【京都検定過去問】第11回1級 問題1 解答
第11回1級 問題1の解答です。■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題1】歴史・史跡について,次の問いに答えなさい。 (2点×10問=20点)(1)天平12年(740)、聖武天皇は平城京から山背国相楽郡の地(現在の京都府木津川市)に都 を移した。大極殿跡が現在も残るこの都を阿というか。■恭仁京 ◎◆恭仁京・藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年)12月15日聖武天皇の勅命により、平城京から遷都された。 相楽が選ばれた理由として右大臣(のち左大臣)・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。 都としては完成しないまま743年(天平15年)の末にはこの京の造営は中止。・聖武天皇は近江紫香楽宮に移り、742年(天平14)秋には近江国で宮の建設が始まった。・744年(天平16年)2月に、難波京に遷都。・745年(天平17年)5月に都は平城京に戻された。(2)現在の左京区岡崎にあった「六勝寺」の一つ、法勝寺は白河天皇が創建した。その境内に あった高さ80メートル以上とされる建造物は何か。■八角大塔 【正解】八角九重塔 ◆六勝寺・白河天皇→法勝寺・堀川天皇→尊勝寺・鳥羽天皇→最勝寺・鳥羽天皇の中宮待賢門院-タイケンモンイン-→円勝寺・崇徳天皇→成勝寺・近衛天皇→延勝寺 法勝寺 左大臣藤原師実の寄進と白河天皇の御願による。鴨東白河の地において御願寺として最初に創建。 後に六勝寺の筆頭寺院として最大の規模を誇った。 南庭には高さ80メートルに達する巨大な八角九重塔があった。(3)鎌倉末期,光厳天皇が仮御所とした土御門西洞院殿が、現在の京都御所の前身となった。 このような天皇が一時的に用いた仮皇居を何というか。■里内裏 ◎◆京都御所前身・元弘元年(1331)持明院統(のちの北朝)の光厳天皇が、里内裏である土御門東洞院で即位・明徳3年(1392)後亀山天皇が三種の神器を後小松天皇に渡して以降、南北朝統一 ここに土御門東洞院内裏が長く皇居として定着。現在の京都御所の前身になった。(4)室町中期,赤松満祐が室町幕府6代将軍義教を誘殺し,幕府方に討伐された、一連の騒 動を何というか。■??? 【正解】嘉吉の変◆嘉吉の変・室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教 を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱。 将軍家はこの一連の出来事で権威を大きく失墜させ、代わりに守護大名の合議制が復活した(5)豊臣秀吉は方広寺大仏殿の建投のために、現在の五条大橋の位置に橋を架け替えた。現在 の五条通は平安京のどの小路にあたるか。■万里小路 【正解】六条坊門通◆平安京東西大路小路(五条以南)・五条大路 樋口小路 六条坊門小路 楊梅小路 六条大路 左女牛小路 七条坊門小路 北小路 七条大路 塩小路 八条坊門小路 梅小路 八条大路 針小路 九条坊門小路 信濃小路 九条大路(6)後水尾上皇が造営した修学院離宮にある茶室の中で、現在も京都市街が一望できる最も高 い場所こ建-つものは何か。■隣雲帝 ◎◆修学院離宮茶室など・上離宮~隣雲亭 窮邃亭 紅葉谷 千歳橋 西浜 浴龍池 万松塢 中離宮~客殿 楽只軒 下離宮~寿月観 ・修学院離宮十境~後水尾上皇が鹿苑寺の鳳林承章に選出させた 下記7つは現存 菩提樹・寿月観・洗詩台・隣雲亭・窮邃亭・浴龍池・万松塢 「洗詩台」は窮邃亭一の間の北側の2坪(4畳大)の板間(7)二条城築城の総奉行をつとめた京都所司代は唯か。 ■板倉勝重 ◎◆二条城・築城 総奉行~京都所司代 板倉勝重 大工頭~中井正清 縄張り~藤堂高虎・清流園の茶室 和楽庵 香雲亭・二の丸御殿(南から) 唐門、車寄、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院 絵画は狩野探幽、尚信、興以 拡張工事の作事奉行 小堀政一(遠州) 尾張徳川家(義直)はじめ、親藩・譜代19大名が動員された(8)文久2年(1862)の寺田屋事件で、薩摩過激派に同じ薩摩藩士を差し向けた、当時の事 実上の藩指導者は誰か。■島津斉彬 【正解】島津久光◆幕末史跡・木屋町通沿い遭難碑 ・佐久間象山 妻は勝海舟の妹。信濃(長野県)松代藩士。江戸で佐藤一斎にまなび,神田で塾をひらく。 天保13年老中真田幸貫に「海防八策」を提出。西洋砲術をまなび,勝海舟らにおしえた。 嘉永7年吉田松陰の密航事件に連座。のち公武合体,開国を説き、元年7月11日京都で尊攘 派に暗殺された。 ・大村益次郎 幕末の兵学者。緒方洪庵にまなび,伊予(愛媛県)宇和島藩につかえる。 幕府の蕃書調所,講武所につとめ,万延元年から長門(山口県)萩藩で軍制改革に参画。 維新後,新政府の兵部大輔として近代兵制確立につとめたが,明治2年9月京都で 神代(こうじろ)直人らにおそわれ負傷,同年11月5日に死亡。周防(すおう)(山口県)出身。 ・本間精一郎 江戸にでて勘定奉行川路聖謨(としあきら)の中小姓(ちゅうごしょう)となり,安積艮斎 (あさか-ごんさい)にまなぶ。川路にしたがって京都にいき,諸国の勤王派とまじわった。 その言動が同志の反感をかい,文久2年閏(うるう)8月20日殺された。越後出身。・木屋町通沿い寓居跡 ・武市瑞山 幕末の武士。土佐高知藩士。江戸で尊攘派とまじわり,土佐勤王党を結成。 文久2年公武合体派の参政吉田東洋を党員に暗殺させ,一時藩政をにぎる。 前藩主山内豊信の勤王党弾圧により投獄され,慶応元年切腹。通称は半平太。 ・吉村寅太郎 幕末の尊王攘夷派の志士。土佐藩士。武市瑞山の勤王党に加盟し,翌年脱藩して活躍 したが,寺田屋事件に連座して土佐に下獄した。63年再び上京し,松本奎堂,藤本鉄石ら と中山忠光を擁して天誅組を組織し,大和五条の幕府代官所を襲撃し,のち9月敗死した。・蛤御門の変での火災~どんどん焼け・鉄砲焼け・近江屋事件~坂本龍馬・中岡慎太郎(陸援隊組織)が京都見廻組の襲撃を受けた・酢屋~海援隊屯所・長州藩邸跡~高瀬川一之舟入近く・土佐藩邸跡~旧立誠小学校から河原町通にかけて 土佐稲荷(岬神社)・壬生寺界隈 八木源之丞邸 近藤勇・土方歳三ら試衛館グループ 芹沢鴨一派 前川邸~古高俊太郎拷問 山南敬助切腹 新徳寺~清河八郎演説 光縁寺~山南敬助墓・寺田屋事件 文久2年(1862年)に発生した薩摩藩の尊皇派志士の鎮撫事件。 島津久光が差し向け同士討ち 有馬新七らが死亡 慶応2年(1866年)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件。・鳥羽・伏見戦跡 戊辰戦争の発端 鳥羽離宮公園 小枝橋 悲願寺、法伝寺、悟真寺などには官軍・幕府軍両者の戦没者が葬られている。 御香宮が薩摩郡本陣 伏見奉行所が新選組 料亭魚三楼に弾痕跡(9)元治元年(1864)の池田屋騒動は、壬生の旧前川邸で新選組から厳しい取り調べを受けた 人物の自白か発端となった。この自自をした人物は誰か。■古高俊一郎 ◎(枡屋喜右衛門)◆(8)参照(10)幕末に近衝家に仕え、西郷隆盛らと密に連絡をとったことから「安政の大獄」で投獄さ れ、赦免された後、晩年に嵯峨野の直指庵を再建したな僧は誰か。■村岡局 ◎(津崎矩子)◆村岡局(津崎矩子)・尊王攘夷派の公卿・近衛忠煕(ただひろ)に仕える 清水寺成就院の月照らと親しくなり、西郷隆盛などの尊王攘夷運動を助けた。 安政の大獄で捕らわれた。直指庵を再興。墓は直指庵。 大覚寺大沢池畔に石碑、亀山公園に銅像・直指庵は正保3年(1646)に独照性円(しょうえん)(隠元隆きの法嗣)が営んだ草庵の 没蹤庵(もっしょうあん)に由来。 禅の「直指人心」から。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 20点中 12点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村