5194281 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

ワルディーの京都案内

全72件 (72件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 ... 8 >

京都案内

2021/01/23
XML
テーマ:京都。(5427)
カテゴリ:京都案内
【2021年1月23日(土)】

 21日は良いお天気で、3月にあるシニア講座の大徳寺の下見、22日は事務所でした。今日23日はお休みで、昨日から続く雨のお天気です。

 21日は3月の当日に大徳寺を案内する4人で境内を回りました。もともと観光客の多いお寺ではありませんが、境内は閑散としていました。2時間余りかけて当日のコースを回りましたが、途中出会った観光客は数人でした。

 常時拝観できる高桐院(こうとういん)も、拝観謝絶で、下のような貼り紙があって、玄関に続く石畳の参道も見ることができませんでした。


高桐院 この門さえも入れません






 他の方に色々教えていただて、たくさん新たなことを知ることができました。

 高桐院から南への道は、通り抜けができると思っていなかったこともあり、今まで通ったことがなかったのですが、この日初めて通りました。その道筋にある「龍光院(りょうこういん)」は小堀遠州好みの茶室「密庵」のある書院が国宝に指定されていて有名です。入口の門は、内側の屋根の中央部がえぐられており、その形から兜門と呼ばれます。重要文化財に指定されています。このような形の門は初めて見ました。


龍光院 兜門





 3月の本番までに、しっかりと準備しなければなりません。


よろしかったらぽちっとお願いします。

にほんブログ村 旅行ブログ 京都旅行へ
にほんブログ村






最終更新日  2021/01/23 01:20:56 PM
コメント(0) | コメントを書く


2020/12/18
テーマ:京都。(5427)
カテゴリ:京都案内
【2020年12月18日(金)】

 「京の冬の旅2021」非公開文化財特別公開が「京の名宝 美の遺産」題して、来年1月9日~3月18日まで行われます。今年は10箇所。

 今日そのうち私が通わせていただく妙蓮寺を見学させていただきました。堂内は10年前に一度特別公開の際に拝観させていただいたことはありますが、もうだいぶ前のことで久しぶりです。

 今年はコロナ禍下での開催で、事前予約式です。事前に拝観料を払う必要はなく時間の予約だけです。予約なしでも、余裕があればその場で受付して拝観可能です。それから料金が600円から700円になったのも大きな変化点です。


妙蓮寺





よろしかったらぽちっとお願いします。

にほんブログ村 旅行ブログ 京都旅行へ
にほんブログ村






最終更新日  2020/12/19 06:10:47 PM
コメント(2) | コメントを書く
2020/12/01
テーマ:京都。(5427)
カテゴリ:京都案内
【2020年12月1日(火)】

 ガイドのお仕事でしたが、今までにない形式でした。旅行社企画のツアーで、5日間の京都旅行なのですが、中に延べ2日間の自由行動時間があり、その時間の過ごし方を、着かれた直後のホテル内の会場でレクチャーするというかたちでした。

 観光案内所で地図とかパンフレットを入手して、テーブルの上に置いて準備しました。密にならないよう互い違いに離して置きました。紅葉シーズンなので、紅葉の案内のパンフレットを多く集めました。紙芝居も準備しました。お話しは30分。喜んでいただけたと思います。

 今回の準備で気が付いたことですが、紅葉情報で気にいったのが、「そうだ京都行こう」の紅葉情報です。京都の紅葉名所の直近の状況を詳しく知ることができます。

 
準備した書類・地図・パンフレット




テーブルへ置くのは互い違いに





よろしかったらぽちっとお願いします。

にほんブログ村 旅行ブログ 京都旅行へ
にほんブログ村






最終更新日  2020/12/01 11:25:28 PM
コメント(0) | コメントを書く
2020/02/08
テーマ:京都。(5427)
カテゴリ:京都案内
2020年2月8日(土)】

 「京の冬の旅」光照院の11日目でした。京都の最低気温1.8度、最高気温9.2度と、そこそこ寒い一日でしたが。手袋にもカイロを入れましたが、コートは着ずで、スタートしました。でも、午後遅くから多少風も強くなってコートを着ることになりました。ゆったりと楽しくご案内させていただきました。土曜日のわりには、拝観の方は少なかったです。やはり新型肺炎の影響があるように思います。


 前回、南北朝の始まりの部分まで書きました(こちら)。今日はその続きです。今回も「歴史人(れきしびと)」https://history-men.com/のサイトを参考にしています。

 後醍醐天皇が京都から吉野に去ると足利尊氏は持明院統の光明(こうみょう)天皇(北朝第2代)を擁立、建武式目を制定し新たな幕府である室町幕府を開きます。光明天皇の即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになりますが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇126代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされています。

 一方、吉野へと逃れた後醍醐天皇は「朝廷に返した三種の神器は偽物である。そのため光明天皇の皇位は正統ではない。」と主張し、延元元年(1336)、吉野で南朝を開きました。こうして北と南、2つの朝廷が誕生することとなりました。

 その後、北朝、南朝の間で軍事衝突がたびたび繰り返され、名和長年・新田義貞を始め多くの南朝方の武士が次々と戦死し、また延元4年(1339)に後醍醐天皇が崩御したことにより、北朝が軍事的に優位に立つこととなります。

 しかし、室町幕府内では観応の擾乱といった内乱が勃発してしまいます。将軍・足利尊氏とその弟・足利直義の対立で、正平6年(1351)に足利尊氏は弟・足利直義の勢力に対抗するため一時的に南朝と和議を結び、後村上天皇から直義追討の綸旨(りんじ)を得て直義を討ち勝利しました。しかし南北朝の内乱はさらに激化していきます。

 そして、ついに元中9年(1392)室町幕府3代将軍・足利義満の斡旋により大覚寺統と持明院統の両統迭立、国衙領を大覚寺統の領地とする、といった明徳の和約が定められ、これによって南北朝の合体がなされ、56年間にも及ぶ南北朝時代は終わりを迎えました。


 ちょっと横道にそれてしまいました。次回から光照院中心のお話しに戻ります。






 
 夕刻、M社事業部門時代の軟式テニス部の仲間との飲み会があり、京都駅方面に向かいました。


よろしかったらぽちっとお願いします。


にほんブログ村 旅行ブログ 京都旅行へ
にほんブログ村






最終更新日  2021/01/20 01:21:46 AM
コメント(0) | コメントを書く
2020/02/06
テーマ:京都。(5427)
カテゴリ:京都案内
2020年2月6日(木)】

 「京の冬の旅」光照院勤務の10日目でした。朝起きたら、道路の向こうの屋根が真っ白、1センチ以下でしょうが、今シーズン初めて雪を見ました。今年は暖冬で、雪を見ないかもと思っていたので、ついに降ったかという感じです。私の自宅は標高の高いところなので、雪が積もりましたが、京都市内は積もっていませんでした。でも、ほぼ終日雪がチラホラして、ようやく冬という感じの中での光照院でした。この「冬旅」で初めてカイロが必要と感じた日でもありました。本堂前に梅の古木がありますが、薄紅の小さな花を咲かせてキレイです。

 新型肺炎でマスクをできるだけ着用するようにとの指示が出て2回目の光照院。今日は拝観者は少なかったです。少し前までは、平日でももっと多かったのですが。もともと中国人の方は全くというほど来ないところなので、中国人旅行客の減少は影響ないのですが、日本人も人混みを避けるでしょうから、日本人旅行客も減少しているのではないかと思います。

 また、今日マスクが配布されました。備蓄があったようです。我が家の在庫は底をつきかけ、店も品切れでどうしたものかと困っていたのですが、少なくとも「冬の旅」が終わるまでの枚数は対応できるようです。


 前回、南北朝に至る、「両党迭立」について記しました(こちら)。今日はその続きです。今回も「歴史人(れきしびと)」https://history-men.com/のサイトを参考にしています。

 前回記したように、2つの家系から交互に天皇が即位する両統迭立が行われることとなりましたが、持明院統の花園天皇から譲位され徳治3年(1308)に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は両統迭立に対し、不満を持っていました。後醍醐天皇は両統迭立を承認する鎌倉幕府を打倒する計画を企てます。しかしこの討幕計画は正中元年(1324)に発覚し、後醍醐天皇の側近・日野資朝らが処分される事態となりました。

 後醍醐天皇はその後も討幕計画を企てますが、再び側近の密告によって発覚することなり、元弘元年(1331)後醍醐天皇は天皇即位の際に必要となる三種の神器とともに京都を脱出します。幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させます。そして後醍醐天皇は、幕府方に捕らえられ翌年、隠岐島へと流されることなりました。その後、名和長年ら名和一族の助けもあり元弘3年(1333)隠岐島を脱出します。

 この頃、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)らが各地で討幕運動を行います。後醍醐天皇は再び、討幕に向け挙兵します。足利尊氏や新田義貞といった武士も後醍醐天皇の討幕に協力することとなり、鎌倉幕府は滅びる結果となりました。

 こうして鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は自ら新政を開始します。これを「建武の新政」といいます。しかしその新政は革新的な政策ばかりであったため、公家や武士たちは新政に失望し、後醍醐天皇に代わる次の天皇を求めるようになりました。これと併行して、鎌倉幕府を共に滅ぼした足利尊氏も後醍醐天皇から離反することとなり、多くの武士たちが後醍醐天皇から離れていくこととなります。

 これに対し、後醍醐天皇は新田義貞や北畠顕家に足利尊氏の討伐を命じ、建武3年(1886)多々良浜の戦い、湊川の戦いが勃発しました。しかし、後醍醐天皇は足利尊氏方に押されることになり、後醍醐天皇は足利尊氏と和睦し、京都を脱出し現在の奈良県である吉野へと逃れました。和睦の際、後醍醐天皇は持っていた三種の神器を朝廷に返したとされています。

 こうして京都から後醍醐天皇が去ると足利尊氏は建武3年(1336)持明院統の光明天皇(北朝)を擁立、建武式目を制定し新たな幕府である室町幕府を開きます。

 続きます。
 







よろしかったらぽちっとお願いします。


にほんブログ村 旅行ブログ 京都旅行へ
にほんブログ村






最終更新日  2021/01/20 01:14:41 AM
コメント(0) | コメントを書く
2020/02/05
テーマ:京都。(5427)
カテゴリ:京都案内
2020年2月5日(水)】

 事務所勤務でした。通勤途上、東洞院通沿い風景シリーズです。

 東洞院竹屋町の東南角の公園に面して「こども未来館」が建ちます。ここは、竹間(ちっかん)小学校、竹間幼稚園が廃校になった跡を利用したもので、公園の西南端には、小学校・幼稚園についての記念碑が置かれています。


こども未来館




竹間小学校・竹間幼稚園記念碑




石碑記載の情報も含め、要点をピックアップします。
・竹間小学校は明治2年、上京第二十一番組小学校として創設
・昭和22年 京都市立竹間小学校に
・平成5年 京都市立富有(ふゆう)小学校と統合し、京都市立竹間富有小学校に
・平成7年に梅屋・龍池・春日小学校と共に統合し、富有小学校の地に御所南小学校ができた。
・竹間幼稚園は 明治18年竹間小学校に幼児保育科として創設された。
・明治42年に廃止となったが、昭和30年に再開園した。
・平成8年京都市立中京もえぎ幼稚園に統合された。

 公園は恐らく小学校のグラウンドだったのでしょう。

 この石碑は東洞院通からよく見えるので知っていたのですが、そのそばに昔からの石碑があるのに、今日気が付きました。「名醫 吉益東」までは読めますが、その下が草に隠れて読めませんでした。帰宅してから調べました。「名醫 吉益東洞宅蹟」と彫られているようです。


吉益東洞宅蹟碑




 以下は、京都市の「いしぶみデータベース」からです。

 
『吉益東洞(とうどう)((1702~73)は,安芸出身で元文3(1738)年京都に移り,古医方をもって医者となった。不遇であったが,解剖をして有名になった山脇東洋(1705~62)に見出された。その学説は,万病一毒説と親試実験にあって,実験医学の道を切り開いた。この石標は,吉益東洞宅の跡地を示すものである。なお,東洞の号は東洞院通に面して住していたことに因む。』




よろしかったらぽちっとお願いします。

にほんブログ村 旅行ブログ 京都旅行へ
にほんブログ村






最終更新日  2021/01/17 10:15:27 AM
コメント(0) | コメントを書く
2020/02/03
テーマ:京都。(5427)
カテゴリ:京都案内
2020年2月3日(月)】

 事務所通勤途上の東洞院通沿い風景シリーズです。

 三条東洞院北西角に「教諭所跡」という駒札と、「京都・電信・電話発祥の地」という石碑があります。前回は、「教諭所跡」を紹介しました(こちら)。今回は「京都 電信・電話発祥の地」です。

 明治5年(1872)明治政府は、郵便事業開始に続いて全国的な電信網敷設に着手しました。京都ではこの地に西京(さいきょう)電信局を設置しました。電話は明治10年(1877)に輸入され、同21年(1888)官営の方針を決定し、同23年公衆電話事業が始まりました。同29年(1896)京都電話交換局が設置され、翌30年5月に交換業務を開始しました。(「フィールドミュージアム京都」http://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/index.htmlから)



東洞院三条北西角 NTT西日本京都支店




「京都・電信・電話発祥の地」の碑(交差点北西角)





 その向こう側に写っているのは、「京都電話百年記念」のモニュメントです。1997年に造られてタイムカプセルが埋められ、20年後の2017年5月27日(土)に記念式典を行い開封したそうですが、中に何が入っているかは情報がありません。(「ガイドブックに載らない京都」https://www.kyoto-inf.com/から)


よろしかったらぽちっとお願いします。


にほんブログ村 ゴルフブログへ
にほんブログ村






最終更新日  2021/01/16 12:19:13 PM
コメント(0) | コメントを書く
2020/02/02
テーマ:京都。(5427)
カテゴリ:京都案内
2020年2月2日(日)】

 「京の冬の旅」光照院の9日目でした。今朝は晴れていたので、京都の最低気温1.8度と、そこそこ冷え込みましたが、最高気温は11.7度と10度を超え、暖かかったです。日曜日なので、拝観者は多かったですが、もっと多くてもおかしくなく、新型肺炎の影響で、日本人も旅行を控えているのかもしれません。

 蛇足ですが、今日の日付は数字の配置が面白い。令和でいくと、020202、西暦でも 20200202です。

 何故、持明院仙洞御所の場所に、光照院が現在建っているかについての説明に入っていきますが、その時代は南北朝です。光照院のお話しはあとでするとして、ここしばらくは、ちょっと横道にそれて、何故天皇が並立する、南北朝に至ったかということについて説明します。といっても、ここは私が勉強不足の領域ですので、他のサイトの情報をお借りしながら、私の勉強を兼ねて説明します。主に「歴史人(れきしびと)」https://history-men.com/ の情報をもとにしています。

 後高倉院を父に、藤原陳子(ちんし・のぶこ)を母に持つ後堀河天皇が母方の持明院殿を里御所として使い、持明院殿という場所が天皇家と直接関わることになったと書きました。その後堀河天皇の2代後の天皇が後嵯峨天皇です。





 
 後嵯峨天皇は鎌倉時代中期仁治3年(1242)に即位しました。翌寛元元年(1243)、後嵯峨天皇に久仁親王(後の後深草天皇)が誕生します。後嵯峨天皇は、わずが在位4年で2歳である久仁親王に譲位し、自らは上皇となり院政を開始しました。天皇が物心が付いてしまわないうちに、上皇として実権を握っておきたいとの策略でしょう。

 その後、正元元年(1259)、後深草天皇に譲位をさせ、建長元年(1249)に誕生した次男・恒人親王を天皇の座に就かせます(亀山天皇。当時10歳かそこら)。後深草天皇が16歳かそこらの頃です。そろそろ意見を色々言うようになってきたか、そのことを恐れたのでしょうね。また同じ方法で実権を握り続けたかったのでしょう。そして、後嵯峨法皇は、文永9年(1272)53歳で崩御しました。

 しかし、後嵯峨法皇は、次の天皇をどうするかということを決めずに崩御してしまったため、残された後嵯峨法皇の息子で兄である後深草上皇と弟の亀山天皇の間でどちらが実権を握るのか、どちらが政治を主導していくのかということで対立が生じました。後深草上皇の血筋を持明院統というのは、後深草上皇が譲位後に住まい(仙洞御所)としていたのが持明院殿であったからだというのは前回お話しした通りです。亀山天皇の血筋を大覚寺統というのは、子の後宇多天皇が大覚寺の再興に尽力し、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったからです。

 後深草上皇(持明院統)と弟の亀山天皇(大覚寺統)の対立に対し鎌倉幕府は、持明院統、大覚寺統が交互に皇位につくことを提案し、以降、それぞれの家系から交互に天皇が誕生することとなりました。この仕組みは「両統迭立(てつりつ)」と呼ばれています。

次回に続きます。


 


よろしかったらぽちっとお願いします。


にほんブログ村 旅行ブログ 京都旅行へ
にほんブログ村






最終更新日  2021/01/09 03:49:46 PM
コメント(0) | コメントを書く
2020/01/30
テーマ:京都。(5427)
カテゴリ:京都案内
2020年1月30日(木)】

 今日は、シニア講座「鳥羽伏見の戦いと錦の御旗の寺」の本番でした。今回は私は補助役で、列の先導・途中の安全確保を担当しました。

 午前中ガイド会の全体研修に出席後(こちら)、午後1時に地下鉄/近鉄竹田駅に集合。80人あまりの受講生の受付をし、予定通り1時半に出発できました。

 フィールドワークの満足度はお天気に大きく左右されます。前回は雨も雪も降らず、風もなく、暖かいお天気で助かりました。今日は暖かったですが、風が強くて、小雨も一時パラパラと降り、どうなることかと心配しましたが、何とか雨は一時だけで、全体的には天候には恵まれたと言っていいでしょう。

 安楽寿院では、ご住職に説明いただき、さらに我々の班は、予定していなっかた近衛天皇陵前でもご説明いただきました。幸い2つの班とも問題なく歩き切ることができ、楽しく案内させていただきました。


本日のルート

地下鉄/近鉄竹田駅→城南宮→小枝橋跡→安楽寿院




よろしかったらぽちっとお願いいたします。

にほんブログ村 旅行ブログ 京都旅行へ
にほんブログ村






最終更新日  2021/01/13 11:13:42 AM
コメント(0) | コメントを書く
2020/01/29
テーマ:京都。(5427)
カテゴリ:京都案内
2020年1月29日(水)】

 「京の冬の旅」光照院の第8日目でした。温かい一日で、午後から晴れて良いお天気になりました。

 前回、光照院の前に建っている「持明院仙頭御所跡」という石碑の由緒について説明しました(こちら)。

 系図でその部分をおさらいしながら、光照院の由来について説明します。






 平安時代の終わり、藤原道長の曾孫の藤原基頼が、現在光照院のある地に持仏堂をもつ屋敷を構え持明院殿と呼んでいました。さらに基頼の曾孫の藤原陳子(ちんし・のぶこ)が後高倉院に嫁ぎ、後に第88代天皇となる後堀川天皇が誕生します。後堀川天皇が、里御所として使ったのが、母方の地である持明院殿だったのです。

 後堀川天皇の2代後の第90代後嵯峨天皇の後、皇統は2つに分かれます。後深草天皇の皇統と亀山天皇の皇統です。天皇が退位をして上皇になられたとき使う御所を仙洞御所といいますが、後深草天皇の皇統は150年にわたって、現光照院の場所にあった持明院殿を仙洞御所として使いました。それで後深草天皇の皇統を持明院統と呼ぶわけです。

 後深草天皇から2代後の後伏見天皇に皇女進子(ますこ)内親王が、北朝初代光厳天皇の妹君として、持明院殿の地で誕生します。進子内親王は、南北朝の乱世の中、幼い頃から仏門の修行をし、22歳で得度し、自本覚公(じほんがくこう)と称しました。そして室町一条北に光照院を建立し、33歳の頃、天台・禅・律・浄土の四宗の奥義を極め四宗兼学の寺としました。これが光照院の始まりです。



よろしかったらぽちっとお願いします。

にほんブログ村 旅行ブログ 京都旅行へ
にほんブログ村






最終更新日  2021/01/09 03:50:45 PM
コメント(0) | コメントを書く

全72件 (72件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 ... 8 >

PR


Copyright (c) 1997-2021 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.