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ワルディーの京都案内

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京都研究

2020/12/27
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テーマ:京都。(5457)
カテゴリ:京都研究
【2020年12月27日(日)】

 伏見稲荷大社お山巡り裏参道の私の故郷名が入った鳥居のある祠を研究中です。

 第1回⇒こちら
 第2回⇒こちら

 今日の三重への今年最後のお墓参りのついでに、私の故郷での現地調査をしました。

 まず、私の家の菩提寺玉保院へ。ここでは、以前、伏見稲荷裏参道の祠で発見した「菊池藤次郎」という名前が本堂に向かって左側の水槽に彫られていることを発見しました。今日はもう1つある向かって右側の水槽の字彫を確認しました。

玉保院




玉保院の水槽




向かって左側の水槽の字彫




向かって右側の水槽の字彫




本堂向かって左側の水槽の字彫
「當所橋向町 喜久家 菊池藤治郎 昭和八年九月 五十四才 妻 ゑい」

向かって右側の水槽の字彫
「當所橋向町 花定 若林定吉 昭和八年九月 七十九才 妻 むめ」


 続いて、氏神様の一御田神社を訪問。赤い鳥居の連なった小さな社がお祀りされていたとの記憶があったからです。


一御田神社




 やはりそうでした。本殿に向かって左側に「花山稲荷」というお社がお祀りされていました。

花山稲荷






 石鳥居には「平成七年六月吉日」と彫られ、木鳥居約15本には「平成二十三年十月吉日」と書かれています。社殿の裏にはお塚があって「花山稲荷大神」と彫られています。その裏には「大正十五年三月建之」と彫られ、寄付人名14人刻字があります。この中に玉保院水槽の若林定吉、菊地藤次郎(菊池藤次郎ではなく)ご両名の名前も刻まれています。お寺さんも神社も篤く信仰されていたのでしょう。さらに荒木神社での刻字との共通の名前は「松村弥次男」「若林定吉」「菊地藤次郎」「田中廣治(荒木神社は廣吉だが)」です。石鳥居も木の鳥居も年代が新しいので、今も地元の方で手厚くお祀りされているようです。また神社の掲示板に「松村弥次男之命」の札が掛けられており、松村弥次男氏は神として祀られているようです。

 花山稲荷は山科にあります。ここから勧請したのでしょうか? 一度訪れたことがありますが、また研究のために近々訪れたいです。


石鳥居の字彫




木の鳥居




社殿裏の花山稲荷大神のお塚




お塚の裏の寄付人名




松村弥次男之命の札が見える




 続いて菊池藤次郎氏の子孫の方(私の小学校の同級生)のお宅を外からだけですが拝見させていただきました。昔料亭をやっていたお家なので、広いお家です。お庭にお稲荷さんを勧請したと思われる小さなお社がありました。いずれはお話をお伺いしたいと思っています。

 色々な発見がありました。


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最終更新日  2020/12/29 04:45:02 PM
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2020/12/23
テーマ:京都。(5457)
カテゴリ:京都研究
【2020年12月23日(水)】

 先日、伏見稲荷お山巡りの裏参道の私の故郷名が入った鳥居のある祠についての現地調査結果について投稿しました。⇒こちら

 帰宅後、2014年2月に現地でこの鳥居を発見したときの写真を確認しました。すると、祠の左側はお塚の全くない空き地になっていました。祭壇上に設置されていたお塚群が、倒壊したか何かですべて、この左側の空き地に移し替えられたようです。


この12月18日撮影 (お塚群は祠の左側に見える)




2014年2月9日撮影 (お塚群は祭壇上に見える。祠の左側は空き地)




 そこで今日荒木神社に再度訪問し、神社の方に確認しました。やはり倒壊したので移し替えたとのこと。ただ持ち主に連絡がつかない状況なので、神社側で移設したとのことでした。

 持ち主が分かる場合は、持ち主から管理料を払ってもらって維持管理しており、修理が必要であれば連絡しているが、連絡先が分からなくなった場合は、神社側負担で処置していますとのことでした。

  覆いは誰が造ったものか分からないし、そして近年キレイに塗り替えられているようですが、それも誰が塗り替えたのか分からないそうです。

 お塚群の刻字も記録にとどめました。設立者、設立年代は刻字されておらず、神名が表面に刻字されているのみです。必ず複数の神名が刻字されています。全部で23柱です。

 最上段:「花丸・花菊」
 2段目:「花光・八丸」「寶丸・花徳」
 3段目:「光照・薬光・薬照」「花山・清照」「光丸・花治?」「朝日丸・菊吉」
 4段目:「花之栄・智恵丸・玉之栄」「千江丸・藤松 吉高・石船」「??・福丸」
     「吉丸・金光」「松栄・花本」
 5段目:「五豊・綱?」「末丸・丸菊」「??・??」「中西・金?」「玉?光・浮松」
     「丸吉・吉玉」「??・玉?」「石船?・玉橋」「房吉・栄吉」「向?・五向」

 向かって左の狐像には「鈴木清一」の刻字がありました。

 「花」「栄」「菊」などの漢字が多用されています。姓名と組み合わせた神名が多いようです。


お塚群





お塚群が載っていた祭壇






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最終更新日  2020/12/29 04:14:46 PM
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2020/12/18
テーマ:京都。(5457)
カテゴリ:京都研究
【2020年12月18日(金)】

 研究員の年度研究成果を来年の3月始め頃には提出する必要があります。A4で1枚か2枚程度の短いものですが、この年末から来年5月にかけては、会の庶務、会での2つの研修講師、「京カレッジ」講師が立て続けにあり、非常に忙しくなるので、早めにスタートする必要があります。そこで今日は「京の冬の旅」妙蓮寺の見学が終わった後(こちら)、伏見稲荷大社を訪れました。

 私の研究テーマは「伏見稲荷大社とその周辺の不思議研究」というテーマで、これを変えることはできません。過去、次のような研究をしてきました。

2017年度 「お滝」の成立過程と現状
2018年度 「お滝」の成立過程と現状」その2~個々の「お滝」の詳細まとめ
2019年度 「あなたの知らない伏稲荷大社」~知られざるスポットのフィールドワーク案内

 2019年度の「あなたの知らない伏見稲荷大社」は麓エリアだけだったので、2020年度はそれの山腹、山上エリア版にする計画でしたが、コロナ禍もあったし、フィールドワークに行く時間もとれず、別のテーマを取り上げることにしました。

 研究テーマ「伏見稲荷大社とその周辺の不思議研究」と決めたとき、将来の研究の題材の一つとしてあげたのが、伏見稲荷大社の「お山巡り」の裏参道にある、とある祠です。そこの石の鳥居には「伊勢国 一身田」という字が彫ってあります。研究員を始める前の京都歩きのときに見つけたものです。津市一身田は私の故郷で、今も月に一度か、2カ月に一度お墓参りに帰っています。こんなローカルな地名を伏見稲荷大社参道で発見して驚いたので、いずれは研究テーマに取りあげたいと思っていました。そして、そこには「㐂久家藤治郎」という名も彫られています。

 これには後日談があります。2018年3月に故郷の菩提寺を法要で訪れたとき、境内の水槽に「喜久家菊池藤治郎」の名を見つけたのです。ご住職のお話によると、「菊池藤治郎」氏は、当時、料亭を営んでいて財をなされ、地元の名士で、お寺などにこうやって寄進されていたようです。伏見稲荷の鳥居も、その一環だったのでしょう。そしてその菊池家は、私の小学校の同級生あるいはその親戚筋の家だということも分かりました。ご住職経由で現在の菊池家の方(恐らく私と同年代)に聞いていただいたところ、「小さいときは、その祠に連れていってもらったことはあるが、それ以降は訪れたことはない」とのことでした。

 今回、この題材を研究テーマとし、一度菊池家の方にお話をお伺いしたいと思い、そのためには現場をよく調べる必要があると考え、今日、訪れた次第です。

 色んなことが新たに分かりました。追々紹介していきます。


伏見稲荷大社「お山巡り」裏参道の問題の祠




伊勢国 一身田の刻字




㐂久家藤治郎の刻字




一身田の私の菩提寺の水槽に「喜久家藤治郎」の刻字





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最終更新日  2020/12/20 10:27:04 AM
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2018/04/17
テーマ:京都。(5457)
カテゴリ:京都研究
2018年4月17日(火)】

 真如寺ガイドの事前説明会(こちら)、「無限洞」での昼食(こちら)、上賀茂神社の公募ガイド下見(こちら)の後、まだ三味線レッスンまで時間があったので、京都府立図書館に向かいました。

 バスを乗り継いで行ったのですが、百万遍のバス停で乗り換えるとき、他の方が携帯を取り出して電話をされているのを見て、昼頃に間力教会様に電話をしなければならなかったのを忘れていたことに気が付きました。

 あわてて間力教会様に電話したところ、教主様は来客中とのこと。1時間後に電話をする旨、伝えていただくことにしました。


 京都府立図書館に到着しました。ここは二度目です。前回3月20日に来館し、京都新聞の前身である京都新報の記事をマイクロフィルムで閲覧しました(こちら)。しかし、当然といえば当然ですが、この方法で伏見稲荷大社及び周辺の「お塚・お滝」関係の記事を洗い出すのは、時間的に無理があるのが分かりました。

 そこで今回は、データベース化され、記事検索が可能な記事の検索にトライしました。明治時代からの記事が検索できる新聞は限られています。朝日の東京本社版、大阪本社版、読売の東京本社版、毎日の東京本社版のみです。

 今日は、朝日の記事を検索してみました。「聞蔵」というシステムで、大学・公共図書館など法人向けの有料サービスです。府立図書館が契約していて、来館者は無料で利用できます。


「聞蔵」のホーム画面





 まず、「滝行」で検索してみましたが、関連記事は見つかりませんでした。「伏見稲荷」で検索したところ、直接「お滝」に関係する記事は見つかりませんでしたが、間接的に関係しそうな記事はありました。4月28日の成果発表までは、発表用資料の作成と話す練習に集中しないといけませんし、5月になっても、5月末の最終報告書作成で手いっぱいでしょう。従って、新聞記事検索は、次期の研究で行いたいと思います。


 午後4時に、間力教会様に電話することになっていたので、記事検索のトライアルを切り上げ、図書館の前から電話を入れました。ようやく教主様とお話しができました。お昼に電話できなかったことのお詫びを申し上げ、お話しをお伺いしました。

 ・「間力滝」はその前の鳥居の字彫どおり、昭和57年に建設された。
 ・昭和28年に、間力教会を現在地に建てたが、「間力滝」を作るまでは、先代教祖が
  信者さんを連れて、弘法滝や青木滝を回っていた。
 ・「真心滝」は聞いたことがない。
 ・「間力滝」は他所から移築したものでもないし、印章大社も他所から遷座したもの
  でもない。
 ・「お塚」は、教会設立後建てられたもの。これも他所から持ってきたものではない。
 ・水は使うときだけ水道水を溜めておいて流す
 ・「ホームページで滝行に興味のある方は連絡ください」と書いているが、滝行は
  危険を伴うので、興味本位の方はお断りしている。結果的に信者さんのみ。
  滝行をされる人数は限定的。

 ということで、真心滝やその近くあるいはそこにあった印章大社との関係をお伺いできるかと期待していたのですが、特に関係がないということでした。七面滝の修行見学でお会いした老齢の男性の方のお話(こちら)と食い違う部分があるので、この滝行の方のお話を、またお聞きしたいと思います。

 雨が降ってきました。三味線のレッスンに向かいました。→こちら
  

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最終更新日  2019/06/25 07:41:55 PM
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2018/04/13
テーマ:京都。(5457)
カテゴリ:京都研究
2018年4月13日(金)】

 研究員研究の13回目のフィールドワークで稲荷山に出かけました。

 お昼過ぎにJR稲荷駅に着き、修学旅行昼食処下見を兼ねて師団街道の「きんちゃん」という中華料理屋さんで昼食をとりました。→こちら

 今日の目的はまだ訪問できていない「お滝」管理者の方を訪問することと、滝行の体験です。


◆間力滝

 まず、御産婆稲荷道の間力教会へ。中にいらしゃった女性の方にお伺いしたところ、「お滝」のことはよくご存知ありませんでした。宮司さんは出張中とのこと。宮司さんは毎月1日と第1日曜は確実にいらっしゃるが、それ以外は信者さんところを回るために不在のことが多いとのこと。奥様は今日は所用でたまたまいらっしゃらないが、普段はだいたいいらっしゃるとのこと。

 この女性の方に、知っている範囲でよいからと「お滝」のことを尋ねてみたところ、いつできたかはご存知ありませんでしたが、別の場所から移したとのことでした。七面滝での滝行の信者さんのお一人が、真心滝が間力教会に移ったというお話と符合します。

 成果発表会のレジュメと名刺をお渡しして、後日電話させていただくので、宮司さんや奥様にお渡しいただくようお願いしました。



◆熊鷹滝

 次に以前「熊鷹滝」のことについてお伺いした茶店「梶亭」さんへ。前回のインタビューのお礼を申し上げて、成果発表会のレジュメをお渡ししました。ご主人のお歳をお伺いしたところ、75歳とのことでした。子供の頃はまだ「お滝」が実動していたとのことですので、「熊鷹滝」は昭和25年~30年頃に廃滝になったと考えられます。



◆荒木滝

 三ツ辻から「荒木滝」へ。初めて管理者宅を訪問します。外で作業されていた、老齢の女性の方が作業の手を休めて応対してくださいました。

 今で3代目。「お塚・お滝」のできた年代は詳しく分からないが、明治時代終わりではないか。大正初期の「獨案内」と「神蹟全図」に掲載されていることと符合します。

 今は、「お滝」をされる方はほとんどいらっしゃらない。「お塚」の多くは持ち主が分からなくなっている。ご主人は石清水八幡宮の神職、今は城南宮(ここは私のウロ憶え)の神職をやっておられる(おられた?)。ご主人が別に職業を持っておられて、奥様が「お塚・お滝」のお守りをしておられる構図は、他の多くの「お塚・お滝」と共通の構図。

 「お滝」の水は上流の溜め池の水を使っていたが、溜め池が農地になったので(時期は不詳だが、昭和の初め頃とおっしゃっていました)、湧水をせき止めて、各「お滝」に流すようになった。豊富な水量が流れていました。

 ここは北九州小倉に本部を置く神理教の教会。ただ、「お塚」建立者は九州に関係なく、お稲荷さんの信者の方が多いとのこと。後でネットで調べると、神理教は神道十三派のうちの一派。ホームページを見ると明治時代に全国に布教をしています。九州の本院内に大元稲荷神社があるので、そういった関係で、ここに教会を置いたのかもしれません。


◆ねざめ滝

 吉田図絵では、「荒木滝」と「権太夫滝」の間に、「ねざめ滝」が描かれています。以前、民家の庭にお塚が多数建っているのを発見し、そこが「ねざめ滝」と推定し、無断でお庭を拝見しましたが、「お滝」は発見できませんでした。しかし、「荒木滝」の管理者の方が、そのお家の裏に廃滝が残っているとの証言をいただきました。管理者の方は「お滝」の名前まではご存知ありませんでしたが、そこを「ねざめ滝」と特定できました。

 今日は、「ねざめ滝」のお宅を訪問しました。ご主人が応対してくださいました。ご主人で3代目、現在70歳代前半とのことです。創建年代は分からないが、お爺様が始めたので、明治時代ではないかとのこと。ただ、大正初期の「神蹟全図」にも「獨案内」にも掲載されていません。大正初期の創建と考えるのが妥当だと思われます。

 ここは明心教(「めいしん」と読むことを知りました)の教会だった。「お滝」は、物ごころついてから、使われるのを見たことがなかった。中学生のときに、おじい様が亡くなって、父親は教会を継がなかった。上流の溜め池が農地になり、下流の滝群が湧水をパイプで引いて「お滝」を存続させたが、そのパイプが壊れたことも廃滝の引き金になった。昭和30年頃には廃滝になっていたと思われます。昭和13年生まれの、権太夫滝の管理者の方が、物ごころついたときには、廃滝になっていたというお話とほぼ符合します。

 「お塚」にお参りになる方は、全くいないとのこと。破損して撤去する費用も大変だとのこと。お家の中には祭壇が設えられていて、信者さんのお参りはなくても、明心教を継いでおられるようです。お父様が継がれなかったので、2代目という表現もされていました。

 裏に回って、「お滝」の痕跡を見せていただき、写真も撮らせていただきました。







◆権太夫滝

 3回目のインタビューになります。上流のため池が農地になったのは、昭和25年頃。

 「お塚」の所有者は幸いなことに、多くが分かっているとのこと。この点は、他の「お塚」場とは異なります。管理費用は、「お塚」にお参りになるときに、志納の形でいただいている。ご主人は若いときは別の職業に就いていたが、お父様は「お塚・お滝」を専業としていた。この辺りは、他の「お塚・お滝」と似た構図です。子供が近くに住んでいるので、継いでくれるものと思っている。継承は問題ないようです。土日にお参りが多いので、土日が休みではなかった。そこは子供たちに申し訳なかった。

 「一度、滝行を体験したいのですが。」とお願いすると、快諾いただきました。以前、行衣を貸していただくことも可能とお聞きしていたので、貸していただくことに。白の下着は必要かもと思って、行きがけにイオンで白いパンツを買ってきてはいたのですが、腰巻も貸していただけたので、いっさい特別な衣装は不要でした。

 行衣に着替え、滝場へ。危険を伴いますし、作法も知りませんので、ご主人に導師を務めていただき、指導を受けながら滝行を体験しました。

 まず、滝場には前に行をされた方の穢れが残っていることがありますので、通常は置いてある箒で掃除をします。今日はご主人が掃除済みですので、私も掃除したという仮定で前に進みます。

 次に蝋燭とお線香に火を点けてお供えします。ここでは蝋燭は1本でした。そして、お皿に盛った塩を、「の」の字を描くように、上のほうに何度か振りまいて清めます。相撲の取組み前に塩を撒くのに似ています。

 そして、滝水の横に立ち、導師が祝詞をあげて下さり、私も名前と歳を唱え、手を合わせます。滝の水を前に見て、落ちるポイントの前に足を揃えます。首を横に移動させたうえで、前に出し、頭に滝水が当たらないようにして、頭を横に戻します。首の付け根に滝水が当たるようにします。導師の祝詞が続きます。滝水の圧力は想像以上です。滝水は冷たく、体が芯から冷えていきます。寒くて、体が震えます。導師が頃合いを見計らって、滝水から首筋を外すように導いてくださいました。最後に神様にお礼の言葉を申し上げ滝場を離れました。その後も、導師の神様へのお礼の祝詞がしばらく続きました。

 滝に打たれていた時間は2、3分でしょうか。それ以上続けるのは、体が冷えて危険だと感じました。私の年齢や気候、水温などを見ながら、導師が滝に打たれる時間を判断されるのだと思います。初心者は適切な指導者なしで滝行をするのは危険だと、ネット情報でよく見かけますが、まさにその通りであることを実感しました。

 普通はダメなのかも知れませんが、研究のためにということで、導師に修行中の写真も撮っていただきました。下半身が少し黒く見えるのは、緊張していて、ボトムの下着を脱ぐのを忘れていたためでです。幸い前述のようにイオンで買った白い下着があったので、履きかえることができました。


滝に打たれる前




滝に打たれているところ




 滝行が終わった後、お茶をいただきながら、ご主人(導師)と色々お話しさせていただきました。非常に清々しい気持ちになりました。体はむしろ火照っいます。冷たい水に当たったので、体温を上げようと体が反応しているのでしょう。精神的な面でメリットがあるだけでなく、滝行で病気が治ったりという例がよくあるのも、こういう点にあるのかもしれません。

 貴重な体験をさせていただきました。また、時々滝行をしたいと思います。



◆不動滝? 岩龍滝?

 「権太夫滝」を後にして、四ツ辻から、左回りでお山を巡り、「末広滝」に下り、より上流の「不動滝」と思われる「お滝」に行ってみました。そこから「お滝」の入口に示してある連絡先に電話してみました。ご不在でしたので、メッセージを残し、帰宅後、再び電話をしてみました。

 奥様が電話で応対してくださいました。「お滝」の名前は知らないとのこと。伏見稲荷大社の近くに住むおじい様が、昭和8年に修行のための滝を建設されたとのこと。「お滝」の前に建つ鳥居の字彫が昭和8年だったのと符合します。昭和25年におじい様がお亡くなりになり、お父様が継いだが「お滝」は廃滝にした。「お塚」は今は何もないが、往時は「お塚」もあったのではないかとのこと。滝の傍に住んだことはないとのこと。

 大正末期の吉田図絵には「不動滝」と掲載されていますが、このお話しだと創建は昭和8年。矛盾が生じます。昭和初期作成ではないかと思われる「参拝図」では、「岩滝」と「末広滝」の間に、「岩龍滝」があります。これが位置が間違っており、上流から「岩龍滝」「岩滝」「末広滝」で、「岩龍滝」の位置に、大正末期には「不動滝」があったが、一度廃絶して、現所有者のおじい様が新たに建設・あるいは整備して、「岩龍滝」と命名した。あるいは「不動滝」の持ち主から、お爺様が譲り受けたり、買い受けたりして、名前だけを「岩龍滝」と変えたとも考えられます。


「岩滝」上の建物跡
「岩滝」の管理者の住居跡か?




「岩滝」横の平坦地
 滝行の小屋跡地か?




「末広滝」上の貯水槽
 ここに一旦水を溜め、水量を確保しているようだ。





大岩大神の磐座にも足を延ばしてみました。




「七面滝」の題目碑の字彫
 石碑側面に写真では見にくいですが、明治四三年と彫られており、これが滝建立の年と考えられる







◆熊鷹本滝

 山を下りて、滝道から少し離れた「熊鷹本滝」へ。ここは「廃滝」になっていますが、近くに管理人が住んでおられると思しき建物があったというのを記憶していたので行ってみました。軽トラックは置いてありましたが、表札もなく、戸も閉まっていて、インターホンもなく、住んではおられないようです。軽トラックも近くの農家の方が置いておられるのかもしれません。連絡先なども見当たらず、ここは管理者へのインタビューはあきらめざるを得ません。
 

 新たなことが色々分かり、滝行初体験もでき、実りの多いフィールドワークとなりました。

 間力滝は後日電話連絡をとるとして、あと清明滝、清滝の聞き取り調査ができていません。こられは伏見稲荷大社の御膳谷奉拝所の管理になっており、文献でも歴史がある程度明らかになっています。また、成果発表会までも時間も限られているので、一旦フィールドワークはこれで終え、今後は4月28日の成果発表会の表示用資料の準備と発表練習に集中したいと思います。

 最終報告書が5月の末ですので、清明滝、清滝についての聞き取り調査は、成果発表会が終わって、時間に余裕があれば行いたいと思います。


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最終更新日  2019/06/25 07:28:39 PM
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2018/04/01
テーマ:京都。(5457)
カテゴリ:京都研究
2018年4月1日(日)】

 午前中、固定点ガイドが始まる下鴨神社資料館秀穂舎の下見をした後(こちら)、東福寺駅前の「大黒ラーメン」で修学旅行就職処の下見を兼ねて昼食をとった後(こちら)、研究員研究の第12回目のフィールドワークを開始しました。

 京阪電車を伏見稲荷駅で降りず、東福寺駅で降りたのは、大4正初期の「獨案内図」記載の「東福寺滝」の痕跡を探すためです。この地図では、「五社滝」の下流に登場します。恐らく、「御壺滝」、「五社滝」と同じ「三の川」の川筋にあったと思われ、川にできるだけ近い道を歩いてみました。

 先行研究のM.Yagai氏のネット記事でも、この「東福寺橋」の場所は特定されておらず、「1949年創立の日吉ヶ丘高校のあたりにあったのではないかと推測する。」という記述にとどまっています。日吉ヶ丘高校の下の川沿いに「一廣社」という「お塚場」がありました。M.Yagi氏も、この「一廣社」の近くに「お滝」があったのではないかと推定されています。しかし、何も痕跡は確認できませんでした。そして、すぐ南が東福寺境内になっていて、川とは離れていますので、この付近に「お滝」があったとは正直考えにくいです。「一廣会」と書いた掲示板があったので、帰ってからネット検索をしてみましたが、何も情報は得られませんでした。


一廣社






 さらに上流に向かい、大雲院南別院の西に位置する行き止まりになっている広場に行ってみました。川が谷底に見え、石垣のようなものが発見できました。ここが「お滝」だった可能性がありますが、川に下りる道も発見できず、それ以上の探索はあきらめました。

谷底の川岸に石垣らしいものが見える




 「五社滝」は近くでした。管理棟の休憩室で、管理者の女性の方が、どなたかとお話しになっていましたが、研究のためのインタビューをさせていただきたいとお願いしてみました。「先に滝で、手でも清めていただいてから、どうでうか?」とおっしゃっていただき、滝まで降りました。ここの「お滝」を間近で見るのは初めてです。とても水量が多くて、滝水で直接手を清めることはむつかしく、傍の流れの水を汲んで手を清めさせていただき、管理棟に戻りました。





 中で管理者の方とお話しになっていたのは、このお塚場の「お塚」の所有者の方で、30代と思われる若いご夫婦でした。お爺様のときに、ここに「お塚」が建てられたようで、以来、代々お参りに来られているとのこと。1年に1回くらいのい頻度で、いつも稲荷山のお山を巡った後、ここに来られるとのこと。ご自宅には、おじい様だったか、お父様だったか忘れましたが、滝行をしている写真があるそうです。しかし、お父様は、「滝行はするな」とおっしゃっていたので、滝行は経験したことがないとのことでした。今まで「お塚」所有者の方と、時間をかけてお話しをしたことがなかったので幸運でした。「命婦滝」ではたまたま「白菊滝」の奥様が来られ、「白菊滝」では、こちらもたまたま「弘法滝」の奥様がおられ、この「五社滝」では、たまたま「お塚」所有者の方とお話しができました。こんな幸運なことが続くと、やはり「お稲荷さん」の御利益かなぁと思わざるを得ません。

 さて、管理者の奥様にもお話を伺いました。「五社滝」の創立時期はよく分からないが、100年以上前ではないかとのこと。上流の「御壺滝」が廃滝になったのは、10年くらい前ではないかとのこと。これらのことは、以前、立ち話でお聞きした既知の内容です。期待したのは「東福寺滝」のことを何かご存知ないかということ。しかし、名前さえも聞いたことがないとのことでした。

 ご主人が別にご職業を持っていて、奥様が「お塚」や「お滝」のお守をされているということや、持ち主が分からない「お塚」が多くなっているといことは、他の多くの「お塚・お滝」と共通の構図でした。


 「三の川」沿いを「白滝」まで上りました。

 管理棟で、管理者の奥様(かなりのお年)にお話しをお伺いすることができました。ここは、伏見稲荷境内だが、一度官有林になって、その後、神社に戻された土地。そういう経緯もあって、私営の「お塚・お滝」を認めてもらっていて、賃貸料は納める必要はない。ただし、ここで販売できるものは神社の制限を受け、売れる物は限らており、ご朱印も多分できないだろうとのこと。
 
 現在6代目で創始は江戸時代と。昭和42年にここにお嫁入りされた。ご主人は25年前にお亡くなりになったが、「お塚・お滝」管理専業だった。現在もここに居住しており、買い物は下まで買いに行くが、東山の商店街もシャッター商店街になってしまって残念(このお年で、山道を東山商店街往復されるのは、かなり大変だと思われます)。持ち主が分かっている「お塚」は、奥様がお嫁に来られた後建てられた2、3のものくらい。ここは九州の信者さんが多い。昔はここに泊る人もいたくらい。今は、泊って「お山」「お滝」をする人はほとんどいなくなった。様変わり。

 最近、毎日放送だったかの放送で、「白滝」が映っていた。、

 蝋燭を上げさせていただきました。ここで知ったのですが、仏教の場合は蝋燭は1本でもいいのですが、神社の場合は、1対が基本のようです。そういえば、権太夫滝でも命婦滝でも本数を指定せずに蝋燭をいただいたら1対でした。


 お山巡り参道の「薬力滝」に向かいました。唯一、お山巡り参道沿いにある「お滝」です。

 「お山巡り」をする観光客がひっきりなしに通るので、「お滝」がある「お塚」の中で、唯一賑っているところです。訪問したときも、ご主人(男性)が片言の英語で外国人に対応されており、忙しくされていましたが、手すきになったときにお話を伺うことができました。このご主人だけではなく、何人かの他の店員さんも忙しくされていました。
 
 ご主人で8代目になる。ただし、代替わりが早かったので、江戸時代に遡るかもしれないが、確かなことはいえない。明治になって、茶屋の前にあった鳥居・社殿を今の場所に移した。移す前の絵の額がお店に飾られている。


茶屋のすぐ前に鳥居・お社があったことを示す絵




 参道のお店は、土地を伏見稲荷大社から借りている格好なので、賃貸料を神社に払っている。店で売るものも制限があるし、ご朱印もできない。滝行をする人は、現在は月10人くらい。
 

 続いて南谷へ下りて、一番上流の「末広滝」へ。この前は管理棟が閉まっていましたが、今回は奥様のお話をお伺いすることができました。

 ここの「お滝」は、一の峰と同じ末広大神が親塚。創建はよく分からないが、もともといらっしゃった管理人の方がいなくなって、一の峰の方から(茶屋か?)信者だった奥様のお婆様(鹿児島出身だったか?)が要請を受けて管理者になった。奥様で3代目(なので、今の家系だけで100年くらいは経過)。

 生まれたときに、岩滝の上流の滝は廃滝になっていたとのことなので、それが「不動滝」だとすると、80年前にはすでに「不動滝」はなかったことになる。

 今、滝行をするのは、月に50人か60人程度(これは、「お滝」群の中では多いほうだと思われる)。「お山」「お滝」をする方々が寝泊まりできる広さはあり、奥様が子供の頃、たくさん来られたときは、奥様が使っていた子供部屋が宿泊のための使われたこともあった。ここの「お滝」は、前に扉があって、しかもその前にロープが張られて普通は中を覗くことができません。今日は特別に見せていただき、しかも写真も撮らせていただきました。もともとは滝流は1本だったようですが、おじい様の代かお父様の代だったか不確かですが、滝行をする人であまりにも混雑して待ち時間が発生するので、工事をして3筋に増やしたとのことでした。





 日も暮れかかってきましたので「末広滝」を最後に山を下りました。


 今回も、分からないということが分かったということも含めて、色々と収穫がありました。私営の「お滝」で、管理者がいらっしゃるところで管理者にお会いできていない「お滝」は、「荒木滝」だけになりました。成果発表会までには、訪問したいと思います。あと、伏見稲荷大社管理の「清明滝」「清滝」のお話も聞けていません。「不動滝」(と思われる)管理者の連絡先は分かっていますので、連絡をとりたいと思いますし、「ねざめ滝」は廃滝になっているものの、「お塚」は残っていて、そこに住宅もありますので、お話しをお伺いしたいと思います。
 


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最終更新日  2019/08/26 08:18:11 AM
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2018/03/26
テーマ:京都。(5457)
カテゴリ:京都研究
2018年3月26日(月)】

 研究員研究の11回目のフィールドワークで稲荷山南谷に出かけました。

 前回フィールドワーク(3月22日)(こちら)の後、「七面滝」でアトリエを待たれている大岩さんとメールでやり取りをするうち、七面の滝での日蓮宗のお寺さんの滝行が今後3月26日(今日)と4月16日にあることが分かりました。4月16日はゴルフがありますが、3月26日(今日)はフリーなので、大岩さんに繋いでいただいて、今日、滝行を見学させていただくことになりました。滝行を実際に見るのは初めてです。

 JR桂川駅からJRで行こうとしたのですが、桂川駅に着いたら、京都駅での乗客との接触事故があって運転が止まっており、再開の目途も不明とのことでしたので、急きょ、阪急洛西口駅まで歩いて、阪急・京阪を乗りついで伏見稲荷に向かいました。

 滝行は11時半から12時半頃だそうですので、その前に、この前お会いした「白菊の滝」の奥様にお会いして、聞き洩らしたことを確認させていただきました。今のところ、ご朱印はどこの「お塚」「お滝」ともやってないそうで、滝行は危険が伴うので、観光化は躊躇するが、ご朱印くらいはやってもいいのかも知れないとのことでした。また、「お塚」「お滝」の管理者の組合的なものは存在せず、南谷は同じ町内会としての交流はあるが、北側の「お塚」の管理者の方々とは交流がないそうです。何か観光化を企てるとすると、組織作りから取り組まないといけないようです。

 この前「命婦滝」の管理者の方とお話をさせていただいたとき、たまたま「白菊滝」の奥様がいらしゃってお知り合いになることができました。今日は、「白菊滝」になんと「弘法滝」の奥様が偶然来られていて、「弘法滝」についても同時にお聞きすることができました。以前、管理棟を訪れて、身分を明かさずにお話をさせていただいたことがありますが、こういう形でインタビューできると、打ち解けた雰囲気でインタビューできるので幸運です。2回連続で、このようなことが起こるのに、不思議を感じるのを禁じ得ません。

 「弘法滝」は奥様で3代目。やはり記録がなく正確なところは分からないが、奥様で3代目で、「お塚」「お滝」ができたのは、120年くらい前、明治時代の中頃ではないかとのこと。お塚で一番古い字彫が明治31年だそうです。


 色々お話をお伺いするうち「七面滝」で滝行が始まる11時30分になったので、おいとまさせていただいて「七面滝」に向かいました。大岩さんに、来られていた大阪柏原市にある日蓮宗欣心寺のお聖人に繋いでいただき、快く見学をお許しいただきました。すでに滝行の準備が始まっていて、祠ではお参りが始まっていました。お聖人とお弟子さん、男性の信者さんが2人、女性の信者さんが3人、総勢7人です。信者さんはいずれも私よりお歳を召した方々とお見受けしました。都度メンバーの増減はあるそうですが、毎月、滝行に来られているそうです。

 しばらく法華経の読経が続き、やがてお聖人さんが滝に入られ、続いてお弟子さん、男性信者さん、女性信者さんの順で滝に打たれておられました。途中で、お聖人さんが、信者の方の滝行のときに、「気」を入られている作法も見ることができました。





 許可を得られたので、お聖人さんの滝行だけ写真を撮らせていただきました。





 滝行後、読経がさらに続き、それも終わると、更衣所に全員が輪になってお食事をとられました。といってもカップ麺と皆さんが持ち寄ったおにぎりとか、そんな質素なものです。私も、いっしょにいただきながら、お聖人や信者の方々に色々お話をお伺いしました。

 お聖人曰く、昔はたくさんの人が滝行をしたが、今は滝行をする人が減っている。昔は流行みたいなところがあったが、やがて自然淘汰されて、今は真剣に滝行をする人しか滝行をしなくなった。生駒にも「お滝」が複数あるが、稲荷山ほど数はない。星田の妙見にも「お滝」がある。外国人がよくこの滝を訪れるのは、ネットで紹介されたから。


こんなノートも置いてあります




 男性信者さんのお一人から興味ある情報を聞くことができました。この方が、このお滝に父親に連れられてきたのは約70年前。当時は、少し下流の今自動販売機が置いてあるところに「真心滝」があり、その茶店にたくさん人が休んでいた。水の流れはないところなので、鳴滝からポンプで水をあげて滝を作っていたのではないか。間力教会の方がが今の場所に移る前は、その場所におられた。当時は、この辺りは人通りがすごかった。今日はまず宝塔寺に寄ってから来た。宝塔寺にも「お滝」があったが、立命館高校ができ湧水が少なくなった閉じられた。(立命館高校が深草にできたのは、昭和63年約30年前。宝塔寺でお会いした方が、廃滝は20年くらい前ではないかと言っておられたのと符合する)

 もう一人の男性の信者さんは、大工さん。このお滝で修行をするようになったのは、最近のようで、ここで修行を始めた頃は、着替えをする建物は半ば壊れていた。見るに見かねて自費で修理をさせていただいた。題目石は以前はもっと高いところにあったが、台風で崩れ落ちた。それを今のところに建て直した。このような奉仕をさせていただいた後、良いことが起こるようのなった。これもご利益か。


昔は茶店だったことをうかがい知ることができる建てつけ




 この前のフィールドワークで管理者の方が不在だった末広滝を訪問したかったのですが、修学旅行の下見で太秦映画村にも行かねばならないので、山を下りました。途中、信者の方がおっしゃていた自動販売機のあるところに立ち寄りました。そこは、以前、「真心滝」跡ではないかと思って探索した石材置き場でした。社務所跡のようなところがあったのですが、滝場跡は見つかりませんでした。今日は、咎められるのを承知で、社務所跡のような建物の裏に回り込んでみましたが、やはり滝場の跡は発見できませんでした。

 道に戻ると、以前「七面滝」の大岩さんが教えてくださった鳥居製作所の方が表に出ておられたので、お話をお伺いしました。ここに住んで60年になるそうですが、「真心滝」はご存知ありませんでした。「真心滝」がさきほどの石材置き場にあったと仮定したうえで、滝行の信者さんのお話も含めて考えると、「真心滝」は60年強前に廃滝になったことになります。すなわち昭和30年頃です。「不動滝」もご存知ありませんでした。

 お山巡りの鳥居を製作されているのですが、鳥居を作るところは現在5社あるとのこと。一番有名で時々テレビにも登場するのが、伏見街道にある「長谷川工務店」。千本鳥居に向かう入口の鳥居列の最大サイズの鳥居(電通の名が入ったものなど)は、家が一軒建つくらいの値段がする。昔の鳥居用の木(杉だったか?)は、時間をかけて成長させていたので、もっと年輪が込んでいた。乾燥させてから加工していた。今の木は早く成長させるので、年輪が込んでいない。また、山の奥に入らないと太い木が採れないので、緊急用に近くにヘリポートを作ったうえで、ヘリポートで吊って採ってくる。乾燥させないので水分も多く含んでいる。水分を抜く装置を使っている。根元の腐りやすい部分は、表面を焼く。他にも色々興味深いことを教えていただきましたが、「お塚」「お滝」と直接関係がないので、メモもとっておらず、詳しいことまで記憶に残っていません。また時を改めて訪ねたいと思います。





 太秦映画村に向かいました。→こちら



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最終更新日  2019/06/22 09:12:46 AM
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2018/03/22
テーマ:京都。(5457)
カテゴリ:京都研究
2018年3月22日(木)】

 今日は、研究員研究最終発表会レジュメ締切日です。第2回中間発表会(3月3日)のレジュメも同じA4・1枚で作成したし、その後、大きな進展もないので、第2回レジュメの小変更で対応できそうです。最終レジュメまで、もう1回はフィールドワークを挟んで内容を濃くしたかったのですが、ようやく時間がとれるようになったこの3日間、ずっとお天気が悪くて、フィールドワークを自重していました。

 今日もお天気はあまり良くありませんが、上記状況から判断して、フィールドワークから帰ってきてからでのレジュメ作成でも間に合いそうなので、昼前に思いきってフィールドワークに出かけました。修学旅行の昼食処下見を兼ねて伏見稲荷大社参道沿いの「祢ざめ家」で昼食をとった後(こちら)、南谷の「お滝」管理者を訪ね歩きました。


●清め滝

 まず、麓の「清メ滝」から。ここは、管理者はいらっしゃいますが、「お滝」には水が流れておらず、「お塚」も荒れが目立ちます。

 管理者宅は、伏見稲荷大社奥社の横から谷底のほうに見下ろすことができ、壁面に「伏見稲荷教会」と看板が掛かっているのが確認できました。大きな建物ですので、昔は宿泊もできたのではないかと思います。あとで「伏見稲荷教会」でググってみましたが、何も分かりませんでした。





 管理者宅は、外からは全く中の様子が分からず、お供えの「ろうそく」を売っておられるかどうかも分かりませんでした。インターホンを押して、しばらくすると、70代か80代の男性の方が、玄関横の戸を開けて応対くださいました。名刺をお渡しして、研究の内容をお話したうえで、色々お話を聞かせていただきました。心よく丁寧にお答えいただきました。

・「お塚・お滝」ができた時期はよくわからないが、ご主人で3代目になる。できたのは、昭和の初めだと思うとのこと。(吉田地図には載っているので、大正末期にはすでに存在していたと考えられる。大正初期の「獨案内」には載っていないので、ご主人のお話も加味して、大正末期の建設と考えるのが妥当かと思われる。)

・「お滝」を止めたのは、15年くらい前か。上流に畑ができて水が汚くなったので止めた。水は川の水だがポンプで揚水していた。

・「お塚」の管理費を払わない人が増えて、管理が大変な状態になっている。


 その後上流を歩きましたが、確かに畑が広がっていました。「お滝」ができた頃は、森林だったのでしょう。





この下流に「お滝」があります。



 確かにこの上流の「お滝」のさらに上流は、畑などは少ないので、水が濁ったりすることはなかったのでしょう。


●八嶋滝

 次の「お滝」は「八嶋滝」です。

 管理棟のインターホンを押すと、女性の方が出られましたが、ここには住んでおらず、離れた場所に住んでいおられるとのこと。インターホンがそちらに繋がるように設定してあるようです。午前中なら「お滝」管理のために管理棟にいることが多いとのことで、出直すことも考えましたが、今日の締め切りまでに、最低限の情報は収集したかったので、お断りしたうえで、インターホンで基本的なことのみ質問させていただきました。

・できたのは100年以上前。

・水源は自然の川の流れ。水が濁って困るようなことはなかった。

・「お塚」「お滝」が観光化するのは、信者さんには抵抗があるのではないか。


●命婦滝+白菊滝

 次に、さらに上流の「命婦滝」へ。

 ここは「お塚」に向かう細い道を挟むように管理棟が建っています。上流に向かって右側の建物に入って声をかけました。奥様が出てこられて、対面の休憩所で、わざわざ暖房を点けて、お茶も出してくださって、お話を伺うことができました。途中で旦那さんも呼んでくださって、旦那さんからもお話を伺うことができました。

・ここは「奥社」の「お滝」である。神社ごとに身を清める場を持っていた。そこにお塚もできた。(このときは神職さんのための「お滝」と思ったが、神前の茶店の客用ということかもしれない)

・私で5代目になる。女系だったので、田中、中村、伊藤と名前が変わってきた。記録が残っておらず、いつごろ「お滝」や「お塚」ができたかは正直よく分からない。

・ご主人は平安神宮の神職を勤めていた。

・滝行をする人は減っているが、月次祭(つきなみさい)の月初には、5、6人来られる。月に15人程度来られる。

・中田幹夫さんという伏見神宝神社の宮司さんが、「お滝」を色々調査された。一度コンタクトされるとよい。

 
 色々お話しするうちに、上流の「白菊滝」の奥様が来られて、いっしょにお話しを伺うことができました。偶然です。南谷の「お滝」は同じ町内会で交流があるとのこと。

・「末広滝」の上流の平らな場所は、現在の「白菊滝」の奥様のお家があったところ。そこには昭和49年に引っ越してきた。住みながら「岩滝」を管理していたが、昭和60年頃廃滝にした。(水を共同利用していた別の一軒のお家が引っ越して出て行かれたのでとの説明だったが、イマイチよく理解できなかった) 

・昭和49年に引っ越ししてきたときは、すでにより上流の滝は廃滝になっていた。その滝が「不動滝」かどうかは分からない。「岩龍滝」は知らない。

・奥様のお婆様が「白菊滝」に住んでいて、亡くなられたので、平成元年に「白菊滝」に引っ越しをした。

・「末広滝」のお塚と地続きになっているが、「岩滝」のお塚の領域があり、「岩滝」分は、今も「白菊滝」で管理している。

・「三光滝」という名は知らない。


 偶然ですが、2箇所の「お滝」の管理人さんに、いっしょにお話しをお伺いすることができたよかったです。

 「命婦滝」の管理人さんに志納をお渡しして、立派な蝋燭とご神饌をいただいたので、お社にお参りして上流に向かいました。いつも、上流側の入り口が閉まっているので、横の隙間からコソコソと出入りしていたのですが、戸を開けることができることも教えていただいたので、今日はコソコソではなく、堂々と戸から出ました。

 下の写真はいただいたご神饌を自宅に持って帰って撮ったものです。「スルメ」もあったのですが、帰省中の長女が大好物だとのことで、焼かずに食してしまいましたので、写っていません。






●青木滝
 
 一つ上の「お滝」は「弘法滝」になりますが、一度お話を伺っているので(当方の身分を明かかさずにですが)、さらに上流の「青木滝」に向かいました。インターホンを押すと、中から男性の方が出てこられてお話をお伺いすることができました。

・できたのは明治30年頃ではないか。

・「お塚」の持ち主が分かっているのは、半分くらい。

・5、6年前までは人通りが少なかったが、最近外国人の方が多く通るようになったので、道に沿った部分を整備した。


●御剱滝

 七面滝と鳴滝は、以前、訪問させていただいているし、白菊滝は先ほど命婦滝で管理人の奥さまのお話を偶然お聞きすることができたので、より上流の「御剱滝」に向かいました。

 私はこの滝を「ごけん滝」と勝手に読んでいたのですが、さきほどの命婦滝でのインタビューで「みつるぎの滝」と読むことを知りました。

 管理棟のインターホンを押したところ、奥様が出て来られてお話をお伺いすることができました。

・いつ「お塚」「お滝」ができたかは、よくわからない。

・古い地図に載っている「三光滝」「新熊鷹滝」の名は聞いたことがない。

・お塚の雛段で何箇所か何も立っていないところがあるのは、以前の台風で倒れてしまったところ。幸い連絡先が分かっていたので、持ち主に連絡したところ、「撤去してください。」とのことだったので、撤去した。

・最上段の柵で囲われた「白砂舎」のお塚は、以前は、当方で管理していたが、信者さんご自身で管理されるとのことで、そうしていただいた。しかし、先生がお亡くなりになたので、これから先どうなるか分からない。


 その上の「末広滝」にも行きましたが、管理棟に鍵がかかっていて、管理者の方が一時的にご不在だったようなので、別の機会に訪れることにして、時間も遅くなってきていたので、下山しました。

 帰る途中、「七面滝」に立ち寄って、仏師の大岩さんにご挨拶。この前の訪問のお礼も兼ねて、志納をさせていただきました。鳥居の修繕に使わせていただきますとのこと。

 またこの滝で修行をされている方が、この滝のことを書いたインターネット記事のコピーをお渡ししました。お名刺もいただきました。近々日蓮宗の信者さんが滝行に来られるという情報、そして、この近くの鳥居を製作している会社の主の方が、この地域で生まれ育った方で、この付近の「お塚」や「お滝」のことはよくご存知ではないかとのことでした。また、水源になっている金鉱石の採掘場だったところは、七面滝の入口駐車場近くで、痕跡が残っているとの情報もいただきました。

 鳥居製作所には後日訪問するとして、今日は、もう一つの目的「真心滝」の痕跡探しをしてから帰ることにしました。

 「吉田絵図」、「参拝図」によると「青木滝」の上流を右に入ったところに「真心滝」というお滝が掲載されていますが、現存はしません。未だにどこにあったかよく分かりませんが、インターネットでのM.Yagi氏の記事によると「建築用砂採取場となり消滅」とあります。その場所と思しきところをウロウロしてみましたが、痕跡は発見することができませんでした。

 今日のフィールドワークで、南谷で訪問できていないお滝管理者は、末広滝だけになりました。北の谷と「お山巡り」参道のうちの私有分では、荒木滝、白滝、薬力滝の管理者が未訪問です(廃滝も含めると「ねざめの滝」も。

 「お塚」「お滝」の管理者は世襲が基本のようですが、その起源については、記録も残っていなくて、今の管理者の方はよくご存知ないようです。また、利用者が多かった時代は管理者を専業にしていたようですが、時代とともに、「お塚」にお参りする人も、滝修行をする人も少なくなり、志納が少なくなって、ご主人は他に仕事を持っておられて、奥様が「お塚・お滝」のお守りそしているケースが多いようです。「お塚」の持ち主が、半分くらい分からなくなっているのも珍しくありません。

 「お塚」「お滝」の観光利用については、滝行をする方は、色々問題を抱えた方々が多く、あまり人に見られたくないという意識があるし、滝行は意識を失ったり危険な行為でもあるので、指導も受けずに慣れない人が滝行をして倒れられたら困るということもあります。こういったことから賑やかになるのは嬉しいが、観光化には諸手をあげて歓迎とはならないようです。


 下記は、アトリエを七面滝内に持って、鳴滝も含めて面倒を見ておられる大岩さんのホームページです。

https://narutakioinari.jimdo.com/



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最終更新日  2019/06/22 09:02:15 AM
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2018/02/20
テーマ:京都。(5457)
カテゴリ:京都研究
2018年2月20日(火)】

 今日はガイドOFF日。第3火曜日は夕刻月イチの三味線レッスンがあるので、勤務不能日にしており、勤務が入りません。

 研究員中間発表の3月3日まで、OFF日が今日を含めて4日しかないので、早く文書作成に入りたいところです。しかし、フィールドワークが消化不良なので、今日、歴彩館に行って都市計画図を確認したうえ、「お滝」でのインタビューをしようと考えました。しかし、家内は今日友達との「歩こう会」の日。「歩こう会」とはいうものの、今日はエキスポシティとのことなので、どこが「歩こう会」なのかという感じです。家内は午前中から出るため、ワンちゃんをお昼くらいまで面倒を見なければならず、出られるとしても昼過ぎです。しかし、交通費を気にせず、最速の交通機関を使えば、歴菜館も「お滝」も行けると踏みました。

 まず歴彩館へ。目的は過去の都市計画図で、所在不明の「東福寺滝」、「真心滝」、「岩滝」、「不動滝」/「岩龍滝」の場所のヒントを得ることです。大正時代の都市計画図は、山間部が全くあてにならないことが前回分かりましたので、昭和時代の都市計画図を係の方に出してもらって調べ始めました。

 短時間で済まそうと思いましたが、やはり甘かったです。時間がかかりそうです。早々に今日の「お滝」訪問でのインタビューはあきらめました。地図確認に集中しました。

 とはいうものの、あまり収穫はなかったのです。そんな中の収穫は次のようなことです。

・「真心滝」は、前回のフィールドワークで訪れた印章大社があった場所ではないかと推定していましたが、印章大社がこの場所に地図上で現われるのは、昭和62年の地図からです。それ以前の地図では、山になっています。山を削って、昭和57年以降、昭和62年以前に建てられたようです。大正15年の吉田初三郎地図にすでに「真心滝」は載っているので、「真心滝」の場所は、ここではないということになります。

 ネット情報では、「採石場ができて潰された」との記述がありましたので、採石場らしき場所をトレースしてみました。しかし、採石場が現われる以前の地図では、建物も何もありません。結局、「真心滝」の場所は不明のままです。

・「末広滝」の上流部の変化をトレースしてみました。次のような変化が見られました。これが何を意味するのかは不明です。

 Aの建造物は以前新たな「お滝」を発見した場所です。この「お滝」が昭和44年から昭和50年に造られたものということなのかもしれません。この滝は「不動滝」あるいは「岩龍滝」だと思っていたのですが、この年代に造られたものであるとすると、そうではないということになります。
 
 やはり「末広滝」の管理者へのインタビューが必要です。また、階段下の建物は、「七面滝」をお世話されている方から聞いた「金鉱石」採掘場所ではないかと考えており、その場所もこの世話人の方にもう一度インタビューする必要があります。


・「東福寺滝」は全く手掛かり得られずです。

 
 今日、フィールドワークができなかったので、文書作成前にもう一度フィールドワークをしたいところです。しかし、中間発表まで、あとOFF日は3日しかありません。悩ましいところです。レジュメや発表用資料を一通り作っておいて、時間があればフィールドワークをするということにするか、発表をした後、フィールドワークをして、最終レジュメに間に合わせるかです。悩ましいところです。






 三味線レッスンに向かいました。



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最終更新日  2019/06/20 06:06:37 PM
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2018/02/17
テーマ:京都。(5457)
カテゴリ:京都研究
2018年2月17日(土)】

 研究員活動の今後の予定は、

・3月3日 第2回目の中間発表
・3月22日 最終発表レジュメ案提出
・4月28日 最終発表

です。

 日があるようですが、ガイドやプライベートの予定が詰まっていて、あまり時間がありません。3月3日まで昼間時間がとれるのが、今日を含めて5日しかありません。3月3日以降、3月22日までも、7日だけです。これに確定申告作成、他の「冬旅」スポット見学が入ります。早く、文書、発表資料作成に入りたいところですが、フィールドワークや文献閲読が不十分なので、もう少しだけ継続です。

 今日はフィールドワークに行こうと思い家を出たところ、天気が悪くなりそうだったので、急きょ歴彩館行きに予定変更しました。

 歴彩館では前回ざっと見た地形図を閲覧しました。まず、いくつか最近のものを出していただきました。しかし、2万分の1や2万5000分の1では粗過ぎて、「お滝」の管理棟を捕捉するのは困難だと判断し、深追いはやめました。 

 次に都市計画図を閲覧しました。地形図は最古のものは明治22年のものがありましたが、こちらは大正11年のものが最古です。縮尺は3000分の1程度で、管理棟が捕捉できます。しかし、大正時代のものは、山中のお滝場の管理棟は全く捕捉していないことが分かりました。今回の目的には全く使い物になりません。

 地形図や都市計画図である程度、「お滝」の成立時期が分かると思っていたのですが、ダメでした。

 残った時間を利用して、「伏見稲荷大社御鎮座千三百年史」をもう一度ざっと読んで、今回の準備に必要だと思われる部分を約50枚コピーしました。中間発表と最終レジュメ作成までの文献検索は、今回を最後にしたいと思います。あとフィールドワークを1回行って、それ以外の時間は文書、発表資料作成に割きたいと思います。





 
 今日は私の63回目の誕生日。家内は私が出歩いてばかりいて好き勝手しているので機嫌よくないし、おまけに体調不良。晩御飯もケーキも無しの誕生日でした。さきほど、コーヒーとビスケットで遅い夕食を済ませました。家内の体調不良が心配です。寒いと言っているので、風邪か、インフルエンザか。


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最終更新日  2019/06/20 05:58:53 PM
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