しく知ったこと、再認識したことも色々ありました。


・浄土宗の知恩院門跡は浄土門主(もんす)という。
 真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ)、
 真宗大谷派の僧侶及び門徒の代表者は門首(もんしゅ)と書く。
・浄土宗末寺は約7300。浄土真宗本願寺派、大谷派に次いで多い。
・法然の弟子である源智が再興した。
・鎮西は浄土宗での第二祖。
・法然上人の大師号は8つ。最初が円光大師(東山天皇)。
 最近では和順大師(昭和天皇)、法爾(ほうに)大師(上皇陛下)
・四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜された。 
・徳川の戦闘旗印に「厭離穢土 欣求浄土(えんりえどごくらくじょうど)」
・徳川家康は菩提寺よりも、城郭的存在として重要と考えていた。
・三門の額は霊元天皇宸筆
・三門上層に五味金右衛門夫妻像がある。三門の建設費用が予定より多額になったので、
 自刃したと伝わるが、徳川家の秘密を知っていたためという説もある。
・御影堂は8年かけて大屋根の吹き替えなどを修復し完成した。
 2020年4月13日から落慶法要が行われ、再公開される。
・御影堂屋根の瓦10万枚の上に2枚の葺き残しの瓦があるが、これは未完成の教え。
・御影堂の桟唐戸の落とし金に火災除けの河童、蝉。
・御影堂に「忘れ傘」
 左甚五郎が魔除けのために置いたという説。
 知恩院32世の雄誉上人が御影堂を新築する際に、このあたりに住んでいた狐が、
 自分の居場所がなくなるので、新しい棲家を作って欲しいと頼み、それができた
 お礼にこの傘を置いて末永く知恩院を守っていくこと約束したという説。
 その変形版で、棲家を追われた白狐が、その仇を討とうと童子に化けて近付いたが、
 毎夜、人々に上人が説法するのを聞いて改心し、上人に誓った。そのとき雨が降って
 いて傘まで貸してもらった。その返した傘がこの傘という説。
・左甚五郎は「飛騨の甚五郎」の誤伝とも。実在の人物ではなく、建築彫刻の理想化された
 人物であるという説もある。
 左利きであったからという説。右腕を切られて左手だけで仕事をしたいう説などなど。


御影堂






御影堂の忘れ傘(見えますか?)




・阿弥陀堂の額「大谷寺」は後奈良天皇宸筆。
 大谷寺は知恩院正式名称、「華頂山知恩教院大谷寺」から

阿弥陀堂と御影堂を繋ぐ廊下で鶯張りのメカニズムが分かる。
二条城の本丸御殿のそれを見るときは、しゃがにこななけれんばならないが、こちらは立ったまま観察せきる、二条場ではカスガイが八の字でしたが、こちらのは同じ方向を向いています。




・集会(しゅうえ)堂は御影堂工事中は増床して、御影堂と同じ広さにを保ち、御影堂の
 各像を安置している。工事期間だけ、「法然上人御堂」と呼ぶ。
・大(おお)方丈。小方丈の障壁画は狩野尚信・信政らによる。
・小(じょ)方丈は、要人参拝の際の「おとき」(食事)の場としても使われた。
・方丈庭園の場所はもとは青蓮院の寺域だった伝える。
・方状庭園の作庭は小堀遠州の縁者の僧・玉淵
・方状庭園には「家光お手植え」の松があるが、家光は知恩院に来たことがない。
・方丈庭園の慈鎮石は慈鎮(慈円)和尚(法然上人と同時代に
 青蓮院の門主で4度も天台座主を務めた傑僧)が座禅した石。
・小方丈東の庭は阿弥陀菩薩と二十五菩薩の来迎の姿を表す。
 知恩院には国宝の「早来迎」がある。

方丈庭園






・法然は今の勢至堂あたりで往生。
・勢至堂は1530年建立の知恩院で最古の建物。
・勢至堂の東脇に善導大師。西脇段に千姫の大きな位牌。


勢至堂




賽銭箱の寺紋




寺紋の名はこれ





・山亭庭園。建物は霊元天皇の第10皇女吉子内親王の御所客殿を移築。
 吉子内親王は生後1ヵ月で時の江戸幕府将軍徳川家継と婚約する。夫となる家継もわずか6歳
 だった。納采の儀の2ヶ月後に家継が薨去。史上初の武家への皇女降嫁と関東下向には至ら
 なかった。19歳で出家。


山亭庭園からの眺め




・墓地には千姫の墓、吉子内親王の墓、湯川秀樹の墓、内貴甚三郎の墓がある、
 内貴甚三郎は、明治31年初代官選京都市長就任。

千姫の墓





内貴甚三郎(内貴家)の墓







・黒門およびそこからの階段は、城郭のような造り。

黒門




・瓜生石(うりゅうせき)
 八坂神社の牛頭天王が降臨して、一夜のうちに瓜が生えて実ったとか、この石の下を掘って
 いくと二条城まで続く抜け道があるなどの伝説がある。


 案内が終わってから、方丈拝観券で友禅苑も見学できたので、立ち寄りました。

友禅苑 高村光雲作の聖観音像




友禅苑 庭園





 知恩院のことよく理解できました。修学旅行で三門を下から眺めることはありましたが、坂の上まで行ったことはありません。御影堂の拝観が再開すると、修学旅行ガイドや同行ガイドでの訪問が増えるかもしれません。今回の研修が役に立つと思います。

 夕刻のガイド会臨時の全体会まで時間があるので歴彩館に寄ってから、ガイド会臨時全体会に行きました。→こちら



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最終更新日  2019/10/16 05:40:01 PM
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2019/08/29
テーマ:京都。(5670)
カテゴリ:研修会
【2019年8月29日(木)】

 今日はE地区組の研修会に参加しました。地区組の研修会には他の地区組のメンバーも参加できる場合があります。今日の研修は「鞍馬~貴船」ルートの実地研修です。このルートは紅葉の時期に同行ガイドの依頼が多くあるところです。もともとE地区組で新入者のために去年の秋に計画されたのですが、強風台風で鞍馬から貴船に抜ける山道が長い間閉鎖されていたために延期されていました。それが今回開催となったわけです。

 このルートは私がガイドになりたての頃、同行ガイドをしたことがあります(こちら)が、もうずいぶん前のことですし、去年の台風の被害でずいぶん景色も変わったと聞いています。今度9月28日に「オーイ会」メンバーを案内するに当たり、一度下見に行かないといけないと思っていたところ、この研修の案内があったので参加を申し込んだ次第です。

 結構な雨が予想されたので、他地区組からの参加者の多くがキャンセルしたようです。朝、出町柳駅で仲間を全然見なかったので、雨のために中止となったにも拘わらず、私への連絡がなかったのかもと思ったくらいです。関係者に連絡したところ、予定通り開催とのことで、叡山電車で鞍馬に向かいました。

 17名が参加となりましたが、研修の性格上、うち12人が去年の新入者という構成でした。鞍馬駅から鞍馬寺、山越えで貴船まで全体で4時間30分でした。途中休憩が10分+15分、霊宝館も入り、貴船神社では奥宮まで行き、貴船から貴船口駅までは歩きという行程でした。途中蒸し暑くはありましたし、道が濡れていて特に下りは滑りやすかったですが、幸いにも雨に降られることなく、楽しく歩き切ることができました。皆さんも転倒などなく元気に歩き通せたようです。

 一度、同行ガイドはしていますが、去年の台風の爪跡も含め、たくさん新たに知ったことがありました。

【鞍馬駅】
・よく見る義経を描いた浮世絵は、江戸末期の月岡芳年によるもの。
・鞍馬の火祭の松明が置かれている。
・駅前の大天狗の鼻は、2017年1月15日の大雪で折れて、ワイヤーで吊られている。
 近々、新しい天狗が設置される。

鞍馬駅



月岡芳年の絵



鞍馬の火祭の松明



ワイヤーで吊られた鼻



【鞍馬寺】
・山麓のお手洗は「烏樞沙摩明王殿」と呼ばれ、同名の明王が祀られている(多分2階に)
・寺紋は天狗の団扇に見えるが、横から見た菊の花
・魔王の滝は現在流れていない。台風の影響と思われる。
・由岐神社の狛犬は重要文化財(京都国立博物館)
 子供を抱いている非常に珍しいもの。子孫繁栄子授・安産の神様として古くより信仰される。
・双福苑の「玉杉大黒天」「玉杉恵比寿尊」のうち片方が倒木で破損し、取り払われている
・転法輪堂では、床をくぐって下の方から近くで拝観できる。
・本堂金堂前両側に狛虎。毘沙門天は寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に誕生し
 「寅毘沙」と呼ばれる。
・本殿金堂の地下の清浄髪奉納祈願所は、迷路のようになったところに入ることができる。
 暗いので、電気を点けることも可能。
・大杉権現社は去年の台風の倒木で損壊し、無くなっている。
・木の根道は、木の保護のため、木の根を踏まずに歩くのが望ましい。
・魔王殿付近には刀で傷つけられたような痕をもつ石灰岩がある。
 牛若丸の剣道修行の跡で、兵法石と伝えられる。実は雨水によって溶食されてできた溝。
 それを与謝野晶子、鉄幹も短歌に詠んでいる。

魔王の滝 水が流れていない。鳥居も破損。






由岐神社 狛犬




本殿金堂前「狛虎」




お社が無くなった大杉権現社





【貴船神社】
・貴船神社の神紋は「左頭三つ巴(ひだりがしらみつどもえ)」と「二葉葵」の2つ。
 水を司る神を祀っていることから、水の紋として「左頭三つ巴」。
 「二葉葵」は平安時代から明治4年に至るまで、上賀茂神社の第二摂社とされていたため。
・石庭は重森三玲氏作庭。船のかたち。「双葉葵」と思われる植物が植えられている。
・「相生の大杉」と「連理の杉」。後者は杉と楓の組合せ。
・正しい参拝順序は、本宮→奥宮→中宮 

貴船川




貴船神社神紋のうち「双葉葵」




貴船神社 石庭 重森三玲氏作庭




相生の大杉




連理の杉




 出町柳駅で最終解散でしたが、百萬遍の王将で反省会でした。E地区組の反省会という建前ですが私も仲間に入れていただきました。

  

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最終更新日  2019/08/30 01:30:19 AM
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2019/04/29
テーマ:京都。(5670)
カテゴリ:研修会
【2019年4月29日(月・祝)】

 GW中は10日間中8日間がフリー日です。今日はフリー日の3日目。溜まっていた修学旅行の返信文書3件を作成し、事務所にFAXしました。そして、5月9日の某講義講師に向け、資料の最終化に取り掛かりました。5月7日には印刷するので、5月6日には最終化完了が必要です。この前のガイド会の研修時の資料からの見直しですので、明日以降6日間のフリー日で何とかなると踏んでいます。

 一昨日から次女が孫#2を連れて我が家に帰ってきています。孫は来たときから少し咳をしていたのですが、ここのところの寒さで、風邪をひいてしまったようで、昨晩は38度を超える熱を出してしまいました。今朝は少し下がって37度台で、食欲もあり元気にしているので、大丈夫だとは思うのですが、念のため病院に罹りました。GW中で、次女が出産した三菱京都病院では診てもらえず、紹介してもらった乙訓休日応急診療所での診察となりました。早く治りますように。


 4月25日の某講座座学の材料を使ったガイド会地区組の座学研修後(こちら)、午後はその某講座のフィールドワークの予行を兼ねた現地研修でした。研修の方は座学・フィールドワークを今日の午前、午後を使って1日で実施しますが、講座本番は座学が5月9日、フィールドワークが5月23と2日間に分けて実施されます。フィールドワークの訪問先は若冲ゆかりの寺・石峰寺と前半の琳派繋がりから石峰寺近くの宝塔寺です。

 講座本番のフィールドワークは、受講生数が約80人と大人数なので、2班に分け、さらに1班を2つのグループに分け、約20人×4グループでの案内となりますが、今日の研修は修学旅行で多くの方が勤務で、10人強の出席なので、1グループのみでの案内でした。

 まず。本番の予定通り、京阪深草駅に集合。本番当日は、まず石峰寺に向かう班と、宝塔寺に向かう班2つに分かれますが、今日は少人数なので1グループのみ。まず石峰寺に向かいました。

 お願いしてあったように、まずご住職からお話しを15分ほどいただきました。石峰寺の由来、黄檗宗のこと、若冲のことなどをお話しくださいました。若冲の話は当然私の講義とかぶる部分はありますが、かえって印象に残っていいでしょう。

・黄檗宗は禅宗の一派であるが、臨済宗・曹洞宗の伝来から遅れて、江戸時代初め、
 請われて来日した隠元禅師のよって伝わった。第4代徳川家綱が帰依した。
・黄檗宗のお経は梵唄(ぼんばい)という、太鼓や銅鑼など様々な鳴り物を使って読まれる、
 独特の節のあるお経。
・黄檗宗は徳川家によって認められた宗派なので、宗紋は裏葵。
・石峰寺の寺域はもとはJRが走っているところまであった。火災や廃物毀釈で縮小を
 余儀なくされた。
・本堂の木の板には「放開一路通凢聖」 「把(杷?)住重開越古今」 と書かれている。
 以下は、後刻ネットで調べた内容
  「一路を放開して凡聖を通じ、重關を把住して古今を越ゆ」
 「凢」は「凡」の異体字、二句目の「開」は「關(関)」の誤写か。 
 凡人から聖人に至る道が通れるようにし、厳重な鍵を開けて昔と今の境界が越えられる
 ようにする。
 この門を入って修行する人は、凡人でも聖人に至りうるし、現在に生きながら過去の教えに
 接することができる。
・若冲から絵のてほどきを受けた聞中浄復の手引きで若冲は伯珣照浩に会い、
 道号「革叟」(かくそう)と、伯珣が着ていた僧衣を与えられた。
 「猿猴摘桃図」に伯珣の賛も得ている。
・心遠館というアトリエは鴨川に近い五条付近にあった
・石像は五百羅漢と言われるが、若冲は10年で1,000体を制作をした。
 白川石の花崗岩が使われた。
・天明の大火後は、大坂の西福寺に身を寄せたことがあった
・若冲は石峰寺の門前と北側にアトリエを持った。

他にもたくさんお話しされましたが、私がメモできたのはこれくらいでした。

 ご住職のお話しの後、境内の見学です。私は、本番時は詳しいほうの石峰寺での案内を担当しますが、今日は本番当日担当するもう一人の方(Mさん)が案内をしてくださったので、聞き役に回りました。若冲のお墓と筆塚、五百羅漢、その他の境内の順で案内してくださいました。

・石像は七代住職密山和尚の協賛を得て制作された。
・ご住職によると石像の大敵は苔。ピンセットで取り除かないといけない。
 200年後に果たしてどうなっているか心配。
・歌人の吉井勇は、若冲の五百羅漢をこよなく愛した。
 盲腸周囲炎のために京都大学病院に入院し、危篤におちいり、生死の境をさまよった。
 彼はこの夢を回復直後、五百羅漢石像の夢を見たという。
・石像の高さは数十センチから1.6メートル
・托鉢は、午前中に出て、その日食っていく分、すなわち生きていく分だけ頂くこと。
・境内に贔屓像がある。
・竜宮門の扁額「高着眼」は黄檗三筆の一人である即非筆(あと二人は隠元と木庵)
 山門をくぐる心得。高所から見よ、大局的に見よ
・鈴鹿野風呂(のぶろ)の句碑
  春風に五百羅漢のとはれ貌(かお)
  機関誌「京鹿子」発行所でもあった生家は、京都大学近くにあり、
  現在は京鹿子社により野風呂記念館として運用されている。


本堂



若冲の墓と筆塚



境内からの眺め。東寺五重塔が見える。



贔屓像



竜宮門



扁額「高着眼」



 次に2つめの目的地、宝塔寺へ。本番のフィールドワークでは寄りませんが、今日は「茶碗子の水」も寄りました。

 本番では私は石峰寺で2グループを案内し、宝塔寺は案内しません。ですので今日はこちらのほうは私にとっても純粋な研修でした。

・起源となった極楽寺は「大鏡」に書かれているが、大鏡は四鏡の中で最も古い。
・極楽寺良桂が日像上人と法論を戦わす。日像が勝ち、真言律宗から日蓮宗に改宗。
・日像上人は妙顕寺で亡くなったが、遺言で宝塔寺の寺域で荼毘にふされた。
・上人が常に奉持していた、日蓮大聖人と日朗上人の御真骨も併せ奉安された。
・このことから日蓮隠棲の地身延山から見て西にあるので、西身延とも呼ばれる。
・また妙顕寺から見て南東の方角なので、巽の霊山(りょうざん)とも呼ばれる。
・七面宮は鎮守社。身延山にもある。
・日蓮は橘氏の系統である貫名重忠の息子であるとされており、井桁(井戸の桁)に橘を
 家紋として日蓮系統では用いてきた。仁王門の大きな提灯は「井桁に橘」


井桁に橘の宗紋



仁王門 250枚の牡丹図



多宝塔と行基葺き



像尊本廟




 終了後、担当者6名は深草駅への途中で喫茶店に寄って、反省会でした。
  

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最終更新日  2019/08/25 10:27:54 PM
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2019/03/19
テーマ:京都。(5670)
カテゴリ:研修会
【2019年3月19日(火)】

 昨日「京の冬の旅」のガイドが終了しました。私の勤務していた龍泉菴だけでなく、すべての拠点で終了です。常時公開拠点に勤務する人や事務所・会計担当の人は、まだ勤務がありますが、多くの人は次のサイクルの4月初めまで、勤務の空白期間が生じます。私も、もう一つの泉涌寺も終わりましたので、4月初めまで勤務がありません。こういうガイド空白期間を利用してガイド会の研修が行われます。今日は、全体研修が行われました。

 昨日は龍泉菴の勤務終了慰労会で結構お酒をいただきましたが、朝起きるのはしんどくはありませんでした。しかし、生理現象頻繁につき、バスを西京極運動公園前で降りて、行くところに行って、阪急西西京極駅から阪急と地下鉄で、烏丸丸太町の会場に向かうという羽目になってしまいました。何とか時間には間に合いました。

 今日のテーマは「源氏物語と観光ガイド」。北地域組のSGさんの講師による研修でした。この方、短歌に堪能で、古典文学にも造詣が深い方です。ただ、お話しはちょっと分かりにくかったです。私は、源氏物語は瀬戸内寂聴さんの現代文で一通り全部読んだことがあるので、何とかついて行けましたが、そうでない方はしんどかったと思います。


 色々新しく知ることもありました。帰宅後、ネットで調べた情報も交えて記します。(順不同)

・紫式部は本名がない。娘の大弐三位(だいにのさんみ)は、本名を藤原賢子(ふじわら の かたいこ/けんし)と名がある。これは、は親仁親王(後冷泉天皇)の誕生に伴い、その乳母に任ぜられたため。平安時代中期の女流歌人で女房三十六歌仙の一人。

・当時14、15歳で結婚するのが普通だったが、紫式部は20歳代で、親子ほども年の差がある山城守・藤原宣孝と結婚した。藤原賢子(大弐三位)を儲けたが、この結婚生活は長く続かず、4年で宣孝と死別した。

『紫式部日記』は、藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部が、1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月まで、宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。藤原道長の目に触れるものであった。『源氏物語』の作者が紫式部であるという通説は、伝説とこの『紫日記』にでてくる記述に基づいている。

・「紫式部日記」の寛弘5年11月1日(1008年12月1日)の記述に、源氏物語の作者紫式部に対して、藤原公任が「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」(そういえば、このあたりに若紫の姫君がいらっしゃるのでは)と語りかけたとある。「若紫」とは源氏物語の登場人物であることから、源氏物語が歴史上はじめて記録されたものとされ、11月1日が「古典の日」となった。

・皇室には常に複数の分家が存在する。しかし全員が皇族の身分のままだと、財政の負担が増大して来る。そこで皇籍を離脱、すなわち臣籍降下をすることになる。皇族には姓が無いので、臣籍降下の際、姓が与えられた。それを賜姓皇族という。最初は例えば橘(第30代敏達天皇末裔)、清原(第40代天武天皇末裔)の様に、個別に姓氏が与えられていた。ところが平安初期の嵯峨天皇(記紀52代、桓武天皇皇子)には皇子女が多く、大人数を臣籍降下させる必要があった。この様な場合、個別の賜姓は大変。そこで、一括して「源」の姓を贈る事になった。そして中国古典による『皇室と血筋の「源」を同じくする』というネーミングからか、嵯峨天皇以降も臣籍降下の際に源が贈られる場合が続出した。他に賜姓皇族として有名なのは平氏。

・「ろうたし」=かわいい 「うるはし」=美しい。端正だ。 「なまめかし」=若々しい。みずみずしい。

・空蝉は紫式部の自画像といわれる。

葎(むぐら)は、みすぼらしい家や庭の景物として、蓬(よもぎ)や浅茅(あさぢ)とともに、文学作品に早くからみられる。

伊勢斎宮は天皇退位とともに京に戻ったが、賀茂斎院は天皇が亡くなるまで続けた。村上天皇の皇女選子内親王は12歳のときから5代の天皇の57年間にわたって、賀茂斎院をつとめ、大斎院と称された。

六条御息所・秋好中宮親子の話しのもとになったのが、徽子女王(きし(よしこ)じょおう)。醍醐天皇の皇孫。朱雀天皇朝の伊勢斎宮、のち村上天皇女御。斎宮を退下の後に女御に召されたことから、斎宮女御と称された。三十六歌仙および女房三十六歌仙の1人。村上天皇が崩御後は一人娘の規子内親王と共に里第(内裏外の邸宅)で暮らした。規子内親王が27歳で円融天皇の斎宮に選ばれると、翌貞元元年(976年)の初斎院入りに徽子女王も同行、そして円融天皇の制止を振り切って斎宮と共に伊勢へ下向し、前例のないこととして人々を驚かせた。

六条御息所と葵の上の車争いは、葵祭本祭ではなく、御禊の儀の日。当時御禊は鴨川で行われた。車争いの場所は一条戻り橋辺りといわれる。

 最後にSGさんお薦めの源氏物語訳は、角田光代さんのものとのこと。果たして、将来源氏物語を読む時間がとれるかどうか分からないですが、もしょい読むなら角田光代氏のものを読んでみたいと思います。


https://cakes.mu/posts/18664


 終了後、同期ガイド仲間に昼食に誘われましたが、4月3日の二条城と近辺の私的ガイドの下見と昼食場所の確認のため、京都府庁方面に向かいました。→こちら


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最終更新日  2019/08/25 10:27:31 PM
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2018/12/19
テーマ:京都。(5670)
カテゴリ:研修会
2018年12月19日(水)】

 今日の午前中はガイド会全体の研修でした。少し先に定年でお辞めになるUさんによる講義でテーマは「天皇と藤原氏」。12月14日の講義(こちら)に続き2回目の講義でした。今日も高校生のお孫さんがパワポ資料を作成し、表示の操作をするという、微笑ましいプレゼンでした。

 1回目は会場の収容人数の関係で希望者全員が参加できず、抽選での参加でしたが、今日は希望者全員参加できたようです。従って、1回目参加できなかった人のために、最初前回のおさらいからのスタートでした。今日も新たに知ったこと、頭の中が整理できたことがたくさんありました。書き出したらきりがないので、いくつかピックアップしてリストアップします。

・51代平城(へいぜい)天皇のときに起こった「薬子(くすこ)の変」は、現在の教科書では「平城上皇の変」と呼ばれる。藤原薬子は藤原種継の娘。自分の幼少の娘を安殿親王(皇太子時代の平城天皇)に嫁がせながら、自分自身が安殿親王の寵愛を受ける。平城天皇が病弱で退位して平城京に移る。薬子は平城天皇を復位させ、都を平城京へ遷都しようとする。これが「薬子の変」

・「薬子の変」で活躍したのが、藤原冬嗣。嵯峨天皇の信頼を得て、朝廷の実力者となった。冬嗣は娘・順子(じゅんし)を54代仁明天皇(嵯峨天皇の皇子)の女御にし、55代文徳天皇が誕生した。文徳天皇には藤原良房の娘・明子(あきらけいこ、みんし、めいし)が入内し、第56代清和天皇が誕生する、清和天皇は幼少期は良房の邸宅で育てられた。これが摂関政治の始まり。

・天皇は、皇子誕生が後継者という意味で必須だった。藤原氏は天皇家と結びつくためいんは、天皇や親王に嫁ぐ女子の誕生も必須だった。

第52代嵯峨天皇には、49名の皇子・皇女がいた。臣籍降下で嵯峨源氏へと繋がる。


嵯峨天皇




第60代醍醐天皇は、藤原基経の死後、摂政や関白は置かなかった。第61代朱雀天皇、62代村上天皇の時代も含め天皇親政の時代。後醍醐天皇は醍醐天皇のように自分で政治をしたいという思いから、後醍醐の名を付けた。

第63代冷泉天皇は在位3年。父村上天皇と藤原元方の娘との間に第一皇子がいたが、飛び越えて即位。藤原元方は自害した。冷泉天皇に異状な行動が目につくようになり、藤原元方の怨霊の仕業ではないかといわれる。完全隠居後、長生きした。

第65代花山天皇は、乱心。元方の怨霊のためとされた。藤原兼家によって出家させられ山科の元慶寺に入った。法皇として西国三十三所を巡礼した。元慶寺は三十三所の番外となっている。

第66代一条天皇の后は藤原道隆の娘・定子(ていし)。清少納言が仕えた。これに対し、藤原道長が娘・彰子(しょうし)を后として嫁がせた。紫式部を仕えさせ、天皇も気を惹いた。やがて道長が台頭していく。藤原家内の争いの時代。

第67代三条天皇には、道長が彰子の妹・姸子(けんし)を入内させた。第68代後一条天皇には、道長は娘・威子(いし)を入内させた。道長全盛の時代。

・道長は幸運に恵まれた。兼家の五男で兄が多くいたが、伝染病(はしか)で、嫡男「道隆」、次男「兼家」が亡くなり、左大臣になった。入内した娘たちが、それぞれ親王を生み、外祖父となった。多くの公家たちが、献身的な行為を行った(お心頂戴の意図)。


藤原道長




第71代後三条天皇の生母は67代三条天皇の皇女・禎子(ていし)内親王。藤原氏出身でないため藤原氏は摂関政治ができないので、皇太子を20年務めることになり、藤原頼通の冷遇を受けた。関白が頼通から教道(のりみち)に移行された機会に、親政を行い、荘園整理令を宣旨し、藤原家の関係荘園が一部整理され、天皇に荘園を寄進する公家が多く現われた。白河天皇が財産家になり、法勝寺が建立された。院政の時代へと続く。


 この後、テキストは現代の天皇まで続きますが、時間切れで2冊めまでは進めませんでした。分かりやすく体系的にまとめられた資料なので、機会があれば2冊目も講義いただいて聴講させていだだきたいという気持ちです。



 午後の時間を利用して、応挙・若冲ゆかりの地を訪問しました。→こちら


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最終更新日  2019/08/25 10:26:59 PM
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2018/12/17
テーマ:京都。(5670)
カテゴリ:研修会
2018年12月17日(月)】

 秋の特別公開が終わり、「冬の旅」が始まるまでの、12月中旬から1月上旬にかけては、常駐ガイド拠点が減り、かつ修学旅行もほとんどないため、ガイドの延べ件数が少なくなります。それでこのタイミングを利用して、研修会が多く行われます。

 今日は地区組の研修会でした。曇華院鹿王院の見学です。鹿王院は定常公開しているので拝観したことがありますが、曇華院は非公開寺院なので、門をくぐったところまでしか入ったことがありませんでした。このガイド会のすごいところは、会自体が色んな寺社との繋がりがあったり、会員の中に繋がりがある人がいたりして、お願いすれば見学をさせていただくことができることです。

 今日は先輩のMさんが中心で案内してくださいました。Mさん繋がりで実現したのかもしれません。

 曇華院、鹿王院は嵐電嵐山駅から東に2つ目の鹿王院駅の近くに隣合わせで位置しています。

 まず曇華院を拝観させていただきました。









 曇華院は尼門跡で、「竹の御所」とも呼ばれます。山号は瑞雲山で、臨済宗系単立寺院です。お寺さんでは「どんけいん」と称しています。中での説明では「とんけいん」とも聞こえました。「尼寺三十六箇所巡り」の第5番札所です。尼門跡で現在残っているのは、京都と奈良で13しかありません。寺格は、大聖寺門跡、宝鏡寺門跡に次いで3番目です。

 暦応年間(1338~1342)に足利義満が、室町第二代将軍足利義詮(よしあきら)の夫人紀良子(きのりょうし・よしこ)の生母智泉尼を開基として、三条東洞院に瑞雲山通玄寺を建立したことに始まります。通玄寺は尼寺五山に列せられる尼僧の禅道場になりました。智泉尼は、通玄寺境内の東庵に隠退し、「曇華の額」を掲げられたことから「曇華院」と称せられるようになりました。以降、将軍家息女が住持に就かれました。

 その後、何度も火災・再建を繰り返すなか、第105代後奈良天皇(1497~1557)の第四皇女・蘭渓聖秀(しょうしゅう)女王が入寺され、以降代々皇女が入山し、法統が守られてきました。

 元治元年(1864)の蛤御門の変で焼失しましたが、明治4年に現在地の元鹿王院塔頭の瑞応院を修築して移住し、現在に至っています。旧地には曇華院前町という町名が今も残っています。本尊や一部の寺宝などが持ち運びだされ、現在も残っています。

 1953年に、門跡寺院では初めての保育園が開園されました。「若竹保育園」です。子供たちの元気な声が聞こえていました。お寺維持の一助ともなっているのでしょう。

 このお寺がすごいのは、公開寺院ではないので、古い襖絵や杉戸などが、そのまま無造作に結界もなしに置かれているということです。ですので、荷物が当たったりしないように気を配りました。

 お寺の方にご案内いただきました。客殿では、歴代皇女ゆかりの「貝合わせ」の貝や御所人形を拝見させていただきました。昔実際に使われた貝合わせの貝をこんな間近で見たのは初めてです。花鳥蒔絵貝桶とともに後西天皇から拝領されたものです。

 続いて本堂へ。ご本尊は十一面観音菩薩。平安時代の恵心僧都(源信、942~1017)の作と伝わります。


本堂




瑞雲山の扁額。平田精耕・元臨済宗天龍寺派管長(2008年没)の筆です。




襖絵 資料によると江戸時代前期の画家・山口雪渓筆。かなり傷んでいます。






違い棚




杉戸絵 こちらもかなり傷んでいます。






本堂南の庭園












 続いて鹿王院へ。

 康暦2年(1380)、足利三代将軍、義満が延命祈願のために建てた寺院。京都十刹の第五という名刹。義満が24歳のときに建てられました。臨済宗単立寺院。

 開山は義満の師でもあった普明(ふみょう)国師春屋妙葩(みょうは)。もともとは宝幢寺(ほうどうじ)で、鹿王院はその塔頭(開山塔所)でした。名前の由来は、開山堂を建立しようとしたところ、藪の中から野鹿(白鹿)が群れをなして現われたことによると伝わります。正式名称は「覚雄山 大福田 宝幢禅寺 鹿王院」といいます。その後、宝幢寺は応仁の乱で廃絶し、開山の塔頭であった鹿王院のみが残って寺蹟を継いでいます。

 江戸時代。寛文年間(1661~1673)に、客殿などの主要な建物が復興され、それまで宝幢寺の塔所であった鹿王院は、正式に1つの寺院として、寺領・塔頭を抱えることになりました。舎利殿は、宝暦13年(1763)に建立されました。

山門




四脚門。建仁寺総門に継ぐ古い門という説もあります。 唯一創建時の建物。



山門の「覚雄山」の額



足利義満24歳のときの自筆。「覚雄(かくゆう・おう)」とは「悟りにいたりし威大力の英雄」という意味で、お釈迦様のこと。



参道





天台烏薬(うやく)の銘木が繁りますが、紅葉がキレイなところで隠れた名所です。



三社大明神 鹿王院の鎮守社




鎮守社前から薬医門、舎利殿を望む





客殿の縁でご住職から、鹿王院の案内を聴かせていただきました。

客殿の扁額「鹿王院」 足利義満筆




客殿から庭園、舎利殿を眺める




 庭園は本庭と呼ばれ、嵐山を借景としています。舎利殿が建立された宝暦13年(1763)に造られたという説が有力です。日本最初の平庭式の枯山水庭園です。舎利殿前の三尊石は室町時代の石組とのこと。

三尊石




 続いて本堂へ。本堂は、開山春屋妙葩の塔所でもあります。本尊釈迦如来坐像と十大弟子像(運慶作)が安置されています。創建当時のものです。他に「開山普明国師像」、「弥勒菩薩像」、「開基 足利義満像」などが安置されています。

 また壁面には「応永釣命絵図(きんめいえず)」が掛けられています。応永33年(1426)に描かれた絵図で、当時の嵯峨一帯に禅寺が林立していた様子が窺えます。原本は天龍寺蔵の重要文化財で、現在東京国立博物館に寄託されていますが、これだって非常に貴重なものですが、無造作に壁に掛けられています。


 次に舎利殿へ。

舎利殿とモッコクの古木



 釈迦の遺骨である舎利を安置する建物です。鎌倉将軍実朝が、宋の国から鎌倉に招来した仏牙舎利が、厨子内部の多宝塔に祀られています。仏牙とはお釈迦様の歯です。鎌倉・円覚寺などを経て、後光厳上皇が1374年に普明国師に与えて鹿王院に安置されたと伝わります。この仏舎利が日本の博多に無事到着したのが10月15日だったので、昔から毎年その日を「舎利会」と定め、開帳がされます。また、この厨子の装飾が実に見事です。

 舎利殿の中には、仏涅槃図1幅と十六羅漢図が掛けられています。十六羅漢図は円山応挙の弟子の山跡鶴嶺(やまあとかくれい)(狩野鶴嶺)の筆です。

 「駄都殿」の扁額も置かれていますが、これは舎利殿の別名です。


ご朱印




 曇華院、鹿王院とも、とても勉強になりました。ここをガイドで案内するということはないとは思いますが、他の場所での案内の深みを増す一助になると思います。
  

 午後の時間を利用して、来年の年賀状のテーマ「京都の橋」の写真撮影の2回目に向かいました。→こちら

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最終更新日  2019/08/25 10:26:37 PM
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2018/12/14
テーマ:京都。(5670)
カテゴリ:研修会
2018年12月14日(金)】

 今日の午前中はガイド会全体の研修でした。

 今般旧三井家下鴨別邸でお仕事をごいっしょいただいたUさんが、少し先に定年でお辞めになるので、その前にご自身の知見の一部を披露していただくというかたちでの研修会でした。テーマは「天皇と藤原氏」で、今日14日と19日、2回に分けての講義です。今日は、会場の広さの関係で、抽選で参加者が決まりましたが、運よく当選しての参加となりました。

 高校生のお孫さんがパワポ資料を作成し、今日も表示の操作をするという、微笑ましいプレゼンでもありました。

 分かりやすい資料と説明で、楽しく聴講させていただきました。ガイドのとき天皇の名前や経歴・功績などを説明することはありますが、そのガイド先に関係する天皇をピンポイントで説明するだけです。今日は、体系的にかつ時系列的に教えていただき、歴史の流れの中での天皇の位置づけがよく分かりました。初めて知る内容も多くあり、聴講の皆さんも、それ相応の知識を持っておられるはずですが、ときどき「ほぉー」とか「へぇー」とか嘆声が聞かれました。

 新たに知ったことを、書き出してみます。

・京都は原爆投下標的第一候補地だったが、それを阻止したのは米国陸軍長官ヘンリー・スティムソン氏

・天皇125代中、女帝は10名。飛鳥時代の推古・持統・皇極・斉明(さいめい)、奈良時代の元明・元正(げんしょう)・孝謙・称徳、江戸時代の明正(めいしょう)・後桜町 このうち皇極・斉明、孝謙・称徳は重祚(ちょうそ・一度退位した君主が再び即位すること)。


推古天皇

Wikipedia


・京都に都があった時代の天皇は、50代桓武天皇から121代孝明天皇までの72人(全体の58%)。これに北朝5名が加わって77名。

・京都府に陵(墓)がある天皇は74名(泉涌寺16名、深草十二陵12名、龍安寺5名)

・最高紳(太陽神:天照大御神)の末裔で5代目の孫が神武天皇


神武天皇

Wikipedia


・「神」の名のつく天皇は3名(初代:神武天皇、10代崇神天皇、15代応神天皇、皇后は1人神功皇后)。初代の神武天皇は(BC660年)は古い歴史を形成するために創設されたという説あり(初代は10代崇神天皇説が有力)。「神」の天皇の代は、系統の交代を表すという説あり。


神功皇后

Wikipedia


・「祟り(たたり)」の文字がつく天皇は3名。32代崇峻天皇(唯一暗殺された天皇)、崇道天皇(桓武天皇の弟・早良親王)。75代崇徳天皇

・天皇の遺体は、火葬41人、土葬73人、不明8人。仏教は釈迦に倣って火葬。神道は土葬。

・日本の民・国土はもともと天皇のものだったが、奈良時代の44代元正天皇は、開墾の田地は「三世一身(父・子・孫)法」で私有地を認めた。45代聖武天皇の時代に「墾田永年私財法」を発布し、永久私有地が認められた。これが天皇・藤原氏・社寺の「荘園」に繋がっていく。

 このあと、祭祀、政治、軍事を誰が担ったかを時代別に分析し、蘇我氏、藤原氏への話に繋がっていきますが、私自身が不勉強の分野で、初めて知ったことだけを列挙するにしても、大変な分量になるので、ここで留めます。

 また、平安京の天皇の一覧表には、どういう立場で皇位を継承したか(例えば、子として、弟として)、即位年齢、在位年数、没年齢、母の父(祖父)が纏められており、これから各天皇の当時置かれた環境を垣間見ることができます。例えば、第79代六条天皇から第83代土御門天皇までの即位年齢は連続で10代以下であり、院政の時代と符合しています。また、天皇の母の父(祖父)には室町時代までは藤原氏関係が名を連ねます。いかに藤原氏の皇室への影響が大きかったかということを、このことからも知ることができます。

 講義時間でお話しいただいたのは、いただいた資料の半分もないでしょう。実に充実した資料です。通しで読みたいとは思うのですが、諸般あるなか果たして読み切れるかどうか。

 後半の講義も楽しみです。


 午後の時間を利用して、来年の年賀状に掲載する写真の題材集めで、京都を歩きました。→こちら


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最終更新日  2019/08/25 10:26:09 PM
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2018/11/29
テーマ:京都。(5670)
カテゴリ:研修会
2018年11月29日(木)】

 今日はエリアグループの今年度2回目の研修会でした。来月、我がガイド会が担当する某シニア講座の予行演習も兼ねています。私はその講座の企画委員の一人ですので、今日は受付などを担当するとともに、本番講座に向けて訪問地の現地確認を行いました。

 まず午前中にKさんによる「琳派」についての講義がありました。企画委員として参画してきたし、私自身も若冲・応挙の勉強の過程で琳派のことにも触れるので、既知の部分が大半でしたが、今日、初めて知ることも多くありました。

 その中で一つ印象に残っているのが、「燕子花(カキツバタ)図屏風」には型紙が使われているということ。上記のカラーの部分がそうです。


燕子花図屏風 カラーの部分が型紙使用部。

https://mananavi.com/%E5%9B%BD%E5%AE%9D%E3%80%8C%E7%87%95%E5%AD%90%E8%8A%B1%E5%9B%B3%E5%B1%8F%E9%A2%A8%E3%80%8D100%E5%B9%B4%E3%81%B6%E3%82%8A%E3%81%AB%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%B8/


 午後から、「妙顕寺」と「本法寺」を訪問させていただきました。それぞれのお寺において、我がエリアグループのIさん、Mさん、Yさんによる案内がありました。下見は以前しましたが、先様との調整が中心でした(こちら)。今日はしっかりと見学させていただくことができました。


●妙顕寺

境内の紅葉







四海唱導の庭









孟宗竹林の坪庭





光琳曲水の庭




 宝物館では「細字法華経」を見ることができました。極小の字の大きさで書かれたお経は、人間業とは思えません。



●本法寺


「巴(ともえ)の庭」の「巴」がどの部分を指すのか、今日の訪問で分かりました。

巴の庭










光悦の蹲(つくばい)





現在の配置





江戸期代の様子 「都林泉名所図絵」より

上記2つの絵はお寺からいただいたパンフレットから
 

十(つなし)の庭
 庭の石は9つでも、見る人の心にもう一つの石(意志)が存在するというところからの命名。「十」を「つなし」と読むのは、数字の1~9を数えるとき、ひとつふいたつと「つ」がつきますが、十(とお)には「つ」がつかないことから。







 長谷川等伯の「佛涅槃図」(複製)も見せていただきました。


 予定通りの時間に終わり、委員は堀川今出川上ルのシュークリームの美味しい「オアフ」というお店で、アルコール抜きの反省会でした。ここでは私が担当する部分のフィールドワークは深草の石峰寺と宝塔寺を訪問することで了解が得られました。石峰寺はすでに訪問してお寺さんにお願い 済みです。今後、宝塔寺にIさんといっしょに訪問して、受け入れをお願いすることになります。


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