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ワルディーの京都案内

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常駐ガイド

2020/02/17
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テーマ:京都。(5707)
カテゴリ:常駐ガイド
【2020年2月17日(火)】

 30回目の事務所勤務で、今日はサブ担当でした。同行ガイドのシーズンオフ、来季の修学旅行の本確定な実働前の時期ということもあり、比較的落ち着いて仕事できました。午前中は、明日締切の修学旅行のレスポンスレターの整理をし、午後からは4月の修学旅行のガイド名のインプットをしました。


 前回、悪王子社について記載しました(こちら)。そのとき、ネットで色々調べたのですが、現在悪王子社の社がある場所は、跡地からかなり南に行ったところで、跡地はもっと北の四条東洞院下ルにあって、そこに石碑が建っているということが分かりました。今日の通勤途上確認しましたが、確かに四条東洞院下ル西側に石碑が建っていました。電柱の陰に隠れて今まで気が付かなかったようです。


悪王子神社跡地の石碑







 今日は私の65歳の誕生日。年金フル受給の申請をし、介護保険の被保険者になったことは、以前投稿しました(こちら)。お祝いはこの前、家内の誕生日、結婚記念日を兼ねて、家内と二人で京都で祝ったので(こちら)今日は軽くショートケーキでお祝いでした。



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最終更新日  2020/02/18 01:05:53 AM
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2020/02/16
カテゴリ:常駐ガイド
【2020年2月16日(日)】

 光照院勤務の14日目でした。2回目の当日世話役でした。天気予報通り雨の一日でしたが、京都の最低気温9.5度、最高気温14.2度と暖かい一日になりました。

 光照院の中門を入ったところに立派な桜の古木があり、本堂、書院への参道に覆い被さるように枝が張り出しています。朝の準備のとき、傘が枝に当たってしまいました。傘に遮られて、背丈より少し高いだけの枝に気付かなかったのです。多くのお客様が傘を枝に当ててしまう可能性があります。桜の枝が損傷したり、お客様の傘が壊れたり、最悪の場合お客様が怪我される危険性もあります。そこで、ご住職に許可を得たうえで、チェーン結界を移動させたり、三角コーンを並べたりして、枝に当たらないところをお客様に通っていただくように導きました。これは上手くいきました。

 当日世話役は他のメンバーの昼食時間の際に案内に入るときがあり、当日世話役であった私も何度か案内させていただきました。そのときにお客様から自製のフリップ(紙芝居)の漢字間違いのご指摘をいただきました。「常磐御所」と書くべきところを「常盤御所」と書いていました。それをお客様が気付かれたのです。両方とも「ときわ」と読むし、両方とも永久不変という意味があるのですが、光照院の別称は「常磐御所」が正しいのです。ご指摘いただいたのはありがたかったです。ご指摘いただかなければ、ずっと間違ったままだったでしょう。感謝です。時々こういうことがあります。なかには、間違いが気付かないままということもあったかも知れません。これから注意しなければなりません。


 さて、前回、応仁の乱で、持明院殿も光照院も焼け、乱が終わる頃、後土御門天皇によって自本覚公が誕生した持明院殿の土地が光照院に下賜され、そこに光照院が再建されたことをお話ししました(こちら)。

 開山の自本覚公、二世の月山円公(後花園天皇皇女)の後は、足利将軍家や近衛家の息女が入寺し住持しましたが、江戸時代初めに、後陽成天皇の皇女が入寺すると、以降は代々皇女(内親王)が入寺し、尼門跡となり、江戸時代後期まで続きます。

 後陽成天皇の皇女の方々が、門跡として三世・松山尊栄宮、四世・心月尊蓮宮、五世・崇山尊清宮を務められました。


後花園天皇から後陽成天皇に至る系図






 続きます。



 光照院勤務後、ある方にお会いするため堀川五条のロイヤルホストに立ち寄りました。→こちら



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最終更新日  2020/02/18 12:30:43 AM
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2020/02/14
テーマ:京都。(5707)
カテゴリ:常駐ガイド
【2020年2月14日(金)】

 29回目の事務所勤務で、2回目の当日責任者でした。まだまだ分からないことが多く、サブ勤務の方に色々確認しながらの勤務でした。当日責任者は、カバー範囲が広いので、「今日は、これを中心にしました。」とはなかなかなりません。電話対応でガイドの申し込みだけではなく、観光案内所のような対応をしないといけない場合もあるし、今日のようにクレーム対応もあります。でもまぁ何とか一日乗り切ることができました。 


 通勤途上、東洞院綾小路上ル西側に「悪王子社」があります。

 悪王子社は、素戔嗚尊を祀る神社と伝え、もともとは当地に祀られていました。しかし慶長元(1596)年に豊臣秀吉の命により烏丸五条に移され、この地を元悪王子町、移転地を悪王子町と呼ぶようになりました。明治10(1877)年に八坂神社境内の本殿東側に移転しました。平成10年、土地所有者の好意でここに分霊を頂き、この地に祀られています。


悪王子社









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最終更新日  2020/02/15 12:59:05 AM
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2020/02/13
テーマ:京都。(5707)
カテゴリ:常駐ガイド
【2020年2月13日(木)】

 光照院勤務の13日目でした。3回目の受付でした。京都の最低気温9.2度、最高気温21.3度と、天気もよく、非常に暖かい一日でした。受付小屋のストーブは途中から切りましたが、暑いくらいでした。このまま暖かくなってくれるとありがたいです。一般のお客様は少なかったですが、団体さんが定期観光以外に2組あり、合計では、平日としては、そこそこの入場者数でした。


 前回は自本覚公が延文元年(1356)、光照院を室町一条の北に創建したところまでお話しました。

 光照院の二世は102代後花園天皇の皇女、月山円公宮でしたが、以降は、足利将軍家、近衛家の息女が住持し、比丘尼御所となりました。14世紀後半から上流階層とつながりを持つ尼寺は比丘尼御所と呼ばれました。住持となるのは、皇族ないし将軍家(足利家)に限られていました。娘が格式のある尼寺の住持となることは、その家にとっても名誉なことでした。足利家の息女たちは、尼寺で目立った存在で、足利義満の10人の娘のうち、7人が尼寺に入っています。

 やがて光照院は、応仁・文明の乱(1467-1478)で焼けてしまいます。持明院殿も焼けてしまいます。そして、乱が終わる頃、後土御門天皇により、自本学公誕生の地、持明院殿跡が下賜され、そこに1475年光照院が再建されました。






 続きます。



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最終更新日  2020/02/14 01:42:45 AM
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2020/02/11
テーマ:京都。(5707)
カテゴリ:常駐ガイド
【2020年2月11日(火・祝日)】

 光照院勤務の12日目でした。京都の最高気温は10.4度と10度は超えて、風も強くなく、よく晴れて日向にいると気持ちよかったです。室内もコートは不要なくらいでしたが、足元はカイロを入れていたものの冷えたようで、帰宅後、指先の血行が悪くて霜焼けの前兆のような症状がありました。レッグウォーマを忘れて着けていなかったせいかもしれません。昨日は事務所勤務でしたが、帰宅途中、街の写真を撮るのにカメラの細かい操作がよく分からなくて、結構長い時間路上に立ち止まっていたためか、同じような症状になりました。暖冬だからと油断していると、ガイド成り立ての2016年~2017年のシーズンのように霜焼けに苦しめられることになるかもしれません。万全の注意を払わねばなりません。

 土日の入場者数が新型肺炎の影響で減っているのではないかと以前書きましたが、今日は何もまだ騒いでいなかった頃の、土日の入場者数に達しました。多くのお客様に接することができ、楽しくご案内させていただきました。


 過去3回、南北朝の兆しから、その終わりまでの歴史について書いてきました。今日は再び本題の光照院の歴史に戻ります。

 持明院統の初代である第89代・後深草天皇の孫が第93代・後伏見天皇です。その皇女として、進子内親王(「しんし」「ますこ」・1335~1412)が、持明院殿で誕生します。内親王誕生の翌年の延元元年(建武3年)に後伏見上皇が亡くなり、その後2人の兄君は、それぞれ北朝初代光厳天皇、北朝2代光明天皇として擁立されます。





 南北朝の争乱の世を憂えた内親王は幼少の頃から仏門に帰依することを決意し、10歳になるまでの数年を播磨路の各地の仏刹で修行されます。そして、延文元年(1356)泉涌寺の無人如同和尚のもとで、22歳のときに得度し自本覚公と称し、室町一条の北に、光照院を創建します。33歳のときには、四宗の奥義を極め、律を基本に天台・真言・禅・浄土四宗兼学の寺院としました。





 続きます。



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最終更新日  2020/02/12 06:38:17 AM
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2020/02/10
テーマ:京都。(5707)
カテゴリ:常駐ガイド
【2020年2月10日(月)】

 28回目の事務所勤務でした。朝は緊急事態がありましたが、何とかうまく対処できました。Yさんとの勤務で私はサブでした。2月からは繁忙期に入って2人勤務です。ただ4月の修学旅行はまだ具体的に動き出していません。また3月の修学旅行が実働段階ですが、件数は多くありません。同行ガイドも桜の季節分がまだ動きだしていません。そんなタイミングですので、今日は落ち着いて対応できました。常駐ガイドで、実施日まであまり時間がなくて申し込んで来られた案件が1件あって、普通ならお断りするのですが、私がたまたま対応できる日でしたので、お受けしました。色んなプロセスに慣れてきて、だいぶスムーズに種々進めることができるようになってきました。

 通常の勤務以外に、2月のこれからは、自動車免許更新、お墓参り、前出の同行ガイド1件、研修1件、大学研究室同窓会、3月は、カニ食べ日帰り旅行、研究員研究報告書、西京会京都案内、櫻谷文庫勤務準備、オーイ会京都案内、確定申告、冬旅慰労会、お彼岸のお墓参り、ガイド会先輩の送別会、通常ゴルフラウンド2回、1泊2日ゴルフ旅行、研修1件があります。ちょっと大変です。


 
 通勤途上、東洞院仏光寺上ルに「くみひも芳厳」という「京くみひも」のお店があります。ぱっと見、廃業されたような雰囲気もあります。ネットで調べてみました。
  
 正式には「大林岩次郎商店」で、店主は大林芳雄さん。昭和5年生まれ(ですから89歳)、昭和23年から、「くみひも」の仕事に就いておられますが、体調を崩され今は制作をされておらず、京都の伝統を感じとってもらえるよう、これまで作った「くみひも」の一部を店先に展示しておられます。
 

くみひも芳厳





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最終更新日  2020/02/11 01:38:34 AM
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2020/02/08
テーマ:京都。(5707)
カテゴリ:常駐ガイド
【2020年2月8日(土)】

 光照院勤務の11日目でした。京都の最低気温1.8度、最高気温9.2度と、そこそこ寒い一日でした。手袋にもカイロを入れて臨みましたが、コートは着ないでスタートしました。でも、午後遅くから多少風も強くなってコートを着ることになりました。定期観光以外は、団体さんはなく、ゆったりと楽しくご案内させていただきました。土曜日のわりには、入場者数が伸びませんでした。やはり新型肺炎の影響があるように思います。


 前回、南北朝の始まりの部分まで書きました(こちら)。今日はその続きです。今回も「歴史人(れきしびと)」https://history-men.com/のサイトを中心に参考にしています。

 後醍醐天皇が京都から吉野に去ると足利尊氏は持明院統の光明(こうみょう)天皇(北朝第2代)を擁立、建武式目を制定し新たな幕府である室町幕府を開きます。光明天皇の即位によって北朝が成立したので光明天皇は実質的には北朝最初の天皇ということになりますが、北朝第2代とされています。鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇126代に含まれないのですが、北朝初代天皇として扱われているためです。

 一方、吉野へと逃れた後醍醐天皇は「朝廷に返した三種の神器は偽物である。そのため光明天皇の皇位は正統ではない。」と主張し、延元元年(1336)、吉野で南朝を開きました。こうして北と南、2つの朝廷が誕生することとなりました。

 その後、北朝、南朝の間で軍事衝突がたびたび繰り返され、名和長年・新田義貞を始め多くの南朝方の武士が次々と戦死し、また延元4年(1339)に後醍醐天皇が崩御したことにより、北朝が軍事的に優位に立つこととなります。

 しかし、室町幕府内では観応の擾乱といった内乱が勃発してしまいます。将軍・足利尊氏とその弟・足利直義の対立で、正平6年(1351)に足利尊氏は弟・足利直義の勢力に対抗するため一時的に南朝と和議を結び、後村上天皇から直義追討の綸旨(りんじ)を得て直義を討ち勝利しました。そして南北朝の内乱はさらに激化していきます。

 しかし、ついに元中9年(1392)室町幕府3代将軍・足利義満の斡旋により大覚寺統と持明院統の両統迭立、国衙領を大覚寺統の領地とする、といった明徳の和約が定められ、これによって南北朝の合体がなされ、56年間に及ぶ南北朝時代は終わりを迎えました。


南北朝 天皇系図




 ちょっと横道にそれてしまいました。次回から光照院中心のお話しに戻ります。


 
 勤務終了後、M社事業部門時代の軟式テニス部の仲間との飲み会があり、京都駅方面に向かいました。→こちら
 


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最終更新日  2020/02/09 12:38:14 PM
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2020/02/06
テーマ:京都。(5707)
カテゴリ:常駐ガイド
【2020年2月6日(木)】

 光照院勤務の10日目でした。朝起きたら、道路の向こうの屋根が真っ白、1センチ以下でしょうが、今シーズン初めて雪を見ました。今年は暖冬で、雪を見ないかもと思っていたので、ついに降ったかという感じです。


自宅2階から見る雪景色




 私の自宅は標高の高いところなので、雪が積もりましたが、京都市内は積もっていませんでした。でも、ガイド中も、ほぼ終日雪がチラホラして、ようやく冬という感じの中でのガイドとなりました。この「冬旅」で初めてカイロが必要と感じた日でもありました。本堂前に梅の古木がありますが、薄紅の小さな花を咲かせてキレイです。

 新型肺炎でマスクをできるだけ着用するようにとの指示が出て2回目の勤務でしたが、今日マスクが観光協会から配布されました。備蓄があったようです。我が家の在庫は底をつきかけ、店も品切れでどうしたものかと困っていたのですが、少なくとも「冬の旅」が終わるまでの枚数は対応できるようです。


配布されたマスク。とりあえず私の2月勤務日数分を確保




 前回は受付でしたが、今日は普通の案内役。受付よりは大きな声で話しをしないといけないので、ちょっと心配でしたが、眼鏡が曇りやすいのと、ちょっと声が籠るのが気になるくらいで、問題なくお話しできました。最初の常盤会館での案内では、マスク着用をお断りしたうえでのご案内としました。

 今日は入場者は少なかったです。少し前までは、平日でももっと多かったのですが。もともと中国人の方は全くというほど来ないところなので、中国人旅行客の減少は影響ないのですが、人混みを避けるために、日本人旅行客も減少している影響ではないかと思います。

 それでも閉場間際に、予約のバス2台50人の団体さんが来てくださいました。2班に分けてのご案内で、私は書院担当で、2回連続で楽しく案内させていただきました。2班に分けての案内は本堂、書院の入れ替えがネックですが、絶妙のタイミングで交替できたのもよかったです。全体のお客様の数は少なかったですが、締めくくりは最高でした。


 前回、南北朝に至る、「両党迭立」について記しました(こちら)。今日はその続きです。今回も「歴史人(れきしびと)」https://history-men.com/のサイトを参考にしています。

 前回記したように、2つの家系から交互に天皇が即位する両統迭立が行われることとなりましたが、持明院統の花園天皇から譲位され徳治3年(1308)に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は両統迭立に対し、不満を持っていました。後醍醐天皇は両統迭立を承認する鎌倉幕府を打倒する計画を企てます。しかしこの討幕計画は正中元年(1324)に発覚し、後醍醐天皇の側近・日野資朝らが処分される事態となりました。

 後醍醐天皇はその後も討幕計画を企てますが、再び側近の密告によって発覚することなり、元弘元年(1331)後醍醐天皇は天皇即位の際に必要となる三種の神器とともに京都を脱出します。幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させます。そして後醍醐天皇は、幕府方に捕らえられ翌年、隠岐島へと流されることなりました。その後、名和長年ら名和一族の助けもあり元弘3年(1333)隠岐島を脱出します。

 この頃、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)らが各地で討幕運動を行います。後醍醐天皇は再び、討幕に向け挙兵します。足利尊氏や新田義貞といった武士も後醍醐天皇の討幕に協力することとなり、鎌倉幕府は滅びる結果となりました。

 こうして鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は自ら新政を開始します。これを「建武の新政」といいます。しかしその新政は革新的な政策ばかりであったため、公家や武士たちは新政に失望し、後醍醐天皇に代わる次の天皇を求めるようになりました。これと併行して、鎌倉幕府を共に滅ぼした足利尊氏も後醍醐天皇から離反することとなり、多くの武士たちが後醍醐天皇から離れていくこととなります。

 これに対し、後醍醐天皇は新田義貞や北畠顕家に足利尊氏の討伐を命じ、建武3年(1886)多々良浜の戦い、湊川の戦いが勃発しました。しかし、後醍醐天皇は足利尊氏方に押されることになり、後醍醐天皇は足利尊氏と和睦し、京都を脱出し現在の奈良県である吉野へと逃れました。和睦の際、後醍醐天皇は持っていた三種の神器を朝廷に返したとされています。

 こうして京都から後醍醐天皇が去ると足利尊氏は建武3年(1336)持明院統の光明天皇(北朝)を擁立、建武式目を制定し新たな幕府である室町幕府を開きます。


南北朝に至る系図(前回と同じ)




 続きます。
 
 
 今日は、光照院のご住職から節分の豆のお下がりをいただきました。炒ったお豆ではなく、生のお豆で大豆ご飯の作り方が書いてありました。


節分のお豆






 帰りに予約してあった歯医者に寄りました。先日、ミルキーのような飴を食べていて、左上の歯の「被せ」が外れてしまったからです。この歯科医で詰めたものではないとのこと。この歯科医にかかりだしたのは、もう10年以上前です。普通はミルキーのような飴を食べても外れることはないのですが、長い年月が経つと、経年劣化があるので、外れるのは止むを得ないとのことです。ミルキーのような飴を食べるのは控えましょう。外れた「被せ」をまたくっつけてもらいました。



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最終更新日  2020/02/07 10:05:46 AM
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2020/02/05
テーマ:京都。(5707)
カテゴリ:常駐ガイド
【2020年2月5日(水)】

 27回目の事務所勤務でした。私は駆け出しでしたので、今まで2人勤務のサブしか担当したことがありませんでしたが、事務所勤務開始から5ヶ月が経過し、今月からは半分は当日責任者を務めなければなりません。今日がその当日責任者担当の初日でした。

 当日責任者は、その言葉通り、当日のコントロールをするわけですが、電話があれば最初にとる、日報を書いて配信するなど、サブにはない業務も加わります。特に架かってきた電話をとるというのは、進めていた業務を一旦中断することになるので、そこにミスが起きやすいということになるので要注意です。

 今日は幸いにも、業務量は多くありませんでしたので、何とか乗り切ることができました。これから日増しに忙しくなっていきますが、経験を積んでいくしかないでしょう。


 通勤途上、東洞院竹屋町の東南角の公園に面して「こども未来館」が建ちます。


こども未来館




 ここは、竹間(ちっかん)小学校、竹間幼稚園が廃校になった跡を利用したもので、公園の西南端には、小学校・幼稚園についての記念碑が置かれています。


竹間小学校・竹間幼稚園記念碑




石碑記載以外の情報も含めて、竹間小学校・幼稚園の歴史を記します。

・竹間小学校は明治2年、上京第二十一番組小学校として創設
・昭和22年 京都市立竹間小学校に
・平成5年 京都市立富有(ふゆう)小学校と統合し、京都市立竹間富有小学校に
・平成7年に梅屋・龍池・春日小学校と共に統合し、富有小学校の地に御所南小学校ができた。
・竹間幼稚園は 明治18年竹間小学校に幼児保育科として創設された。
・明治42年に廃止となったが、昭和30年に再開園した。
・平成8年京都市立中京もえぎ幼稚園に統合された。

 公園は恐らく小学校のグラウンドだったのでしょう。

 この石碑は東洞院通からよく見えるので知っていたのですが、そのそばに昔からの石碑があるのに、今日気が付きました。「名醫 吉益東」までは読めますが、その下が草に隠れて読めませんでした。帰宅してから調べました。「名醫 吉益東洞宅蹟」と彫られているようです。


吉益東洞宅蹟




 以下は、京都市の「いしぶみデータベース」からです。

『吉益東洞(とうどう)((1702~73)は,安芸出身で元文3(1738)年京都に移り,古医方をもって医者となった。不遇であったが,解剖をして有名になった山脇東洋(1705~62)に見出された。その学説は,万病一毒説と親試実験にあって,実験医学の道を切り開いた。この石標は,吉益東洞宅の跡地を示すものである。なお,東洞の号は東洞院通に面して住していたことに因む。』


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最終更新日  2020/02/14 07:11:30 PM
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2020/02/03
テーマ:京都。(5707)
カテゴリ:常駐ガイド
【2020年2月3日(月)】

 26回目の事務所勤務でした。12月、1月は繁忙期ではないので、1人勤務したが、2月は修学旅行ガイドシーズンを前にした繁忙期に入り、11月まで2人勤務です(超繁忙期は3人勤務)。私は駆け出しでしたので、今まで当日責任者を担当したことはありませんでしたが、事務所勤務開始から5ヶ月が経過し、今月から半分は当日責任者を務めなければなりません。

今日は当日責任者ではなくサブで、終日来年度の修学旅行関係を担当しました。年サイクルの管理表の最終化と、5月の修学旅行催行確認用のデータ作成と確認文書の作成に終始しました。後者は1ヵ月前にも経験しているので、前回よりはスムーズにできました。

 勤務後、Tさん宅に立ち寄って、預けてあった「ほろよいコンサート」のときの荷物をピックアップ。Tさんは、今度初めて、常駐ガイドの全体責任者を担当するので奮闘中で、すでに経験した私に色々ヘルプを求められ対応しました。首尾よく始まり大過なく終わることを祈ります。


 通勤途上、三条東洞院北西角に「教諭所跡」という駒札と、「京都・電信・電話発祥の地」という石碑があります。前回は、「教諭所跡」を紹介しました(こちら)。今回は「京都・電信・電話発祥の地」です。

 明治5年(1872)明治政府は、郵便事業開始に続いて全国的な電信網敷設に着手しました。京都ではこの地に西京(さいきょう)電信局を設置しました。電話は明治10年(1877)に輸入され、同21年(1888)官営の方針を決定し、同23年公衆電話事業が始まりました。同29年(1896)京都電話交換局が設置され、翌30年5月に交換業務を開始しました。(「フィールドミュージアム京都」http://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/index.htmlから)


東洞院三条北西角 NTT西日本京都支店




「京都・電信・電話発祥の地」の碑(手前)(交差点北西角)




 その向こう側に写っているのは、「京都電話百年記念」のモニュメントです。1997年に造られてタイムカプセルが埋められ、20年後の2017年5月27日(土)に記念式典を行い開封したそうですが、中に何が入っているかは情報がありません。(「ガイドブックに載らない京都」https://www.kyoto-inf.com/から)



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最終更新日  2020/02/04 10:47:28 AM
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