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ワルディーの京都案内

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京都市内全寺社巡り

2017/03/23
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テーマ:京都。(5650)
2017年3月23日(木)】

 「京都市内全寺社巡り」を思い立ったのは、2012年末にM社をリストラで早期退職した直後。失業保険をもらえるだけもらって、あとはパートタイムで観光ガイドのような仕事をボランティアでもいいからしようと思っていたので、全寺社を巡る時間が十分とれると思ったからです。退職後3ヵ月は順調でした。

 しかし、2013年4月に結局再就職し、ペースダウン。とはいうものの土日を利用して何とか続きます。ところが、2014年7月に「がん」を発病。1年半のブランクができてしまいました。そして、経過観察になって9ヵ月後の2016年2月に再開。会社勤めは辞めていたので、再びペースは上がりました。

 2017年8月に、ガイド会に入会し、観光ガイドの仕事を始めましたが、フルタイムではないので、ペースダウンはすれど、そこそこのペースで続けられると思っていました。しかし、ガイドとしての有償勤務以外にも、ガイド関係で下見、研修、会議、事前説明会、飲み会など結構時間をとられることが分かりました。それに加え、ガイドの仕事の勉強のため、プライベートにも関係のセミナーを聴きに行くようにもなりました。結果的に、去年の9月10日を最後に「京都市内全寺社巡り」は中断状態になってしまいました。

 今日、午前中「京都迎賓館」見学の研修会があったので(こちら)、午後から、久しぶりに「全寺社巡り」をする予定でした。ところが、ガイド仲間といっしょに昼食をして、あれこれしゃべって、終わったのが午後2時頃。あまり時間がないので、直接帰宅しようと思ったのですが、途中で思い直して、東山区の北西の鴨川沿い三条通り付近を短時間でも歩くことにしました。実に7ヵ月ぶりの「京都市内全寺社巡り」となりました。


午前中の「迎賓館」での研修も含め、歩いた径路(うろ憶えですが)



 三条大橋の袂からスタート。(<>の中の数字は、地図内の番号)




三条大橋<1>
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉 の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修されましたた。徳川家康によって定められた東海道五十三次の西の起点。







駅伝の碑<2>
 日本で最初の駅伝競走が、ここからスタートしたことを記念する説明碑「駅伝の碑」がある。1917年(大正6年)4月27日から3日間にわたり開催された。





高山彦九郎像<3>
 三条大橋の南東にあります。江戸時代後期の尊皇思想家。林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人(「奇」は「優れた」という意味)。13歳の時に「太平記」を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳の時に遺書を残して家を出て、各地を遊歴して勤皇論を説きました。この像は御所望拝の姿で、土下座ではありません。吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物です。また、二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられました。








歌碑
 京では岩倉具選宅に寄留し、奇瑞の亀を献上したことにより光格天皇にも拝謁しました。その感激を詠った歌。
 「我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ」







小川亭跡碑<4>
 小川亭は,肥後藩御用達「魚卯」の未亡人ていと姑りせが共に開いた旅館。幕末肥後藩士ほか勤王の志士たちに利用され,二人は志士の面倒をよく見たという。大正9(1920)年に廃業し,家屋は第2次世界大戦時の強制疎開で取り壊されました。三条京阪駅から縄手通を少し南に下った西側にあります。







京都市立有済小学校に残る太鼓望楼<5>
 明治9年8月。入り口に近いところに太鼓楼兼望楼を作り人々に時刻を知らせました。各小学校にあった望楼は明治末までに姿を消し,有済校にだけ残っている日本唯一の文化財。









池田屋事件殉難志士墓所跡碑<6>
 この地にあった三縁寺には、池田屋事件で犠牲になった宮部鼎蔵・松田重助志士らの墓がありました。三条バスターミナルの開発に伴い、1979年に墓は三縁寺とともに、左京区岩倉へ移転しました。





大像寺(浄土宗)<7>







大将軍神社<8>
 素盞嗚尊を主神とし、相殿に関白藤原兼家を祀る。
 桓武天皇が平安京を造営した際、大内裏鎮護 のため、四方四隅に祀られた大将軍神社のうち、 東南隅の一つである。
 特に平安京東のこの地は、三条口の要地にあたり 邪霊の侵入を防ぐ意を以て重要視されてきた。
 このあたりに建てられた藤原兼家邸は、応仁 の乱で廃壊したが、境内に東三條社として名跡を 留めている。又。樹齢八〇〇年と伝える銀杏の 大樹があり、かっては鵺の森とも呼ばれ、源 頼政の鵺退治の伝説を偲ばせる。
-境内由緒書き-






大将軍神社境内の東三條社



樹齢800年と伝わる銀杏の木




城安寺<9>
 浄土宗。幕末、御陵衛士・伊藤甲子太郎らが最初入った寺。その後すぐに、善立寺に移り、さらに月真寺に移りました。







榎木大明神<10>





圓光寺<11>








市立三条浴場<12>
 こういう市立の浴場があるところは特別な地域であることが多いようです。





蓮沢寺<13>
 廃寺になったようです。





古道具屋<14>
 東山通で目を引くお店です。







一澤信三郎帆布 店舗と工房<15>
 お家騒動でも有名になりましたが、しっかり商売は継続されています。









門前白川道【道標】<16>
 [南]門前白川道
 [東]右きく屋ばし
 [西]左たぬきばし







なすありの径碑となすあり地蔵<17>
「なすあり」とは、地元有済小学校の「有済」を逆さに読んだもので、中国古代の歴史書「書経」に記されている言葉です。意味は、「耐えて忍べば済す有り(どんな辛い事に対しても、耐え忍んで努力すれば必ず報われる)」ということ。昭和二十九年(1954)に、京都市水道局が花見小路通の水道管工事をした時に、お地蔵さまが白川の川底から掘り出されました。このお地蔵様が何百年もの間、川底の暗闇でじっと耐え、ようやく日の目を見たことを讃えて、「なすあり地蔵」と名付けられました。





辰巳大明神<18>
 元々は、御所を守るために創建され、御所の辰巳の方角」を守るということから、辰巳神社と呼ばれたのだが、いつしか祇園の芸舞妓が芸事の上達を祈るようになり、いまでは芸事の神として信仰されています。
 もう一つ云われがあります。神社の祭神は実は狸で、巽橋に住んでいた狸が、橋を渡る人を化かしては白川の中を歩かせていました。それに困った人が、この狸の為に祠を建て神として祀ったところ悪戯が止んだという言い伝えです。




ちょうど婚礼写真撮りがありました。




新橋通り<19>





巽橋<20>





白川南通り沿いの白川(巽橋からの眺め)<21>





祇園切通し<22>(巽橋を南に渡った南北の通り)
 名前の由来は不明ですが、ネットでは富永町、末吉町、本吉町といった花街を縦に突っ切っている通りだからとの推定がありました。





かにかくに碑<23>
 祇園を愛した歌人、吉井勇の歌碑。
 「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」

 祇園白川に「大友」というお茶屋さんがあり、夏目漱石、谷崎潤一郎ら有名作家や画家が多く訪れました。この歌碑は、吉井の古希の祝いに「大友」のあった場所に谷崎潤一郎ら数名が建立しました。 毎年十一月八日には 「かにかくに祭」が祇園甲部お茶屋組合によっておこなわれています。







弁財天<24>
 その昔、賀茂川が手の付けられない暴れ川で、白河上皇も「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言ったほどの川であり、
その賀茂川の治水を受持っていた、防鴨河師の勢多判官為兼が、行きずりの僧から「川の北に弁財天を、南に禹王廟を祀れ」と言われ、
そうすると賀茂川の洪水は治まったという謂れに因み、この白川が鴨川に注ぐ弁財天の社が再興されている。







青木聾米(ろうべい)宅蹟碑
<24>
 青木聾米(1767~1833)は,祇園の茶屋「木屋」に生まれ,通称木屋佐兵衛。号を木米といい,晩年に聴覚を失ったため聾米と称した。29歳で作陶を志し,奥田頴川に入門。仁阿弥道八・永楽保全とともに幕末京焼の三名工といわれました。弁財天の一画に立っています。





大和橋<25>から白川を望む




せせらぎの道碑<26>
 1987年(昭和62年)、京阪電車の地下化事業により琵琶湖疏水の三条~七条間が地下化し暗渠になりました。それに伴う川端通の整備・拡張作業の一環として、この散歩道が誕生し、名前は公募により決定されました。







北座跡<27>
 北座は元和年間(1615~24),四条河原での興行が許可された7か所の常設芝居小屋のひとつ。のちに四条河原の整備により四条橋東周辺に集中した。幕末には7か所のうち,北座と南座だけが残っていたが,明治26(1893)年に取り壊され,現在は南座のみになっています。







出雲の阿国像<28>
 出雲の阿国(おくに)は、歌舞伎の祖とされる女性芸能者。奈良の春日若宮で「ややこ踊り」を演じたと見えるのが初見。出雲大社の巫女と称して興行。慶長8年(1603)年、京都で「かぶき踊り」を始めて人気を集め、これを模倣した遊女歌舞伎が流行。阿国が興業したのは、北野の社と五条河原などで、四条河原の地は後の遊女歌舞伎の地だといわれています。







 短時間でしたが、久しぶりの「京都市内全寺社巡り」でした。五条烏丸まで歩いて、バスに乗り帰宅しました。次はいつ全寺社巡りができるでしょうか。巡りきってからあの世に行きたいものです。



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最終更新日  2019/05/28 04:29:31 PM
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2016/09/12
テーマ:京都。(5650)
「京都市内全寺社巡り」2016年9月10日(土)東山区第3日の第3回(最終回)です。


◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。
http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201609100003/

◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記の東山区#3です。
https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing

===============================
【東山区第3日 第3回(最終回)】


続きです。

東山区の南端まで歩き、再び東福寺エリアに戻ります。


◆東福寺塔頭 南明院


 最南端に位置する塔頭です。1414年に足利義持が業仲明紹を開山として創建しました。1590年に没した旭姫(徳川家康正室)の菩提寺として知られ、徳川家康、秀忠、家光は上洛の際に必ず墓参としたと伝わっています。

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徳川家康公正室旭姫墓【道標】


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[西] 徳川家康公正室旭姫墓 在院
[東] 山門落慶紀念檀信徒一同



旭姫の墓


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◆東福寺塔頭 光明院

 南明院の2つ北にある塔頭。

 作庭家・重森三玲の庭「波心庭」で知られ「虹の苔寺」とも呼ばれています。JR東海のキャンペーン「そうだ京都行こう」のポスターになって、有名になってしまいました。

 春は桜とつつじ、夏は新緑、秋は紅葉、四季折々の顔を見せてくれます。

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入り口の立て看板


 「庭の自尊心」うーーーん。

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 お堂に入ったところに、志納を入れる竹筒があり、そこに自分で思う金額を入れます。お寺の方や案内の方は誰もいません。英語では、額が固定で命じされていました。曖昧な表現では、外国人に分かってもらえないからという配慮からでしょうか。

 海外の観光客2人が、拝観料を払う窓口を探して右往左往していたので、竹筒に入れるのだよと教えてあげました。


波心庭

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 写っているのは私ではありません。

 ここに来るといつも写真の枚数が多くなってしまいます。



◆東福寺塔頭 永明院


 南明院と光明院の間にあります。非公開ですが、特別拝観があったこともあるようです。

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また東福寺エリアを出て、伏見区歩きのときに行った、仲恭天皇陵に向かいます。


◆鳥羽伏見戦防長殉難者の墓

 仲恭天皇陵の西隣にあります。

 鳥羽伏見の戦いで長州軍は本陣を東福寺に置いて勝利をおさめましたが殉死者が出ました。戦死した石川厚狭介外長州藩及び支藩の藩士(防長藩士)48名の墓石が並ぶ戦没者招魂場です。

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鳥羽伏見戦防長殉難者墓碑

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[北]鳥羽伏見戦防長殉難者之墓
[東]昭和四十三年十一月 京都市


防長藩士崇忠碑

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[南] 崇忠之碑【題額】

明治元年正月の戦にいたくはたらきて深草の露と消え
  淀川の泡と失ににし健夫等か
墓所を此処とさため巖根木根払ひ清めて亡魂を招祭れるは
  天下の大政鎌倉にうつりてより七百年を経て再ひ天皇か朝廷にかへり
朝日子の照栄あるか如く望月のみちたらへる如き大御世の安御代となれる
是皆健夫等かいそしみ勤めし功によれるを戚てなりけり
あはれ此役や吾軍薩摩の軍と共に呉竹の伏水の里白鳥の鳥羽の畷に出て都に入むとする賊を
 (以下略)



◆仲恭天皇九條陵


 仲恭天皇は鎌倉時代の天皇。

 御名は懐成親王(カネナリ)父は順徳天皇。わずか3歳で践祚。これは祖父後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討幕計画を画策し、父順徳天皇もこれに加わったための譲位であった。

 しかし後鳥羽上皇軍は幕府執権北条泰時に敗れ、後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡に、また天皇の叔父の土御門上皇は加担していなかったが自ら望んで土佐に流された(承久の乱)。

 祖父や父の配流に伴い、順徳上皇系の天皇は廃位、土御門上皇系の茂仁親王(後堀河天皇)が即位した。もちろん、天皇は幼少で政治的な判断は皆無に等しかったが、幕府の意向で廃位となったのである。17歳で崩御した。在位期間は歴代最短。

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仲恭天皇御陵兆域原標

 兆域原標とは、ここからここまでが墓地ですよという目印。

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???

 あとで調べようと写真に撮りましたが、不鮮明で結局不明。どなたかご存知でしたら教えてください。

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◆皇嘉門院月輪南陵

 皇嘉門院は平安時代末期からこの地を領地としていた九条家ゆかりの人物として知られます。皇嘉門院・藤原聖子(ふじわらのきよこ)は、平安時代末期の摂政・藤原忠通の娘で、後に崇徳天皇の中宮となりました。崇徳上皇が保元の乱で敗れて讃岐に配流された後も、京都に留まって出家しています。皇嘉門院は後に、異母弟の九条兼実に皇嘉門院領を相続させ、これが五摂家として知られる九条家の豊かな領地の基礎となりました。

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参道を下ります。

 

九条陵・月輪南陵参道【道標】

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[北] 九条陵 月輪南陵 参道
[南] 昭和四年十一月建之 大阪皇陵巡拝会


維新戦役防長藩士墓【道標】

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[西]右 維新戦役 防長藩士之墓 道標
[東]昭和十一年七月 京都防長会建之

再び東福寺エリアに戻ります。

 

◆東福寺塔頭 正覚庵

 位置的にはさきほどの光明院の北になります。

 鎌倉時代の1290年、奥州伊達家4代当主・伊達政依(だてまさより)によって開かれました。正覚庵の特徴でもある筆塚は、最初のものは江戸時代の文化年間(1804-1818)に築かれたのだそうです。

 「筆の寺」と言われる正覚庵。境内には古くなった筆の労に感謝するために作られた筆塚があり、今でも年に一度、勤労感謝の日に「筆供養」が行われています。

 ちょうどご住職さんが帰って来られたところで、お疲れのところ申し訳なかったのですが、ご朱印をいただき、境内を拝観させていただきました。

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 お寺の外の東福寺本山境内に向かう角のところに藤原俊成の墓所を示す道標があります。伏見区歩きのときに訪問した所です。


五条三位俊成卿墓道【道標】

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 [西] 五条乃三位しゆんせいの卿のおはかみち
冷泉家門人建之
 [東] 小沢光貞謹書 明治卅六年七百年御遠忌ニ付

東福寺本山に入ります。

 

◆東福寺

 東福寺は、平安時代の延長2年(924年)に公卿の藤原忠平が建立した、法性寺(ほっしょうじ)をルーツに持つ寺院。その後、鎌倉時代の嘉禎2年(1236年)、四代将軍、藤原頼経の父である九条道家が、法性寺の地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦像を祀る新寺院の建立を発願。宋から帰国した聖一国師こと円爾を開山として、東福寺を開きました。当時の東福寺は、天台仏教、真言仏教、そして禅を学ぶ兼学の道場だったといいます。



◆東福寺 勅使門 

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ここにも仲恭天皇陵と維新戦役防長藩士之墓所の道標があります。

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防長藩士墓所【道標】

[西] 維新戦役防長藩士之墓所(矢印)
[南] 明治維新防長殉難者顕彰会  昭和五十五年十月吉辰


仲恭天皇九条陵参道【道標】
[西] 仲恭天皇九条陵 崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵 参道
[東] 昭和四年十一月建之 大阪皇陵巡拝会



◆東福寺 六波羅門(重要文化財)

 1221年(承久3年)の承久の乱後、朝廷の動きを監視するために設置された六波羅探題にあったものが移築されたと伝えられています。

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◆東福寺 三門(国宝)

 東福寺唯一の国宝建造物。

 現存する東福寺三門は、元応元年の大火によってそれまでのものが失われた後、応永年間(1394年~1428年)に室町幕府四代将軍、足利義持によって再建されたものです。なお、三門とは三解脱門の略で、禅宗寺院の仏殿(本堂)前に建てられる中門。それは、仏殿という涅槃に入る前に解脱を得る(悟りを開く)目的で設けられています。三門は、無空、無相、無願という三つの解脱を表す為に三つの出入口を開けた三戸形式であるのが普通ですが、東福寺の三門もまたその様式を守っており、五間三戸の二重門となっています。屋根は本瓦葺きの入母屋造で、その高さは22メートル。両脇には山廊が付属し、そこから上層内部へ上る事ができるようになっています。前の池は「思遠池」と名付けられています。

 禅宗寺院における三門の建築様式は、当然ながら禅宗様であるのが一般的です。しかし、東福寺三門は大仏様を基調とし、それに禅宗様と和様を折衷した、極めて独特な様式を採っています。大仏様の特徴が特に強く見られるのが軒下で、柱に穴を開けて水平材を通した貫(ぬき)の構造が多用されており、組物は三手先の挿肘木で前方に張り出し、通肘木で繋いでいます。柱は上下が細くなった粽柱(ちまきばしら)となっており、柱と礎石の間に礎盤を入れる点などは、禅宗様の特徴です。中備は平三斗(ひらみつど)であるが、それが通肘木の上にも乗っているのが印象的です。垂木は禅宗様の扇垂木ではなく、和様の平行垂木となっています。

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 三門の上層は仏堂となっています。柱や梁などには、半人半鳥の迦陵頻伽などが色鮮やかに描かれており、極彩色の世界を作り出しています。これらの壁画は、東福寺の画僧であった兆殿司こと吉山明兆、およびその弟子である寒殿司こと赤脚子(せっきゃくし)が描いたものと伝わっています。また、上層正面中央に掲げられた「妙雲閣」の扁額は、足利義持の筆によるものだといわれています。

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◆維新戦役忠魂碑(東福寺三門東側)

 慶応4(1868)年正月に勃発した鳥羽伏見の戦で,長州藩および支藩の兵(防長軍)は東福寺に陣を張り,伏見・淀方面に出張し会津藩を主力とする幕府軍と交戦しました。この時の戦死者48名は東福寺山内に葬られ,五十回忌にあたる大正6年に本碑が建立されました。碑文撰者は長州藩奇兵隊に所属し鳥羽伏見戦で戦った三浦梧楼(1846~1926)。
 
 碑のかたわらに「防長忠魂碑」(西面)「墓地ハ此坂上約二丁」(北面)と記す石標が立つ
 
 前述のように仲恭天皇九条陵の西隣に48名の墓地(招魂場)があります。

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 [西]維新戦役忠魂之碑【篆額】
   正二位大勲位功一級公爵山縣有朋篆額
   (碑文本文略)
 [東]伏見鳥羽戦歿志士人名
  (氏名略)
   大正六年十一月防長有志者建之

碑文の大意~http://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/gyoseilist_frame.html


◆防長忠魂碑(東福寺三門東側)

 さきほどの南側にもう一つ碑があります。

 長州出身の寺内正毅、田中義一、山県有朋の寄付により、4大正6年11月、長州藩殉難の士五十回忌に建立されました。表には戊辰戦争の概略と長州軍の活躍をたたえた文面、裏には鳥羽伏見で戦死した48名の名前が刻んであります。

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◆東福寺 浴室(重要文化財)

 1459年(長禄3年)に建てられた前面を入母屋造、後方を切妻造にした単層本瓦葺の建物で、現存する禅宗伽藍のものとしては最古のもの。東大寺の湯屋に次いで古い。内部は、東側に2つの蒸し風呂が並び、後方に釜と焚き口があって、今でいうところのサウナ風呂となっています。当時は、100人単位の僧が修行していたため、沐浴には湯を使用せず、蒸気で体の垢を擦り落とすことで、水や薪を節約していました。

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◆最勝金剛院


 九条家の墓を管理するために再興された東福寺の特別由緒寺院。東福寺で唯一伏見区に位置する寺院。

 「月輪殿下兼実公本墓」の石柱

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 墓所の奥の八角堂は九条兼実の廟所。兼実は、平安末から鎌倉初期の公卿。別名は「月輪殿」、「後法性寺殿」。

 1192年(建久2年)3月、後白河法皇が崩御すると関白となり、同年7月、源頼朝の征夷大将軍任官を実現させました。1207年(承元元年)4月5日没。法性寺に葬られました。法性寺内に東福寺を創建した九条道家は兼実の孫。

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 夕刻になったので、東福寺本坊や今回訪問できなかった塔頭は、次回訪問することにして、東福寺前からバスを乗り継いで帰宅しました。


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最終更新日  2019/09/03 07:15:42 AM
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テーマ:京都。(5650)
「京都市内全寺社巡り」2016年9月10日(土)東山区第3日の第2回です。


◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。
http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201609100003/

◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記の東山区#3です。
https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing


===============================
【東山区第3日 第2回】

 続きです。


京都駅⇒新熊野神社⇒夢の浮橋跡⇒浄心寺⇒伏水街道一之橋旧趾⇒宝樹寺

と歩いてきました。

宝樹寺の南に瀧尾神社があります。こじんまりとしたお社です。


瀧尾神社


 創建年代は不詳ですが、「源平盛衰記」にその名が見えます。天正14(1586)年10月に、豊臣秀吉が方広寺大仏殿を建立したのに伴い、現在地に遷座しました。本殿や拝殿に立派な彫刻があることで知られます。高名な京の彫刻家・代々当主が新之丞を名乗る九山新之丞氏の子息(九山新太郎)作の彫刻が社内には多数見られます。

 特に今年は祇園祭との関係で、この神社とその彫刻が脚光を浴びました。

 京都・祇園祭で後祭の山鉾巡行の最後尾を飾るのは、一昨年150年ぶりに復活した「大船(おおふね)鉾」。その船主には元々龍頭があり、その復刻が図られました。専門家の調査で、江戸後期に瀧尾神社の龍を彫った、九山新之丞・新太郎親子が彫った可能性が浮上。瀧尾神社が寄進をすることになりました。公募で選ばれた滋賀県米原市の彫刻師、森哲荘(てっそう)さん(69)が、瀧尾神社(京都市東山区)拝殿の天井につり下げられた全長8メートルの龍の彫刻を参考に彫りました。そして今年の巡行では、大船鉾の船首にこの「龍頭」が据えつけられました。


瀧尾神社 西側の鳥居 

 鳥居の向こうが拝殿

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瀧尾神社 南側の鳥居

 鳥居の向こうが拝殿

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瀧尾神社 本殿

 「北山貴船奧院御社」旧殿を移築改築したもので、京都市指定有形文化財に指定されています。

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 拝殿にはスリッパを履いて上がることができ、大船鉾の龍頭のモデルになった龍を間近で見ることができました。

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 神社の写真を撮っていると、ご近所の方が、この神社のことを色々説明してくださいました。

 大丸百貨店を創始した下村家が、この神社のパトロンとのことで、大きな絵馬にも大丸百貨店の古い建物が描かれていました。

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 現在の本殿、拝殿、手水舎、絵馬舎は、下村家の手により、は江戸後期の天保10(1839)年〜11年にかけて造立されたようです。

 それから、本殿の回廊には十二支の姿が彫られていることも教えてくださいました。

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 本殿横には幾つもの摂末社が並びます。大丸創始の下村家が勧請したと思われる「大丸繁栄稲荷」もあります。

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 その前には三嶋神社の祈願所があります。

 本宮は東大路通東入に鎮座されていますが、かつては三嶋神社の近くに瀧尾神社があったというご縁もあり、「瀧尾神社」の境内内にも三嶋神社の祈願所が設けられ、絵馬の奉納や祈願が行えるようになっています。

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 うなぎを眷属として祀る三嶋神社の信仰には水場が欠かせませんが、本宮の近くを流れていた音羽川が枯れ、近くに水場がなくなったことも祈願所の設置には影響しているそうです。

「うなぎ」を描いた絵馬

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 三嶋神社の由緒は、後白河天皇の中宮(皇后)平滋子建春門院様にあります。皇子のないことを嘆いた平滋子は、摂津(大阪府高槻市)の三嶋大明神に祈願したところ、夢の中に白衣の翁が現れてお告げを受け、間もなく後の高倉天皇をお産みになりました。喜んだ後白河天皇は、この地に邸宅・小松谷邸を持っていた平重盛(平清盛の嫡男)に命じて社殿を造営し、三嶋大明神を勧請したのがはじまりとされています。

 私は以前高槻市に住んでいたことがあります。そこの「三島」と関係があるというのは驚きです。

 現在も皇室とのつながりがあり、秋篠宮殿下が2度参拝されるなど皇室の子宝祈願にも一役買っています。

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 伏見街道を南下し、京阪・JR東福寺駅のすぐ横を通ります。

仲恭天皇九条陵・崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵参道【道標】

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[北]仲恭天皇九条陵
  崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵参道
  東福寺山門ヲ経テ 参道
[南]昭和四年十二月建之
   大阪皇陵巡拝会
[東](矢印)



稲荷・東寺【道標】

 伏見街道が九条通と交わったところを少し東に入ったところにあります。

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[南] 南 いなり【以下埋没】
[西] 西 東寺洛陽観【以下埋没】
[北] 北 大仏即成院【以下埋没】



伏見街道 第二橋 高欄親柱
 
 鴨川を渡る九条通の高架下にあります。

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万寿寺 東福寺塔頭

 かつては天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺とともに京都五山のひとつとして栄えましたた。しかし、永享6年(1434年)の火災後、衰微し、天正年間(1573年-1592年)には五山第4位の東福寺の北側にあった三聖寺の隣地に移転しました。これは三聖寺の開山が万寿寺と同じ十地覚空と東山湛照であった縁によるものといいます。

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 三聖寺は鎌倉時代には禅宗式の大伽藍を持つ有力寺院であったが次第に衰微し、明治6年(1873年)に万寿寺に合併されました。明治19年(1886年)には万寿寺が東福寺の塔頭となり、21世紀に至っています。東福寺境内にある愛染堂と仁王門、万寿寺入口にある鐘楼(以上、各重要文化財)ももとは三聖寺の建物でした。昭和10年(1935年)には京都市電と東山通、九条通の開通により境内が分断され、万寿寺は東福寺の飛び地のような位置に置かれることになりました。非公開のため拝観はできません。


 九条通を横切り、東福寺の塔頭が多く集まる地域に入ります。


東福寺 仁王門
 
 塔頭万寿寺(三聖寺)にあったもの。三間一戸の八脚門で切妻造本瓦葺(重要文化財)。


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東福寺 北門


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北門から一旦東福寺エリアの外に出て、伏見街道を南下します。


法性寺(ほっしょうじ)

 浄土宗西山禅林寺派。本尊は千手観音菩薩。洛陽三十三所観音霊場第二十一番札所。

 息子を二十歳で亡くした後、家内と洛陽観音巡礼をしたとき以来ですから、5年ぶりでしょうか。

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 925年(延長3年)藤原忠平の創建と伝えられます。藤原氏の寺として栄え、大きなお寺でした。関白藤原忠通が、この寺に入り「法性寺殿」と呼ばれるなど、当時の隆盛は想像を超えるものがあります。現在の清水寺や大徳寺ぐらいの寺だったようです。が、その後衰退し、現在の寺院は明治維新以降、旧名を引き継いで再建されたもの。木造千手観音立像は国宝で、旧法性寺の潅頂堂の本尊と伝えられ、「厄除観音」として知られます。

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 また、現在、東福寺の塔頭・同聚院(どうじゅいん)に安置されている木造、不動明王坐像(重要文化財)は藤原道長が建立した五大堂の中尊と伝えられています。

再び北門から東福寺に入ります。


 東福寺塔頭 退耕庵


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 幕末の鳥羽・伏見の戦いの際、東福寺に長州藩の陣が置かれた縁で、退耕庵は鳥羽・伏見の戦いの戦死者の菩提寺となっています。

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退耕庵 地蔵堂

 玉章(たまずさ)地蔵と称される地蔵菩薩坐像のほか、小野小町100歳像などを安置します。玉章地蔵は京都市東山区の渋谷(しぶたに)越えにあった小町寺から明治7年(1874年)に移されたもので、小野小町宛ての恋文を納めると伝えます。

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 関ケ原の合戦のちょうど1年程前に、石田三成、宇喜多秀家と軍議を開いた茶室『作夢軒』があります。お庭もきれいですが、普段は拝観できません。特別拝観のときに、訪れたことがあります。


東福寺塔頭 盛光院

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東福寺塔頭 霊源院

 
 非公開のようですが、水子供養で訪れる方が多いようです。


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 庭手入れの方が来られていて、落ち葉を集める送風機がお地蔵さんの前に置かれています。何ともいえないコントラストです。

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東福寺塔頭 龍眠庵

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東福寺塔頭 海蔵院

 今は社会福祉法人洛東園となり、老人ホームを営んでいます。昭和27年(西暦1952年)に東福寺によって設立されたようですので、歴史の長い施設です。

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 一部お寺の雰囲気が残っています。

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南門から再度東福寺エリアの外に出て、伏見街道を南下します。


念仏寺 浄土宗 

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遣迎院 浄土宗西山禅林寺派

 1201年(正治3年)に九条道家の開基、証空(浄土宗西山派の派祖)の開山により釈迦と阿弥陀を本尊として現在地に創建されたのに始まります。1583年(天正13年)には寺の敷地が豊臣秀吉により大仏殿(後の方広寺)の敷地と定められたため移転を余儀なくされました。移転は大仏殿計画地が渋谷仏光寺境内に変更されたため中断されたが、一連の経緯の中で2寺に分かれることとなりました。その内の1寺はそのまま残され、浄土宗西山禅林寺派の寺としてここに現存しています。もう1寺は現在の北区鷹峯に移され、浄土真宗遣迎院派の遣迎院となっています。

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 西山国師(証空)終焉の地です。

遣迎院 西山国師御終焉地碑

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[西]鑑智
   西山国師御終焉之地
[北]泉州堺 神南辺隆光
[南]南遣迎院


 南遣迎院は2寺に分かれた南の方の寺という意。

 神南辺隆光は天保12(1841)年に没するまで諸国に道標や石標を建立したといいます。


田中神社

 伏見稲荷の境外摂社。社殿は正保2年(1645)だが、創建は一條天皇の御代(986-1011)といわれます。

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極楽寺 浄土宗禅林寺派

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伏見人形 丹嘉

 伏見人形は江戸時代後期に最盛期を迎えた最も古い郷土玩具です。全国で90種類以上もある土人形のなかで、伏見人形の系統をひかないものはないと言われるほどの土人形の元祖であり、民俗的な美しさを誇っています。
     
 当時、伏見街道沿いには、約60軒もの窯元が軒を連ねましたが、現在では寛延年間(1750年頃)創業の当窯元、丹嘉のみ。

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長谷川工務店

 ゼネコンではありません。伏見稲荷に奉納する鳥居などを製作する会社です。千本鳥居の一番小さなもので、175,000円といわれています。
 
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 もう伏見稲荷に近い場所なのですが、この長谷川工務店のある地域だけ、東山区が半島のように突き出しています。


(続きます)

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最終更新日  2019/08/26 10:43:21 AM
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テーマ:京都。(5650)
「京都市内全寺社巡り」2016年9月10日(土)東山区第3日の第1回です。


◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。

http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201609100003/


◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記の東山区#3です。

https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing


===============================

【東山区第3日 第1回】

東山区第1日、第2日は山科区の続きということで、東山区の東北部分を中心に歩きました。

第3日以降は南から北上していくことにしました。


自宅を出たのは午前10時半過ぎ。五条通を通るバスで京都駅まで行き、そこから東山区まで歩きました。

京都駅出発は、午前11時25分でした。

塩小路通を東に歩いて鴨川を渡って東山区に入ります。

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 南に向かい、東海道本選の陸橋を渡ります。新幹線のトンネルの手前で、東海道本線も新幹線も両方見ることができるスポットです。全部の列車が京都駅に止まるので、猛スピードの列車を見ることはできませんが。

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 東海道本選に沿って東進して、東山通まで来ます。


●鳥戸野陵・中尾陵参道【道標】

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 [西] 鳥戸野陵 中尾陵 参道
 [東] 昭和四年十二月 大阪皇陵巡拝会
 [北] ←

「鳥辺野稜」(とりべのみささぎ)は藤原定子の墓。藤原定子(ふじわらていし)(977-1001)は、平安時代、一条天皇の皇后。清少納言が仕えた。
「中尾陵」は東山区今熊野宝蔵町の住宅地にある仁明天皇皇后藤原沢子の墓。


この道標の少し南に新熊野神社があります。


●新熊野神社(いまくまのじんじゃ)

永暦元年(1160)に後白河上皇が熊野権現を勧請して、法住寺殿の鎮守となりました。社殿は平清盛の造営。応仁・文明の乱で荒廃後、東福門院和子(まさこ)が社殿を再建しました。現本殿(京都市指定有形文化財)は寛文13年(1673)に聖護院の道寛親王により再建されました。

熊野神社、熊野若王子神社とともに京都三熊野神社の一つ。

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本殿

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影向(ようごう)の大樟(おおくすのき)

 神社創建の際、熊野から運ばれた後白河法皇お手植えのクスノキと伝えられています。
 京都市の天然記念物

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洛陽新熊野大権現道【道標】

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 [北]左 らくやう新くまの大こんけん
     西国十五はんくはんせおん
 [東]右 大ふつ【以下不明】
 [南]正徳二壬辰歳正月吉祥日 帳屋甚兵衛

風化で、ほとんど読めなくなっています。

大樟の近くにありますが、別の場所から移設されたものと思われます。


石柱 

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京の熊野古道

遠くに行かなくても熊野詣ができるという触れ込みです。

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今熊野猿楽碑


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猿楽は,古代宮廷の余興や寺社の祭礼に興行されていたものに,鎌倉期歌舞的要素が付加されたもので,能楽の源流とされています。大和結崎座の観阿弥(1333~84)と子世阿弥(1363~1443)によって,応安7(1374)年,この地今熊野神社の社頭で,室町幕府三代将軍足利義満(1358~1408)の御前能として演ぜられたことにより京中で評判となり,将軍家や武家の後ろ盾を得て発展していきました。この石標は今熊野勧進猿楽を記念するものとして建てられました。

横の扇形の碑には、 由緒を示す昭和五十五年十月十六日付けの文学博士屋辰三郎氏の碑文が刻まれています。

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ご朱印

#07-新熊野神社-.jpg

 

御神鳥の「八咫烏(やたがらす)」の印が押されています。
熊野に係る神社は、摂社・末社を含めると全国に3,000以上あります。その御神鳥が八咫烏です。日本神話に登場する三本足のいカラスです。日本サッカー協会がシンボルマークにしています。

新熊野神社ホームページ:http://imakumanojinja.or.jp/


東山通を少し南下し、東に入ります。

●光瀬寺(こうらいじ)(浄土真宗本願寺派)

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さらに東山通を南下し、泉涌寺道との交差点です。


泉山御陵参道【道標】

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 [西]泉山御陵参道
 [東]和四年十二月 大阪皇陵巡拝会
 [北]←


東山通から泉涌寺道を西に入ります。


●夢の浮橋跡

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 かつて、この地に夢の浮橋が架かっていた。この橋は、四采天皇をはじめ、歴代の天皇、后妃等の垂所が多い泉涌寺(せんにゅうじ)に詣でる本道に架けられた橋であり、古くから大路(おおじ)橋(ばし)若しくは落(おち)橋(ばし)と呼ぱれていた。夢の淳橋という名は、源氏物語・宇治十帖の「夢の浮橋」の名に因み、この娑婆世界の無常の様が、夢のごとく、また浪に漂う淳橋のごとく、はかないものであるという例えからとったと伝えられている。

 川の流れは泉涌寺の後ろの山から出て、今熊野の南を巡り、更に一の橋の下を流れて鴨川に入るが、今は暗渠となり橋は取りはずされている。


泉涌寺道を西進し、東山泉小学校の西側を北に行ったところに浄心寺があります。

●浄心寺(浄土宗西山禅林寺派)

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 その東山泉小学校のグラウンド内に伏見街道第一橋が残されています。後述の石碑の場所から移設されたものと思います。

●伏見街道第一橋

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伏見街道を南下します。

●泉湯(銭湯)
   営業しているようです。

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●伏水街道一之橋旧趾


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 一之橋は,伏見街道(本町通)の今熊野川に架けられた橋。愛宕郡と紀伊郡との境界ともされていたが,元来は法性寺内の橋であったらしい。この附近では,東の東福寺附近から何本かの川が街道を横切っており,北から順に二之橋・三之橋もあった。また,もともと附近は一之橋町と称し(明治2年に現町名に改める),小学校も一橋(いっきょう)小学校(今は東山泉小)というように,町名・校区名の由来となっていたが埋めたてられた。

●宝樹寺(浄土宗西山禅林寺派)

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 本堂に祀られている薬師如来像は「子そだて常盤薬師」と呼ばれ、常盤御前が、今若・乙若・牛若の成長を祈願した像と伝えられています。

 常盤御前が大和国宇陀(奈良県)の親戚を頼って都を逃れる途中、しばし雪をさけた松があったといわれ、境内墓地に「常盤御前雪除松跡の碑」が建っています。

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(続きます)

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最終更新日  2019/08/26 10:43:06 AM
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2016/09/10
テーマ:京都。(5650)
2016年9月10日(土)】

 昨日は飲み会でしたが、そんなに飲んでなくて、朝の気分は良好。天気も良さそうだし、8月17日に全寺社巡り行ったっきり行ってないし、来週になると色々忙しくなるし、家内は自治会主催の近くの小学校でのミニ・コンサートに友達と出かけるというので、東山区第3日目の歩きに出かけました。


【本日の行程】

自宅を出たのは午前10時半過ぎ。バス一本で京都駅まで。午前11時25分くらいに京都駅を出発しました。

東に歩いて、東海道線を南に横切り、東海道線の南側を歩きました。

新熊野神社、瀧尾神社、光明院、東福寺の一部を歩きました。

午後4時20分頃、東福寺前からバスに乗って、七条大宮でバスを乗り換えて帰宅しました。

涼しいことを期待したのですが、京都の最高気温31.5度と真夏日に逆戻りで、汗を結構かきました。それでも一時期のことを思うと、だいぶましです。


◆ルートと訪問スポット

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20160910-東山区#3List#3.jpg
20160910-東山区#3List#4.jpg


下記がオリジナル(下記の東山区#3)

https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing


◆歩行データ

・歩行距離
  東山区の歩き部分(地図上計測) 10.0km
  *全歩行距離 12.2km

・歩数(全歩数)17,000歩 

・歩行時間 2時間44分。


 *は自宅からの往復の歩数計データ



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最終更新日  2019/08/26 11:11:56 AM
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2016/08/30
テーマ:京都。(5650)
「京都市内全寺社巡り」2016年8月17日(水)東山区第2日の第3日です。


◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。

http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201608170004/


◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記です。

https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing


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≪東山区第2日第3回(最終回)≫

(東山区第2日第2回から続く)

さらに円山公園の奥へと進みます。


料亭 左阿弥
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もとは元和元年、織田信長の甥である織田頼長により、安養寺の末寺として建てられました。頼長の父は、茶人の織田有楽斎。頼長も又、雲生寺道八と号し、この地で茶事を極めたと云います。

江戸時代、安養寺のある東山あたりは、遊興の地として大変なにぎわい、中でも左阿彌は、安養寺「円山の六坊」の一つと数えられ、文人墨客が集いました。

左阿彌が料亭を始めたのは嘉永二年。

明治維新以降、御前会議にも使われ、有栖川総督宮山県有朋参与が止宿し、頼山陽土田麦僊画伯もよく訪れました。川端康成志賀直哉の文豪らも訪れ、『暗夜行路』・『古都』にも左阿彌が書かれています。

左阿弥ホームページ 
http://www.saami.jp/history/index.html


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安養寺

中興が慈円であったことから山号は慈円山。桓武天皇の勅命により天台宗のお寺として最澄が開創しました。法然がこの寺に庵を置き吉水草庵と呼ばれ、30年間念仏三昧の日々を送ったとされています。親鸞もこちらに念仏修行にやってきましたが、念仏弾圧により寺は荒廃してしまいます。

至徳年間(1384~1387)国阿が安養寺に入寺してからは時宗に改め再興されました。

境内には子院六阿弥坊が建立しますが、さきほどの左阿弥が料亭として残るのみになっています。

本坊も、現在では本堂・書院・弁天堂が残るのみです。江戸時代には山号の慈円山を略し、徳川家康は円山と呼んでいたそうです。円山公園はもと境内の地だったことから、円山公園と呼ぶようになったとも伝わっています。

安養寺ホームページ 
http://yosimizu-anyo-ji.com/index.html


弁天堂

山門の手前にあります。
吉水さんと京都では呼んでいますが、霊泉が湧いていた事に由来します。弁天財と共に宇賀神将尊を祀っていて学術向上にご利益があるとされています。宇賀神将尊は、宝珠を抱いた白蛇に変化したことで、祇園では芸妓の技術向上のもご利益があるとされたくさんの芸妓が訪れます。


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慈鎮(慈円)和尚多宝塔(重要文化財)お堂の裏にあります。
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お滝場
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法然も使ったといわれる閼伽水の井戸もありますが、見逃しました。



歓喜天堂(聖天堂)道標 お宿「吉水」の看板の横に立っています。
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山門
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真葛原吉水庵室の石柱

 山門前に立ちます。「真葛原(まくずがはら)」は京都市東山区北部の円山公園の辺り一帯の称。
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本堂
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ご朱印

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ご朱印をいただくときに、将軍塚への行き方をお寺の方に聞きました。
本堂の北側の道を上っていけばよいとのことで行ってみました。


山側からの安養寺の眺め
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かなり上らないといけないかと思いましたが、ほどなく目的の道標に到達しました。
安養寺がすでに高いところにあるからでしょうね。


蛍が窟・知恩院【道標】

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建立者:中井慈眼(推定)
[西]左 蛍か窟 参町
    知恩院 四町

お地蔵さんが乗った石垣のそばにあります。

これを上っていくと、この日、将軍塚から下りたところにあった「知恩院」や「円山公園」を示す道標のところに行きつくはずです。

「蛍が窟」は調べましたが、分かりませんでした。


他にも石垣に乗ったお地蔵さんがありました。

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山道を下り、安養寺に戻ります。、


歓喜天堂(聖天堂)
 安養寺の守護神、歓喜天を祀ります。生駒聖天より勧請されたもの。かつては雨宝堂でした。安養寺の最上部にあります。
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本堂のほうに戻らず、南の道を下りていきます。


将軍塚道【道標】
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[西]将軍塚道



お宿 吉水
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ホームページ 
http://yoshimizu.com/kyoto/



円山公園に戻ります。


石垣で作られた公衆トイレ
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「ねねの道」道標
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長楽館の南を通り、阪急四条河原町まで歩き、阪急+バスで帰宅しました。



(東山区第2日終わりです)


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最終更新日  2019/08/26 10:46:57 AM
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2016/08/29
テーマ:京都。(5650)
「京都市内全寺社巡り」2016年8月17日(水)東山区第2日の第2回です。


◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。

http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201608170004/


◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記です。

https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing


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それでは東山区第2日の第2回です。

正法寺、霊明神社への階段を、西のほうに下りて行くと、左手に老舗料亭「高台寺 土井」があります。「高級」ですので、私は入ったことがありませんが・・・・


料亭 高台寺 土井
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明治の両替商 元 清水吉次郎邸「十牛庵」の敷地にあり、本館は明治40年に数寄屋匠上坂浅次郎が建築、庭園は七代目小川治兵衛の作庭です。老舗と書きましたが、創業は昭和13年とのことで、それほど古くはないようです。

 

二年坂まで下りてきました。

それまで、人とはほとんど出会うことがなかったのですが、ここまで来ると、清水寺のお膝元で、人、人、人です。空気が一変します。

二年坂から正法寺の階段に向かうところに、正法寺を示す道標があります。


開山国阿上人参詣道【道標】

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[北]開山国阿上人参詣道 是ヨリ三丁
[西]洛陽 四拾八願所 本山霊鷲山 正法寺
[南]■年 当■寺 ■ 来迎寺



二年坂を北端まで歩き、東山通に向かう途中、左側に青龍寺があります。


青龍寺

浄土宗の寺で、洛陽三十三所観音霊場第九番。


門と法然上人御遺跡青龍寺碑
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[北]法然上人御遺跡
六時礼讃根源之地 青龍寺
[南]昭和五十三年六月吉日


境内 木の向こうが本堂
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桓武天皇の勅命によって長岡京近郊に創建され、平安遷都により現在地に移されました。昔から「伽羅(きゃら)観音」の通称で広く信仰を集めてきた本尊の聖観音は、本堂正面に安置されており、身の丈約1メートル、細身の優雅な立ち姿です。

寺伝によると、唐の徳宗皇帝から献上された伽羅木を、桓武天皇が伝教大師(最澄)に命じて彫刻されたものとのこと。

本堂前の小さな庭に、長さ1メートル、幅50センチほどの石が据えられています。法然の門弟・見仏が後白河天皇追善回願のため、法然を招いて六時礼讃を勤めたとき、同じく門弟の住蓮が鉦の代わりに叩いたという念仏石で、隕石との言い伝えもあり、名物となっています。大小二つあって、小さい方は本堂内に保存されており、打つとカーンと金属性の音がするそうです。


念仏石
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また、境内墓地には、勤王の志士・近藤正慎(義重)の墓があります。

これは近藤 正慎の碑
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近藤 正慎(しょうしん)は、江戸時代末期(幕末)の尊王攘夷運動家。
丹波国桑田郡(現・京都府)生まれで、京都清水寺成就院で出家。兄弟僧であった月照を支援し尊攘運動に身を投じました。
安政の大獄に連座して捕縛され、六角獄舎において、月照の行方について拷問を交えて問われるが全く白状せず、獄中で舌を噛み切って壁に頭を打ちつけて自害しました。
陶磁器の人間国宝、近藤悠三は孫、俳優の近藤正臣は曾孫です。子孫は代々、清水寺境内で休憩所「舌切茶屋」を営みます。


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東山通に出て、八坂神社近くの「王将祇園八坂店」で腹ごしらえ。疲れた身体には、ボリューム満点の中華料理とビールが一番。早くて安いのもいい。


八坂神社を通って、円山公園へ。


ラジオ塔(円山公園内)
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ラジオ普及のために昭和七(一九三二)年につくられ、ラジオ体操や野球中継が流されました。
戦時中に資材供給しましたが、昭和57年に修復されました。

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祇園祭山鉾館
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京都で7月に行われる祇園祭の山鉾10基が収蔵されています。保存が困難になっていた山鉾のために、京都市のよって昭和43年に建設されました。収蔵されているのは木賊山(とくさやま)、芦刈山、伯牙山、郭巨山(かっきょやま)、油天神山、太子山、浄妙山、黒主山、孟宗山、岩戸山です。


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祇園小唄碑
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「月はおぼろに東山・・・」で有名な「祇園小唄」の碑です。
祇園小唄は、長田幹彦が昭和初期に祇園のお茶屋「吉うた」で作詞し、佐々紅華が作曲、マキノ映画「絵日傘」の主題歌として、全国に大流行しました。歌ったのは藤本二三吉。男性の名前のようですが、元芸妓の女性歌手です。「吉うた」の二代目女将お龍さんが長年奔走し、昭和36年にこの碑ができました。

P1080720.JPG


ちょっと聞いてみましょう。




歌詞:『祇園小唄』

1.
月はおぼろに東山
霞む夜毎のかがり火に
夢もいざよう紅桜
しのぶ思いを振袖に
祇園恋しや だらりの帯よ

2.
夏は河原の夕涼み
白い襟あしぼんぼりに
かくす涙の口紅も
燃えて身をやく大文字
祇園恋しや だらりの帯よ

3.
鴨の河原の水やせて
咽(むせ)ぶ瀬音に鐘の声
枯れた柳に秋風が
泣くよ今宵も夜もすがら
祇園恋しや だらりの帯よ

4.
雪はしとしとまる窓に
つもる逢うせの差向(さしむか)い
灯影(ほかげ)つめたく小夜(さよ)ふけて
もやい枕に川千鳥
祇園恋しや だらりの帯よ




円山公園
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明治維新までは八坂神社(当時は祇園感神院)や安養寺、長楽寺、双林寺の境内の一部でした。明治初年の廃仏毀釈の一環として、1871年(明治4年)に上知令によって土地が政府に没収され、1886年(明治19年)に総面積約9万平方メートルの公園が設けられました。園地計画は武田五一がまとめました。人工鉱泉療養所や貸席がたちならび歓楽境をなしていたが、火災で焼失したあと1912年(大正元年)に小川治兵衛により池泉回遊式の日本庭園が作庭され現在の形となりました。国の名勝に指定されています。
円山公園の名は、安養寺の山号である慈円山からきています。


祇園枝垂桜(円山公園内)
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「一重白彼岸枝垂桜」(ひとえしろひがんしだれざくら)という品種で、初代の枝垂桜は1947年(昭和22年)に枯死したため、現在は2代目が植えられています。来たるべき開花に備えているわけですが、花が咲いていないと、単なる一本の普通の木にしか見えず、誰も目を向ける人がいません。



京都霊山護国神社南へ三町【道標】(手前)

[西]京都霊山護国神社 南へ三町
[東]昭和十六年十一月 靖芳書塾 稚松会建


頼山陽先生墓碑【道標】(奥)

[南]頼山陽先生之墓碑
[北]大正十一年一月
[東]大阪 有田音松建之

長楽寺の頼山陽のお墓を示しています。

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坂本龍馬・中岡慎太郎銅像(円山公園内)
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慎太郎の背の低さを目立たなくするためにこのようなポーズになっているといわれています。
昭和11年京都高知県人会有志により建立され、第二次大戦中に撤去されましたが、昭和37年に再建されました。



京都市歌碑

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 円山公園内の料亭「東観荘」の前にあります。何故ここにあるかは、よく分かりません。
 京都市民でありながら聞いたことありませんでした。You Tubeにありましたので、是非、お聞きください。
 なかなかいいです。



京都市歌

作詞:藤山於菟路 / 作曲:諸井 三郎
昭和26(1951)年7月15日制定

みどりの風に色はえて
かおる都の花の宴
あおぐ山々うるわしく
ながるる加茂の水清し
ひかりの都わが京都

世界を結ぶ観光の
都世紀の花あかり
栄えいやます日のもとに
平和の鐘が鳴りわたる
ひかりの都わが京都

歴史にめぐるあやにしき
虹の都の世をつぎし
永久のおもかげ代々のあと
新たにいまもしのばるる
ひかりの都わが京都



(続きます)

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最終更新日  2019/08/26 10:41:35 AM
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2016/08/28
テーマ:京都。(5650)
「京都市内全寺社巡り」2016年8月17日(水)東山区第2日の第1回です。


◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。

http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201608170004/


◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記です。

https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing


===============================

それでは第1回です。

自宅を出たのは午前10時半過ぎ。遅くなったので、バス+阪急+地下鉄を使い、地下鉄蹴上駅からスタート。

東山ドライブウェイを北側から上り、山科区で見つけられなかった「花山道路碑」発見に再挑戦(3回目)しましたが、結局発見できず。

そのまま将軍塚まで上り、将軍塚の門の手前を、京都一周トレイルの道を「粟田口・知恩院」の方向に入りました。東山区第1日では、逆側から上ってきました。


P1080682.JPG


東山一周トレイル道標
右の「東山山頂公園」の方から下りてきました。「粟田口」が東山区第1日で上ってきた方向です。今日は京都一周トレイルから外れ「知恩院」方向に下りていきます。
P1080681.JPG



「知恩院」方向に下りていくと、木の道標とともに、石の道標2つが見つかります。


手前の道標 将軍塚・円山公園【道標】
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建立者:中井慈眼(推定)
[南]右 将軍塚
[西]左 円山公園



奥の道標 山縣公紀念樹・菊渓・高台寺【道標】
P1080674.JPG


「菊渓」は「きくたに」と読み、高台寺の北の菊谷菊という菊が咲き誇っていた場所のようです。


「山縣公紀念樹」に方向に行くと、平らな少し広い土地に出ました。

木にこのように「高台寺山」というラミネートされたカードがぶらさげてありました。


P1080678.JPG


一つは「26 高台寺山198.6m 関西・東山三十六峰を歩く会 H22.9.4/9.9」
もう一つは「京都・東山三十六峰 第26峰 高台寺山 標高200m 兵庫・東山三十六峰を愛する会」2014.9.20と書いてあります。いずれも東山三十六峰を歩く団体の方が、山の場所を特定するために、ぶらさげられたのだと思います。

この場所はピークでも何でもなく、山の中腹の少し平らになったところです。そのような場所も、東山三十六峰の一つになっているということです。色んなネット情報を見ますと、東山三十六峰の中には、特定するのが非常にむつかしい山も多いようです。

それにしても、H22といえば、6年前。ラミネートされているとはいえ、風雨と高低温の中、あまり劣化もせずに、文字が読める状態というのは驚きです。

山縣有朋紀念樹を示すものは見つかりませんでした。


もと来た道を戻り、東山山頂公園を南下し、東山区第1日でも歩いた京都一周トレイルの道を下ります。

次は、伊藤博文の詩碑を目指します。場所の確信はなく、まず林道と交差したところで林道を西に向かってみました。この林道は、結構広い通りで、伊藤博文の詩碑が建てられたより新しい時代にできた道だと思われ、これは間違いかなと疑いつつでしたが。案の定、何も発見できず。林道と東山トレイルの交差点に戻りました。

さらに京都一周トレイルに沿って南下すると、少し広くなった場所に着きます。


P1080685.JPG


このような道標がありました。
左に行くと東山区第1日で歩いた京都一周トレイルですが、点線の方向に行くと、「清水寺」とともに、「木戸孝允の碑」とあります。

P1080684.JPG


「うん?木戸孝允?伊藤博文のはずだけど。」と思いながらも、この点線の方向に進むと、道標にもあった分かれ道に来ます。


清水寺・将軍塚・伊藤博文詩碑・高台寺【道標】

P1080686.JPG

建立者:中井慈眼(推定)
[南西]右 将軍塚 大日如来
   左 伊藤公詩碑
     高臺寺 木戸公墓所
[北西]右 清水寺 参町
[南東]左 清水寺 参町

ありました、ありました。「伊藤公詩碑」の方向に向かいます。「通り抜けできません」とありますが、無視して行ってみました。

しばらく行くと「通行止」の標識。

P1080687.JPG


それでも無視して進みます。誰も歩いていないので、山道はクモの巣だらけで、手に持った地図で前のクモの巣をかき分けながらの前進でした。途中からは、腰まで草が生えている中を歩かないといけませんでした。アドベンチャーです。

しばらく行き、ようやく伊藤博文の詩碑を発見。難道中でしたので、喜びもひとしおです。

伊藤春畝詩碑

P1080688.JPG

P1080689.JPG

(以下、「いしぶみデータベース」の説明)
 公爵伊藤博文(号春畝,1841~1909)自作の七言律詩を表に記し,裏面には建立の経緯を記す。伊藤と井上馨は明治42(1909)年に木戸孝允(1833~77)の三十三回忌列席のため来京。伊藤が木戸の墓所に詣でて作った七言律詩を中井慈眼に示したところ,中井が伊藤・井上の詩碑を東山に建立することを発意し建設された。井上馨の詩碑はこの碑の東方にあり姉妹碑とでもいうべきものである。
 中井慈眼(1851~1932)は中井三郎兵衛と称し,三条東洞院で紙商を営んだ人物。府会議員・市会議員をつとめ明治京都の実業界で重きをなした。かたわら京都を観光都市として発展させるために東山の開発に尽力した。中井は近くの将軍塚の大日堂を明治41年に建立し,この碑一帯の整備にも意を注いだ。


その詩碑の近くに、ラミネートされたカードがあり「27 霊山 176m 関西・東山三十六峰を歩く会 H22.9.4/9.9」と書いてありました。さきほどの「高台寺山」のカード一つと同じグループ、同じ日付けです。ここも特にピークになっているわけではなく、中腹で少しフラットになっているだけです。

P1080690.JPG


さらに山道を下りようとしますが、今度は、工事中に使う三角コーンが置いてあり、立ち入り禁止を示しています。無視して坂を下りていきます。

霊山護国神社の裏に出ました。鉄条網でその先に進めなくなっています。回りは崖になっていて、回りこんで進むこともできないようです。ところどころ鉄条網が切られていて、無理やり入ったあとも見えますが、身体が硬い私がトライすれば、きっと血だらけになってしまいます。

P1080691.JPG


あきらめて、今下りてきた山道を戻りかけました。そのとき、少し崖になっていますが、鉄条網のないところがあって、そこから下りることができそうです。気をつけて下りました。やれやれ。下りたところは墓地でした。霊山護国神社の墓地だと思ったのですが、墓地の中を進んでいくと、正法寺というお寺の墓地であることが分かりました。

からくりはこういうことだと思います。昔は、霊山護国神社の墓地(坂本龍馬や中岡慎太郎など、幕末の志士の墓が多く置かれている)は、無料で入れたのだと思います。そのころは、伊藤博文の詩碑にも、行くことができたのだと思います。ところが入場料をとるようになり、無料での入場を阻止するために、このようなバリケードを神社が設置したのでしょう。正法寺の墓地が隣接しているのですが、正法寺は拝観料をとっているわけではないので、鉄条網がないのでしょう。

いずれにしても、正法寺に助けられました。


この崖を下りました。

P1080692-.jpg


正法寺(しょうぼうじ)

時宗の寺院。山号は霊山(りょうぜん)または霊鷲山。この一帯を霊山とよぶのは当寺山号に由来しています。

この寺は、最澄の開山により創建された天台宗の寺院に始まると伝えられます。はじめは霊山寺と称し、光孝天皇・宇多天皇の勅願所となりました。鎌倉時代初期には法然がこの寺で別時念仏を修したといいます。その後荒廃していたが、1383年(永徳3年)に時宗の僧国阿が再興して正法寺と改め時宗の寺院となりました。室町幕府3代将軍足利義満の帰依を受け寺運は興隆しました。江戸時代には時宗十二派の「霊山派」の本寺とされ、江戸幕府から朱印状を与えられ、塔頭十余宇を有したが、明治以降衰退し、現在は本堂(釈迦堂)・庫裏などを残すのみとなりました。 また、当時正法寺で授けたお札は「柏のお札」といって柏の葉の形の中に「伊勢熊野参詣輩」「許永代汚穢」(永代の汚穢を許す)の文言が刷られていました。


本堂

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裏から不法侵入に近いかたちでお寺に入っているので、本堂にお参りしてから、山門に向かうということになりました。でも山門には内側からカンヌキがかけられていて閉まっています。内側からなので、カンヌキを外せば出られないことはないはずです。しかし、そうするとお寺の方に見つかったとき、どうやって入ったか詰問されることになります。困ったなぁと思ったところで、閃きました。お墓があるということは、お墓参りの人が入れる通路があるはずだ。山門を右に回り込んだところに道があり、山門の下に出ることができました。


山門

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正法寺の山門を少し下りたところに霊明神社という小さな社があります。


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創建者の村上都やす(くにやす)(「やす」は”りしんべん”に山+豆)は朝廷に仕えていた貴族で徳川政権下では仏式で葬祭を行なうと決められていたことに疑問をもちました。そこで文化6年(1809)、正法寺の塔頭が所有していた山林を買い受けてこの地を購入して神式の葬祭を始められたそうです。お墓がある神社として珍しい存在です。

文久2年(1862)京都で亡くなった長州藩の志士を葬ったことに始まり各藩の尊王攘夷派の志士を埋葬するようになります。久坂玄瑞が先祖の永代供養を申し入れたという記録もあるそうです。そして慶応3年(1867)龍馬と慎太郎が近江屋で刺客に襲われ亡くなると同志によって運ばれ神葬祭をおこなって埋葬したという記録が残っているそうです。


P1080697.JPG

P1080698.JPG



明治10年(1877)政府によって墓地と境内地の大半を召し上げられ政府が管理する招魂社(現在の京都霊山護国神社)に管理させます。したがって現在は龍馬を始め志士達のお墓は霊明神社にはないのですが神社の前の階段を西側へと降りていくと神道墓地として少しばかり残されています。


ご朱印
#05-霊明神社(web).jpg



急な階段を下りていきます。

P1080700.JPG



八坂の塔の眺めが見事です。

P1080701.JPG



前述の霊明神社の神道墓地

P1080705.JPG



(続きます)

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最終更新日  2019/08/26 10:41:15 AM
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2016/08/17
テーマ:京都。(5650)
2016年8月17日(土)】

 今日は天気も良さそうだし、家内も一日テニスなので、京都市全寺社巡り、東山区の2日目に出かけました。


【本日の行程】

自宅を出たのは午前10時半過ぎ。遅くなったので、バス+阪急+地下鉄を使い、地下鉄蹴上駅からスタート。

山科区で見つけられなかった「花山道路碑」発見に再挑戦(3回目)しましたが、結局発見できず。

中井慈眼(中井三郎兵衛)が建立した東山周遊の道標でまだ訪れていないところや、伊藤博文詩碑を巡り、正法寺、霊明神社、円山公園、安養寺などを巡りました。

伊藤博文詩碑は立ち入り禁止の山道のところにあったため、ちょっとしたアドベンチャーでした。

山道のを歩いているときに、雨が降ってきましたが、それほどきつくはならなくて助かりました。


◆ルートと訪問スポット

20160817-東山区#2Map.jpg

20160817-東山区#2List#1.jpg
20160817-東山区#2List#2.jpg


下記がオリジナル

https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing



◆歩行データ

・歩行距離
  東山区(一部山科区)の歩き部分(地図上計測) 8.9km
  *全歩行距離 12.7km

・歩数(全歩数)18,000歩 

・歩行時間 2時間56分。


 *は自宅からの往復の歩数計データ


今日の京都の最高気温は32.3度とそれほど高くはありませんでしたが、平均湿度が73%と8月になってからでは最高で、気温以上に暑く感じました。



【オリンピック】

シンクロデュエット銅。おめでとう。指導者がいかに大切かということですね。

卓球男子、銀。やっぱり中国は強い。でもはるか先を行っていたのが背中が見えてきた。

女子レスリング、3階級(48kg、58kg、69kg)、すべて試合終了30秒を切ってからの逆転。すご過ぎる。でも、逆転が可能と選手は思っていた。日本の選手は体力では世界の選手に負けないそうだ。だから、終盤点差が少なければ、体力勝負で逆転できるという。まぐれでも、精神力だけでもない、ちゃんと裏付けがあるんだ。いやはやすごい。
選手の名前がいいじゃないですか。ど根性(土性)で登り坂(登坂)でいい調子(伊調)。おめでとう!!!!



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最終更新日  2019/08/26 11:16:10 AM
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2016/08/13
テーマ:京都。(5650)
 「京都市内全寺社巡り」2016年8月11日(水)の東山区1日目の第2回(最終回)です。


◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。

http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201608100007/


◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記です。

https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing


===============================

それでは第2回(最終回)です。

佛光寺本廟の西に良恩寺があります。


●良恩寺(浄土宗西山禅林寺派)
 

創建は永禄年間(1558~70)とされます。

本堂に祀られる像高三尺(約九十センチ)の阿弥陀如来坐像は、小野篁(おののたかむら)作と伝わります。地蔵堂(導引地蔵堂)に祀られる地蔵菩薩像は、伝教大師の作とも伝わり、「導引地蔵(みちびきじぞう)」の名前で知られています。

この「導引地蔵(みちびきじぞう)」という名前の由来ですが、かつて背後の華頂山(東山三十六峰の一つ)に火葬場があったことが関係しているようで、良恩寺はこの火葬場を管理し地蔵堂の前で葬者に引導を渡していたことから、この地蔵尊は導引地蔵と呼ばれるようになったといわれます。


石柱の道路側には、写真では分かりにくいですが、「導引地蔵」と刻まれています。

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本堂。小野篁(おののたかむら)作と伝わる 阿弥陀如来坐像が安置されています。

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地蔵堂。導引地蔵が安置されています。

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●庚申堂登口【道標】


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[北]庚申堂 登口
[西]将軍塚
[南]昭和十三年十二月建之
[西]吉岡和助
牧崎春吉

粟田神社に上る階段下の鳥居の東側にあります。庚申堂とは後から訪れる尊勝院のことです。確かに、これから訪れる粟田神社の境内を通って、尊勝院や将軍塚に行ける道があるのですが、今は門が閉まっていて実際には行けません。

粟田神社への登り口を三条通方向に少し歩きます。



●粟田焼発祥地碑

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[東]粟田焼発祥之地
[南]平成元年十月吉日
[西]青蓮院門主 慈洽書
[北]粟田焼保存研究会建

 粟田焼は洛東粟田地域で生産された陶器の総称で,いわゆる京焼の一つ。寛永初年(1624)頃,三文字屋九右衛門が瀬戸より来て粟田口三条に開窯したのに始まります。初期は銹絵・染付陶器を生産しましたが,野々村仁清(生没年未詳)が御室窯で上絵付色絵陶器を完成後は色絵の高級陶器を焼き代表的窯場となりました。しかし,明治維新後は衰微の一途を辿りました。



●出世恵美須神社参道【道標】

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[西]出世恵美須神社参道
[南]皇紀二千六百年十月二十日
[北]奉斎会建之

出世恵美須神社は、あとで訪れる粟田神社の摂社の一つです。創建年代は不詳ですが、もとは三条蹴上の夷谷に奉祀されていました。源九郎義経が牛若丸の幼少時代に奥州下向の時、源家再興の祈願をされた恵美須神であり、出世又は門出恵美須と称されました。500年以上前に蹴上の山崩れがあり、土砂と共に流出した際に止まったところが現在の三条神宮道付近であり、夷町といいます。永く夷町、金蔵寺に奉斎されていましたが、明治に粟田神社摂社として遷し、出世恵美須神社として崇敬されています。地図で確認すると、確かに、蹴上を山科の方向に行ったところに日ノ岡夷谷町、三条神宮道に夷町という名前が残っています。



●粟田神社

スサノオノミコト・オオナムチノミコトを主祭神として祀り、厄除け・病除けの神として崇敬されてきました。京都の東の出入口である粟田口に鎮座する為、古来東山道・東海道を行き来する人々は旅の安全を願い、また道中の無事を感謝してお参りされるようみもなり、いつしか旅立ち守護・旅行安全の神として知られるようになりました。
粟田祭では神輿に先行して剣鉾が巡行します。剣鉾は祇園祭の山鉾の原形と云われており、 室町時代には祇園会が行われない際は粟田祭をもって御霊会としたと伝えます。一説には奈良朝より活躍した粟田氏の氏神として創建された社とも云います。



三条通に面した石標

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三条通から少しだけ南に入ったところにある鳥居

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参道の石榴(ザクロ)の木

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階段の登り口の鳥居

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鍛冶神社。粟田口の刀工、三条小鍛冶宗近・粟田口藤四郎吉光と、作金者(かなだくみ)の祖である天目一筒神を祀る鍛冶の神様。

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拝殿と本殿。
拝殿は桧皮葺き。本殿・幣殿・拝殿は市の有形文化財に指定されています。

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粟田祭夜渡り神事に行われる「粟田大燈呂」の出し物だと思います。

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 境内は少し標高の高いところにあり、北側の眺望が楽しめます。五山の送り火の「左大文字」「船形」が正面に見えます。神社の方に聞いてみたら、送り火の日には200人から300人の方が来られるようです。眺望可能な場所は狭いですが、入れ替わり立ち替わり観るので(どなたかが仕切っていらっしゃるのか、自発的かは分かりません)、混んでいても観られますよとのことでした。「五山送り火」のビューポイントの一つに加えておきます。

 石段を下り、三条通の一つ南の道路をさらに西に向かいます。



●元三大師【道標】

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[北]元三大師
[西]文化二乙丑年四月建之
[東]多賀大社

あとから訪れる尊勝院への道であることを示しています。



●青蓮院宮御墓参道【道標】

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[北]青蓮院宮御墓 参道
[東]←
[南]大阪皇陵巡拝会

この道標に従っていくと、青蓮院宮墓地が右手にありました。しかし、金網があり入れません。青蓮院を拝観したときに、訪問可能と思ったので、写真は撮りませんでした。しかし、帰ってきてからネットで色々調べると、青蓮院境内からも訪問は不可能なようで、一般の人には閉ざされているようです。。


この道をさらに上っていくと尊勝院があります。


●尊勝院(天台宗)


元三大師(良源)を本尊とする寺院で「元三大師堂」と呼ばれることもあります。青蓮院に属する寺院で、青蓮院の門主が、住職を兼務しています。

尊勝院は、保延年間に陽範阿闍梨が比叡山横川に尊勝坊を開創したことに始まり、その後青蓮院三条白川坊の裏に移されたと伝えられています。応仁の乱により荒廃しましたが、文祿年間に豊臣秀吉によって本堂が再建されたといわれています。大正4年に寺地が現在地へ移転されましたが、その際、建物は本堂のみが移されました。

内陣は極彩色が施されており、桃山時代の趣がよく残されています。小規模ではありますが、古式で上質の建物です。

尊勝院は別に青面金剛(しょうめんこんごう)を祀り、京都三庚申(注)のひとつにも挙げられる庚申信仰の霊場です。境内には、「不見、不聞、不言(みざる、きかざる、いわざる)」の三猿の像があります。

京都三庚申とは尊勝院、八坂金剛寺、山之内庚申堂(猿田彦神社)

これでさきほどの粟田神社の三猿の張り子の由来が分かりました。

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P1080628.JPG



尊勝院奥の山道に入ります。この道は京都一周トレイルの道で、家内と以前、逆方向からですが、歩いたことがあります。前回訪れた将軍塚に繋がっていますが、「いしぶみデータベース」によると、いくつかの道標があることになっているので、もう一度向かいます。

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●青蓮院・都ホテル【道標】

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[南]左 青蓮院
[東]右 都ホテル

この山道に設置された道標は明治-昭和時代前期の実業家である中井三郎兵衛(1851-1932)が、東山周遊の便にと建立したものではないかと言われています。中井三郎兵衛は京都府会議員で、京都織物、京津電気軌道、王子製紙などの役員をつとめました。かたわら京都を観光都市として発展させるために東山の開発に尽力しました。



●将軍塚青龍殿舞台 
前回訪れた舞台を下から眺めます。

P1080632.JPG



●将軍塚大日堂由来碑 前回訪れたときに、見逃していました。

P1080634.JPG 

[南]
遍照法界(印)(印)【印文「邦彦王章」「泰山」】【以上篆額】
顕廣主
めつらしきこのみほとけそのまゝに
ちとせの後に見るそかしこし
従二位男爵九鬼隆一識
[北]
此の石仏大日如来像は中井君か将軍冢のあたりにて発見
せるものにして君は菩提功徳の為めに明治戊申の夏もろ@@の名僧
知識を集め再建供養の儀式を執行はれたり余も亦其の
式に招かれけれは親しく其像を見てけるに古朴温容
の中に自ら最高顕廣の相を備へ本邦にて稀なるものなる
へく大方平安奠都後程遠からぬ時代の製作として観
賞せり乃ち一首の咏歌を題語とを書して崇敬の念を
しるすといふ 九鬼りう一識
(@@はかな2文字の繰り返し記号)


中井三郎兵衛が将軍塚山上で石造大日如来像を発見し,翌年これを安置した大日堂を建立しました。この碑は九鬼隆一による大日堂建立経緯の記、および同人の歌を刻んだ碑です。


●東山道路工事碑

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将軍塚展望台駐車場にあります。東山ドライブウェイは昭和34年に開通し、当初は日本道路公団の有料道路でした。


●清水寺・山県有朋紀念樹・高台寺【道標】
(山科区#13で掲載済み)

P1080399.JPG

[北東]右 山縣公紀念樹
     高臺寺
[南東]左 清水寺



今回は、東山ドライブウェイを下りずに、京都一周トレイルの山道を南下します。


●井上世外詩碑

P1080637.JPG

P1080638.JPG

[西南]
山水増光 (印)(印)【印文「邦彦王章」「泰山」】【以上篆額】
天懸海外三千界
月満人間幾百州
侯爵井上世外 (印)(印)【印文「侯爵」「井上馨之印」】
[東北]
碑陰記
碑面所勒世外井上侯句也建碑者中井慈眼翁也蓋
桓武帝奠都之地山水明媚美甲于寰宇翁欲以為一
大公園経営名区尽瘁不措今茲侯與春畝公来祭木
戸公乃有此作翁於是卜地勒碑以培風致欲深富国
之源其志美矣余惟園囿以招遠人不問雉兎芻蕘則
文王之仁必達遐陬厥美更無窮極耳乃為記之
明治四十三年八月 浪華南岳藤澤恒撰文
伊勢錦山矢土勝之書
設計監督 安田時秀 肝煎 辻坂楢吉
鐫刻 芳村茂右ヱ門 運搬 松山米吉


 井上世外とは侯爵井上馨(1835~1915)の号。井上が揮毫した元人劉シン(「ごんべん」に先)作七言律詩の対句を表に記し,裏面には建立の経緯を記しています。井上と伊藤博文は明治42(1909)年に木戸孝允(1833~77)の三十三回忌列席のため来京。中井慈眼(中井三郎兵衛)が伊藤・井上の詩碑を東山に建立することを発意し建設されました。伊藤博文の詩碑はこの碑の西方にあり姉妹碑とでもいうべきものです。伊藤博文の碑は、今後探索予定。



●清水寺・将軍塚・稚児ヶ池・山科街道【道標】


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[北西]右 清水寺
   左 将軍塚 大日如来
[南西]右 稚児ヶ池
     山科街道



●山県有朋紀念樹・高台寺・大日如来・将軍塚等【道標】

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[南西]右 山縣公紀念樹
     高臺寺
[南東]右 大日如来 粟田青蓮院
     将軍塚 京津日ノ岡停留所
     圓山公園 知恩院
     都ホテル 山縣公手植松



●清水寺・将軍塚【道標】


P1080641.JPG

[北西]左 将軍塚
     大日如来
[北東]右 清水寺


石塀に囲まれたお地蔵様。風雨から守るためでしょうか。

P1080642.JPG



木の根道。鞍馬寺奥の木の根道と同じような道がありました。

P1080643.JPG 
 

●石塔

P1080644.JPG


九十九折れの急な坂道を下り、五条通(国道1号線)近くの道に出ました。清水寺の方向に歩き、子安の塔側の入口(下の写真)から清水寺に入りました。ここから清水寺境内に入るのは初めてです。ちなみに清水寺の有料拝観の部分は舞台のある本堂だけですので、奥の院、子安の塔、音羽の滝、地主神社、舞台の下からの眺めなどは、この子安の塔側の入口から入場したり、普通の参拝経路を逆行することで、無料で観ることができます。

P1080645.JPG


子安の塔から、清水寺のパノラマをしばし眺め、外国人観光客で混雑する清水坂、産寧坂を下り、八坂の塔を右に見て、東山通に出て、八坂神社前まで辿りつきました。八坂さんの手前の「王将祇園八坂店」で、ビールと野菜炒めで遅い昼食。

P1080646.JPG 
P1080647.JPG



16:40、阪急河原町駅から電車とバスで帰宅しました。

最高気温36.1度の暑い一日で、山道が多かったので、相当疲れた歩きでした。


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最終更新日  2019/08/26 10:40:24 AM
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