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カテゴリ:ショートショート
警察を呼べ
「やめて下さい」 突然若い女の声が響いた。電車を埋め尽くす乗客の視線が一カ所に集まった。声の主と思われる女子高生が恰幅のいい中年男を睨んでいた。その目がしだいに潤んでくる。 「痴漢! この人、痴漢です」 中年男の手を誰かがつかみ、持っていたカバンが落ちた。 「違う。誤解だ」 電車が駅に止まると中年男は二人の若い男によってホームへ引きずり出された。一人はサラリーマン風で、もう一人の茶髪は大学生だろうか。茶髪が中年男のカバンをぶら下げている。泣き顔の女子高生が後についてくる。 「誤解だ。私は何もしてない」 「この人です。間違いありません」 女子高生のヒステリックな声が響き、周囲の視線が集まった。 「ここで騒がない方が身のためだぞ」 サラリーマン風が低い声で言った。 「警察を呼んでください。痴漢です」 事務所に着くと茶髪が言った。事務所には若い駅員が一人しかいなかった。 「待て。そもそも君たちには私を拘束する権限はない」 中年男が高飛車に言った。 「はあ? 何言ってんだ。おっさん」 茶髪が馬鹿にしたように笑った。 「君たちは知らんだろうが、民間人が人を拘束するためにはそれなりの理屈が必要なんだぞ。まず現行犯であること。そして逃亡の可能性があることだ」 「それがどうした」 サラリーマン風が戸惑いながら言った。 「まず現行犯かどうか。これは百歩譲って、見解が違うということにしておこう。しかし逃亡の可能性だが、これはまったくないと断言できる」 「断言って何だよ?」 茶髪が気負って言った。 「私は自分の名前も身分もここで明かすことができる。逃げも隠れもしない証拠だ」 「それでは名刺をいただけますか?」 駅員が丁重に言った。 「よかろう」 中年男はもったいぶって名刺入れを出した。突然、茶髪が手を伸ばしてそれを奪った。 「何をするんだ」 「ごまかされないためだよ」 「そんな小賢しいマネはせんよ」 中年男は鷹揚に言った。 茶髪は名刺入れを開き、指を入れた。サラリーマン風がそれを覗き込んだ。女子高生は予想外の展開に戸惑っているようだ。 「D社総務部長、太田吾郎……」 茶髪が名刺を読んで、サラリーマンに手渡した。その後、名刺は駅員の手に渡り、女子高生にまわされた。 「わかっただろう。私は大企業の幹部だ。電車で痴漢を働くようなケチな人間ではない」 太田吾郎が言い放った瞬間、茶髪があからさまな舌打ちをした。 「オレの親父の工場はお前のところの下請けだった。つぶされたんだよ。単価を切り下げられたあげくに、突然取引を止められて……」 茶髪は拳を握り締めた。 「いや、落ち着いてくれ。事業をやっている以上、止むを得ないこともあるんだ。会社も生き残っていかなければならない……」 「何言ってやがる」 サラリーマン風が怒鳴った。 「会社も生き残っていかなければならないってセリフ、オレも言われたよ。あんたの会社に派遣で入っていた去年のことだ。そう言われて首切られたオレの気持ちがわかるか。あれから失業者だ。今日も面接を受けに行くところだ」 「待ってくれ。それは申し訳ないことをした。もし仕事がないのなら私が口を利いてやってもいい。それだけの力は持っている」 「それだけの力があるからって、痴漢したことをもみ消そうとしてるのよ、この人は」 女子高生が叫んだことを言いがかりだと指摘する者はいなかった。 「みなさん、落ちついてください」 駅員が割って入ろうとした。 「あんた、このおっさんの味方か?」 茶髪が怒鳴った。 「いえ……、実は十年前、D社の入社試験を受けたんですが、試験官がとても横柄で」 「それなら、手っ取り早く、こいつを痛めつけてやろうぜ」 サラリーマン風の手にはこん棒が握られていた。 茶髪と女子高生が頷いた。駅員がカーテンを引いた。部屋が薄暗くなった。 「待て、警察を呼んでくれ」 太田吾郎の叫び声は電車の轟音にかき消された。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.10.17 20:02:08
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