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カテゴリ:ショートショート
変身
寝る前にカフカを読んだのがまずかったのだろうか。大輔は不気味な夢にうなされた。 気がつくと冷たいフローリングの上に腹ばいになっていた。目を上げると、目の前にゴキブリがいた。ゴキブリの目を見ると、向こうもこちらを見ていた。つまり目が合ったのだ。少し右に視線を動かしてみると、ゴキブリも同じ方向に目を動かすのがわかる。上へ、そして左へと視線を動かすとゴキブリの目も同じように動く。もっと大きく視線を動かした時に気がついた。目の前にあるのは鏡だ。床に立てられた姿見。三ヶ月前から仕事に出始めた妻が通販で買ったものだ。専業主婦だった頃はまったく無頓着だった容姿をえらく気にするようになり、最近は買ったばかりの服を着て、鏡に向かって科を作ったりしている。二三日前にはタイトなミニスカートをはいて、鏡の前に立っていた。三十二歳でミニでもなかろうと大輔は言ったのだが、実のところ短いスカートから伸びた足は十分美しく、刺激的だった。そう言えば最近、顔もきれいになった。妻はもともと美人の部類ではある。ただ、結婚して五年、子どもはいないが専業主婦として、改まった場に出ることもなく過ごしているうちに、容姿に気を使わなくなっていたのだ。それが毎日仕事に出るようになり、人目にも触れる。容姿を気にするようになるのも当然だろう。 いや、そんなことはどうでもいい。今、目の前にある現実。その方が問題だ。右手を上げてみるとゴキブリのトゲだらけの腕が上がる。腹の辺りにある筋肉に力を入れてみると真ん中の脚がぎこちなく持ち上がる。それならと本来の脚を動かしてみると、思った通り後ろ脚が動く。やはり目の前のゴキブリは自分なのだ。少しおもしろいかも知れないという気持ちがおきる。しかし次の瞬間、慌ててそれを打ち消す。冗談ではない。よりによってゴキブリはないだろう。多くの人間が嫌悪の対象としか見ないものに変身するなんて、悪夢だ。あっ、そうだ。これは悪い夢に違いない。だとしたら、嘆いていても仕方ない。ひと時、この悪夢を楽しんでやろう。 滑るフローリングに足を取られながら移動する。廊下に通じるドアの下の隙間に頭を入れてみる。通れそうだ。背中がドアの下端にこすれるが、滑るようにうまく通り抜けることができた。廊下を足を滑らせながらぎこちなく移動する。寝室のドアを見上げる。そうだ。昨夜は妻が早々に寝室に入ってしまい、明らかに機嫌が悪かったので、大輔はリビングのソファで寝たのだった。さっきと同じようにドアの下を潜って行く。 妻は妙に色っぽい表情を浮かべ、ベッドに座っていた。携帯電話を耳に当てている。 「ずっとあなたのことを考えてたの」 甘えた声を聞いて、大輔は頭に血が上るのを感じた。妻は浮気をしていたのか。 「ねえ、今日、仕事が終わってから……」 終わってから何をしようというのだ。頭に上った血が熱くなったまま全身に回る。 「大丈夫。今日は職場の歓送迎会があると言ってあるから」 確かにそう聞いた覚えがある。こんな時期に異動があるのかと尋ねたら、不定期の異動が時々あるのだと妻は応えたのだった。 「それじゃあね」 妻は電話に向かってキスをした。 電話を切った妻と目が合った。 「きゃあ」 そうだ。妻はゴキブリが大嫌いなのだ。妻は手近にあった雑誌を投げつけてきた。大輔は慌てて避ける。次に飛んできたボックスティッシュを余裕を持って避けた瞬間、妻の泣きそうな表情が見える。浮気女を懲らしめている感覚に、大輔の気分は高揚してくる。そうだ、ゴキブリは飛べるはずだ。目の前でゴキブリが飛んだら、妻は恐怖で気を失うかも知れない。その思いつきが大輔を興奮させた。肩甲骨の辺りに確かな筋肉を感じる。気合とともに力を入れると羽が広がり、身体が浮き上がる。バランスを取るのが思いのほか難しい。テレビで見たオスプレイの墜落シーンみたいだ。それでも何とかバランスを取り、恐怖に歪む妻の顔に向かって飛ぶ。 「ぎゃあ」 いい気味だ。もっと苦しめ。その瞬間、妻が倒れこんで避ける。大輔は目の前に現れた壁に取りつく。 攻撃の手を緩めてはいけない。大輔は標的の位置を確認するために振り返ろうとした。その時、冷たく白い霧が大輔を包んだ。身体が痺れる。壁から落ちながら、ぼやけた視界に入ったのは、殺虫スプレーを構えた妻だった。大輔は床に落ち、気を失う直前、妻の声を聞いた。 「ダイスケー、ゴキブリ死んでるから、早く片づけてよ」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014.02.28 21:03:37
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